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栄えの玄義―第1玄義「主の御復活」の黙想

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栄えの玄義 第1玄義の黙想
(2018年4月7日(初土)公教要理にて 小野田神父)

今日は初土曜日です。そこで、初土の信心をよくする事ができるように、今日の、5回黙想する黙想のテーマを提案したいと思います。復活祭ですので、ぜひ御復活について黙想しましょう。15分です。

今日の御聖体拝領はマリア様の汚れなき御心に対して犯される罪を償う為に、今日の告解も、マリア様に対して犯される罪を償う為にお捧げしました。ロザリオも今日お捧げしました。あとは15分の黙想だけです。

イエズス様の御復活の黙想は色んなポイントがあります。私の提案するものには、5つの場面があります。

(1)1つは、イエズス様が御復活なさった、御墓の中で御復活なさったその瞬間の時の事。イエズス様の傷だらけの御体が突然光り輝いて、聖骸布に姿を写されて、そして復活された事。聖伝によると、復活祭の時に受けた白い衣を、ローマでは今日、ある所では明日脱ぐのですけれども、「ちょうどイエズス様が御復活なさった時に、聖骸布をそこに置いて復活された、という事も記念している」と典礼学者は言います。

(2)もう1つは、イエズス様がマリア様にすぐにお現われになった事。

(3)第3には、イエズス様が婦人たちに現れた事。特にマグダレナ・マリアに現れた事。

(4)あるいは、エンマウスの弟子たちに現れた事。

(5)そして最後に、ユダヤ人を恐れてドアを閉めきって、窓も閉めきって、雨戸も閉めて、カーテンもかけて、そして真っ暗の中でローソクを1本だけ点けて、そして隠れていた弟子たちに、イエズス様が復活の夜に現れた事。そして聖トマスにも1週間後に現わた事、などがあります。

一番、この中で一番好きなポイントを黙想なさって下さい。

イエズス様は復活された時には、この5つのみならずもっと色々御出現になりました。でも最初の1週間は主にこのようなものだったので、この事を提案します。


(1) 第1のポイントについては、もう復活の主日に私たちは黙想しました。レネー神父様のお話にもありました。三次元のイエズス様のプリントによる、聖骸布の分析した結果によると、「イエズス様の御体、その埋葬された時の御体は、首が上に上がったまま埋葬された。十字架に付けられたそのまま埋葬されいていた。その事が聖骸布にも表れる。」

そんなに固く硬直されて、傷だらけで命の無いものが、あっという間に暖かくなって、柔らかくなって、目を開いて、傷は全て消え去って、そして復活されて、光り輝いて、栄光に満ちて、傷口は却って栄光の燦然と輝くものになって、その復活されたイエズス様の事を黙想されるのもとても良いと思います。

確かに、沈黙の内に、弟子たちも誰も知らない内に復活されたイエズス様。

(2) 第2は、すぐにマリア様の元に行かれたという事。マリア様のその喜び。イエズス様を見た喜び。私たちも歌っています、“Regina caeli leatare, alleluia.”「天の元后喜び給え、アレルヤ。」マリア様はイエズス様が復活されたのを見て、どれほど喜んだ事でしょうか。

皆さんが、もしも大阪桐蔭高校の卒業生とか父兄とか在校生だったとすると、その「春の選抜で優勝した!」とすると、「2連勝だ!」とすると、もう父兄も学生も監督も、喜びに満ちていることでしょう。おそらく。

しかしイエズス様が遂に死と地獄と罪に勝って、復活して、今栄光に満ちている、この勝利を味わっている、というのは野球の優勝の喜びどころではありません。これはそのマリア様の喜びは、もうえも言えない喜びに満ちておられます。

野球部の人々は、今までのおそらく練習の成果とか、「色々な特訓の苦労が実った」とか思って喜んでいることでしょう。

しかしマリア様は、イエズス様は、30年間の御悲しみと、苦しみと、色々な困難と、十字架の道行き全ての思い出がよみがえってきて、今栄光に満ちて、もうこれは、「人類の贖いが完成させられた!」その喜び。どれほどだったでしょうか。マリア様の喜びを黙想するのはとてもよいことです。

(3) あるいは、イエズス様がエンマウスの、その復活の主日のその朝、とにかくエンマウスの弟子たち、2人の弟子たちがガックリして、「もうダメだ。」トボトボ歩いている時に現れて、「一体誰の話をしているのか?」と、とぼけたふりをして、そしてイエズス様は聖書の話をして、「キリストは、聖書にある通り、苦しんで復活するべきではなかったのか。おぉ、愚かな者よ。」と言われます。

私たちはどれほどいつも文句ばっかりだったでしょうか。十字架があると文句ばっかり言って、実はそれが贈り物だったという事をあまりよく分かっていなかったのではないでしょうか。でもイエズス様がいらっしゃると、私たちの心は生き生きとして、信仰に燃え立っているのではないでしょうか。

(4) あるいは、朝早く婦人たちが、考えもせずに、「とにかくイエズス様の埋葬を終えなければならない」と言って、朝早くから起きた、そしてそのイエズス様の元に行こうとした。皆さんこの来たる主日には、デモルネ神父様がいらして、月曜の朝早く6時からミサがあります。その為に夜明け早く、日が昇るか昇らない内に、イエズス様の御体の元に集まるその夫人の事を黙想なさって下さい。どれほど熱心だったでしょうか。

マグダラのマリアは、イエズス様の体が盗まれたと思っていたので、「私が引き取ります。さぁどこに置いたのですか、知っているなら言って下さい。」

イエズス様の十字架の元に最後まで残った人たちに、まずお現われになりました。まずはマリア様。次にこの婦人たちでした。そのイエズス様に忠実であったその報いを、イエズス様は必ずなさる方であるからです。イエズス様にした私たちのした事は全て覚えておられます。イエズス様に捧げた犠牲。この十字架の下に従っていたという事には、それの報いがあります。

(5) 今日私が特に黙想したいなぁと思うのが、今から話す第5番のテーマです。もちろん皆さん好きなものをなさって下さってください。

弟子たちが、今回は10人で、トマスはいなかったのですけれども、使徒たちがカギをかけて、チェーンもして、カーテンも閉めて、真っ暗にして、誰も人気がないように、シーンとしていて、「俺たちどうしよう。もうこれでダメだ。イエズス様は十字架に付けられた。死刑になった。全国に指名手配がまわっている。今度は俺たちの番だ。」

朝、コンコンコンコン!誰かがやって来るのです。「誰だ!?」「誰!?」「誰?」「シーッ!」コンコンコン!「私です、私、私!」マグダラのマリア。

でも非常に恐れていたので、「本当に本当なのか?」「この声を聞いて!」「誰かユダヤの警察に送られたのじゃないのか!?」と、「イエズス様の御墓が空です。」と言っても、ペトロとヨハネはそれでも墓に行って、空であるのを確認します。「確かに。」

しかし、また戻ってきますが、弟子たちにおそらく話したと思いますけれども、しかし、ただ「ちょっとそういう人、この頃多いよね」とか、何か「ちょっと春だからボケちゃったのかな」とか相手にしません。

鍵を閉めて、イエズス様が復活したという事をもう全く信じていないという態度を取ります。「どうしようか。」

そしてその不信と、落胆と、絶望のようなもう暗い、真っ暗な気持ちの時に、イエズス様が燦然とやって来て現れます。イエズス様が最初に仰った言葉を聞いて下さい。
「平和があなたたちにあるように。」

聖ヨハネは、十字架の下にずっと立ち留まったので、マリア様と共にいたので、特別のお恵みを持っていました。それでその福音書の中でこの事を詳しく書いたのはヨハネなのです。20章です。聖ヨハネによると、こうあります。

第20章
一週のはじめの日、朝まだ暗いうちに墓にきたマグダラのマリアは墓の石がとりのけてあるのを見た。そこで、シモン・ペトロと、イエズスが愛しておられたもう一人の弟子のところに走って行って、「主が墓からとりさられました。どこにおいたのか、私たちにはわかりません!」といった。そこでペトロは、もう一人の弟子とともに出かけ、墓に行った。二人いっしょに走ったが、もう一人の弟子は、ペトロよりも早く走っていって先に墓につき、身をかがめて、そこにおかれている布を見たが、中にははいらなかった。シモン・ペトロが続いて来て墓にはいり、そこにおかれている布と、また、おん頭に置いてあった汗ふき布を見た。それは布といっしょにはなくて、他のところに巻いておいてあった。すると、先に墓についたもう一人の弟子もはいってきて、これを見て信じた。かれらは、イエズスが死者の中からよみがえると聖書にあるのを、まだ悟らなかった。それから、二人の弟子は、家に帰った。

マリアは、墓に近く、外で、泣きながら立っていた。泣きながら、墓の方にかがむと、イエズスのおん体がおかれていた所に、白い服をきた二人の天使が「頭の方にひとり、足の方にひとりすわっているのがみえた。かれらがマリアに向かって、「婦人よ、なぜ泣いているのですか?」といったので、かの女は、「私の主を、だれかが取り去りました。どこにもっていったのか、わからないのです」と答えた。こういってうしろをふりむくと、イエズスが立っておられるのが見えたが、それがイエズスであるとはわからなかった。イエズスは、「婦人よ、なぜ泣くのか、だれを探しているのか?」とおおせられた。かの女は、園の番人だと思ったので、「あなたがあの方を移したのなら、どこに置いたのかいってください。私が引き取りますから」といった。するとイエズスは、「マリアム」とおおせられた。かの女はふりむいて、「ラッブニ(ヘブライ語で先生の意味である)」といった。そのときイエズスは、「私をそんなにとめてはいけない。私はまだ父のもとにのぼっていないからだ。兄弟たちのところに行って、"私の父、またあなたたちの父、私の天主、またあなたたちの天主のもとに私はのぼる"といいなさい」とおおせられた。マグダラのマリアは、弟子たちのところに、「私は主を見ました!」と告げにいき、また、これこれのことを自分にお話しになったということもしらせた。

この日、すなわち一週のはじめの日の夜おそく、弟子たちが集まった。そのところの戸は、ユダヤ人たちをおそれて閉じられていたのに、イエズスがおいでになった。そして彼らの中に立って「あなたたちに平安!」とおおせられた。こういって、そのおん手とおん脇とをお見せになった。弟子たちは主を見て喜んだ。イエズスはまたおおせられた。「あなたたちに平安!父が私をお送りになったように、私もあなたたちをおくる」。そういいながら、かれらに息を吹きかけて、「聖霊を受けよ。あなたたちが罪をゆるす人にはその罪がゆるされ、あなたたちが罪をゆるさない人はゆるされない」とおおせられた。

イエズスがおいでになったとき、十二人の一人で、ディディモと呼ばれるトマは、皆といっしょにいなかった。他の弟子たちが、「主を見ました!」と彼にいったが、しかし彼は、「私はその手に釘のあとを見、私の指をその釘のあとに入れ、私の手をその脇に入れるまで、信じられません!」といった。

八日の後、弟子たちはまた家にいて、トマもいっしょにいたとき、戸は閉じてあったのに、イエズスがおいでになり、かれらの真中に立ち、「あなたたちに平安!」とおおせられた。また、トマに向かって、「あなたの指をここに出し、私の手を見なさい。あなたの手を出して、私の脇におきなさい。信じない者でなく、信じる者になるように!」とおおせられた。トマは、「私の主、私の天主」と答えた。そのときイエズスは、「あなたは私を見たから信じたが、私を見ずに信じる人は幸いである」とおおせられた。

ぜひこの20章を、ぜひもう1度お読みになって下さい。

皆さんは、今日黙想する時には、使徒のトマです。使徒のトマになりきって下さい。それで今から1週間前の復活の主日、弟子たちは、「イエズス様を見た!復活した!イエズス様は手を見せてくれた。そして『何か食べ物はあるか。』食べ物を食べた。そして息も吹きかけてくれた。『罪を赦す者は赦され、罪を赦さない者は赦されない。』」

この「週の最初の日」というのは、主日の事ですけれども、このweek endというのは実は嘘で、本当は日曜日・主日というのは、第1の日なのです。それで土曜日というのは最後の日なのです。最初の日に、天主は「光あれ!」と言って、最初にこの光を作った、その最初の日なのです。そして聖霊も降臨するその日であって、そしてこの最初の日に復活されたのです。

この最初の日に息を吹きかけるのです。

この「息を吹きかける」というのは、実はアダムとエヴァを創った時(6日目ですけれどもそれは)、塵の中にフッと息をかけて、命を与えました。

同じように息を吹きかけて、イエズス様は弟子たちに、「聖霊を受けよ」と言って、今度は新しい命に生きる事ができるようにするのです。

しかしそういうのを聖トマスは見ませんでした。

この弟子たちは、イエズス様を信じずに裏切ったし、逃亡したし、隠れていたし、ぺトロなどは「知らない」と3回言ったのです。

イエズス様はそんなような弟子たちに最初に現れて、私たちと全然違う態度を取りました。嫌みとか、冷たい言葉とか、叱責の言葉とか、「ほら、言ったじゃないか」とか、そうではなくて、何と仰ったかというと「お前たちに平和があるように」でした。

弟子たちがびっくりしていると、もう一回繰り返すのです。
「お前たちに平和があるように。」

イエズス様は何と優しい方でしょうか。嫌味も叱る言葉も何もなく、ただ平和だけを下さろうとされます。

そのような裏切った人たちに、「聖霊を受けよ」と特別の御恵みを与えて、あたかももうすぐに水で流すのです。

「喜べ。平和があるように。」それだけなのです。

そういう事を、それを見た、そういう体験をした弟子たちの話を、トマスは聞くのです。けれどもトマスは答えます。「僕は信じないよ。」

私たちもトマスのようでした。イエズス様が「こうだ」と、色んなイエズス様の話を聞いても、中々信じようとせずに、お祈りもせずに、イエズス様が「こうだ」と言っても、「フンフン、フンフン。」「でもね、実際は、やっぱりちょっと…」でした。

ところが、明日の主日、復活の後の8日の後に、今度はその弟子たちと一緒に皆さんも居ます。トマスも居ます。トマスがついた悪態とか、不信の言葉とか、馬鹿にした言葉という事をイエズス様はもう知っていたのです。

やっぱりドアを閉めて、もしかしたらカーテンは閉めてなかったかもしれないのですが、とにかくイエズス様が現れて、「平和があなたたちにあるように」と言われます。

イエズス様は、すぐに皆さんの方を向いて、「さぁ、こっちにやって来なさい。手をこの傷の中に入れなさい。この脇に手を入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」

イエズス様が望んでいるのは、私たちが信じるように、イエズス様の御復活を確かに確信するように。それだけでした。

そして嫌味も、嫌がらせも、叱責も、叱りも、全然ありませんでした。非常に優しく、非常に親切で、「とにかく信じてくれればそれで良い。」

トマスはもうおそらくそうしなくても、もうそれを聞いただけでイエズス様だと確信したと思います。

しかしイエズス様はトマスの手を取って、「さぁ、ここに手を入れなさい」と言ったので、イエズス様の確かに御体に触れて、目で見て、耳で聞いて、「このように言ってくれる人はイエズス様しかいない。これほど優しいのは一人しか、もう世界中一人しかいない。この優しさ、この憐れみ、この愛、この慈悲深さ、この態度、イエズス様しかいない。」と思ったに違いありません。

確信したのです、「こんな事を言う人は、イエズス・キリストしかいない。」

そこでトマスは胸に触れながら、「我が主、我が天主!」と信仰告白します。

実はここの翻訳ではですね、「私の主よ、私の天主よ」と、呼びかけになっているのですけれども、実はこのギリシャ語の原文では、主格になっているのです。呼びかけではなくて、「私の主、私の天主。」

つまり「これこそ私の天主である。私の主である」という断定の言葉なのです、呼びかけではなくて。つまり私の主観が、私はあなたの事を何と呼びます、というのではなくて、「これこそ客観的に主であり天主である」と断定をしているのです。

「あなたは私を見たから信じたが、私を見ずに信ずる人は幸いである。」

御聖体を私たちが奉挙するときに、教会は「これ我が主、我が天主なり」と言うと、贖宥が受けられると定めていますが、実はトマスのこの言葉から来ています。

そこで黙想しながらぜひ、イエズス様の御体に触れて、イエズス様に「確かに復活された。この優しさはイエズス様しかない」とおっしゃってください。

イエズス様が復活して最初に下さった、息を吹きかけて下さったのも、罪の赦しの為の御恵みでした。イエズス様が下さるのは平安です。

ですから私たちも、ぜひ御聖体拝領の時には、トマスのように、私たちの場合には口を開けて舌を出して下さい。イエズス様を受けながら、「確かに、これこそ我が主、我が天主なり」と仰って下さい。

イエズス様の御憐み、そして聖トマスがその不信から信仰者になったというその逆転を考えてください。この確信を持ってトマスはインドまで来ますから。「イエズス様の為ならどこまでも、地の果てまで。」聖トマスの信仰を見て下さい。

イエズス様が何を望んでおられるのか。「平安があるように。」

同じ所の部分で3回出てきます。最初に2回、そしてトマスの所にも1回。イエズス様のその御謙遜、私たちに対する憐れみをよく黙想なさって下さい。

実はこの後に、本当は聖ヨハネは、この後で、「イエズスは弟子たちの前で、この本にはしるさなかった他の多くのしるしをおこなわれた。これらのことをしるしたのは、イエズスが天主の子キリストであることを、あなたたちに信じさせるため、そして信じて、そのみ名によって生命を得させるためである。」と締めくくりを書いています。

おそらく最初はここでもう福音書を終わろうとされたと思うのです。しかし実際は21章が付いているのです。「その後、イエズス様はまた現れた」という話が付いているのです。

21章の話はティベリアのガリレア湖で、弟子たちが漁をしている出来事についてです。これは特に私の今回の黙想の提案ではないので、詳しくは申しません。

イエズス様は3年間、一般の人たちに色々福音を教えて、弟子たちも連れて宣教されました。しかし復活された40日間は、特に使徒たちの教育に専念します。「これからどうやって教会を指導していくか」という事を使徒たちに現れて教えるのです。

まず罪の赦しについて教えます。イエズス様の態度を見せて、どうやってイエズス様のようにしなければならないか、という事を教えます。

それで、私がすごいと思うのでは、天使たちとイエズス様の言葉遣いが違うのです。

天使たちは、これはマテオとマルコにあるのですけれど、私の記憶が正しければ。天使が現れた時に、「行って、弟子たちに告げに行け」と言うのです。「弟子たちに」と。

ところがヨハネの福音では、イエズス様はヨハネとかペトロには現れなかったのですけれども、その直後にマグダラのマリアに現れて、それで「誰を探しているのか?」と聞いたりします。その後で、「兄弟たちの所に行って、言いなさい。こう言いなさい」と言うのです。

天使は「弟子たちの所に」と言うのですけれど、イエズス様は「弟子たちの元に行って」とは言わずに、「兄弟の所に行きなさい」と言うのです。使徒たちの事を、兄弟だと考えているのです。

あと、ティベリアで漁をしているのですけれども、なかなか釣れない、でもその時にイエズス様は、「子らよ、子供たちよ。おかずにする魚があるか。」と、「子供たちよ」と呼びかけるのです。「お前ら、何かそこでやってんだか」と仰らずに、「子供たちよ、魚があるか。」

弟子たちは「ありません」と答えます。イエズス様は「右の方に網を下ろしたら獲れるよ」と教えてくれます。

本当にすごい大漁でした。すると船を着けて岸に上がると、もう既にイエズス様は、弟子たちの為に朝食を準備していたのです。炭火があって、パンもあってですね、お師匠さんがこの弟子たちの為に朝ご飯を準備する。非常に優しい、非常にご親切な態度をされる。

ぜひこの今回の黙想では、イエズス様のこの御憐れみの深さと、愛の深さと、イエズス様が真に復活された、という事を証したい、というその望みをぜひ黙想なさって下さい。

私たちはトマスと同じように、主の御復活を本当に目の当たりにして、「我が主、我が天主なり」と、申し上げて下さい。何度も何度も申し上げて下さい。「私の信仰がますます強くなりますように。」

必要であれば、イエズス様の御手にも触って、「確かに復活された。イエズス様、」と話かけて下さい。

「御身は生きておられます。私は今まで知っていましたけれども、よく理解できていませんでした。信仰を強めて下さい。」

15分間ぜひ黙想なさって下さい 。

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