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Channel: Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた
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2018年6月3日聖霊降臨後第2主日 御聖体の荘厳祭「イエズス様が私たちをどれほど愛しておられるか」

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2018年6月3日(主日)聖霊降臨後第2主日 御聖体の荘厳祭
小野田神父 説教

聖なる日本の殉教者巡回教会にようこそ。今日は2018年6月3日、聖霊降臨後第2主日で、今日は御聖体の祝日の次の主日なので、日本では特別に御聖体の荘厳祭が捧げられています。

本当ならばこの荘厳祭は、「御聖体行列があるならば、この荘厳祭をする事ができる」となっていますけれども、日本では、「それがなくてもできる」という特例を持っています。

今日は、ですからこのミサは、御聖体の祝日と同じであるかのように行われています。ミサの直後には、御聖体降福式を行いましょう。そしてミサの後の祈りはその後にあります。今日はこの午後は14時から公教要理と、それから16時から晩課を提案しています。

次回のミサですけれども、先ほど信徒会長と、それから25周年祝賀会実行委員ができたという事で、私も非常に嬉しい驚きを持って伺いましたが、皆さんの非常に暖かい心に、心から感謝します。もちろんこれは私の為というよりはイエズス様の、永遠の最高の司祭であるイエズス様の為に捧げられるものと知っております。そこで是非このイエズス様の司祭職が、真の聖伝のカトリックの司祭職がますます高められ褒め称えられますように、このつまらない道具ですけれども、この機会に多くの方々がイエズス様の素晴らしさが、そのイエズス様の憐れみが、司祭職を通して現れているという事が分かるように、と願っています。

多くの方々がこの機会にミサに与る事ができればと思います。どうぞ皆さんたくさんの方をご招待なさって、喜びを分かち合う事ができるようにして下さい。心から感謝しております。

もう1つ、最後のお知らせがあります。つい最近のニュースによると、大阪の大司教様であるトマス・アクィナス前田大司教様が、今度枢機卿になられるというニュースを受けました。そこで大阪には私たちの聖堂もあり、そこでできれば前田大司教様にお祝いの手紙を送りたいと思います。おそらく物でプレゼントする方はたくさんあっても、お祈りでプレゼントする方はあまりないかもしれません。そこで日本の第6番目の枢機卿様であるこの大司教様が、カトリックの聖伝の信仰に理解を示して、そして日本のカトリック教会を正しく指導して、リードしていく事ができるように、特別の御恵みがありますように、という願いを込めて、霊的な花束とお祝いの手紙をちょっと添えて、なるべく早めに出したいと思っています。そこでもしもよろしかったら、例えば1人2環とか1人3環とか、教えてください。「うちは9環やっている」という方もいらっしゃいます(^^)が、霊的花束としてロザリオを何環するとか、あるいは犠牲を捧げるとか等々、ミサのお帰りの前に会長にお知らせ下されば、それを大阪と東京とでまとめて、お祝いの言葉として送りたいと思っています。


「私の肉は真の食べ物であり、私の血は真の飲み物である。私を食べる者は、永遠に生きる。」

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄弟の皆さん、今日私たちは御聖体の荘厳祭を祝っています。

⑴ この御聖体の荘厳祭を祝うにあたって、私たちは1つ、この事を理解する事にしたいと思っています。それは、「イエズス様が、天主が私たちをどれほど愛しておられるか」という事です。

⑵ 特に第2のポイントでは、このイエズス様の愛は天主の愛は、この私たちの為にいけにえとなっている、いけにえとして状態として私たちの目の前に現れている、という事です。「御聖体」その神秘を黙想しましょう。

⑶ 最後に、ではこの御聖体の神秘、いけにえ、最高司祭イエズス・キリストの御体、屠られた御体を前に、天主からの愛を前に、私たちは一体何をしなければならないか、という結論を、遷善の決心を立てる事に致しましょう。


⑴ 2週間前私たちは、この御聖堂で聖霊降臨を祝いました。その時に、「天主の愛である聖霊が、私たちに全く贈り物として与えられた」という事を黙想しました。「天主は愛である」「天主の唯一の仕事は、その命の活動は、愛する事にある」という事を黙想しました。

 天主三位一体のその内部の構造、聖父と聖子と聖霊の相互の愛、そしてこの実体である愛が、天主の愛が私たちに全く与えられた、そして天主の私たちに対する全行動は、私たちに対する長い歴史は、1つの言葉にまとめられる、それは「私たちを極みなく愛したと」いう事です。それを黙想します。

人類の、天主のその無限の愛に対する答えは何だったでしょうか?それは長い、長い、長い、裏切りと、愛の拒絶と、無関心と、冷淡、罪の歴史でした。アダムとエヴァから始まった罪の長い話が、人類の過去に、そして今にも、そして将来に、残っています。

天主が人類から受けた拒否をその前にして、一体どうやって答えたでしょうか?もちろん、「あぁ、しょうがない。これだけやったのに、バカだなぁ」と思ったかもしれません。しかし天主の答えは、「愛」でした。しかも想像を超えるような愛でした。天主聖父が御一人子をこの世に与えました。

聖ヨハネは言います、「これに天主の愛がある。天主聖父は、その御一人子をこの世に下さるほどこの世を愛された。」(ヨハネ第一4章9節)

聖子は聖父の命令に従順になって、私たちの間に幼子として生まれます。そして遂には御自分の十字架の上で、いけにえとして捧げられます。この十字架の像に架けられているイエズス様の像の、ぐちゃぐちゃになった傷だらけの体を見て下さい。頭の先から足まで傷の無い所はありません。胸は聖心は槍で貫かされて、御血と水がそこから流れ出ています。頭には茨の冠が被せられています。屈辱と、辱めと、侮辱を受けています。

そしてイエズス様は私たちに何を言ったかというと、この十字架の上で最初に言った言葉は、「聖父よ、彼らを許して下さい。彼らは何をしているか知らないからです。」

イエズス様はこの御受難を以て、私たちはどれほど愛しているか、という事を見せましたが、それだけでは足りませんでした。

私たち、罪人の私たちに、どれほどの宝物を与えようか、喜びを与えようかという事を、自分の復活を以て示しました。私たちはそれも黙想してきました。復活、大勝利、それを私たちに与える、ただで与える。

そればかりではありません。天に昇って、天国の永福の場所を準備しに行きました。聖父の前にこの傷を見せて、常に私たちの為に祈る。

そればかりではありません。聖霊を私たちに、賜物として贈り物として下さいました。

そのようなものを全て受けた私たちは一体、天主の愛を疑う事ができるでしょうか?本当なら天主からの贈り物のたった一つだけを戴いただけでも、天主の愛を信じるに十分のはずでした。天主が人となった、それだけで天主の愛を確信するのに十分すぎることでした。。

ところが三位一体の天主は更に、「これでは十分ではない。更にもっと愛を示したい」と思いました。あたかも正気を失なってしまったかのように、「え?まさか、そこまで?」というほどに、天主が、この世の創造主が、王の王が赤ちゃんになるのみならず、十字架の上で殺されるのみならず、なんと私たちの為に、食されるパンとなった、食べ物となったのです。

私たちと1つになりたい、1つの体になりたい、1つの心になりたい、1つの事を思い、1つの考え、自分の命を与えたい、自分の栄光を与えたい、永遠の命を与えたい。
「私の肉は真の食べ物、私の血は真の飲み物。私を食べる者は永遠に生きる。」

一体誰にそのような事を与えたのでしょうか?天使たちでしょうか?いえ、イエズス様を裏切って、更に裏切って、罪を犯し、赦されてまた罪を犯し、また罪を繰り返して、イエズス様に泥と恥をかかせて止まない私たちの為に、その事をなされました。


⑵ 第2のポイントは、「御聖体においてイエズス様は、いけにえの状態として生きておられる」という事です。

イエズス様がこの世に生まれた時に、マリア様からお生まれになった時に、マリア様はすぐにそのイエズス様の汚れ無い、傷の無い御体を聖父に捧げました。その直後です、8日目には、イエズス様は割礼を受けます。40日後には、荘厳に神殿に捧げられます。次にはヘロデによって殺されようとされます。しかしエジプトにおいて苦しい生活を送ります。その後にはナザレトで労働の生活、清貧の生活を送ります。額に汗流し、そして隠れた犠牲の生活をします。イエズス様は御母を残して宣教の旅に出ます。どれほどの犠牲だったでしょうか。イエズス様は御説教を以て、模範を以て、私たちに天主への愛を教えようとします。

愛の極みは私たちに全てを与えようとします。最後の晩餐の時には、この世を発たなければならない、聖父の元に行かなければならない、という事を知り、極みまで最後まで私たちを愛されました。パンを取って、「これは私の体である」と。

“シンボルである”と言ったのではなくて、“私の体を意味する”と言ったのではなくて、「私の体である。」これは、「私の肉を食べる者は永遠に死なない」と言ったその事を実現させます。

私たちがこのイエズス様のミサを捧げる時に、イエズス様の屠りを告げ知らせる事になります。イエズス様はもう栄光体に、復活された体でありますから、もはや死んだり苦しんだりする事はありません。血を流したりする事もありません。しかしミサにおいて二重の、2回に分けられる御聖体変化によって、御体と御血が分離します。奇跡的に、「イエズス様が屠られた」という事を、私たちの現前に現します。これは私たちが恵みを受けて、祝福を受けて、罪が赦され、天主からますます愛されるその為です。カルワリオがもう一度ここの私の前に現前するのです。

御聖体とは、イエズス・キリストの御体、御血、御霊魂、御神性、全てが入っています。イエズス様のなさった救霊の功徳、贖いの全ての業の功徳、永遠の生命の祝福、御恵み全てが詰まっています。御恵みの創り主であるイエズス・キリスト御自身が入っています。それを私たちが全て受けるのです。

何と特権のある、何と恵まれた、何と偉大な民なのでしょうか、カトリック信徒というのは。天主を、私たちがしもべが食すとは。これが私たちの日々行なっている現実なのです。

これを見て私たちは、御聖体の前にどうしても、感謝と、礼拝と、讃美とを捧げなければなりません、そうせざるを得ません。このような愛を下さる天主がどこにいるでしょうか。


⑶ 私たちは第3に、そのような天主に、天主の愛に、天主の愛の御恩にどうやって報わなければならないのでしょうか?

「天主は愛である。」カトリックの核心はここにあります。その「天主が愛である」という事を信じ、「天主が私たちを愛している」という事を信じる事です。またそれをただ知るのみならず、私たちの意思を以て、愛をできる限り愛し返そうとする事です。

「イエズス様、御聖体の内に真に在し給うイエズス様、御身は愛の狂気のあまり、愛のあまりに頭が狂ってしまったかのように、パンになられました。御身の愛はあまりにも大きくて、御身が一体誰かを忘れさせてしまったかのようです。私と一緒になりたい、私と1つとなりたい、というその思いのあまり、御身は御聖体をお創りになりました。司祭を創りました。そして私の心の中に来たいと願っておられます。」

「イエズス様、どうぞ私の心に、貧しい心に来て下さい。私は御身をこの胸に入れるには相応しくありませんが、どうぞイエズス様の御言葉を以て浄めて下さい。」

「イエズス様、これほどの愛をどうやって返したら良いでしょうか。イエズス様、御身を愛します。御身をますます愛させて下さい。」

「無原罪の御母マリア様、私を助けて下さい。マリア様は御胎内にイエズス様を宿し、一度もイエズス様を悲しませた事はありませんでした。どうぞ私がマリア様に倣って、マリア様の心でイエズス様を愛する事ができますように、助けて下さい。」


「私の肉は真の食べ物であり、私の血は真の飲み物である。私を食べる者は、永遠に生きる。」

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。


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