2018年5月5日(初土)秋田巡礼 聖母の汚れなき御心の随意ミサ 教皇聖ピオ五世の祝日
シュテーリン神父様御説教
同時通訳:小野田圭志神父
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
今日は偉大な聖ピオ五世教皇様の祝日です。この教皇様は、この聖伝のミサを列聖しました。この教皇様は全カトリック世界に、「天主様から来た非常に貴重な宝石、真珠が与えられた。その宝物こそ、この聖伝のいつも永遠のミサである」と宣言しました。
このミサの本質部分は、使徒の時代から由来するものです。このミサこそ、イエズス・キリストがなさったその神秘の深みを、私たちに与えて下さいます。すなわち「十字架の神秘」の深みです。
聖ピオ五世教皇様はトリエント公会議と共に、プロテスタントの誤りについて立ち上がった人です。このプロテスタントの異端は、カトリックをして非常に明確にドグマを発表するように動かしました。そしてその公会議においては、教会の神秘の、信仰の偉大さを深くはっきりと明確に宣言しました。特に秘跡の素晴らしさ、カトリック信仰全ての素晴らしさを表明しました。
聖ピオ五世教皇様は、イスラムによるヨーロッパの侵略を防ぐ為の非常に重要な道具となりました。そしてカトリック世界を守りました。聖ピオ五世教皇様の非常に巨大な努力のおかげで、カトリックの君主たちが一致して軍隊を作り、そしてイスラムの戦いにおいて勝利を収めました。特にレパントの海戦において大勝利を収めました。
同時に、霊的な偉大な軍隊をも結成させて、霊的な戦いにおいて異端と戦いました。つまりロザリオの事です。教会の敵達と戦う為にカトリックたちを一致させるその武器、その軍隊というのは、ロザリオの事です。
聖ピオ五世教皇様はしたがって、マリア様の教皇様でした。プロテスタントによって宗教改革が行われて、ぐちゃぐちゃになってしまったカトリック世界を守る為には、人間の力ではとても対抗できないという事をよく知っていました。その為に聖ピオ五世教皇様は、「天からの助けが必要だ。特にマリア様の助けが必要だ。ロザリオの元后の助けが必要だ」と確信していました。
そこで聖ピオ五世の時代と同じく、現代、キリスト教のカトリック世界においては、立派な教皇様、あるいは司教様が必要です。そのような司教様や教皇様たちが立ち上がって、今、「私たちの人間の力ではどうしても駄目だ。マリア様が必要だ。マリア様からの天の助けが必要だ」と、私たちを指導して下さる方が必要です。
聖ピオ十世教皇様が天において私たちの為にお祈りして下さっている事でしょう。「どうぞ教皇様、天にいらっしゃる全ての聖なる教皇様たちにお願いして下さい。そしてこの地上に教皇様のような、聖ピオ十世のような教皇様をこの地上に送って下さい。」今、そのような聖なる教皇様こそ、教会が必要とする方です。
「マリア様が私たちにとってどうしても必要な方だ」という事を教える為に、マリア様はファチマで現れました。シスタールチアははっきりと言いました、「天主様は現代において、私たちに最後のたった2つの手段を与えている。その最後の手段とは、『ロザリオに対する信心』と『聖母の汚れなき御心に対する信心』この2つです。」シスタールチアによると、「これは最後の手段である。したがってこの他にはもう無い」という事です。
聖ピオ五世教皇様はロザリオの信心のチャンピオンでした。願わくは、ピオ十二世教皇様が汚れなき御心に対する信心のチャンピオンとなって下さるのであればよかったのですけれども、それはできませんでした。しかしこのピオ十二世教皇様には私たちは感謝しなければなりません。なぜかというと、今この捧げている汚れなき御心のミサは、ピオ十二世教皇様が制定したものだからです。そしてこの全世界を汚れなき御心に奉献されたのも、ピオ十二世です。
残念ながら、ピオ十二世教皇様の統治の終わり頃には、この素晴らしい汚れなき御心に対する信心が完成させられずに、そのまま無とされてしまいました。そこで将来、汚れなき御心の教皇様が私たちに与えられる事を期待しています、希望しています。マリア様が望んだ通りの要求を満たす教皇様を待っています。マリア様は、「そのような教皇様がやって来る、与えられる」と約束しました。
そのような約束があるからといって、私たちはそのまま安楽に座って何もせずに、指を加えて待っているだけではだめです。たくさんの事をしなければなりません。イエズス様は言いました、「求めよ、さらば与えられん。」したがって、この特別な教皇様を求めなければなりません。
なぜ汚れなき御心の教皇様がそれほど必要なのでしょうか?なぜかというと、教皇様だけが、全世界に信心を確立させる事ができるからです。なぜなら教皇様だけが、マリア様の要求された事を果たす事ができるからです。したがってこの教皇様が到来する事を私たちは準備する事ができますし、準備しなければなりません。
秋田への巡礼、また全世界の色々なマリア様の巡礼地の巡礼には、1つの、たった1つの目的があります。それは「マリア様の汚れなき御心の凱旋の為」という事です。マリア様の汚れなき御心の凱旋というのはもう申し上げましたが、「これこそが平和」という事です。
もしもマリア様が私たちの祖国の元后であるという事を望むならば、そしてマリア様の御恵みが教会に染み通り渡らせる事を望むならば、まず私たちがマリア様の御心に、私たち自身を奉献しなければなりません。そして私たちの心に、マリア様が凱旋しなければなりません。言葉を言い換えると、私たちこそマリア様の汚れなき御心に対する真の信心を持っていなければなりません。
マリア様に対する真の信心は2つの部分があります。「外的な部分」と「内的な部分」です。この事については、ファチマ100周年を記念して、1年かけて黙想してきました。
また、汚れなき御心に対する信心を実践する人々に対してなされた約束の、非常に大きな事であるという事を黙想してきました。その実践する霊魂たちは、「天主にとって極めて貴重なものとなる」と約束されました。
私たちは知っています、私たちがどれほどつまらない下らない罪人であるか、という事を。しかしこのようなものでさえも、天主にとって非常に大切なものとなるとしたら、これは汚れなき御心に対する信心をするからです。という事は、この信心がどれほど素晴らしい価値を持っているか、という事が分かります。
マリア様は言います、「この信心を実践する者には、私は救いを約束する」と。マリア様はその条件を、その事をどのように約束するかを述べています、「私は個人的に、私自身が、その死を遂げる霊魂の元にやって来て、必要な全ての恵みを与えましょう。」
またマリア様は別のところで、「この汚れなき御心に対する信心をする家庭には、家族には、特別の祝福を与える」と仰っています。
私たちの人生の終わり、その臨終の時こそが最も恐るべき、そして難しい時です。教会の教えも、また諸聖人の教えも同じです、「私たちの臨終の時こそが、最高の戦いの時である」と。この霊魂の死の時に当たります。つまり、これは悪魔にとって最後のチャンスなので、全ての力を総動員して、私たちの霊魂を地獄に引きずり込もうとするからです。この時こそ最悪の時です。なぜかというと、私たちはたった一人きりで戦わなければならないからです。
しかし、汚れなき御心の信心をしているならば、一人ではありません。マリア様がいらっしゃいます。
では、汚れなき御心の真の信心の「外的な部分」とは何でしょうか?
まず外的なものの1つには、「初土の信心を5回続けてする」という事があります。その5回の初土の間に何をすべきか、という事を詳しくマリア様は教えてくれました。すなわち告解をする事、聖体拝領をする事、そしてロザリオを5連唱える事、そして15分黙想する事です。その4つ共を「マリア様の汚れなき御心に対して犯される罪を償う」という意向をもってする、という事です。「告解については、その日のみならず、その前後にする事ができる」と言っています。
もう1つ外的な信心には、「マリア様に対する奉献」があります。その私たちのお祈りの本には、多くの美しい奉献のお祈りがあります。マリア様は、「私たちが全くマリア様に属する」という事を望んでいます。これが奉献です。
またマリア様が望んでいる事は、「ロザリオを毎日唱える事」です。
第4の外的な信心は、「多くの射祷を、特にファチマで教えられた射祷を唱える事」です。ファチマでは天使が子供達に、どうやってお祈りするかを教えてくれました。私たちはそのお祈りをしています。シスタールチアもそしてジャシンタも、日常の間いつも頻繁に小さな、マリア様の汚れなき御心に対する呼祷を、あるいは射祷を唱えるという事を勧めています、言っています。
私たちはジャシンタが一番好きだった祈りを知っています。毎日何百回も唱えていたお祈りです、「甘美なるマリア様の御心よ、私の救いとなって下さい。」
ファチマに関する本を読むと、マリア様ご自身が子供達に、そういうお祈りを子供達に教えていたという事が分かります。
特に教会がそれをするようにと命令したのは制裁を加えたのは、「あぁイエズスよ、我らの罪を赦し給え…」という一連毎の後に唱えるロザリオの祈りです。
人間は肉体と霊魂で作られているので、外的のみならず内的な部分も信心がなければなりません。この「内的な部分」は、この信心の霊魂にあたるもので、非常に重要な部分です。
これは何かというと、「マリア様とは一体私たちにとってどなたであるのか?そして汚れなき御心とは私たちにとって何であるのか?」という事を知る事です。マリア様の汚れなき御心というのは、マリア様の全てにおいて、一番内的で、一番大切な部分です。また天使たちは天国で、「おぉインマクラータよ、あなたは一体どなたですか?」と言っています。
これは何を意味するかというと、マリア様がご自分の汚れなき御心の奥深くに入る事を招いている、という、そしてマリア様と緊密な関係を結ぶという事を招いている、という事を意味します。
もしも私たちがきれいなマリア様の御影、あるいはきれいな御像を持っていて飾っていて、そしてその前でお祈りしたとしても、それでは不十分です。マリア様について黙想しなければなりません。そしてマリア様にお願いして、マリア様の御心を開いて、マリア様の御心の神秘を私たちに教えて下さるように、見せて下さるように懇願しなければなりません。
「心」というのは、私たちの人柄、人格のその中心にあるものです。頭でも目でも手でも足でもありません。誰かを愛している時に、「あぁ、私は足を込めて愛しています」とは言いません。「心を込めて愛しているよ」と言います。もしも2人が友情を結ぶとしたら、その2人が相互に与えるのはこの「心」です。この心というのは、全身に血を流している心臓という器官の事ではありません。心というのは霊的な現実の事です。私たち自身全ての事です。私たちの知性、私たちの意思、私たちの心、私たちの感情、私たちの感覚、全てを合わせたものが「心」です。
では、このマリア様の最も深い神秘の「御心」とは一体何なのでしょうか?
この御心というのはすなわち、巨大な愛の炎です。マリア様が持つ全ての最も美しい徳が集まって1つになったものです。私たちは1年中かけて、マリア様の被昇天、マリア様の汚れなき御孕り等々、色々な特権を讃美します。私たちがマリア様の汚れなき御心を讃美する時、そのマリア様の全ての特権と、全ての栄光と、全ての素晴らしさを1つにまとめて讃美します。
この御心には誰かがいっぱいに詰まっています。つまり聖霊がマリア様の御心の中に入って、そのマリア様の全てを占めています。聖霊というのはつまり「天主の愛」の事です。この天主の愛である聖霊が、天主が与える事ができる全ての愛を、マリア様に与えています。すなわち「マリア様の汚れなき御心」というのは、ほぼ「聖霊の目に見える愛の現存である」と言う事ができます。
したがってマリア様の持っている力というのは、人間の力ではありません、天主からの聖霊からの持てる全能の力です。全くマリア様に所属している、このマリア様のこの汚れなき御心、天主の聖霊が詰まっているこの御心を、マリア様は皆さんに最高のプレゼントとして、私たちに下さいます。
汚れなき御心への信心というのはつまり、一言で言うと、そのような愛に詰まった御心を私たちが受け入れる事です。つまり私たちがマリア様の導かれるままにする事です。マリア様の心の動きと、私たちの心を全く一致させる事です、1つにする事です。マリア様が思う事を私たちも思い、マリア様が感じる事を私たちも感じて、マリア様が望む事を私たちも望む事です。マリア様の御心は私たちの心に愛の火を燃え立たせてくれるので、いつも「マリア様の御心の御旨を果たしたい、御旨に従いたい」と思わせます。
この信心をする霊魂たちに、マリア様は極めて素早く約束を果たされます。このミサで皆さんがこの信心を本当に実践するようになさって下さい。この今日、講話の中で、「マリア様の御心を通って、イエズス様の至聖なる聖心に直行する」という事を見ます。この司祭の祭服を見て下さい、この後ろにはマリア様の汚れなき御心があります。皆さんはマリア様の汚れなき御心に、皆さんの心を与えて下さい。するとマリア様はその皆さんの心をイエズス様の聖心に与えます。すると私たちは、その為に秋田にやって来たその目的のものを得る事ができるでしょう、つまり「心の平安」です。
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
シュテーリン神父様御説教
同時通訳:小野田圭志神父
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
今日は偉大な聖ピオ五世教皇様の祝日です。この教皇様は、この聖伝のミサを列聖しました。この教皇様は全カトリック世界に、「天主様から来た非常に貴重な宝石、真珠が与えられた。その宝物こそ、この聖伝のいつも永遠のミサである」と宣言しました。
このミサの本質部分は、使徒の時代から由来するものです。このミサこそ、イエズス・キリストがなさったその神秘の深みを、私たちに与えて下さいます。すなわち「十字架の神秘」の深みです。
聖ピオ五世教皇様はトリエント公会議と共に、プロテスタントの誤りについて立ち上がった人です。このプロテスタントの異端は、カトリックをして非常に明確にドグマを発表するように動かしました。そしてその公会議においては、教会の神秘の、信仰の偉大さを深くはっきりと明確に宣言しました。特に秘跡の素晴らしさ、カトリック信仰全ての素晴らしさを表明しました。
聖ピオ五世教皇様は、イスラムによるヨーロッパの侵略を防ぐ為の非常に重要な道具となりました。そしてカトリック世界を守りました。聖ピオ五世教皇様の非常に巨大な努力のおかげで、カトリックの君主たちが一致して軍隊を作り、そしてイスラムの戦いにおいて勝利を収めました。特にレパントの海戦において大勝利を収めました。
同時に、霊的な偉大な軍隊をも結成させて、霊的な戦いにおいて異端と戦いました。つまりロザリオの事です。教会の敵達と戦う為にカトリックたちを一致させるその武器、その軍隊というのは、ロザリオの事です。
聖ピオ五世教皇様はしたがって、マリア様の教皇様でした。プロテスタントによって宗教改革が行われて、ぐちゃぐちゃになってしまったカトリック世界を守る為には、人間の力ではとても対抗できないという事をよく知っていました。その為に聖ピオ五世教皇様は、「天からの助けが必要だ。特にマリア様の助けが必要だ。ロザリオの元后の助けが必要だ」と確信していました。
そこで聖ピオ五世の時代と同じく、現代、キリスト教のカトリック世界においては、立派な教皇様、あるいは司教様が必要です。そのような司教様や教皇様たちが立ち上がって、今、「私たちの人間の力ではどうしても駄目だ。マリア様が必要だ。マリア様からの天の助けが必要だ」と、私たちを指導して下さる方が必要です。
聖ピオ十世教皇様が天において私たちの為にお祈りして下さっている事でしょう。「どうぞ教皇様、天にいらっしゃる全ての聖なる教皇様たちにお願いして下さい。そしてこの地上に教皇様のような、聖ピオ十世のような教皇様をこの地上に送って下さい。」今、そのような聖なる教皇様こそ、教会が必要とする方です。
「マリア様が私たちにとってどうしても必要な方だ」という事を教える為に、マリア様はファチマで現れました。シスタールチアははっきりと言いました、「天主様は現代において、私たちに最後のたった2つの手段を与えている。その最後の手段とは、『ロザリオに対する信心』と『聖母の汚れなき御心に対する信心』この2つです。」シスタールチアによると、「これは最後の手段である。したがってこの他にはもう無い」という事です。
聖ピオ五世教皇様はロザリオの信心のチャンピオンでした。願わくは、ピオ十二世教皇様が汚れなき御心に対する信心のチャンピオンとなって下さるのであればよかったのですけれども、それはできませんでした。しかしこのピオ十二世教皇様には私たちは感謝しなければなりません。なぜかというと、今この捧げている汚れなき御心のミサは、ピオ十二世教皇様が制定したものだからです。そしてこの全世界を汚れなき御心に奉献されたのも、ピオ十二世です。
残念ながら、ピオ十二世教皇様の統治の終わり頃には、この素晴らしい汚れなき御心に対する信心が完成させられずに、そのまま無とされてしまいました。そこで将来、汚れなき御心の教皇様が私たちに与えられる事を期待しています、希望しています。マリア様が望んだ通りの要求を満たす教皇様を待っています。マリア様は、「そのような教皇様がやって来る、与えられる」と約束しました。
そのような約束があるからといって、私たちはそのまま安楽に座って何もせずに、指を加えて待っているだけではだめです。たくさんの事をしなければなりません。イエズス様は言いました、「求めよ、さらば与えられん。」したがって、この特別な教皇様を求めなければなりません。
なぜ汚れなき御心の教皇様がそれほど必要なのでしょうか?なぜかというと、教皇様だけが、全世界に信心を確立させる事ができるからです。なぜなら教皇様だけが、マリア様の要求された事を果たす事ができるからです。したがってこの教皇様が到来する事を私たちは準備する事ができますし、準備しなければなりません。
秋田への巡礼、また全世界の色々なマリア様の巡礼地の巡礼には、1つの、たった1つの目的があります。それは「マリア様の汚れなき御心の凱旋の為」という事です。マリア様の汚れなき御心の凱旋というのはもう申し上げましたが、「これこそが平和」という事です。
もしもマリア様が私たちの祖国の元后であるという事を望むならば、そしてマリア様の御恵みが教会に染み通り渡らせる事を望むならば、まず私たちがマリア様の御心に、私たち自身を奉献しなければなりません。そして私たちの心に、マリア様が凱旋しなければなりません。言葉を言い換えると、私たちこそマリア様の汚れなき御心に対する真の信心を持っていなければなりません。
マリア様に対する真の信心は2つの部分があります。「外的な部分」と「内的な部分」です。この事については、ファチマ100周年を記念して、1年かけて黙想してきました。
また、汚れなき御心に対する信心を実践する人々に対してなされた約束の、非常に大きな事であるという事を黙想してきました。その実践する霊魂たちは、「天主にとって極めて貴重なものとなる」と約束されました。
私たちは知っています、私たちがどれほどつまらない下らない罪人であるか、という事を。しかしこのようなものでさえも、天主にとって非常に大切なものとなるとしたら、これは汚れなき御心に対する信心をするからです。という事は、この信心がどれほど素晴らしい価値を持っているか、という事が分かります。
マリア様は言います、「この信心を実践する者には、私は救いを約束する」と。マリア様はその条件を、その事をどのように約束するかを述べています、「私は個人的に、私自身が、その死を遂げる霊魂の元にやって来て、必要な全ての恵みを与えましょう。」
またマリア様は別のところで、「この汚れなき御心に対する信心をする家庭には、家族には、特別の祝福を与える」と仰っています。
私たちの人生の終わり、その臨終の時こそが最も恐るべき、そして難しい時です。教会の教えも、また諸聖人の教えも同じです、「私たちの臨終の時こそが、最高の戦いの時である」と。この霊魂の死の時に当たります。つまり、これは悪魔にとって最後のチャンスなので、全ての力を総動員して、私たちの霊魂を地獄に引きずり込もうとするからです。この時こそ最悪の時です。なぜかというと、私たちはたった一人きりで戦わなければならないからです。
しかし、汚れなき御心の信心をしているならば、一人ではありません。マリア様がいらっしゃいます。
では、汚れなき御心の真の信心の「外的な部分」とは何でしょうか?
まず外的なものの1つには、「初土の信心を5回続けてする」という事があります。その5回の初土の間に何をすべきか、という事を詳しくマリア様は教えてくれました。すなわち告解をする事、聖体拝領をする事、そしてロザリオを5連唱える事、そして15分黙想する事です。その4つ共を「マリア様の汚れなき御心に対して犯される罪を償う」という意向をもってする、という事です。「告解については、その日のみならず、その前後にする事ができる」と言っています。
もう1つ外的な信心には、「マリア様に対する奉献」があります。その私たちのお祈りの本には、多くの美しい奉献のお祈りがあります。マリア様は、「私たちが全くマリア様に属する」という事を望んでいます。これが奉献です。
またマリア様が望んでいる事は、「ロザリオを毎日唱える事」です。
第4の外的な信心は、「多くの射祷を、特にファチマで教えられた射祷を唱える事」です。ファチマでは天使が子供達に、どうやってお祈りするかを教えてくれました。私たちはそのお祈りをしています。シスタールチアもそしてジャシンタも、日常の間いつも頻繁に小さな、マリア様の汚れなき御心に対する呼祷を、あるいは射祷を唱えるという事を勧めています、言っています。
私たちはジャシンタが一番好きだった祈りを知っています。毎日何百回も唱えていたお祈りです、「甘美なるマリア様の御心よ、私の救いとなって下さい。」
ファチマに関する本を読むと、マリア様ご自身が子供達に、そういうお祈りを子供達に教えていたという事が分かります。
特に教会がそれをするようにと命令したのは制裁を加えたのは、「あぁイエズスよ、我らの罪を赦し給え…」という一連毎の後に唱えるロザリオの祈りです。
人間は肉体と霊魂で作られているので、外的のみならず内的な部分も信心がなければなりません。この「内的な部分」は、この信心の霊魂にあたるもので、非常に重要な部分です。
これは何かというと、「マリア様とは一体私たちにとってどなたであるのか?そして汚れなき御心とは私たちにとって何であるのか?」という事を知る事です。マリア様の汚れなき御心というのは、マリア様の全てにおいて、一番内的で、一番大切な部分です。また天使たちは天国で、「おぉインマクラータよ、あなたは一体どなたですか?」と言っています。
これは何を意味するかというと、マリア様がご自分の汚れなき御心の奥深くに入る事を招いている、という、そしてマリア様と緊密な関係を結ぶという事を招いている、という事を意味します。
もしも私たちがきれいなマリア様の御影、あるいはきれいな御像を持っていて飾っていて、そしてその前でお祈りしたとしても、それでは不十分です。マリア様について黙想しなければなりません。そしてマリア様にお願いして、マリア様の御心を開いて、マリア様の御心の神秘を私たちに教えて下さるように、見せて下さるように懇願しなければなりません。
「心」というのは、私たちの人柄、人格のその中心にあるものです。頭でも目でも手でも足でもありません。誰かを愛している時に、「あぁ、私は足を込めて愛しています」とは言いません。「心を込めて愛しているよ」と言います。もしも2人が友情を結ぶとしたら、その2人が相互に与えるのはこの「心」です。この心というのは、全身に血を流している心臓という器官の事ではありません。心というのは霊的な現実の事です。私たち自身全ての事です。私たちの知性、私たちの意思、私たちの心、私たちの感情、私たちの感覚、全てを合わせたものが「心」です。
では、このマリア様の最も深い神秘の「御心」とは一体何なのでしょうか?
この御心というのはすなわち、巨大な愛の炎です。マリア様が持つ全ての最も美しい徳が集まって1つになったものです。私たちは1年中かけて、マリア様の被昇天、マリア様の汚れなき御孕り等々、色々な特権を讃美します。私たちがマリア様の汚れなき御心を讃美する時、そのマリア様の全ての特権と、全ての栄光と、全ての素晴らしさを1つにまとめて讃美します。
この御心には誰かがいっぱいに詰まっています。つまり聖霊がマリア様の御心の中に入って、そのマリア様の全てを占めています。聖霊というのはつまり「天主の愛」の事です。この天主の愛である聖霊が、天主が与える事ができる全ての愛を、マリア様に与えています。すなわち「マリア様の汚れなき御心」というのは、ほぼ「聖霊の目に見える愛の現存である」と言う事ができます。
したがってマリア様の持っている力というのは、人間の力ではありません、天主からの聖霊からの持てる全能の力です。全くマリア様に所属している、このマリア様のこの汚れなき御心、天主の聖霊が詰まっているこの御心を、マリア様は皆さんに最高のプレゼントとして、私たちに下さいます。
汚れなき御心への信心というのはつまり、一言で言うと、そのような愛に詰まった御心を私たちが受け入れる事です。つまり私たちがマリア様の導かれるままにする事です。マリア様の心の動きと、私たちの心を全く一致させる事です、1つにする事です。マリア様が思う事を私たちも思い、マリア様が感じる事を私たちも感じて、マリア様が望む事を私たちも望む事です。マリア様の御心は私たちの心に愛の火を燃え立たせてくれるので、いつも「マリア様の御心の御旨を果たしたい、御旨に従いたい」と思わせます。
この信心をする霊魂たちに、マリア様は極めて素早く約束を果たされます。このミサで皆さんがこの信心を本当に実践するようになさって下さい。この今日、講話の中で、「マリア様の御心を通って、イエズス様の至聖なる聖心に直行する」という事を見ます。この司祭の祭服を見て下さい、この後ろにはマリア様の汚れなき御心があります。皆さんはマリア様の汚れなき御心に、皆さんの心を与えて下さい。するとマリア様はその皆さんの心をイエズス様の聖心に与えます。すると私たちは、その為に秋田にやって来たその目的のものを得る事ができるでしょう、つまり「心の平安」です。
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。