2018年5月5日 秋田巡礼 シュテーリン神父様霊的講話【7】
「イエズス様とマリア様の聖心が一致している」
同時通訳:小野田圭志神父
「イエズス様とマリア様の聖心が一致している」
この神秘についてたくさんの事があります。しかし時間がもうあまりないので限られているので、その要点だけを申し上げます。拷問の時間がもう限られてしまっています。
では、聖ヨハネ・ユードについての話をしましょう。聖ヨハネ・ユードは初めて、イエズス様の至聖なる聖心とマリア様の汚れなき御心の2つについて、深い神秘を理解した方でした。まず素晴らしい感嘆すべき、マリア様の御心について本を書きました。聖ヨハネ・ユードは、マリア様の汚れなき御心と、イエズス様の至聖なる聖心のミサや典礼を最初に作った人です。
ヨハネ・ユードがどうやってマリア様の聖なる御心を理解したか、という事は非常に興味深いです。まず肉体的な臓器としての心臓について考察します。しかしこの心臓というのは、目に見えるしるしでしかありません。この中に霊的な心があります。この霊的な心の中に、マリア様の聖徳、あるいは特権が全て詰まっています。またマリア様との全く緊密なパーソナリティーが、その人柄が入っています。特にマリア様の燃えるような、周りに伝える愛があります。
更に、天主様の聖心がマリア様の御心に入っているのです。天主の玄義、天主の神秘が、永遠の天主の神秘がマリア様の中に詰まっているという事です。これが先ほどの講話の中でお話の中で、「聖霊がマリア様の心を全て所有している」という事の意味なのです。
天主御子がマリア様の御心を形成する形造る喜びをもって、そしてマリア様はそのお返しに、御子の人間としての聖心を形造ったという事です。「この2つの聖心はあまりにも一致して分かち難く一致しているので、1つのようにしか見えない。」聖ピオ十世会のエンブレムというのでしょうか、紋章を知っていますか?あるいは無原罪の聖母の騎士の。2つの聖心が1つに重なっています。
この2つが全く1つになっているという事を芸術的に表現するのは非常に難しいので、こうなっています。
「マリア様とイエズス様を離してはいけない。」ヨハネ・ユードによると、「私たちはいつもこの2つの事を考えていなければならない。マリア様とイエズス様の聖心は全く一致しているので、イエズス様を見る者はマリア様を見る。イエズス様を愛する者はマリア様を愛する。イエズス様とマリア様は、私たちの受ける祝福の唯一の源だ。私たちのする行動、私たちは何をするにも、この2つの一致した聖心を讃美する為になさなければならない。」
そこで聖ヨハネ・ユードは、「この2つの聖心は、1つの心だ」と言います。聖ヨハネ・ユードは、イエズス様とマリア様の聖心、と単数で言って、イエズス様とマリア様の聖心「たち」と複数では言わないのです。これは何を意味するかというと、人間の文法とか言葉が表明する事ができない深い神秘を表しています。「天主は2つの聖心をあまりにもぴったりとくっつけたので、これほどぴったりとしている結合はあり得ない。これよりも更に深い結合はあり得ない」と。
マリア様の生活とは、人生とは何でしょうか?イエズス様の人生でした。イエズス様の人生は全てマリア様の為でした。マリア様も全てイエズス様の為でした。マリア様にイエズス様が、「汝の子、ここにあり」と言った時に、マリア様を通して私たち全てを見ています。ですから聖ヨハネ・ユードによれば、私たちはマリア様を通してイエズス様を誉め讃えて、イエズス様を通してマリア様を誉め讃えるべきなのです。聖ヨハネ・ユードによると、「マリア様においてイエズス様を礼拝し、讃美しなければならない。」
「このようにしてマリア様は崇敬を受ける事を望んでいる。なぜかというと、マリア様ご自身には全く何でもないから。でもマリア様の御子であるイエズス様は、マリア様の全てであるから。マリア様の力、マリア様の偉大さ、マリア様の特権全ては、イエズス様にあるから。イエズス様はマリア様の存在理由、マリア様がここに存在している理由であるから。マリア様がここにいらっしゃるのは、イエズス様を与える為にいらっしゃる。イエズス様はマリア様の中にいらっしゃるのみならず、イエズス様御自身がマリア様の御心である。」
更にこのような話は続きます。そこでその聖ヨハネ・ユードと一緒に黙想すると、マリア様の御心の深さ、その偉大さ、そのイエズス様との一致をますます理解します。
プロテスタントの人は私たちに、「マリア様の事をあまりにもオーバーに話しすぎる」と非難します。でもよくその人たちが理解していないのは、カトリックの教えによれば、「マリア様に行くという事こそが、イエズス様に行く為の最高の道である」という事です。という事は、プロテスタントの牧師が言うには、「もしも私たちがマリア様を通さずに行こうとする事は、実は本当のイエズス様ではなくて、イエズス様の漫画に行くようなものだ。なぜかというと、私の頭に描くイエズス様に行ったのであって、私の頭が考えた聖書の解釈によるイエズス様を描いたのであって、私のイエズス様に関する私の考えが表れたのであって、しかしマリア様の御心に行くというのは、マリア様のご覧になるイエズス様なのであって、本物のイエズス様に行く事である、という事が分った。」
ところで、聖ヨハネ・ユードは第3の側面を話しています。これは本当に驚くものです。まずマリア様を通して、本物のイエズス様を知る事ができると分かりました。もう1つは、「イエズス様を通して、マリア様に行く事ができる」という事です。私たちのちっぽけな利己主義的な愛に基づいて、マリア様を知り、愛するのではなくて、イエズス様の寛大な大きな愛をもって、イエズス様の心をもって、マリア様を愛する、知る、という事です。
これはイエズス様の命令で法によります、「私は、あなたたちに模範を与えた。」イエズス様の徳を真似なければなりません。イエズス様の御謙遜、イエズス様の御忍耐、イエズス様のマリア様に対する、御母に対する愛を真似なければなりません。
聖ヨハネ・ユードは言います、「イエズス様は全く完璧に、マリア様をお愛しになった。マリア様が今まで受けた中で、最高の名誉を受けた。イエズス様は御自身を、マリア様を愛する息子として子供として捧げた。イエズス様はマリア様に全く忠実であって、奉献されていた。」
ですから、マリア様の御心をよく知る為には、イエズス様の聖心に行かなければなりません。ですからこうお祈りしましょう、「おぉ、イエズス様、御身の聖心を私に与えて下さい。御身の聖心をもって、御身の御母マリア様を愛する事ができますように。」「あぁマリア様、御身の汚れなき御心を私に与えて下さい。その汚れなき御心によって、御子イエズスを愛する事ができますように。」皆さん望みの通りやって下さい。皆さんの汚いちっぽけな心を取って下さい、本当にろくでもない、もう汚らわしい心ですけれども。皆さんの心はメル・ギブソンの勇敢な素晴らしい心ではないかもしれません。しかしこのみすぼらしい心ですけれども、マリア様に対する少しの愛は残っています。まずこの小さな心を、汚れなき御心に捧げて下さい。
これが奉献です。初土曜の奉献です。汚れなき御心への信心です。そしてマリア様の汚れなき御心をご覧になりつつ、私たちの心をそれに合わせて形造ります。そしてマリア様に、「マリア様のお望みの通りに、私の心を使って下さい」と言って下さい。するとマリア様は皆さんの小さな心を取って、イエズス様の聖心に捧げます。ちっぽけな心ですけれども、マリア様から受けたものですから、イエズス様は本当に喜んでこの贈り物を受け取ります。
なぜ本当に喜んで受けるのでしょうか?罪にまみれた自分勝手の心を受けるのが、イエズス様にとって喜びですか?半分腐ったようなりんごを、虫が食い散らしたようなりんごを受けるのは、イエズス様にとって名誉でしょうか?
「主よ、我が手の労働の実りを御身に捧げ奉る。」「私のこの大地の実りと、この労働の実りを御身に捧げ奉る。」「人間の尊厳を御身に捧げる。」そのような傲慢な態度は、イエズス様は愛する事ができません。
でもマリア様を通して捧げるとどうでしょうか?マリア様のたくさん美しい果物のたくさんの中に、私たちの心が1つ入っています。何百万もの美しい花々が咲き乱れています。私たちの汚らしいリンゴですけれども、マリア様のきれいな果実と一緒になると、その汚いのが取れてしまってきれいになります。そしてマリア様はイエズス様の前に行くと、特にご自分の御心を捧げます。無限の聖徳と、美しい花々と果実の詰まったものを、イエズス様に捧げます。そのたくさんの捧げ物の中に、皆さん私たちの小っちゃな腐ったようなりんごがあります。私たちのちっぽけな心も、マリア様のたくさんの贈り物と共に受け取ります。全て喜んで。
ではイエズス様はこれを何をするのでしょうか?まず私たちのこの小さな憐れな心を見て、弱々しい、もうどうでもいいような心を見ます。「あぁ、お前は母親が必要だろう。」「お前には力強い女王様が必要だろう。」「お前は軍人なのか。それなら将軍が必要だろう。」するとイエズス様は私たちの心を、御自分の聖心の中に入れます。そして御自分の聖心と一緒に、マリア様に返します。これが初金曜日です。至聖なるイエズスの聖心です。それが6月の信心です。
幼きイエズスの聖テレジアによると、「幼きイエズス様の小さなおもちゃのようになって下さい。」
幼きイエズス様は、お母様マリア様と一緒にこう遊んでおられます。小さなボールをイエズス様はマリア様に投げて、マリア様はイエズス様に投げて、このボールというのは私たちの心です。ところでイエズス様がマリア様にボールを与える時に、マリア様がイエズス様にボールを与える時に、この動くたびにこのボールが大きくなって、心もますます聖化されていきます。ますます浄められていきます。強くなっていきます。高貴になっていきます。そして勇敢な心になっていきます。これが聖化の簡単なやり方です。
たくさん学ぶ事があります。初金の信心も初土の信心も私たちもちゃんと覚えています。しかしよく考えると、「イエズス様とマリア様は私たちに与えようとしていた、という事が実はよく分かっていなかった」という事に気が付きます。
では、もしも私たちが本当に汚れなき御心に対する信心を実践しようとするならば、イエズス様の聖心に行って下さい。聖心と共に、このマリア様の汚れなき御心の信心を行って下さい。汚れなき御心の信心の重要な要素の1つは、罪の償いの為の御聖体拝領です。御聖体拝領という事は、イエズス様と一致する事です。
では初金で、もしもイエズス様の聖心に対する信心を良くやりたいと思うならば、汚れなき御心と一緒にやって下さい。例えば至聖なる聖心に奉献するとします。奉献の祈りを唱えます。でもマリア様の汚れなき御心をもってこの奉献の祈りを唱えて下さい。イエズスの聖心の連祷、美しい連祷があります。マリア様の汚れなき御心が私の唇を使って、これを唱える事ができるようにお願いして下さい。私が1人で「イエズスの至聖なる聖心よ」と言うよりは、マリア様が、「あぁ、我が御子、我が子よ、イエズスの至聖なる聖心よ」と唱えた方がどれほど力があるでしょうか。
ですから来たる6月のイエズスの至聖なる聖心の聖なる月には、マリア様の汚れなき御心をもって、それを通してイエズス様に行って下さい。それこそが、私たちが今までした事がなかったような、最高の聖心の月になります。
「聖時間」という特別な聖心に対する信心があります。この今晩の聖体礼拝があります。マリア様の汚れなき御心の中に、これをもってイエズス様の御聖体を礼拝して下さい。時々この事を思い出して下さい、「マリア様、私は1人で御聖体礼拝はしたくありません。マリア様、一緒に来て下さい。マリア様の御心が私の心を脈打って下さい。マリア様、マリア様の母のこの汚れなき御心の愛をもって、イエズス様の聖心をお愛し申し上げたいと思います。御身がイエズス様を信じたその信仰をもって、私も信じ奉りたいと思います。」
マリア様の汚れなき御心をもってする事によって、私たちの信仰生活が全く変わってしまいます。私たちが日常の義務に取りかかる時も、マリア様の汚れなき御心をもってなさって下さい。皆さんお好きなように、イエズス様の聖心にもマリア様の汚れなき御心にも好きな方に行って下さい。時々にはイエズス様の聖心に。そしてもちろん、「イエズスの聖心よ、至聖なる聖心よ」と言うのですけれども、その更にこれを縮めて、「イエズス様」これだけでも入っています、全て入っています。
では、「終末の時代におけるイエズスとマリアの使徒たち」とは一体誰の事でしょうか?この世の中、全く最悪の時代の世の中にも生きるにもかかわらず、いつもイエズス様とマリア様に忠実に仕える使徒たちとは誰でしょうか?
聖グリニョン・ド・モンフォールによると、「イエズス様とマリア様の御名がその胸に刻まれている霊魂こそが、その使徒だ」と。
ではその為にはどうしたら良いでしょうか?聖マキシミリアノ・コルベは、「無原罪の聖母の騎士となる事である。」なぜかというと、そうする事によって、イエズス様とマリア様の現存が皆さんにおいて実現するからです。皆さんが働く時、旅行する時にも、あるいはショッピングをする時にも、私たちの心はイエズス様の聖心とマリア様の御心を行ったり来たりしています。
皆さん病気ですか?頭痛がありますか?「イエズス様、私の頭痛を御身の茨の冠の苦しみにお捧げ致します。聖心を取り巻くいばらの冠に一致させます。」「そしてこの私の頭痛をマリア様にも与えます。マリア様がそれを使って、イエズス様を使って慰めて下さいますように。マリア様、私の頭痛を御身の汚れなき御心に捧げます。御身がその十字架の元に佇んだ時のその悲しみと苦しみに一致させます。そしてどうぞ御身のとてつもない悲しみに、私のちょっとした下らないような頭痛も合わせてイエズス様を慰めて下さい。」
パレルモニアでもイエズス様の聖心はそう仰いました、そしてファチマでもマリア様はそう仰いました、「罪の償いをしなさい」と。「イエズス様とマリア様の聖心に背く、それを傷つける罪、この世の罪の償いをしなさい」と。
皆さんがこの社会生活をして、誰かとお話をする時に、ご自分一人でおしゃべりしないで下さい。もしも私たちがマリア様とイエズス様の聖心に一致して、その2つの間を行ったり来たりしているならば、皆さんの微笑みは皆さんの微笑みではなくなります。皆さんの微笑みの後ろにマリア様の微笑みが隠れています。すると皆さんの微笑みではなくてマリア様の微笑みに、他の友人、周りの人は惹かれてきます。そのようなマリア様の微笑みを、この世は私たちが考えているよりも更に必要としています。
どうぞこの外にあるチラシとかを取って、あるいは不思議のメダイを一緒に持って、どうぞお友達にあげて下さい、親切にあげて下さい。隣人や他のお友達に近寄って、どうぞ差し上げて下さい。山田太郎として皆さんの名前で近寄るのではありません、「聖伝のカトリックです」という事で近寄るのではありません、聖徳の模範として近寄るのではありません、それと皆さんたくさんお祈りしているから近付くのではありません。
つまり私の言いたい事は、「私のこの偉大な聖人のような俺がお前に教えてやるから、このそのちょっとしたパンフレット読んでごらん。分かるだろ、教えてやる。もしも議論をしたいなら始めなさい」と。「あぁ、神はいないだと?何だと!?第1の点、No!もう議論はありませんか?じゃあ終わり!」すると皆さんの話を聞いた人は、こう色々なパンチを受けてですね、「あぁ、あなた聖伝のカトリック、あなたは正しい。私は間違っている。あなたの勝ちだ。でも私は回心しない。」なぜかというと、私がすべき態度でしなかったからです。もしもターザンのようにこう自己満足の、こう「俺はすごい!」という態度で近付くならば、むしろ効果はありません。
私たちの強みというのは、「私たちの小さな心が、マリア様とイエズス様の聖心の間に行ったり来たりしている事」にあります。私は単なる道具にすぎません、ただ運河に過ぎません、その鉛筆に過ぎません。
全てはイエズス様とマリア様です。至聖なる聖心からマリア様を通して、あるいはマリア様の御心からイエズス様の聖心を通して、巨大な愛に満ちた聖心と1つに一致している聖心が私たちの前にあります。
そしてその特別大きなお恵みが、私たちの小っちゃな心の中に入るのです。そしてこのイエズス様とマリア様に満たされた光とお恵みが、私たちのちっぽけな心を通して隣人たちにもたらされます。
これが無原罪の聖母の騎士です。これが聖母の道具です。もしも私たちが自分の事だけでいっぱいであれば、何も与える事ができません。ファチマではマリア様は言いました、「イエズス様はあなたを使って、私の御心がこの世に知られる事を望んでいます。」
ですから「マリア様との一致」というアプローチをして下さい。この単純な簡単なマリア様の御像がなさるようになさって下さい。このマリア様の御像が家にあるという事を考えて下さい。あるいはイエズス様の聖心の御像がある。美しいお花があって、ろうそくも立てて飾って下さい。お友達がこの家を訪問する時に、あるいは家族の親戚がこの家を訪問する時に、このお友達たちは「あぁこの家には何台テレビがあるかな?どれほど大きいスクリーンがあるかな?」という事を思って来るかもしれません。「あぁ、私はこの家の中にそんなに花が飾ってあるのを見た事がありません。この御像も綺麗ですね。」おそらく訪問した人は感動すると思います。そしてこの皆さん、家族の皆さんのお友達を招待して、マリア様とイエズス様の御像をきれいに飾って、美味しい料理も出してあげて下さい。そして私ではなくて、イエズス様とマリア様がこの家の雰囲気であるようにして下さい。
皆さんのこの親切、あるいは皆さんの微笑み、あるいはイエズス様とマリア様の雰囲気、現存というものが、訪問者やお友達を回心させる事でしょう。
では皆さんのこの世における役割が分かりましたね?皆さんのキリスト教信者としての召命はこれです、「イエズス様とマリア様の一致した聖心の現存、この世における現存」それが皆さんです。
まず皆さんのたくさんのお祈り、「イエズス、マリア、御身を愛し奉る。霊魂を救いたまえ。」イエズスの至聖なる聖心とマリア様の汚れなき御心、と言うのは長いので、これを「イエズス、マリア」と縮めて言います。皆さんがどこに行こうと、どこにいらっしゃろうとも、「イエズス、マリア、御身の御国が来たらん事を。」「御身が統治せん事を。」「御身が支配せん事を。」「御身が愛されん事を。」「御身が知らされん事を。」「御身がここにいらっしゃらん事を」と祈って下さい。「この教室に、」「この職場に、」「このスーパーマーケットに、」「このお店に、」「この事務所に、」「この道路に、」「このバスに、」「この飛行機に」
まず第1が祈りですが、第2が犠牲です。イエズス様の聖心とマリア様の御心がどのように私たちに与えられたのかを見て下さい。血を流していない聖心を見た事がありますか?あるいは槍で貫かれていないような汚れなき御心を見た事がありますか?イエズス様とマリア様は苦しみました。十字架という最も恐るべき拷問まで、イエズス様とマリア様は共に苦しみました。
皆さんがイエズス様とマリア様の聖心に捧げる事ができる、最も貴重で、最も大切なものは何か知っていますか?それは祈りではありません。皆さんのこのフィーリングとか愛の感情とかでもありません、「あぁ、イエズス様、愛してます…」と言ってこの空に飛んでしまっている夢を見ているかのようです。でもそのような時は頻繁にある事ではありません。この世が望まないような事、そして私たちにとって辛いような事を、イエズス様とマリア様に最も貴重なものとして捧げる事ができます。それは皆さんの苦しみと犠牲です。屈辱や困難など、辛い事です。皆さんを苦しめるような事、1日にそのような事が何回あるか数えてみて下さい。
まずそこで最初に申し上げた、「平和」という事について戻ってみます。普通は苦しい事があると、私たちはイライラして腹を立てます、怒ったりします。それからもう逃げようとします、避けようとします。頭痛がする時には、頭痛薬があって「もう頭痛が嫌だ」という、でもこの頭痛薬の為にアスピリンを10粒飲んだとしたら、お腹が痛くなります。でも1つの苦しみから逃れようとして、多くの別の苦しみを受ける事があります。しかしこれがイエズス様のなさった救いの御業の神秘は、私たちにとって最も悪いような事を、最善の良い事に変えてくれる事です。この世によって呪われたものが、愛の道具となる事です。
「愛してますよ。」「愛してます」と口で言うのはイエズス様に言うのは、あるいは互いに言うのは簡単です。こうやってこの愛を表明するのはもっと簡単です。お金はかかりません。でもこれが本物だとどうしたら分かるでしょうか?きれいな演説やお話でどうやって分かるでしょうか?私の隠れた望み、楽しみという事をどうやって分かるでしょうか?
例えば、男女が「本当にこの人が私の為に愛しているか」という事を見る為には、この人が自分の為に一生懸命働いている、あるいは時間を尽くしてくれる、というのを見て証拠になります。子供が親を愛しているというこの証拠は、口先だけで、「お父さん、愛してるよ」と言うだけではなくて、従順である事です。でも従順であるというのは本当に簡単な事ではありません。「遊びに行きたい」という時に、「お部屋のお掃除をしなさい。」「映画を見ようかな。」「宿題をしなさい。」でもこの子供はちゃんと言いつけの通りやっているので、「あぁ、親を愛しているのだ」という事が分かります。
イエズス様によれば、「本当の偉大な愛の証明というのは、愛する者の為に犠牲を払って、そして命さえも与える事である」と。
誰もがこう恐れています。「お元気ですか?」「神父様、年を取ってきました。去年はこの辺を走ったのですけれども、今年は足が痛くて、頭も痛くて、疲れてしまって、年を取ったんだなあと思います。」「2年前は本当に私は若々しくて美しい花のようでしたけれども、今は枯れてしぼんでいます。」将来は皆さん杖をついていらっしゃる事でしょう。車椅子です。そしてトマトはますますこうシワを寄せて、そしてますます私たちの顔は悲しそうな顔をするのでしょうか。
いや、そうではありません、その反対です。私は母に電話をする度にいつもこう聞きます、「お元気ですか?」「同じです、いつも同じだよ。」母は修道院の司祭の為に料理を作っています。3年前から手を上げる事ができなくなっています。ですから腕を上げる為に、もう1本の手を使って腕を上げます。でもそうすると手がとても痛いのだそうです。「あぁ、仕事辞めた方が良いんじゃないの?お母さん。」「でも何の為に?もしもお前の為に苦しまなかったら、どんな意味があるのだろう、私の人生に!お前は必要としているんじゃないの!?」
イエズス様とマリア様の聖心が私たちの霊魂の為にする事がこれです。この世は皆さんに、「あぁ、あなたたちは全く意味がない、人生に意味がない。」「もう役立たずだ」と言うでしょう。「あなたは年を取っているし、全くこの世の役にも立たずに邪魔者で、お荷物だ。」しかしその事実は反対です。ますます私たちは苦しみと犠牲を何百と捧げる事ができます。私たちがこの犠牲を、小さな心で犠牲を捧げれば、マリア様とイエズス様の聖心の道具となって行ったり来たりしながら、多くの霊魂を救う事ができます。皆さんを使って多くの霊魂を救う事ができます。
ですから具体的な使徒職の事について考えて下さい。イエズス様とマリア様の聖心の前に行ってこう祈って下さい、「あぁ、私に何をお求めですか?」
小野田くんは十何歳かの時に、「もしも主よ、よろしかったら、もしも私でよろしかったら使って下さい」とお祈りしたのですが、その答えを得ました。
もしも私たちの中に燃えるような聖心と、聖心への愛がなければ、召命もなければ聖化もありません、聖徳もありません。天の軍隊に加わって救霊の偉大な業を果たす、参与するという望みも起こりません。この皆さんの中で、この世の中で知っている知人や友人たちの事を考えて下さい。もしも皆さんが100人、一人一人が100人の知人を知っているならば、つまりここには50人がいらっしゃるので、100人×50で5000人の霊魂たちが、イエズス様の聖心からのお恵みを受ける事ができるはずです。そこで皆さんの知恵とタレントを使って、能力を使って、才能を使って、イエズス様とマリア様が知られるようにして下さい。
6月には至聖なる聖心の月には、皆さんお願いします、どうぞお願いします。皆さんの家庭を、マリア様の御心を通してイエズス様の聖心に奉献して下さい。イエズス様の聖心が王として着位する事ができるようにして下さい。マリア様のファチマのこの御像が皆さんの家庭に訪問するようにして下さい。そしてマリア様が皆さんの家庭の一人一人を祝福して、マリア様が仰った事、ファチマでなさった事をもう一度思い出すようにして下さい。どうぞ英語を知っている方は、私の書いたファチマの本を日本語に訳して下さい。なぜかというと、ファチマでマリア様が何と仰ったか、何を知っているかを知らなければならないからです。もしもそれが出来なければ、皆さん英語を勉強して下さい(^^)
では「平和の元后であるマリア様」とは一体どのような方であるか、皆さん理解されたと思います。永遠の天主の最高の本物の平和は、たった1つの所にしかありません。それは「イエズス様とマリア様の一致した聖心の中」です。この聖心は祭壇の御聖櫃の中にあります。また霊的に私たちに現存しています。この皆さんの心を、この一致した聖心にますます近付けて下さい。そして「聖心のように私の心を変えて下さい」と祈って下さい。そして謙遜にお願いして下さい、「私の心を、聖心の燃え尽きる炎の中で燃え尽かせて下さい。」そしてできる事ならば、このみすぼらしい心と聖心と交換して下さるようにお願いして下さい。そうすれば私の心に平和が来ます。そうすれば、私たちがどこに行っても、平和をもたらす者となります。それが現代の世界に最も必要とするものです。
ご清聴ありがとうございました。
「イエズス様とマリア様の聖心が一致している」
同時通訳:小野田圭志神父
「イエズス様とマリア様の聖心が一致している」
この神秘についてたくさんの事があります。しかし時間がもうあまりないので限られているので、その要点だけを申し上げます。拷問の時間がもう限られてしまっています。
では、聖ヨハネ・ユードについての話をしましょう。聖ヨハネ・ユードは初めて、イエズス様の至聖なる聖心とマリア様の汚れなき御心の2つについて、深い神秘を理解した方でした。まず素晴らしい感嘆すべき、マリア様の御心について本を書きました。聖ヨハネ・ユードは、マリア様の汚れなき御心と、イエズス様の至聖なる聖心のミサや典礼を最初に作った人です。
ヨハネ・ユードがどうやってマリア様の聖なる御心を理解したか、という事は非常に興味深いです。まず肉体的な臓器としての心臓について考察します。しかしこの心臓というのは、目に見えるしるしでしかありません。この中に霊的な心があります。この霊的な心の中に、マリア様の聖徳、あるいは特権が全て詰まっています。またマリア様との全く緊密なパーソナリティーが、その人柄が入っています。特にマリア様の燃えるような、周りに伝える愛があります。
更に、天主様の聖心がマリア様の御心に入っているのです。天主の玄義、天主の神秘が、永遠の天主の神秘がマリア様の中に詰まっているという事です。これが先ほどの講話の中でお話の中で、「聖霊がマリア様の心を全て所有している」という事の意味なのです。
天主御子がマリア様の御心を形成する形造る喜びをもって、そしてマリア様はそのお返しに、御子の人間としての聖心を形造ったという事です。「この2つの聖心はあまりにも一致して分かち難く一致しているので、1つのようにしか見えない。」聖ピオ十世会のエンブレムというのでしょうか、紋章を知っていますか?あるいは無原罪の聖母の騎士の。2つの聖心が1つに重なっています。
この2つが全く1つになっているという事を芸術的に表現するのは非常に難しいので、こうなっています。
「マリア様とイエズス様を離してはいけない。」ヨハネ・ユードによると、「私たちはいつもこの2つの事を考えていなければならない。マリア様とイエズス様の聖心は全く一致しているので、イエズス様を見る者はマリア様を見る。イエズス様を愛する者はマリア様を愛する。イエズス様とマリア様は、私たちの受ける祝福の唯一の源だ。私たちのする行動、私たちは何をするにも、この2つの一致した聖心を讃美する為になさなければならない。」
そこで聖ヨハネ・ユードは、「この2つの聖心は、1つの心だ」と言います。聖ヨハネ・ユードは、イエズス様とマリア様の聖心、と単数で言って、イエズス様とマリア様の聖心「たち」と複数では言わないのです。これは何を意味するかというと、人間の文法とか言葉が表明する事ができない深い神秘を表しています。「天主は2つの聖心をあまりにもぴったりとくっつけたので、これほどぴったりとしている結合はあり得ない。これよりも更に深い結合はあり得ない」と。
マリア様の生活とは、人生とは何でしょうか?イエズス様の人生でした。イエズス様の人生は全てマリア様の為でした。マリア様も全てイエズス様の為でした。マリア様にイエズス様が、「汝の子、ここにあり」と言った時に、マリア様を通して私たち全てを見ています。ですから聖ヨハネ・ユードによれば、私たちはマリア様を通してイエズス様を誉め讃えて、イエズス様を通してマリア様を誉め讃えるべきなのです。聖ヨハネ・ユードによると、「マリア様においてイエズス様を礼拝し、讃美しなければならない。」
「このようにしてマリア様は崇敬を受ける事を望んでいる。なぜかというと、マリア様ご自身には全く何でもないから。でもマリア様の御子であるイエズス様は、マリア様の全てであるから。マリア様の力、マリア様の偉大さ、マリア様の特権全ては、イエズス様にあるから。イエズス様はマリア様の存在理由、マリア様がここに存在している理由であるから。マリア様がここにいらっしゃるのは、イエズス様を与える為にいらっしゃる。イエズス様はマリア様の中にいらっしゃるのみならず、イエズス様御自身がマリア様の御心である。」
更にこのような話は続きます。そこでその聖ヨハネ・ユードと一緒に黙想すると、マリア様の御心の深さ、その偉大さ、そのイエズス様との一致をますます理解します。
プロテスタントの人は私たちに、「マリア様の事をあまりにもオーバーに話しすぎる」と非難します。でもよくその人たちが理解していないのは、カトリックの教えによれば、「マリア様に行くという事こそが、イエズス様に行く為の最高の道である」という事です。という事は、プロテスタントの牧師が言うには、「もしも私たちがマリア様を通さずに行こうとする事は、実は本当のイエズス様ではなくて、イエズス様の漫画に行くようなものだ。なぜかというと、私の頭に描くイエズス様に行ったのであって、私の頭が考えた聖書の解釈によるイエズス様を描いたのであって、私のイエズス様に関する私の考えが表れたのであって、しかしマリア様の御心に行くというのは、マリア様のご覧になるイエズス様なのであって、本物のイエズス様に行く事である、という事が分った。」
ところで、聖ヨハネ・ユードは第3の側面を話しています。これは本当に驚くものです。まずマリア様を通して、本物のイエズス様を知る事ができると分かりました。もう1つは、「イエズス様を通して、マリア様に行く事ができる」という事です。私たちのちっぽけな利己主義的な愛に基づいて、マリア様を知り、愛するのではなくて、イエズス様の寛大な大きな愛をもって、イエズス様の心をもって、マリア様を愛する、知る、という事です。
これはイエズス様の命令で法によります、「私は、あなたたちに模範を与えた。」イエズス様の徳を真似なければなりません。イエズス様の御謙遜、イエズス様の御忍耐、イエズス様のマリア様に対する、御母に対する愛を真似なければなりません。
聖ヨハネ・ユードは言います、「イエズス様は全く完璧に、マリア様をお愛しになった。マリア様が今まで受けた中で、最高の名誉を受けた。イエズス様は御自身を、マリア様を愛する息子として子供として捧げた。イエズス様はマリア様に全く忠実であって、奉献されていた。」
ですから、マリア様の御心をよく知る為には、イエズス様の聖心に行かなければなりません。ですからこうお祈りしましょう、「おぉ、イエズス様、御身の聖心を私に与えて下さい。御身の聖心をもって、御身の御母マリア様を愛する事ができますように。」「あぁマリア様、御身の汚れなき御心を私に与えて下さい。その汚れなき御心によって、御子イエズスを愛する事ができますように。」皆さん望みの通りやって下さい。皆さんの汚いちっぽけな心を取って下さい、本当にろくでもない、もう汚らわしい心ですけれども。皆さんの心はメル・ギブソンの勇敢な素晴らしい心ではないかもしれません。しかしこのみすぼらしい心ですけれども、マリア様に対する少しの愛は残っています。まずこの小さな心を、汚れなき御心に捧げて下さい。
これが奉献です。初土曜の奉献です。汚れなき御心への信心です。そしてマリア様の汚れなき御心をご覧になりつつ、私たちの心をそれに合わせて形造ります。そしてマリア様に、「マリア様のお望みの通りに、私の心を使って下さい」と言って下さい。するとマリア様は皆さんの小さな心を取って、イエズス様の聖心に捧げます。ちっぽけな心ですけれども、マリア様から受けたものですから、イエズス様は本当に喜んでこの贈り物を受け取ります。
なぜ本当に喜んで受けるのでしょうか?罪にまみれた自分勝手の心を受けるのが、イエズス様にとって喜びですか?半分腐ったようなりんごを、虫が食い散らしたようなりんごを受けるのは、イエズス様にとって名誉でしょうか?
「主よ、我が手の労働の実りを御身に捧げ奉る。」「私のこの大地の実りと、この労働の実りを御身に捧げ奉る。」「人間の尊厳を御身に捧げる。」そのような傲慢な態度は、イエズス様は愛する事ができません。
でもマリア様を通して捧げるとどうでしょうか?マリア様のたくさん美しい果物のたくさんの中に、私たちの心が1つ入っています。何百万もの美しい花々が咲き乱れています。私たちの汚らしいリンゴですけれども、マリア様のきれいな果実と一緒になると、その汚いのが取れてしまってきれいになります。そしてマリア様はイエズス様の前に行くと、特にご自分の御心を捧げます。無限の聖徳と、美しい花々と果実の詰まったものを、イエズス様に捧げます。そのたくさんの捧げ物の中に、皆さん私たちの小っちゃな腐ったようなりんごがあります。私たちのちっぽけな心も、マリア様のたくさんの贈り物と共に受け取ります。全て喜んで。
ではイエズス様はこれを何をするのでしょうか?まず私たちのこの小さな憐れな心を見て、弱々しい、もうどうでもいいような心を見ます。「あぁ、お前は母親が必要だろう。」「お前には力強い女王様が必要だろう。」「お前は軍人なのか。それなら将軍が必要だろう。」するとイエズス様は私たちの心を、御自分の聖心の中に入れます。そして御自分の聖心と一緒に、マリア様に返します。これが初金曜日です。至聖なるイエズスの聖心です。それが6月の信心です。
幼きイエズスの聖テレジアによると、「幼きイエズス様の小さなおもちゃのようになって下さい。」
幼きイエズス様は、お母様マリア様と一緒にこう遊んでおられます。小さなボールをイエズス様はマリア様に投げて、マリア様はイエズス様に投げて、このボールというのは私たちの心です。ところでイエズス様がマリア様にボールを与える時に、マリア様がイエズス様にボールを与える時に、この動くたびにこのボールが大きくなって、心もますます聖化されていきます。ますます浄められていきます。強くなっていきます。高貴になっていきます。そして勇敢な心になっていきます。これが聖化の簡単なやり方です。
たくさん学ぶ事があります。初金の信心も初土の信心も私たちもちゃんと覚えています。しかしよく考えると、「イエズス様とマリア様は私たちに与えようとしていた、という事が実はよく分かっていなかった」という事に気が付きます。
では、もしも私たちが本当に汚れなき御心に対する信心を実践しようとするならば、イエズス様の聖心に行って下さい。聖心と共に、このマリア様の汚れなき御心の信心を行って下さい。汚れなき御心の信心の重要な要素の1つは、罪の償いの為の御聖体拝領です。御聖体拝領という事は、イエズス様と一致する事です。
では初金で、もしもイエズス様の聖心に対する信心を良くやりたいと思うならば、汚れなき御心と一緒にやって下さい。例えば至聖なる聖心に奉献するとします。奉献の祈りを唱えます。でもマリア様の汚れなき御心をもってこの奉献の祈りを唱えて下さい。イエズスの聖心の連祷、美しい連祷があります。マリア様の汚れなき御心が私の唇を使って、これを唱える事ができるようにお願いして下さい。私が1人で「イエズスの至聖なる聖心よ」と言うよりは、マリア様が、「あぁ、我が御子、我が子よ、イエズスの至聖なる聖心よ」と唱えた方がどれほど力があるでしょうか。
ですから来たる6月のイエズスの至聖なる聖心の聖なる月には、マリア様の汚れなき御心をもって、それを通してイエズス様に行って下さい。それこそが、私たちが今までした事がなかったような、最高の聖心の月になります。
「聖時間」という特別な聖心に対する信心があります。この今晩の聖体礼拝があります。マリア様の汚れなき御心の中に、これをもってイエズス様の御聖体を礼拝して下さい。時々この事を思い出して下さい、「マリア様、私は1人で御聖体礼拝はしたくありません。マリア様、一緒に来て下さい。マリア様の御心が私の心を脈打って下さい。マリア様、マリア様の母のこの汚れなき御心の愛をもって、イエズス様の聖心をお愛し申し上げたいと思います。御身がイエズス様を信じたその信仰をもって、私も信じ奉りたいと思います。」
マリア様の汚れなき御心をもってする事によって、私たちの信仰生活が全く変わってしまいます。私たちが日常の義務に取りかかる時も、マリア様の汚れなき御心をもってなさって下さい。皆さんお好きなように、イエズス様の聖心にもマリア様の汚れなき御心にも好きな方に行って下さい。時々にはイエズス様の聖心に。そしてもちろん、「イエズスの聖心よ、至聖なる聖心よ」と言うのですけれども、その更にこれを縮めて、「イエズス様」これだけでも入っています、全て入っています。
では、「終末の時代におけるイエズスとマリアの使徒たち」とは一体誰の事でしょうか?この世の中、全く最悪の時代の世の中にも生きるにもかかわらず、いつもイエズス様とマリア様に忠実に仕える使徒たちとは誰でしょうか?
聖グリニョン・ド・モンフォールによると、「イエズス様とマリア様の御名がその胸に刻まれている霊魂こそが、その使徒だ」と。
ではその為にはどうしたら良いでしょうか?聖マキシミリアノ・コルベは、「無原罪の聖母の騎士となる事である。」なぜかというと、そうする事によって、イエズス様とマリア様の現存が皆さんにおいて実現するからです。皆さんが働く時、旅行する時にも、あるいはショッピングをする時にも、私たちの心はイエズス様の聖心とマリア様の御心を行ったり来たりしています。
皆さん病気ですか?頭痛がありますか?「イエズス様、私の頭痛を御身の茨の冠の苦しみにお捧げ致します。聖心を取り巻くいばらの冠に一致させます。」「そしてこの私の頭痛をマリア様にも与えます。マリア様がそれを使って、イエズス様を使って慰めて下さいますように。マリア様、私の頭痛を御身の汚れなき御心に捧げます。御身がその十字架の元に佇んだ時のその悲しみと苦しみに一致させます。そしてどうぞ御身のとてつもない悲しみに、私のちょっとした下らないような頭痛も合わせてイエズス様を慰めて下さい。」
パレルモニアでもイエズス様の聖心はそう仰いました、そしてファチマでもマリア様はそう仰いました、「罪の償いをしなさい」と。「イエズス様とマリア様の聖心に背く、それを傷つける罪、この世の罪の償いをしなさい」と。
皆さんがこの社会生活をして、誰かとお話をする時に、ご自分一人でおしゃべりしないで下さい。もしも私たちがマリア様とイエズス様の聖心に一致して、その2つの間を行ったり来たりしているならば、皆さんの微笑みは皆さんの微笑みではなくなります。皆さんの微笑みの後ろにマリア様の微笑みが隠れています。すると皆さんの微笑みではなくてマリア様の微笑みに、他の友人、周りの人は惹かれてきます。そのようなマリア様の微笑みを、この世は私たちが考えているよりも更に必要としています。
どうぞこの外にあるチラシとかを取って、あるいは不思議のメダイを一緒に持って、どうぞお友達にあげて下さい、親切にあげて下さい。隣人や他のお友達に近寄って、どうぞ差し上げて下さい。山田太郎として皆さんの名前で近寄るのではありません、「聖伝のカトリックです」という事で近寄るのではありません、聖徳の模範として近寄るのではありません、それと皆さんたくさんお祈りしているから近付くのではありません。
つまり私の言いたい事は、「私のこの偉大な聖人のような俺がお前に教えてやるから、このそのちょっとしたパンフレット読んでごらん。分かるだろ、教えてやる。もしも議論をしたいなら始めなさい」と。「あぁ、神はいないだと?何だと!?第1の点、No!もう議論はありませんか?じゃあ終わり!」すると皆さんの話を聞いた人は、こう色々なパンチを受けてですね、「あぁ、あなた聖伝のカトリック、あなたは正しい。私は間違っている。あなたの勝ちだ。でも私は回心しない。」なぜかというと、私がすべき態度でしなかったからです。もしもターザンのようにこう自己満足の、こう「俺はすごい!」という態度で近付くならば、むしろ効果はありません。
私たちの強みというのは、「私たちの小さな心が、マリア様とイエズス様の聖心の間に行ったり来たりしている事」にあります。私は単なる道具にすぎません、ただ運河に過ぎません、その鉛筆に過ぎません。
全てはイエズス様とマリア様です。至聖なる聖心からマリア様を通して、あるいはマリア様の御心からイエズス様の聖心を通して、巨大な愛に満ちた聖心と1つに一致している聖心が私たちの前にあります。
そしてその特別大きなお恵みが、私たちの小っちゃな心の中に入るのです。そしてこのイエズス様とマリア様に満たされた光とお恵みが、私たちのちっぽけな心を通して隣人たちにもたらされます。
これが無原罪の聖母の騎士です。これが聖母の道具です。もしも私たちが自分の事だけでいっぱいであれば、何も与える事ができません。ファチマではマリア様は言いました、「イエズス様はあなたを使って、私の御心がこの世に知られる事を望んでいます。」
ですから「マリア様との一致」というアプローチをして下さい。この単純な簡単なマリア様の御像がなさるようになさって下さい。このマリア様の御像が家にあるという事を考えて下さい。あるいはイエズス様の聖心の御像がある。美しいお花があって、ろうそくも立てて飾って下さい。お友達がこの家を訪問する時に、あるいは家族の親戚がこの家を訪問する時に、このお友達たちは「あぁこの家には何台テレビがあるかな?どれほど大きいスクリーンがあるかな?」という事を思って来るかもしれません。「あぁ、私はこの家の中にそんなに花が飾ってあるのを見た事がありません。この御像も綺麗ですね。」おそらく訪問した人は感動すると思います。そしてこの皆さん、家族の皆さんのお友達を招待して、マリア様とイエズス様の御像をきれいに飾って、美味しい料理も出してあげて下さい。そして私ではなくて、イエズス様とマリア様がこの家の雰囲気であるようにして下さい。
皆さんのこの親切、あるいは皆さんの微笑み、あるいはイエズス様とマリア様の雰囲気、現存というものが、訪問者やお友達を回心させる事でしょう。
では皆さんのこの世における役割が分かりましたね?皆さんのキリスト教信者としての召命はこれです、「イエズス様とマリア様の一致した聖心の現存、この世における現存」それが皆さんです。
まず皆さんのたくさんのお祈り、「イエズス、マリア、御身を愛し奉る。霊魂を救いたまえ。」イエズスの至聖なる聖心とマリア様の汚れなき御心、と言うのは長いので、これを「イエズス、マリア」と縮めて言います。皆さんがどこに行こうと、どこにいらっしゃろうとも、「イエズス、マリア、御身の御国が来たらん事を。」「御身が統治せん事を。」「御身が支配せん事を。」「御身が愛されん事を。」「御身が知らされん事を。」「御身がここにいらっしゃらん事を」と祈って下さい。「この教室に、」「この職場に、」「このスーパーマーケットに、」「このお店に、」「この事務所に、」「この道路に、」「このバスに、」「この飛行機に」
まず第1が祈りですが、第2が犠牲です。イエズス様の聖心とマリア様の御心がどのように私たちに与えられたのかを見て下さい。血を流していない聖心を見た事がありますか?あるいは槍で貫かれていないような汚れなき御心を見た事がありますか?イエズス様とマリア様は苦しみました。十字架という最も恐るべき拷問まで、イエズス様とマリア様は共に苦しみました。
皆さんがイエズス様とマリア様の聖心に捧げる事ができる、最も貴重で、最も大切なものは何か知っていますか?それは祈りではありません。皆さんのこのフィーリングとか愛の感情とかでもありません、「あぁ、イエズス様、愛してます…」と言ってこの空に飛んでしまっている夢を見ているかのようです。でもそのような時は頻繁にある事ではありません。この世が望まないような事、そして私たちにとって辛いような事を、イエズス様とマリア様に最も貴重なものとして捧げる事ができます。それは皆さんの苦しみと犠牲です。屈辱や困難など、辛い事です。皆さんを苦しめるような事、1日にそのような事が何回あるか数えてみて下さい。
まずそこで最初に申し上げた、「平和」という事について戻ってみます。普通は苦しい事があると、私たちはイライラして腹を立てます、怒ったりします。それからもう逃げようとします、避けようとします。頭痛がする時には、頭痛薬があって「もう頭痛が嫌だ」という、でもこの頭痛薬の為にアスピリンを10粒飲んだとしたら、お腹が痛くなります。でも1つの苦しみから逃れようとして、多くの別の苦しみを受ける事があります。しかしこれがイエズス様のなさった救いの御業の神秘は、私たちにとって最も悪いような事を、最善の良い事に変えてくれる事です。この世によって呪われたものが、愛の道具となる事です。
「愛してますよ。」「愛してます」と口で言うのはイエズス様に言うのは、あるいは互いに言うのは簡単です。こうやってこの愛を表明するのはもっと簡単です。お金はかかりません。でもこれが本物だとどうしたら分かるでしょうか?きれいな演説やお話でどうやって分かるでしょうか?私の隠れた望み、楽しみという事をどうやって分かるでしょうか?
例えば、男女が「本当にこの人が私の為に愛しているか」という事を見る為には、この人が自分の為に一生懸命働いている、あるいは時間を尽くしてくれる、というのを見て証拠になります。子供が親を愛しているというこの証拠は、口先だけで、「お父さん、愛してるよ」と言うだけではなくて、従順である事です。でも従順であるというのは本当に簡単な事ではありません。「遊びに行きたい」という時に、「お部屋のお掃除をしなさい。」「映画を見ようかな。」「宿題をしなさい。」でもこの子供はちゃんと言いつけの通りやっているので、「あぁ、親を愛しているのだ」という事が分かります。
イエズス様によれば、「本当の偉大な愛の証明というのは、愛する者の為に犠牲を払って、そして命さえも与える事である」と。
誰もがこう恐れています。「お元気ですか?」「神父様、年を取ってきました。去年はこの辺を走ったのですけれども、今年は足が痛くて、頭も痛くて、疲れてしまって、年を取ったんだなあと思います。」「2年前は本当に私は若々しくて美しい花のようでしたけれども、今は枯れてしぼんでいます。」将来は皆さん杖をついていらっしゃる事でしょう。車椅子です。そしてトマトはますますこうシワを寄せて、そしてますます私たちの顔は悲しそうな顔をするのでしょうか。
いや、そうではありません、その反対です。私は母に電話をする度にいつもこう聞きます、「お元気ですか?」「同じです、いつも同じだよ。」母は修道院の司祭の為に料理を作っています。3年前から手を上げる事ができなくなっています。ですから腕を上げる為に、もう1本の手を使って腕を上げます。でもそうすると手がとても痛いのだそうです。「あぁ、仕事辞めた方が良いんじゃないの?お母さん。」「でも何の為に?もしもお前の為に苦しまなかったら、どんな意味があるのだろう、私の人生に!お前は必要としているんじゃないの!?」
イエズス様とマリア様の聖心が私たちの霊魂の為にする事がこれです。この世は皆さんに、「あぁ、あなたたちは全く意味がない、人生に意味がない。」「もう役立たずだ」と言うでしょう。「あなたは年を取っているし、全くこの世の役にも立たずに邪魔者で、お荷物だ。」しかしその事実は反対です。ますます私たちは苦しみと犠牲を何百と捧げる事ができます。私たちがこの犠牲を、小さな心で犠牲を捧げれば、マリア様とイエズス様の聖心の道具となって行ったり来たりしながら、多くの霊魂を救う事ができます。皆さんを使って多くの霊魂を救う事ができます。
ですから具体的な使徒職の事について考えて下さい。イエズス様とマリア様の聖心の前に行ってこう祈って下さい、「あぁ、私に何をお求めですか?」
小野田くんは十何歳かの時に、「もしも主よ、よろしかったら、もしも私でよろしかったら使って下さい」とお祈りしたのですが、その答えを得ました。
もしも私たちの中に燃えるような聖心と、聖心への愛がなければ、召命もなければ聖化もありません、聖徳もありません。天の軍隊に加わって救霊の偉大な業を果たす、参与するという望みも起こりません。この皆さんの中で、この世の中で知っている知人や友人たちの事を考えて下さい。もしも皆さんが100人、一人一人が100人の知人を知っているならば、つまりここには50人がいらっしゃるので、100人×50で5000人の霊魂たちが、イエズス様の聖心からのお恵みを受ける事ができるはずです。そこで皆さんの知恵とタレントを使って、能力を使って、才能を使って、イエズス様とマリア様が知られるようにして下さい。
6月には至聖なる聖心の月には、皆さんお願いします、どうぞお願いします。皆さんの家庭を、マリア様の御心を通してイエズス様の聖心に奉献して下さい。イエズス様の聖心が王として着位する事ができるようにして下さい。マリア様のファチマのこの御像が皆さんの家庭に訪問するようにして下さい。そしてマリア様が皆さんの家庭の一人一人を祝福して、マリア様が仰った事、ファチマでなさった事をもう一度思い出すようにして下さい。どうぞ英語を知っている方は、私の書いたファチマの本を日本語に訳して下さい。なぜかというと、ファチマでマリア様が何と仰ったか、何を知っているかを知らなければならないからです。もしもそれが出来なければ、皆さん英語を勉強して下さい(^^)
では「平和の元后であるマリア様」とは一体どのような方であるか、皆さん理解されたと思います。永遠の天主の最高の本物の平和は、たった1つの所にしかありません。それは「イエズス様とマリア様の一致した聖心の中」です。この聖心は祭壇の御聖櫃の中にあります。また霊的に私たちに現存しています。この皆さんの心を、この一致した聖心にますます近付けて下さい。そして「聖心のように私の心を変えて下さい」と祈って下さい。そして謙遜にお願いして下さい、「私の心を、聖心の燃え尽きる炎の中で燃え尽かせて下さい。」そしてできる事ならば、このみすぼらしい心と聖心と交換して下さるようにお願いして下さい。そうすれば私の心に平和が来ます。そうすれば、私たちがどこに行っても、平和をもたらす者となります。それが現代の世界に最も必要とするものです。
ご清聴ありがとうございました。