2018年2月16日(金)灰の水曜日の後の金曜日のミサ
小野田神父 説教
聖母の汚れなき御心聖堂にようこそ。
今日は2018年2月16日、灰の水曜日の後の金曜日のミサをしています。今日この御ミサの後には、いつもの通り感謝のお祈りをしますが、その後に灰の式をしたいと思っています。どうぞ皆さん灰を受けて下さい。この灰を受ける式は、私たちが天主の御前で罪を犯し、無であるという事、特にアダムとエヴァが最初に罪を犯した時に言われた宣告の言葉を、私たちはもう一度教会によって聞かされます、「お前は塵であって、塵に帰るものだ。その事を覚えよ。」アダムとエヴァの最初の灰の水曜日を私たちがもう一度思い出します。その後に、できれば終課の祈りを唱えましょう。
明日は10時30分からミサがありますが、特に公教要理の代わりに、御聖体降福式をして、特に中国にいるカトリック信徒の為に、ぜひ特別の御憐れみを乞い願いたいと思っています。また韓国の為にもお祈り下さい。韓国が南ベトナムのようにならない為にも、ぜひ共産主義による統一と征服が行なわれない為にも、ぜひお祈りをお願い致します。
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
愛する兄弟の皆さん、今日は灰の水曜日の後の金曜日で、教会は聖ヨハネとパウロ殉教者の指定巡礼教会に私たちを連れて行きます。一体なぜなのでしょうか?四旬節とどういう関係があるのでしょうか?それを黙想する事を提案します。
教会が望む四旬節の模範を、聖ヨハネとパウロが私たちに示してくれているという事を黙想した後に、
私たちも遷善の決心を立てる事に致しましょう。
では第1に、なぜ私たちは聖ヨハネとパウロの殉教者の指定巡礼教会に霊的に行くのでしょうか?なぜかというと、この2人の殉教者聖人たちは、非常にローマで有名な愛徳の聖人だったからです。特に大きな自分たちの持っていた財産を、貧しい人たちに施しました。そして自分たちの家を教会として開放していました。それは、「自分たちが遂には、天主様の家に受け入れられる事ができるように」との意向でした。
このような教会の事を古代では助祭の、「助祭職の教会」と言われていました。なぜかというと、助祭というのは使徒たちの制定によって、「貧しい人たちを助ける」という特別の使命を持っていたからです、食べ物を配ったり。使徒たちが、「私たちが天主の御言葉を脇に置いて、食べ物を配って良いだろうか。これらを助祭に任せよう」と助祭を決めたからです。殉教者聖ヨハネとパウロはこの愛徳の奉仕の義務をよく行なっていました。
ところで四旬節には教会は、私たちに3つの愛徳の業を行うように、と勧めています。1つは「祈り」です。もう1つは「断食」です。そしてもう1つは「施し」なのです。特に今日聖ヨハネとパウロの模範によって、私たちにこの「施し」の事を教えようとしています。
書簡では私たちに、断食をどのように行うべきか、という事を教えています、「断食は、私たちが天主による愛によって行なわれなければならない。特に霊的に罪からの断食を行わなければならない。私たちの生活を改めるという事が目的だ」という事を教ようとしていますが、特に教会はそれと共に、断食を補完する施しについても目を向けさせようとしています。
ですから、この施しというのはどのようになさるかという事を、聖福音でもう一度言います、「施しというのは、私たちは純粋に愛によってなされなければならない。この愛というのは、敵さえも愛するという愛によって、天主を愛するが為に、私たちのエゴイズムではなく利己主義ではなく、隣人愛を施すこの愛によって施さなければならない。私たちの見栄の為でもなく、私たちの何らかの利益の為ではなく、純粋な天主への愛によって、憐れみによってなさなければならない。」
聖ヨハネとパウロはこの事を知っていました。そこで昇階誦でも、「私は1つの事だけを天主に望む。それは、天主の家にいつも居る事だ。」つまり聖ヨハネとパウロがやったように、自分の家を与えても、それをしてでも望んだ事は、「天主の家に行く」という事でした、「天国に行く」という事でした。そして天主が、「天主聖父が完壁であるように、自分も完全でありたい」と思ったのでした。
では私たちは今日、四旬節のスタートラインをすでに切った私たちは、どのような遷善の決心を立てなければならないでしょうか?
教会の声に従って私たちは、全ての事を愛に基づいて、イエズス・キリストへの愛によって為す事に致しましょう。私たちが祈りをするのも、断食をするのも、施しをするのも、利己主義のエゴイズムではなくて、自分の為ではなく、イエズス・キリストへの愛の為に、その決心を立てましょう。その今日の模範が聖ヨハネとパウロです。そして私たちのとっての模範はマリア様です。マリア様のその全御生涯がこれでした、「我、主の婢女なり。仰せの如く我になれかし。」「私の願いではなく、主の御旨がなされますように。仰せの如く我になれかし。」主の御旨、主を愛するが為に。この主を愛する四旬節となる御恵みを乞い求めましょう。
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
小野田神父 説教
聖母の汚れなき御心聖堂にようこそ。
今日は2018年2月16日、灰の水曜日の後の金曜日のミサをしています。今日この御ミサの後には、いつもの通り感謝のお祈りをしますが、その後に灰の式をしたいと思っています。どうぞ皆さん灰を受けて下さい。この灰を受ける式は、私たちが天主の御前で罪を犯し、無であるという事、特にアダムとエヴァが最初に罪を犯した時に言われた宣告の言葉を、私たちはもう一度教会によって聞かされます、「お前は塵であって、塵に帰るものだ。その事を覚えよ。」アダムとエヴァの最初の灰の水曜日を私たちがもう一度思い出します。その後に、できれば終課の祈りを唱えましょう。
明日は10時30分からミサがありますが、特に公教要理の代わりに、御聖体降福式をして、特に中国にいるカトリック信徒の為に、ぜひ特別の御憐れみを乞い願いたいと思っています。また韓国の為にもお祈り下さい。韓国が南ベトナムのようにならない為にも、ぜひ共産主義による統一と征服が行なわれない為にも、ぜひお祈りをお願い致します。
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
愛する兄弟の皆さん、今日は灰の水曜日の後の金曜日で、教会は聖ヨハネとパウロ殉教者の指定巡礼教会に私たちを連れて行きます。一体なぜなのでしょうか?四旬節とどういう関係があるのでしょうか?それを黙想する事を提案します。
教会が望む四旬節の模範を、聖ヨハネとパウロが私たちに示してくれているという事を黙想した後に、
私たちも遷善の決心を立てる事に致しましょう。
では第1に、なぜ私たちは聖ヨハネとパウロの殉教者の指定巡礼教会に霊的に行くのでしょうか?なぜかというと、この2人の殉教者聖人たちは、非常にローマで有名な愛徳の聖人だったからです。特に大きな自分たちの持っていた財産を、貧しい人たちに施しました。そして自分たちの家を教会として開放していました。それは、「自分たちが遂には、天主様の家に受け入れられる事ができるように」との意向でした。
このような教会の事を古代では助祭の、「助祭職の教会」と言われていました。なぜかというと、助祭というのは使徒たちの制定によって、「貧しい人たちを助ける」という特別の使命を持っていたからです、食べ物を配ったり。使徒たちが、「私たちが天主の御言葉を脇に置いて、食べ物を配って良いだろうか。これらを助祭に任せよう」と助祭を決めたからです。殉教者聖ヨハネとパウロはこの愛徳の奉仕の義務をよく行なっていました。
ところで四旬節には教会は、私たちに3つの愛徳の業を行うように、と勧めています。1つは「祈り」です。もう1つは「断食」です。そしてもう1つは「施し」なのです。特に今日聖ヨハネとパウロの模範によって、私たちにこの「施し」の事を教えようとしています。
書簡では私たちに、断食をどのように行うべきか、という事を教えています、「断食は、私たちが天主による愛によって行なわれなければならない。特に霊的に罪からの断食を行わなければならない。私たちの生活を改めるという事が目的だ」という事を教ようとしていますが、特に教会はそれと共に、断食を補完する施しについても目を向けさせようとしています。
ですから、この施しというのはどのようになさるかという事を、聖福音でもう一度言います、「施しというのは、私たちは純粋に愛によってなされなければならない。この愛というのは、敵さえも愛するという愛によって、天主を愛するが為に、私たちのエゴイズムではなく利己主義ではなく、隣人愛を施すこの愛によって施さなければならない。私たちの見栄の為でもなく、私たちの何らかの利益の為ではなく、純粋な天主への愛によって、憐れみによってなさなければならない。」
聖ヨハネとパウロはこの事を知っていました。そこで昇階誦でも、「私は1つの事だけを天主に望む。それは、天主の家にいつも居る事だ。」つまり聖ヨハネとパウロがやったように、自分の家を与えても、それをしてでも望んだ事は、「天主の家に行く」という事でした、「天国に行く」という事でした。そして天主が、「天主聖父が完壁であるように、自分も完全でありたい」と思ったのでした。
では私たちは今日、四旬節のスタートラインをすでに切った私たちは、どのような遷善の決心を立てなければならないでしょうか?
教会の声に従って私たちは、全ての事を愛に基づいて、イエズス・キリストへの愛によって為す事に致しましょう。私たちが祈りをするのも、断食をするのも、施しをするのも、利己主義のエゴイズムではなくて、自分の為ではなく、イエズス・キリストへの愛の為に、その決心を立てましょう。その今日の模範が聖ヨハネとパウロです。そして私たちのとっての模範はマリア様です。マリア様のその全御生涯がこれでした、「我、主の婢女なり。仰せの如く我になれかし。」「私の願いではなく、主の御旨がなされますように。仰せの如く我になれかし。」主の御旨、主を愛するが為に。この主を愛する四旬節となる御恵みを乞い求めましょう。
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。