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Channel: Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた
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2014年6月の東京での聖伝のミサについての報告

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アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

こんにちは!東京での聖伝のミサについて次のような報告を戴きましたので、ご紹介します。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

【報告】
今日、クチュール神父は御聖体の荘厳祭の歌ミサを捧げてくださり、その後、 東京では大変珍しい聖体降福式を行なってくださいました。お説教では、主の 祈りのなかの『願わくは御名の尊まれんことを』と、『われらの日用の糧を、 今日われらに与え給え』の二つの節について、それらの言葉が実は深い意味を 持った宝の山であるということ、そして私たちが唱えるお祈りと私たちの心と が一致すべきであるということについてお話しくださいました。

昼食後の霊的講話では、ミサの奉献の部について、「しるし」というものの性 質、聖トマスによるミサについての原理、奉献の部のミサ中の位置づけ、そし て奉献の部中の個々の祈りの文について教えていただきました。とりわけ、伝 統的なミサの中には様々な歴史的な事件の結果としてのしるしがあり、誤った エキュメニズムにもとづいた人々が新しいミサを作る際に「初期の典礼に帰 る」という名目で行なった変更がいかにそのようなしるしを破壊したり、不明 確にしてしまったかについて、いろいろ具体例を挙げて説明してくださいまし た。

その後、主日の晩課を歌って終了しました。

ミサの参列者数
男: 17人(内、子供0人)
女: 19人(内、子供0人)
計: 36人(内、子供0人)

霊的講話の参加者数
男: 6人
女: 7人
計: 13人

晩課の参加者数
男: 5人
女: 6人
計: 11人


【お説教】
クチュール神父様が、土曜日に大阪で、主日に東京でなさったお説教は次の通りです。ご紹介します。

2014年6月21日(大阪)/22日(東京)説教

御聖体の荘厳祭

『願わくは御名の尊まれんことを』

『われらの日用の糧を、今日われらに與え給え』

親愛なる信者の皆さん

偉大な聖人達の霊的な生活を調べてみますと、人生の終わりにあたって聖人達の祈りの生活がとても簡単なものになり、主の祈り、めでたしと詠唱の三つを唱えていただけ、という例に行き当たることが大変多くあります。これらの基本的な祈りは、私たちにとっては時々退屈に感じるものかもしれませんが、偉大な聖人達はこれらの基本的な祈りに思いもよらなかったような宝の山を見つけて、その基本的な祈りに満足していたのです。偉大な聖人達は、天から与えられたこれらの祈りの一つ一つの言葉を何時間も黙想することができたのです。

御聖体の祝日が近いですから(大阪)[御聖体の荘厳祭を祝っていますから(東京)]、今朝は主の祈りに隠された宝をいくつかみなさんに発見していただきたいと思います。主の祈りは天主である救い主ご自身の口と聖心(みこころ)から直接私たちに伝えられたものです。その目的は、みなさんが毎日祈っていらっしゃる言葉によく注意を払っていただき、みなさんが口で唱えていらっしゃることと、皆さんの心にあることとを一致させていただくことにあります。

主の祈りの中で、次の二つの節を見てみましょう:『願わくは御名の尊まれんことを』と、『われらの日用の糧を、今日われらに與え給え』とです。これらの二つの節は密接に結びついています。それは、めでたしのなかの『聖寵充満(みちみ)てる』と『今も』とが密接に結びついているのと同じですが、それについては別の説教の機会にしなくてはなりません!

今日の説教はいつもより少々長くなるかもしれませんがお許しください。というのも、ここで次に説教をするのもずっと先のことになるかもしれませんから。


『願わくは御名の尊まれんことを』

『御名』というときの「名」という言葉は、或る人のことを指していることは明らかです。母親が自分の子の名前を聞けば、その子が自分にとってどういう意味をもっているのかという様々な考えをたちまち思い浮かべます。私たちが自分の母親の名前を聞くときも、同じことです。名前というのは私たち一人一人についているものですから、その人が私たちの人生においてどういう意味をもっているのかをことごとく表しているのです。

『尊まれんことを』というのはラテン語では「sanctifecetur」ですが、これは、聖化されますように、聖なるものとして認められますように、崇敬されますように、という意味です。聖パウロが言っているように、この名を聞いて、天にあるものも、地にあるものも、地の下にあるものもみな膝をかがめるように、ということです。ですから、私たちが祈っているのは、全ての人が天主の法に従い、全ての人が私たちの創り主であって贖い主でもある天主に栄光を帰し、天主に向かってなすべき崇敬をなしますように、ということです。

このお祈りの言葉にはもう一つ別の意味もあります。それは旧約聖書の有名な預言の中にあって、御聖体の随意ミサにも用いられているものです。その箇所は預言者マラキアの書、第1章11節にあります。またこの預言は日本のことを言っているということさえできるでしょう、日本とミサ聖祭についてです!これがその預言の一節です。
『日の昇るところから、日の没するところまで、私の名は、異国の民の中で、偉大なものといわれている。あらゆる地で、いけにえがささげられ、私の名に、清い供え物がささげられている。
そうだ、私の名は、異国の民の中で、偉大なものといわれている、と、万軍の主は、仰せられる。』

この一節の中では『名』という言葉が三度でてきます。1)『私の名は、異国の民の中で、偉大なものといわれている』、2)『私の名に、清い供え物がささげられている』、3)『私の名は、異国の民の中で、偉大なものといわれている』。この意味するところは、異国の民、つまり全世界の人達が天主の名を聞き、天主を信じ、天主の名の外には救いがないことを信じ、聖ペトロが聖霊降臨直後の説教で言ったように「この世においてわれわれの救われる名は[イエズスの御名]のほかにはない」ことを信じるということです。

この預言の中程のこの部分に注意して下さい:『あらゆる地で、いけにえがささげられ、私の名に、清い供え物がささげられている。』この名はどのように聖化されるのでしょうか?その名に『清い供え物がささげられ』るのです。これは聖書の中のミサ聖祭に関する預言のうちでも最も有名なものの一つです。みなさんにまずご理解頂きたいことは、ユダヤ人にとっては天主に供え物を捧げられるところはただ一か所しかなく、それがエルサレムの神殿であった、ということです。マラキアの預言のこの箇所では、まず『清い供え物』、ラテン語でいうと『oblatio munda』という言葉がでてきます。清い供え物というのは無垢の、汚れの無いいけにえを意味しています。これを聞くと、ミサ聖祭のカノン(典文)にある『Hostiam sanctam, hostiam puram, hostiam immaculatam(この清く、聖(とうと)く、けがれなきいけにえ)』という言葉が思い浮かびませんでしょうか?

第二に、この供え物は『あらゆる地で』、『日の昇るところから、日の没するところまで』、世界中で捧げられます。この預言に対応するのはカトリックのミサだけです。この預言が完成されるのは、ミサの神秘とカトリック司祭職の神秘とによるものです。『あらゆる地で、いけにえがささげられ』と言われているのは、ただ一つのいけにえ、つまり、あらゆる所で、あらゆる時にささげられる同じいけにえのことです。天主の力によってのみこれが可能になります。みなさん、司祭というのはあたかも「拡声器」のようなものです。司祭は『これはイエズスの体である』とは言わず、『これは私の体である』と言うのです。つまり、司祭が『私の』と言う時、イエズスが司祭を通して語っておられるのです。ですから、西暦33年に最後の晩餐でイエズスがマイクロフォンを持っておられて、世界の歴史の中で何世紀にもわたってあらゆるところで一人一人の司祭が拡声器のようにイエズスの言葉を伝えているかのようなものです。すなわち、何十万人の司祭がいようとも、いけにえはただ一つであるということです。ミサ聖祭の神秘を通して、まことに、『あらゆる地で、いけにえがささげられ、私の名に、清い供え物がささげられている』ということなのです。

そこで、『願わくは御名の尊まれんことを』は次のように翻訳することができるでしょう。『すべての異国の民、全世界があなたの天主としての御名に服するため、ミサ聖祭が、世界中で、日の昇るところから日の没するところまで、日本からバンクーバーまで、御名への清い供え物として捧げられますように』と。このお祈りの言葉がどんなに深い意味をもっているかがおわかりいただけましたでしょうか!私たちが主の祈りを唱えるときはいつも、ミサ聖祭が世界中で常に捧げられていることをお頼みしているのです!


『われらの日用の糧を、今日われらに與え給え』

では、主の祈りのもう一つの節について見てみましょう。この節はこれまで見た節と密接に結びついており、最初にお話しした通り、毎日、私たち一人一人にとっての真の宝の山です。『願わくは御名の尊まれんことを』という節がミサ聖祭のことを指しているように、『われらの日用の糧を、今日われらに與え給え』という節は明らかに、私たちの霊魂、精神、心の糧である御聖体のことを指しています。この意味を、体のための物質的な食物に限定している人達はどれだけ現実から遠ざかっていることでしょうか!

『日用の』という言葉に特に着目したいと思います。ミサ聖祭がひと月に一度か二度しかないとすれば、どのようにしてこの言葉が実現するのでしょうか?私たちは、他の六つの秘蹟が全て御聖体に向かっていることを知っています。御聖体はキリスト教的生活全体の中の真の「求心点」です。私たちが洗礼を受けるのは御聖体を拝領をするためですし、告解に行くのは御聖体を拝領するのによりふさわしい状態になるためです。婚姻は、沢山の小さな心に受け入れられる喜びを私たちの主にお与えするための秘蹟です。

『われらの日用の糧を、今日われらに與え給え』。天主は善い方です。私たちが物理的に秘蹟を受けられないときにも各々の秘蹟の霊的なお恵みを受けることができるよう、天主は秘蹟をお定めになりました。例えば、洗礼の望みがあれば、その人が水の洗礼を受ける前に死んでしまっても、成聖の聖寵を受けます。完全な痛悔は霊的な告解であって、その人は司祭による罪の赦しを受ける前に成聖の聖寵を受けるのです。

私たちがミサ聖祭に参列して御聖体を拝領することができない時、霊的な聖体拝領を行なうことができます。霊的聖体拝領というのは、御聖体を受けることを熱心に望むことです。お祈りの本にこの霊的聖体拝領の祈りの文が載っていますが、霊的聖体拝領のために唯一重要なことは、私たちの主に対して、私たちの心に来てください、と熱心にお願いすることです。霊的聖体拝領のもう一つの特徴は、一日に何度もすることができるということです。私たちが一日の間にすることのできる霊的聖体拝領の数には限定がありません。霊的聖体拝領を一回行う度に、秘蹟である聖体拝領と同じお恵みを受けられるのです。ただ目を閉じて、心を込めて、『わたしのイエズス、わたしの心に入ってください!』と言えば、それは霊的聖体拝領なのです。

ですから、『われらの日用の糧を、今日われらに與え給え』と言うことによって、私たちは真の霊的聖体拝領をすることができますし、秘蹟である真の聖体拝領の実りを全て受けることができるのです。すばらしいことではありませんか!そうすれば私たちのカトリック生活は本当にミサ聖祭と聖体拝領とに向かい、真の聖体的な生活となり、ミサの様々な側面に入ってゆくこととなります。天主を礼拝し、天主に感謝し、私たちの罪とあらゆる時に世界中で犯されている罪の赦しを天主に願い、私たちが『日用の』、つまり日々必要としているお恵みを願い求めるのです。これこそが『われらの日用の糧』であり、私たちが日々、霊的に成長するために必要な全てのお恵みなのです。

みなさん、これまで主の祈りの中の二つの節について大変手短かにご説明いたしましたが、私たちは宝の山をふたつも見つけました!みなさんは是非、主の祈りの他の部分についてもこれを続けて、まためでたしについても同じことをなさってください。これが、私たちの聖母がロザリオの祈りを通して私たちにこれらの祈りを繰り返しするように望まれる理由の一つなのです。ロザリオは私たちをミサ聖祭に結びつける鎖となるのです。

御聖体の聖母よ、聖なるロザリオの聖母よ、私たちがこれらの聖なる信仰の宝を忘れず、その宝を実行に移すことができるよう、祈りたまえ。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて。アーメン。

【いつもすばらしい翻訳をしてくださる信徒会長様に感謝します!】

聖伝のミサ(いわゆる「トリエント・ミサ」と呼ばれているローマ式典礼様式のミサ)にようこそ!

ローマ・カトリックの聖伝のミサ vs エキュメニカルな新しいミサ(第二バチカン公会議のミサ)




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