2018年5月3日 秋田巡礼 シュテーリン神父様霊的講話【3】
「マリア様が与える平和の実りとは」
同時通訳:小野田圭志神父
マリア様がファチマにお現れになった時に、平和についてお話になりました。そこでこの平和、「秩序における平穏」について考えなければなりません。
まず私は、個人的な生活においての平和についてお話しました。そして、私たちの心に、イエズス様だけが本当の平和を与える事ができる、という事を見ました。私が天主の世界に心を開いた時に初めて、本当の秩序が私の心に戻ってきます。その時に本当の平和が心に宿ってきます。
何か「問題がある」と聞きます。例えば、誰かが私を馬鹿にした、あるいは誰か何かすごい問題がある、困った、困った、どうしよう、どうしよう、という事で、私の心には平和がなくなってしまいます。
しかしこの自分の問題が受けた屈辱、馬鹿にされた事を、永遠の光の中で、「天主の目から御覧になったら何であるか」という事を考えると、心に平安が戻ってきます。
そしてまた、御聖櫃の前でイエズス様の御受難について黙想した時に、「イエズス様は私の聖化の為にどれほど苦しまれたか」という事を考えると、「私のこの苦しみが一体何なのか。それに比べると」となります。
もしも今晩、このまま私が死んだとすれば、今まで考えていた、「あぁどうしよう、この問題」「あの問題」この「馬鹿にされた事」など、全く意味が無くなってしまいます。今まで、「あぁ、あの事」「あの事」と捕らわれていて平和を失っていた心も、永遠の光から見ると、「イエズス様からの目から見ると何でもない」という事が分かって、心に平和が戻ってきます。
私の意思についても、私がやりたい、私の心についても同じ事です。「あぁこの映画を観たい」「この動画を見たい」「あの事をやりたい」「あの事をしたい」「この楽しみをしたい」「あの娯楽をやってみたい」などというこの地上の欲望が、永遠の光から見ると、この自分のやりたい事だけを考えて、それをして、告解をあと伸ばしあと伸ばしにすると、私の霊魂には平和がなくなってしまいます。
しかし告解をして、そして「もうこれ以上罪を犯さない」そして「イエズス様の御旨を果たす」そして、もうこの罪には「NO!」と言う、「もう嫌だ!」とすると、平和が戻ってきます。カトリックの信仰のその素晴らしい、輝かしい真理は、私たちの知性に平和をもたらします。天主の聖寵、天主の命は、私の心に平和をもたらします。
ですからこの為に戦わなければなりません。この私たちが望む平和というのは、戦い、悪との罪との戦いの結果に受けるものです。私は秩序を望むならば、無秩序と戦わなければなりません。もしも調和とか、あるいは聖寵と御恵みを求めるならば、罪と戦わなければなりません。
家族の生活も同じです。両親はそしてお父さんとお母さんは、この子供に対して平和をもたらすものでなければなりません。この家族における平和というのは、信仰の光において見るならば、家庭の父親はこの家庭生活において、信仰の光がどこにでも満たされているように心を配らなければなりません。例えば子供たちは、「あぁ」聖人の生活、聖人の伝記、聖人の生涯について、「あぁ、素晴らしい聖人がいる」という事を「もっと知りたい、もっと読みたい、もっと勉強したい」と思う事でしょう。
もしも映画や動画を見せる場合には、子供たちが見る映画は、カトリックの聖人や、あるいは私たちの模範となる立派なカトリックの信仰の英雄についての映画であるべきでしょう。特にメル・ギブソンのイエズス様の「パッション」の映画は、表面的なカトリックの信者にとって大きな良い影響を与えました。
そして例え子供たちに見せる映画が、子供の為の映画であって、別にそれ自体において罪や暴力や悪いものがなかったとしても、天主の無い映画であると、その天主の無い世界の雰囲気を作り出してしまって、結局私たちから平和を取り去ってしまいます。
家庭生活において一番平和をもたらすものは、「謙遜」です。謙遜というのは、「私たちは無であって、全て天主からの御恵みによって生きている」という事であって、「私たちは天主の御恵みに依存している」という事を認識する事です。この意味においてマリア様は、ファチマのメッセージを生きる人々に、この本当の平和を約束しました。もしも個人的にマリア様が要求される事をするならば、私たちの個人的な心に平和が戻ってきます。なぜかというと、マリア様は平和の元后であって、マリア様がいらっしゃる所ではどこでも平和をもたらすからです。ですからマリア様の汚れなき御心を実践する所には、平和の凱旋が約束されています。
マリア様が繰り返して仰るのは、「もしも私の要求を実践するならば、個人的のみならず、家庭のみならず、教会においても、国家の間においても、世界に平和が戻る」と約束しています。ではマリア様はファチマにおいて、あるいはファチマの後にどうやって平和をもたらしたのでしょうか?平和のみならず、喜びと光を世界にもたらしました。
1917年7月13日にマリア様は仰いました、「最後に、私の汚れなき御心は凱旋するでしょう。教皇様はロシアを私の汚れなき御心に奉献するでしょう。ロシアは回心するでしょう。そして平和の時が与えられるでしょう。」
マリア様が約束されているのは、この世が作り出す偽物のプラスチックの人工的な平和の事ではありません。このプラスチックの平和というのは、広告によって作り出される、本当は存在しない偽物の平和の事です。なぜかというと、人々はこの世に秩序をもたらそうとして作ろうとするのですけれども、実はそのような秩序を作る事はできないからです。マリア様がこのように約束されたという事は、本当の意味で秩序の、「本当の秩序の平穏さを、一時の間与える」という事です。
今、私たちが現在生きている世界において、そのような秩序・平和というのは、今作る、考える事さえもできません。でもその平和の為には、教皇様が司教様と共にロシアを奉献しなければなりません。人間的に言ってみれば、そのような約束を実践する事は不可能であって、気違い沙汰です。マリア様はロシアの回心を約束しています。このロシアは今全くカトリックでも全然ありません。今のロシアは昔と同じく無神論者がたくさんいます。もしも無神論者でなかったとしても、離教の正教会を信じています。しかしマリア様は、このロシアが全てカトリック教会に戻ってくる、カトリックの信仰に戻ってくる事を約束しています。この事は人間的に言えば不可能です。
人間的に言えば、太陽の奇跡も不可能です。たった1つの御出現によってなされた、1つの国の1年におけるカトリックへの回心、あるいは南アメリカ全体が20年でカトリックに回心したという事も、人間的に言えば不可能です。
マリア様の約束した次の事は、「教会に平和の時が与えられる」という事です。もう一度天主様からの光が輝き出して、教会の最高の責任者や高位聖職者たちが、カトリックのそのままの信仰を取り戻して、教会が元に戻る。これは人間的に言えば、今見ると不可能な事です。
ではマリア様は具体的に何を約束されるでしょうか?それは、過去かつて変わった事のない、変わる事のない永遠の真理が、全世界を照らし出す、その真理が輝き出すという事です。
つまり、「第二バチカン公会議の時に採用した、フリーメイソンから来る致命的な誤謬を打ち捨てる」という事です。例えばエキュメニズム運動とか、あるいは永遠の世界を忘れさせて、この地上の事しか考えさせないような、世俗的な中心的な教え、あるいは第二バチカン公会議の後には全く忘れ去られてしまった「死」とか、あるいは「裁判、裁き」あるいは「天国」「地獄」という事について、もう一度光を輝かせる事でしょう。
また天主の為の最高の典礼、昔のままの典礼が、また全世界で捧げられる事でしょう。そして人々はこの天主の平和を心に受けて、成聖の状態において生き、生活を始める事でしょう。でも現在では、「成聖の状態にいる」という事すら一体何の事かよく分かっていません。
ファチマではマリア様は、個人あるいは家庭のみならず、教会のこの平和も約束されています。その為には「ロシアの奉献」という条件が満たされなければなりません。しかしこの奉献がなされる前でさえも、マリア様はファチマの実りを私たちにはっきりと示して下さっています。
ファチマでマリア様が現れた時には、第一次世界大戦で、世界では戦争の事しか話されていませんでした、平和を作る等という事はありませんでした。そしてポルトガルは、フリーメイソンの手によって政府が牛耳られていました。マリア様が何をなさったかという事を皆さんにお伝えしたいと思います。この事を見ると、「マリア様こそ、私たちに本当に平和をもたらす事ができる」という事を確信する事ができます。
マリア様は私たち皆さんの家庭の世話をする事ができます。マリア様は私たちの霊魂を救う事ができる最後の希望です。マリア様こそ、私たちの家族が1つとまとまって、崩壊せずに、その聖なるものとして守られる最後の砦です。マリア様こそ、個人においても、家族においても、修道会においても、グループにおいても、教会全体においても、全世界の為の最後の希望です。これは「平和」という言葉に繋がっています。天主様の秩序が私たちの心にまた戻ってきます。心はまた天主と一致します。この今黙示録的な時代に生きている私たちに、少なくとも天主様と一致して、そして天主様の平和を私たちの心に宿して、その平和を他の周りの人に伝えて、多くの霊魂を天国へと結べます。そして私たちはこうやる事になって聖化、聖人となる事ができます。
イエズス様は仰います、「お前たちは、その実によって、樹を知るだろう。」
まず私たちは、では実りを見てみましょう。政治家の話す実り、あるいは何とか委員会、平和委員会の話す実り、あるいは近代主義者がデモをやったり何かして話す平和、あるいは何とかの講演会に行って話す平和について、その実りは何でしょうか?
まず政治家が平和について話すと、その結果は必ず、「安全対策をして、もっとチェックをしなければならない」と。
「空港でも、あるいは汽車でも乗る時でも、爆弾がないか、テロがないかチェックをする。」
「将来、生徒一人ひとりに刑事官が付いて5人付いて、そしてアイシスのテロリストがこの子供を狙ったりしないか、というそういう法律ができるのではないか」という事を心配します。
もちろん、その事によって平和をもたらせません。この世が作る安全なセキュリティのシステムは、本当の平和をもたらすものではありません。
教会でもその平和についてよく話します、平和週間だとか。しかしその結果はもっと酷いものです。なぜかというと、教会がそういう「平和について話そう」という時に、教会は他の宗教のリーダーや、他の宗教の人たちを呼んで話をするからです。
そして他の宗教のリーダーと握手をして、抱き合って、「私たちは相互に尊重し合って、相互に寛容でなければならない」と言うのです。「そうしたら、世界は平和になるのだ」と。
そうすると、平和というのは手段となって、この平和という手段を使って、全ての宗教は実は同じなんだという事を伝えるメッセージが、それをおもに伝える手段となってしまいます。
アシジ以後、そのような「諸宗教の平和の集い」というのがありますけれども、その諸宗教の集いの中で1回も、「イエズス・キリスト」について話した事がありません。でも私たちはよく知っています、「イエズス・キリストこそが平和の君であって、平和をもたらすもの」です。
この地上の世界の国家の平和というのは、まず私たちが一人ひとりが天主と平和となって、家族が平和となって、そして少しずつ天主との平和ができた時に、最後に到達する実りです。
1917年、フリーメイソンの創立200周年が祝われました。それからモスクワでのボルシェビキ革命の100周年が祝われました。そしてその時に、「平和が達成された!」と宣言されました。1917年に。
ところがマリア様は、ファチマに謙遜にお現れになり、マリア様こそが本当の平和を何百万の人々に与えました。マリア様が個人に、そして家族に、そして国家に、そして色んな団体に平和をもたらしました。マリア様こそが、秩序における平穏さの美しさ、そしてその輝きをもたらしました。マリア様には安全のチェックとかセキュリティの強化等という事は必要ありませんでした。
マリア様の仰った事は、第二バチカン公会議で教会の指導者たちが言った事と、全く正反対の事でした。
平和の為の第1に必要な事は、「罪人の回心」です。「かわいそうな誤謬の中に陥っている異端者や、あるいは離教者たちが、本当の真理の中に立ち戻る事が条件だ」と。全世界における平和と教会の平和について、全く人間的に言えば不可能な事を、マリア様は約束されます。
そこで、私は以前書いた事ですけれども、「ファチマの実り」という事で、平和についてお話する事を許して下さい。
第1の実りは「成聖」です、聖化される事です。
まず3人の子供たちが聖人になりました。マリア様がお現れになった所には、同じ実りが現れます。本物の御出現にはそうです。偽物の御出現についてはこの実りがありません。罪と誤謬に対する勝利、真理の勝利が、本当の御出現にはあります。御出現のおかげで、罪が人々の間から全く無くなってしまうという事です。間違った宗教、偽物の宗教、あるいは間違ったイデオロギーの中に生活している人たちが、それを捨てるという事です。
神父様、「メジュゴリエ」とか、あるいは「ベイサイド」とか、あるいは色んな御出現の名前を出して、「それを信じてますか?」と聞きます。
もしもその御出現が、教会のちゃんとした吟味とそして調査を受けた、そして後に認可されたものでなければ、私はそれについて言う事ができません。ルルドが承認されるまで4年間かかりました。それも多くの奇跡がルルドで起こった後の事です。ファチマが認められる為には10年かかりました。
それが認められたのは、「あぁ、これは私は好きだ」「これが嫌いだ」というのではなくて、「一体その御出現で何があったのか」という、「これは嘘だ」と言う主張するそのグループと、「それは本当だ」という人たちのグループに分かれて、それを神学的に吟味して、真剣に吟味するものです。もしもそのような吟味がなされていないならば、調査がなされていないならば、これが本物かどうか分かりません。
もしもその調査の結果、否定的な結論が出たとしたら、もしもその多くの中でたった1つの事でも、「おかしいな」というところがあったら、悪魔がその尻尾を見せているところがあったら、もうこの全ての話は否定されます。
本当の御出現をどうやって吟味するか、判断するか、識別するかという事についての基準とその規律については、詳しいお話をする事はできません、別の機会に致しましょう。10の論点に分かれます。その内の9つ目は、「この御出現は、超自然の実りをもたらしているか否か」です。そして「この実りは、本当にこの御出現によって与えられたものなのか否なのか。」そして第10は、「この実りは、継続的な恒常的なものなのか、それとも一時的なものなのか。」
まず「罪が無くなってしまう」という事、第2に、その「天主への愛が増加して、それが留まっている」という事、それを吟味しなければなりません。それが霊的な超自然的な実りです。
この事を3人の子供たちの生活に見る事ができます。子供たちの列福調査は50年かかりました。田舎の普通の、お祈りをする事さえもできなかった単なる子供たちを、マリア様は大聖人に変えました。子供たちの回心のみならず、太陽の奇跡の後に多くの人々が回心しました。何千何万という多くの人々が、教会の敵だった人が、フリーメイソンだった人が、宗教について全く知らなかった人、あるいは教会にも行った事がなかったような人が、聖なる生活を送り始めました。
マリア様こそが、このような霊魂たちに天主様をもたらして、平和をもたらしました。そしてこれも一時的な事ではなくて、ルルドでもグァダルーペでもファチマでも、マリア様は常にそれを、その天主をもたらす事をなさっています。
しかし私たちの知っているのはほんの数限られたもので、いくら何千何万と言っても、マリア様の御像に近付いてお祈りをする人、御恵みを受けたという人は、それよりも更に多くいて、ただその多くの人たちがそれを自分の心の密かに、奥に密かに知っているので、私たちは知らないだけです。
時々司祭は信頼されて、「なぜマリア様が自分をこうやって回心して下さったのか」という、その秘密の話を打ち明けられる事があります。罪の生活を送っていた、あるいは信仰から遠く離れている人が、マリア様によって信仰生活に戻ってきた、という話を聞くのは非常に感動的です。
ある時マリア様のお話を御説教で聞いた、あるいはマリア様の御像の傍でお祈りをした、マリア様の御影を見た、あるいはマリア様の行列、聖母行列に参加した、あるいは何かの機を機会にマリア様の御恵みを受けて回心した、という話を聞きます。そして信仰を見出すのです。
一週間前の月曜日に、私はベトナムにいました。25歳の女の子が洗礼を受けました。異教徒でした仏教徒でした。職場でいた男の子が、マリア様のチラシをその子に与えたのです。そしてそれをただ読んだのです。他の普通の人でしたら「あぁ、」と言ってそのまま捨てるのですけれども、その子はそれを読んだのです。それで「もっとこれについて知りたい」と思いました。
「このここに書いてある不思議のメダイ、私ももらう事ができるのかな?」と聞きました。そして私はその子に洗礼を授けてきました。どこにいるか分からないような所から突然、「信仰を信じている、洗礼を受けたい」と言ってやって来たのです。そしたらその子は、「あぁ、生まれて初めて、心に平和があります。生まれて初めて、何をするべきか分かります。どこに行くべきなのか、道が分かりました。」それを聞くと、「あぁ、イエズス様が仰った本当の平和とは何か」という事が分かります。
フィリピンの話もあります。非常に美しい敬虔な聖伝主義の方がいます。そしてこの女の子は幸せを求めて、ドラッグとか、麻薬とか、あるいはお酒とか、その他の物に手をつけました。そして色んな事を試した結果、本当の幸せを与える事ができなくてそれが偽物だという事が分かったので、絶望して、「もうこの幸せというものがないんだ」と思って、「もう生きる価値がない」と思って、もう自分の命を絶とうとしました。そうするとその時にお友達がやって来て、マリア様の話をしたのです。そしてその女の子を招待して、神父様の元にやって来て、司祭はちょうどマリア様についてお話をする時でした。そしてその女の子は黙想会にやって来て、そして総告解をして、その総告解の後に私に言ったのです。
そのような話を私たちはよく聞きます。しかしこれではこのファチマの話はそれだけでは不十分です。もっと公的な公のレベルに行きます。ポルトガルは一体どうなったでしょうか?
ファチマの前、ポルトガルは一体どうだったでしょうか?150年間、フリーメイソンの手によって牛耳られていました。20世紀の初め、ちょうどファチマの時には、経済的には全く倒産していました。そしてポルトガルの国は無政府状態でした。信仰と道徳に関して、1910年、もう目も当てられませんでした。バルタ神父様はこう本を書いています。この人はファチマの専門家ですけれども、「フリーメイソンは経済的な倒産状態を利用して、人々の心に不敬虔と不信仰の種をばらまいた。」教会は多く閉鎖させられて、そして司教様たちは追放されました。そして大きな修道院の建物は世俗の建物に使われるようになりました。カトリックの出版社、カトリック新聞社、カトリックの報道機関は全て禁止になりました。そしてもうこのままでは、もう教会がポルトガルから姿を消す、というその時に、ファチマでマリア様が現れました。
太陽の奇跡には10万人がいたと言われます。ポルトガルの歴史の中で初めて、その太陽の奇跡の後の最初の選挙で、フリーメイソンは選挙で負けました。そこで非常に怒ったフリーメイソンたちは、ファチマにあった全てを壊してしまいました。でもマリア様の御出現の後に、ポルトガルは変わっていました。その数ヶ月後、軍事クーデターが起こって、初めてカトリックが政権を取りました。しかしこの人は数ヶ月の後に暗殺されて、長くは持ちませんでした。しかし毎月13日には、より多くの人が、ますます多くの人がファチマにやって来てお祈りをしました。
マリア様が「ここに私の小さな御聖堂を建てて下さい」と言った所には、1920年にチャペルが建てられました。ファチマに今あるマリア様の御像がそこに置かれました。フリーメイソンは非常に怒って、この人々が建てたチャペルを1922年にダイナマイトを付けて爆発させました。そしてマリア様がお現れになったトキワガシの木にも爆弾をつけてそれを爆発させようとしたのですけれども、でも奇跡的に爆発しませんでした。それを見た人々の反応は何だったでしょうか?
人々は、このフリーメイソンのやり方に非常に怒って、次の選挙ではフリーメイソンは決定的に負けます。まだ御出現の後10年も経たない内に、偉大なカトリックの教授であった人、アントニオ・サラザールが大統領に選ばれました。1931年、ポルトガルの司教様たちは皆集まって、ポルトガルを汚れなき御心に奉献します。
ファチマのマリア様は3つの三重の奇跡を行いました。この三重の奇跡が起こったというのは、私が発明したのではなくて、サラザール大統領とポルトガルのリスボンの大司教である枢機卿が言った事なのです。
まず霊的な奇跡です。1910年、ポルトガルの神学校はほとんど閉鎖されていました。しかしほとんど閉鎖されていた神学校が、1933年になるとその神学生の数は世界中のどこよりも多かったのです。ブラガという所にあった神学校は470数名の神学生で世界一の神学校になりました。
15から16年の間に、ポルトガルは全く変化してしまいました、変わってしまいました。そして無秩序状態、無政府状態が全く無くなってしまいました。カトリック信仰への信じられないような大回心が行なわれました。また司祭召命、修道召命の大きな刷新がありました。
第1が霊的な奇跡でしたが、第2は社会的な政治的な奇跡も行われました。サラザール大統領はフリーメイソンを国外に追放します。共産党も、共産主義も禁止されました。組合というかギルド制と言うのですか、昔中世にあったような、職人たちがこの同じ職業の人たちが一緒に共同体を作るというものが推進させられました。サラザール大統領は、「私たちは何をしても単純な生活を推進したい。道徳の純粋さ、私たちの感情の優しさ、そして慎み深い高貴な家族の雰囲気を推進したい。」この社会改革、政治的な改革はファチマのマリア様のおかげでなされました。
そして最後の奇跡は何かというと、平和の奇跡です。1920年の後に何が起こったか知っていますか?まず、スペインでは市民戦争がありました。共産主義が戦争をするのですけれども、スペインのみならずイベリア半島全てを飲み込んで、戦争状態にしようとしていました。すると600万人の人々がファチマに巡礼に行って、マリア様に約束をします、「もしもマリア様がポルトガルを戦争から守って下さるならば、私たちはマリア様の汚れなき御心に捧げられた生活をします、適った生活をします」と約束しました。するとポルトガルにはその市民戦争が、スペインの戦争が浸透しませんでした。
次に、スペインの市民戦争の後には更に悪い事が起きました。それは第二次世界大戦です。第二次世界大戦の被害を受けなかったのは、スイスとポルトガルです。ポルトガルというのはドイツにとって非常に戦略的な所でした。ですからドイツはポルトガルを欲しいと思っていました。「フェリックス作戦」と言って、ドイツではポルトガルをどうやって侵略して自分が占領するか、という詳しい研究がなされて、その作戦も立てられていました。そしてドイツの軍隊がポルトガルに侵略する直前でした。もしも行けば、そこで占領できたのです。
しかし現在、なぜドイツの兵隊が行かなかったのか、それが不思議なのです。行かなかったのです。
マリア様はそれを守って下さいました。マリア様がこのポルトガルに平和を下さいました。ファチマの前にはその第二次世界大戦の前には、ヨーロッパで一番最悪の無秩序の無政府主義の所だったのです。
ですからファチマの専門家が言うのは、「ポルトガルというのは、もしも他の国々が、マリア様の仰っている事をそのままやるなら、どのようになるか、という事を見本を見せる為のショーケースだ、ウィンドウケースだ。」
明日、ファチマでマリア様がなさった、本当にもう目を見張るような奇跡がどのようなものがあったか、という事をお話させて下さい。するともう、マリア様を通して天主は私たちに本当の平和を勝ち取る手段を与えて下さった、という事が分かります。
今これを申し上げたのは、私たちが更に今までよりももっとマリア様に信頼する事ができる為です。もしも「私たちの心に平和が無くなってしまった」と思うならば、「何か不安だ」と思うならば、どこに行けば良いか分かる為です。もしも家族にちょっと不和があるなら、あるいは友達の家族に不和があるならば、一体どこに行けば良いかを示す為です。もしも皆さん手段があるならば、この韓国の大統領に、「ここに解決があります」と仰って下さい。
ではもう時間が来てしまいましたので、皆さん終課を一緒に唱えましょう。
「マリア様が与える平和の実りとは」
同時通訳:小野田圭志神父
マリア様がファチマにお現れになった時に、平和についてお話になりました。そこでこの平和、「秩序における平穏」について考えなければなりません。
まず私は、個人的な生活においての平和についてお話しました。そして、私たちの心に、イエズス様だけが本当の平和を与える事ができる、という事を見ました。私が天主の世界に心を開いた時に初めて、本当の秩序が私の心に戻ってきます。その時に本当の平和が心に宿ってきます。
何か「問題がある」と聞きます。例えば、誰かが私を馬鹿にした、あるいは誰か何かすごい問題がある、困った、困った、どうしよう、どうしよう、という事で、私の心には平和がなくなってしまいます。
しかしこの自分の問題が受けた屈辱、馬鹿にされた事を、永遠の光の中で、「天主の目から御覧になったら何であるか」という事を考えると、心に平安が戻ってきます。
そしてまた、御聖櫃の前でイエズス様の御受難について黙想した時に、「イエズス様は私の聖化の為にどれほど苦しまれたか」という事を考えると、「私のこの苦しみが一体何なのか。それに比べると」となります。
もしも今晩、このまま私が死んだとすれば、今まで考えていた、「あぁどうしよう、この問題」「あの問題」この「馬鹿にされた事」など、全く意味が無くなってしまいます。今まで、「あぁ、あの事」「あの事」と捕らわれていて平和を失っていた心も、永遠の光から見ると、「イエズス様からの目から見ると何でもない」という事が分かって、心に平和が戻ってきます。
私の意思についても、私がやりたい、私の心についても同じ事です。「あぁこの映画を観たい」「この動画を見たい」「あの事をやりたい」「あの事をしたい」「この楽しみをしたい」「あの娯楽をやってみたい」などというこの地上の欲望が、永遠の光から見ると、この自分のやりたい事だけを考えて、それをして、告解をあと伸ばしあと伸ばしにすると、私の霊魂には平和がなくなってしまいます。
しかし告解をして、そして「もうこれ以上罪を犯さない」そして「イエズス様の御旨を果たす」そして、もうこの罪には「NO!」と言う、「もう嫌だ!」とすると、平和が戻ってきます。カトリックの信仰のその素晴らしい、輝かしい真理は、私たちの知性に平和をもたらします。天主の聖寵、天主の命は、私の心に平和をもたらします。
ですからこの為に戦わなければなりません。この私たちが望む平和というのは、戦い、悪との罪との戦いの結果に受けるものです。私は秩序を望むならば、無秩序と戦わなければなりません。もしも調和とか、あるいは聖寵と御恵みを求めるならば、罪と戦わなければなりません。
家族の生活も同じです。両親はそしてお父さんとお母さんは、この子供に対して平和をもたらすものでなければなりません。この家族における平和というのは、信仰の光において見るならば、家庭の父親はこの家庭生活において、信仰の光がどこにでも満たされているように心を配らなければなりません。例えば子供たちは、「あぁ」聖人の生活、聖人の伝記、聖人の生涯について、「あぁ、素晴らしい聖人がいる」という事を「もっと知りたい、もっと読みたい、もっと勉強したい」と思う事でしょう。
もしも映画や動画を見せる場合には、子供たちが見る映画は、カトリックの聖人や、あるいは私たちの模範となる立派なカトリックの信仰の英雄についての映画であるべきでしょう。特にメル・ギブソンのイエズス様の「パッション」の映画は、表面的なカトリックの信者にとって大きな良い影響を与えました。
そして例え子供たちに見せる映画が、子供の為の映画であって、別にそれ自体において罪や暴力や悪いものがなかったとしても、天主の無い映画であると、その天主の無い世界の雰囲気を作り出してしまって、結局私たちから平和を取り去ってしまいます。
家庭生活において一番平和をもたらすものは、「謙遜」です。謙遜というのは、「私たちは無であって、全て天主からの御恵みによって生きている」という事であって、「私たちは天主の御恵みに依存している」という事を認識する事です。この意味においてマリア様は、ファチマのメッセージを生きる人々に、この本当の平和を約束しました。もしも個人的にマリア様が要求される事をするならば、私たちの個人的な心に平和が戻ってきます。なぜかというと、マリア様は平和の元后であって、マリア様がいらっしゃる所ではどこでも平和をもたらすからです。ですからマリア様の汚れなき御心を実践する所には、平和の凱旋が約束されています。
マリア様が繰り返して仰るのは、「もしも私の要求を実践するならば、個人的のみならず、家庭のみならず、教会においても、国家の間においても、世界に平和が戻る」と約束しています。ではマリア様はファチマにおいて、あるいはファチマの後にどうやって平和をもたらしたのでしょうか?平和のみならず、喜びと光を世界にもたらしました。
1917年7月13日にマリア様は仰いました、「最後に、私の汚れなき御心は凱旋するでしょう。教皇様はロシアを私の汚れなき御心に奉献するでしょう。ロシアは回心するでしょう。そして平和の時が与えられるでしょう。」
マリア様が約束されているのは、この世が作り出す偽物のプラスチックの人工的な平和の事ではありません。このプラスチックの平和というのは、広告によって作り出される、本当は存在しない偽物の平和の事です。なぜかというと、人々はこの世に秩序をもたらそうとして作ろうとするのですけれども、実はそのような秩序を作る事はできないからです。マリア様がこのように約束されたという事は、本当の意味で秩序の、「本当の秩序の平穏さを、一時の間与える」という事です。
今、私たちが現在生きている世界において、そのような秩序・平和というのは、今作る、考える事さえもできません。でもその平和の為には、教皇様が司教様と共にロシアを奉献しなければなりません。人間的に言ってみれば、そのような約束を実践する事は不可能であって、気違い沙汰です。マリア様はロシアの回心を約束しています。このロシアは今全くカトリックでも全然ありません。今のロシアは昔と同じく無神論者がたくさんいます。もしも無神論者でなかったとしても、離教の正教会を信じています。しかしマリア様は、このロシアが全てカトリック教会に戻ってくる、カトリックの信仰に戻ってくる事を約束しています。この事は人間的に言えば不可能です。
人間的に言えば、太陽の奇跡も不可能です。たった1つの御出現によってなされた、1つの国の1年におけるカトリックへの回心、あるいは南アメリカ全体が20年でカトリックに回心したという事も、人間的に言えば不可能です。
マリア様の約束した次の事は、「教会に平和の時が与えられる」という事です。もう一度天主様からの光が輝き出して、教会の最高の責任者や高位聖職者たちが、カトリックのそのままの信仰を取り戻して、教会が元に戻る。これは人間的に言えば、今見ると不可能な事です。
ではマリア様は具体的に何を約束されるでしょうか?それは、過去かつて変わった事のない、変わる事のない永遠の真理が、全世界を照らし出す、その真理が輝き出すという事です。
つまり、「第二バチカン公会議の時に採用した、フリーメイソンから来る致命的な誤謬を打ち捨てる」という事です。例えばエキュメニズム運動とか、あるいは永遠の世界を忘れさせて、この地上の事しか考えさせないような、世俗的な中心的な教え、あるいは第二バチカン公会議の後には全く忘れ去られてしまった「死」とか、あるいは「裁判、裁き」あるいは「天国」「地獄」という事について、もう一度光を輝かせる事でしょう。
また天主の為の最高の典礼、昔のままの典礼が、また全世界で捧げられる事でしょう。そして人々はこの天主の平和を心に受けて、成聖の状態において生き、生活を始める事でしょう。でも現在では、「成聖の状態にいる」という事すら一体何の事かよく分かっていません。
ファチマではマリア様は、個人あるいは家庭のみならず、教会のこの平和も約束されています。その為には「ロシアの奉献」という条件が満たされなければなりません。しかしこの奉献がなされる前でさえも、マリア様はファチマの実りを私たちにはっきりと示して下さっています。
ファチマでマリア様が現れた時には、第一次世界大戦で、世界では戦争の事しか話されていませんでした、平和を作る等という事はありませんでした。そしてポルトガルは、フリーメイソンの手によって政府が牛耳られていました。マリア様が何をなさったかという事を皆さんにお伝えしたいと思います。この事を見ると、「マリア様こそ、私たちに本当に平和をもたらす事ができる」という事を確信する事ができます。
マリア様は私たち皆さんの家庭の世話をする事ができます。マリア様は私たちの霊魂を救う事ができる最後の希望です。マリア様こそ、私たちの家族が1つとまとまって、崩壊せずに、その聖なるものとして守られる最後の砦です。マリア様こそ、個人においても、家族においても、修道会においても、グループにおいても、教会全体においても、全世界の為の最後の希望です。これは「平和」という言葉に繋がっています。天主様の秩序が私たちの心にまた戻ってきます。心はまた天主と一致します。この今黙示録的な時代に生きている私たちに、少なくとも天主様と一致して、そして天主様の平和を私たちの心に宿して、その平和を他の周りの人に伝えて、多くの霊魂を天国へと結べます。そして私たちはこうやる事になって聖化、聖人となる事ができます。
イエズス様は仰います、「お前たちは、その実によって、樹を知るだろう。」
まず私たちは、では実りを見てみましょう。政治家の話す実り、あるいは何とか委員会、平和委員会の話す実り、あるいは近代主義者がデモをやったり何かして話す平和、あるいは何とかの講演会に行って話す平和について、その実りは何でしょうか?
まず政治家が平和について話すと、その結果は必ず、「安全対策をして、もっとチェックをしなければならない」と。
「空港でも、あるいは汽車でも乗る時でも、爆弾がないか、テロがないかチェックをする。」
「将来、生徒一人ひとりに刑事官が付いて5人付いて、そしてアイシスのテロリストがこの子供を狙ったりしないか、というそういう法律ができるのではないか」という事を心配します。
もちろん、その事によって平和をもたらせません。この世が作る安全なセキュリティのシステムは、本当の平和をもたらすものではありません。
教会でもその平和についてよく話します、平和週間だとか。しかしその結果はもっと酷いものです。なぜかというと、教会がそういう「平和について話そう」という時に、教会は他の宗教のリーダーや、他の宗教の人たちを呼んで話をするからです。
そして他の宗教のリーダーと握手をして、抱き合って、「私たちは相互に尊重し合って、相互に寛容でなければならない」と言うのです。「そうしたら、世界は平和になるのだ」と。
そうすると、平和というのは手段となって、この平和という手段を使って、全ての宗教は実は同じなんだという事を伝えるメッセージが、それをおもに伝える手段となってしまいます。
アシジ以後、そのような「諸宗教の平和の集い」というのがありますけれども、その諸宗教の集いの中で1回も、「イエズス・キリスト」について話した事がありません。でも私たちはよく知っています、「イエズス・キリストこそが平和の君であって、平和をもたらすもの」です。
この地上の世界の国家の平和というのは、まず私たちが一人ひとりが天主と平和となって、家族が平和となって、そして少しずつ天主との平和ができた時に、最後に到達する実りです。
1917年、フリーメイソンの創立200周年が祝われました。それからモスクワでのボルシェビキ革命の100周年が祝われました。そしてその時に、「平和が達成された!」と宣言されました。1917年に。
ところがマリア様は、ファチマに謙遜にお現れになり、マリア様こそが本当の平和を何百万の人々に与えました。マリア様が個人に、そして家族に、そして国家に、そして色んな団体に平和をもたらしました。マリア様こそが、秩序における平穏さの美しさ、そしてその輝きをもたらしました。マリア様には安全のチェックとかセキュリティの強化等という事は必要ありませんでした。
マリア様の仰った事は、第二バチカン公会議で教会の指導者たちが言った事と、全く正反対の事でした。
平和の為の第1に必要な事は、「罪人の回心」です。「かわいそうな誤謬の中に陥っている異端者や、あるいは離教者たちが、本当の真理の中に立ち戻る事が条件だ」と。全世界における平和と教会の平和について、全く人間的に言えば不可能な事を、マリア様は約束されます。
そこで、私は以前書いた事ですけれども、「ファチマの実り」という事で、平和についてお話する事を許して下さい。
第1の実りは「成聖」です、聖化される事です。
まず3人の子供たちが聖人になりました。マリア様がお現れになった所には、同じ実りが現れます。本物の御出現にはそうです。偽物の御出現についてはこの実りがありません。罪と誤謬に対する勝利、真理の勝利が、本当の御出現にはあります。御出現のおかげで、罪が人々の間から全く無くなってしまうという事です。間違った宗教、偽物の宗教、あるいは間違ったイデオロギーの中に生活している人たちが、それを捨てるという事です。
神父様、「メジュゴリエ」とか、あるいは「ベイサイド」とか、あるいは色んな御出現の名前を出して、「それを信じてますか?」と聞きます。
もしもその御出現が、教会のちゃんとした吟味とそして調査を受けた、そして後に認可されたものでなければ、私はそれについて言う事ができません。ルルドが承認されるまで4年間かかりました。それも多くの奇跡がルルドで起こった後の事です。ファチマが認められる為には10年かかりました。
それが認められたのは、「あぁ、これは私は好きだ」「これが嫌いだ」というのではなくて、「一体その御出現で何があったのか」という、「これは嘘だ」と言う主張するそのグループと、「それは本当だ」という人たちのグループに分かれて、それを神学的に吟味して、真剣に吟味するものです。もしもそのような吟味がなされていないならば、調査がなされていないならば、これが本物かどうか分かりません。
もしもその調査の結果、否定的な結論が出たとしたら、もしもその多くの中でたった1つの事でも、「おかしいな」というところがあったら、悪魔がその尻尾を見せているところがあったら、もうこの全ての話は否定されます。
本当の御出現をどうやって吟味するか、判断するか、識別するかという事についての基準とその規律については、詳しいお話をする事はできません、別の機会に致しましょう。10の論点に分かれます。その内の9つ目は、「この御出現は、超自然の実りをもたらしているか否か」です。そして「この実りは、本当にこの御出現によって与えられたものなのか否なのか。」そして第10は、「この実りは、継続的な恒常的なものなのか、それとも一時的なものなのか。」
まず「罪が無くなってしまう」という事、第2に、その「天主への愛が増加して、それが留まっている」という事、それを吟味しなければなりません。それが霊的な超自然的な実りです。
この事を3人の子供たちの生活に見る事ができます。子供たちの列福調査は50年かかりました。田舎の普通の、お祈りをする事さえもできなかった単なる子供たちを、マリア様は大聖人に変えました。子供たちの回心のみならず、太陽の奇跡の後に多くの人々が回心しました。何千何万という多くの人々が、教会の敵だった人が、フリーメイソンだった人が、宗教について全く知らなかった人、あるいは教会にも行った事がなかったような人が、聖なる生活を送り始めました。
マリア様こそが、このような霊魂たちに天主様をもたらして、平和をもたらしました。そしてこれも一時的な事ではなくて、ルルドでもグァダルーペでもファチマでも、マリア様は常にそれを、その天主をもたらす事をなさっています。
しかし私たちの知っているのはほんの数限られたもので、いくら何千何万と言っても、マリア様の御像に近付いてお祈りをする人、御恵みを受けたという人は、それよりも更に多くいて、ただその多くの人たちがそれを自分の心の密かに、奥に密かに知っているので、私たちは知らないだけです。
時々司祭は信頼されて、「なぜマリア様が自分をこうやって回心して下さったのか」という、その秘密の話を打ち明けられる事があります。罪の生活を送っていた、あるいは信仰から遠く離れている人が、マリア様によって信仰生活に戻ってきた、という話を聞くのは非常に感動的です。
ある時マリア様のお話を御説教で聞いた、あるいはマリア様の御像の傍でお祈りをした、マリア様の御影を見た、あるいはマリア様の行列、聖母行列に参加した、あるいは何かの機を機会にマリア様の御恵みを受けて回心した、という話を聞きます。そして信仰を見出すのです。
一週間前の月曜日に、私はベトナムにいました。25歳の女の子が洗礼を受けました。異教徒でした仏教徒でした。職場でいた男の子が、マリア様のチラシをその子に与えたのです。そしてそれをただ読んだのです。他の普通の人でしたら「あぁ、」と言ってそのまま捨てるのですけれども、その子はそれを読んだのです。それで「もっとこれについて知りたい」と思いました。
「このここに書いてある不思議のメダイ、私ももらう事ができるのかな?」と聞きました。そして私はその子に洗礼を授けてきました。どこにいるか分からないような所から突然、「信仰を信じている、洗礼を受けたい」と言ってやって来たのです。そしたらその子は、「あぁ、生まれて初めて、心に平和があります。生まれて初めて、何をするべきか分かります。どこに行くべきなのか、道が分かりました。」それを聞くと、「あぁ、イエズス様が仰った本当の平和とは何か」という事が分かります。
フィリピンの話もあります。非常に美しい敬虔な聖伝主義の方がいます。そしてこの女の子は幸せを求めて、ドラッグとか、麻薬とか、あるいはお酒とか、その他の物に手をつけました。そして色んな事を試した結果、本当の幸せを与える事ができなくてそれが偽物だという事が分かったので、絶望して、「もうこの幸せというものがないんだ」と思って、「もう生きる価値がない」と思って、もう自分の命を絶とうとしました。そうするとその時にお友達がやって来て、マリア様の話をしたのです。そしてその女の子を招待して、神父様の元にやって来て、司祭はちょうどマリア様についてお話をする時でした。そしてその女の子は黙想会にやって来て、そして総告解をして、その総告解の後に私に言ったのです。
そのような話を私たちはよく聞きます。しかしこれではこのファチマの話はそれだけでは不十分です。もっと公的な公のレベルに行きます。ポルトガルは一体どうなったでしょうか?
ファチマの前、ポルトガルは一体どうだったでしょうか?150年間、フリーメイソンの手によって牛耳られていました。20世紀の初め、ちょうどファチマの時には、経済的には全く倒産していました。そしてポルトガルの国は無政府状態でした。信仰と道徳に関して、1910年、もう目も当てられませんでした。バルタ神父様はこう本を書いています。この人はファチマの専門家ですけれども、「フリーメイソンは経済的な倒産状態を利用して、人々の心に不敬虔と不信仰の種をばらまいた。」教会は多く閉鎖させられて、そして司教様たちは追放されました。そして大きな修道院の建物は世俗の建物に使われるようになりました。カトリックの出版社、カトリック新聞社、カトリックの報道機関は全て禁止になりました。そしてもうこのままでは、もう教会がポルトガルから姿を消す、というその時に、ファチマでマリア様が現れました。
太陽の奇跡には10万人がいたと言われます。ポルトガルの歴史の中で初めて、その太陽の奇跡の後の最初の選挙で、フリーメイソンは選挙で負けました。そこで非常に怒ったフリーメイソンたちは、ファチマにあった全てを壊してしまいました。でもマリア様の御出現の後に、ポルトガルは変わっていました。その数ヶ月後、軍事クーデターが起こって、初めてカトリックが政権を取りました。しかしこの人は数ヶ月の後に暗殺されて、長くは持ちませんでした。しかし毎月13日には、より多くの人が、ますます多くの人がファチマにやって来てお祈りをしました。
マリア様が「ここに私の小さな御聖堂を建てて下さい」と言った所には、1920年にチャペルが建てられました。ファチマに今あるマリア様の御像がそこに置かれました。フリーメイソンは非常に怒って、この人々が建てたチャペルを1922年にダイナマイトを付けて爆発させました。そしてマリア様がお現れになったトキワガシの木にも爆弾をつけてそれを爆発させようとしたのですけれども、でも奇跡的に爆発しませんでした。それを見た人々の反応は何だったでしょうか?
人々は、このフリーメイソンのやり方に非常に怒って、次の選挙ではフリーメイソンは決定的に負けます。まだ御出現の後10年も経たない内に、偉大なカトリックの教授であった人、アントニオ・サラザールが大統領に選ばれました。1931年、ポルトガルの司教様たちは皆集まって、ポルトガルを汚れなき御心に奉献します。
ファチマのマリア様は3つの三重の奇跡を行いました。この三重の奇跡が起こったというのは、私が発明したのではなくて、サラザール大統領とポルトガルのリスボンの大司教である枢機卿が言った事なのです。
まず霊的な奇跡です。1910年、ポルトガルの神学校はほとんど閉鎖されていました。しかしほとんど閉鎖されていた神学校が、1933年になるとその神学生の数は世界中のどこよりも多かったのです。ブラガという所にあった神学校は470数名の神学生で世界一の神学校になりました。
15から16年の間に、ポルトガルは全く変化してしまいました、変わってしまいました。そして無秩序状態、無政府状態が全く無くなってしまいました。カトリック信仰への信じられないような大回心が行なわれました。また司祭召命、修道召命の大きな刷新がありました。
第1が霊的な奇跡でしたが、第2は社会的な政治的な奇跡も行われました。サラザール大統領はフリーメイソンを国外に追放します。共産党も、共産主義も禁止されました。組合というかギルド制と言うのですか、昔中世にあったような、職人たちがこの同じ職業の人たちが一緒に共同体を作るというものが推進させられました。サラザール大統領は、「私たちは何をしても単純な生活を推進したい。道徳の純粋さ、私たちの感情の優しさ、そして慎み深い高貴な家族の雰囲気を推進したい。」この社会改革、政治的な改革はファチマのマリア様のおかげでなされました。
そして最後の奇跡は何かというと、平和の奇跡です。1920年の後に何が起こったか知っていますか?まず、スペインでは市民戦争がありました。共産主義が戦争をするのですけれども、スペインのみならずイベリア半島全てを飲み込んで、戦争状態にしようとしていました。すると600万人の人々がファチマに巡礼に行って、マリア様に約束をします、「もしもマリア様がポルトガルを戦争から守って下さるならば、私たちはマリア様の汚れなき御心に捧げられた生活をします、適った生活をします」と約束しました。するとポルトガルにはその市民戦争が、スペインの戦争が浸透しませんでした。
次に、スペインの市民戦争の後には更に悪い事が起きました。それは第二次世界大戦です。第二次世界大戦の被害を受けなかったのは、スイスとポルトガルです。ポルトガルというのはドイツにとって非常に戦略的な所でした。ですからドイツはポルトガルを欲しいと思っていました。「フェリックス作戦」と言って、ドイツではポルトガルをどうやって侵略して自分が占領するか、という詳しい研究がなされて、その作戦も立てられていました。そしてドイツの軍隊がポルトガルに侵略する直前でした。もしも行けば、そこで占領できたのです。
しかし現在、なぜドイツの兵隊が行かなかったのか、それが不思議なのです。行かなかったのです。
マリア様はそれを守って下さいました。マリア様がこのポルトガルに平和を下さいました。ファチマの前にはその第二次世界大戦の前には、ヨーロッパで一番最悪の無秩序の無政府主義の所だったのです。
ですからファチマの専門家が言うのは、「ポルトガルというのは、もしも他の国々が、マリア様の仰っている事をそのままやるなら、どのようになるか、という事を見本を見せる為のショーケースだ、ウィンドウケースだ。」
明日、ファチマでマリア様がなさった、本当にもう目を見張るような奇跡がどのようなものがあったか、という事をお話させて下さい。するともう、マリア様を通して天主は私たちに本当の平和を勝ち取る手段を与えて下さった、という事が分かります。
今これを申し上げたのは、私たちが更に今までよりももっとマリア様に信頼する事ができる為です。もしも「私たちの心に平和が無くなってしまった」と思うならば、「何か不安だ」と思うならば、どこに行けば良いか分かる為です。もしも家族にちょっと不和があるなら、あるいは友達の家族に不和があるならば、一体どこに行けば良いかを示す為です。もしも皆さん手段があるならば、この韓国の大統領に、「ここに解決があります」と仰って下さい。
ではもう時間が来てしまいましたので、皆さん終課を一緒に唱えましょう。