アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様、
台風21号で、まさか関空が被害を受けて閉鎖に追い込まれるとは思ってもいませんでした。ニュースによると北海道でも大きな地震があり多くの方が被害を受けたと知らされました。北海道の方々は大変な思いをされたと思います。私たち人間の小ささを改めて思い知らされます。
たとえ家を失っても財産を失っても、聖伝のミサだけは最高の宝で失いたくないと思っている私たちの大切な信徒の方々が、なんとかこの主日にミサが出来ないかと訴えてこられました。そのお気持ちが大変良く理解できましたし、その聖伝のミサに対する愛情を素晴らしいと思いました。しかし、私の力ではどうすることも出来ず、かえって天主の今までの憐れみ深い愛に気づかされるのみでした。
全財産と引き替えにでも聖伝のミサに与りたいという方々は、そのミサに与れないということを犠牲に捧げ、友人たちがミサに与れないその辛い気持ちを乗り越えることが出来るように祈り合っている、ということを知り、さらに、愛する兄弟姉妹の皆様の寛大なお心に感謝申し上げます。
たとい天主が私たちに辛いことが起こることを許されたとしても、全知全能の天主にはそこから遙かに大いなる善を引き出すことが出来ます。
天主が、どのようなことをお許しになったとしても、ご聖体を大切に礼拝するがために迫害を受けて「教会難民」となっても、たとえ250年間司祭が不在になることを許したとしても、それを通して天主は、主を愛するもとたちが天主に近づくための手段としてくださいます。
天主が望むことは、たった一つしかありません。天主を信じ愛する者たちが永遠の命を受けて永遠の至福を受けることです。信仰を守るがゆえに迫害を受ける「難民」は、もはや行くところが一つしかありません。避難所であり、天主へと私たちを導く道である聖母の汚れなき御心しか、私たちに行き場所はありません。
聖母の汚れなき御心よ、我らのために祈り給え!
聖母の汚れなき御心よ、日本のために祈り給え!
ところで、私は今日の主日は、マニラで過ごしました。フィリピンではフェレー司教様が各地で堅振を授けて下さいました。
8月31日カモテス島で22名、
9月1日セブで43名、
ダバオで31名、
カガヤン・デ・オロで57名、
ジェネラル・サントスで39名、
9月7日バト(レイテ島)で42名、
9月9日マニラで37名が堅振を受けました。天主様に感謝!
天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)
【報告】
Ave Maria Immculata!
報告が遅くなってしまって、大変申し訳ありません。
聖霊降臨後第15主日のミサをありがとうございました。
この日は、ナインのやもめの一人息子がイエズス様によって蘇らせてもらったことの聖福音を黙想しました。
「洗礼によって命を得ても、罪のために死んでしまう人間のために、イエズス様はごミサによりもう一度私たちの罪の身代わりに犠牲となられ、私たちにいのちを得させてくださいます。」と。
私たちの霊的な復活と肉体の復活とその二つのことが、このナインのやもめの一人息子のよみがえりによって、暗示されているとおっしゃられました。
霊的な復活というのは、私たちの考えや思いが天主を礼拝する喜びを知ることであるかなと想像しました。
霊の種を蒔くというのは、そのことと関係するのかもしれません。
私の思いが、天主を崇め奉ることから遠く主イエズス・キリストへのご受難への感謝から遠い時、私はまだ霊的な復活から遠いかもしれません。
肉体の復活についてですが、、使徒信経で毎日肉身の甦りを信じますと唱えているものの、
この頃、肉身の復活ということをあまり考えていませんでした。
けれども、この世の命が終わっても、復活により肉身を得るということ、それはとても神秘だと思います。
そして、神父様は、皆で食事をしているとき、私たちが復活するとき、それは33歳の時の身体を持つと教えて下さいました。
そのことで、昔ご聖体をいただいた後に感じたことがあります。
それは、ある神父様がお説教で話してくださったことだったのですが、ご聖体は復活したイエズス様の御体なので、その復活したイエズス様をいただくことで私たちも復活の身体を持つことができるようになるということでした。
平信徒で、ご聖体をいただく機会が少ない私は、どうしたら、よいのでしょう。
本当に信仰が必要だと思います。
復活ということと、聖人の身体が腐敗を免れておられることとは、異なることだと思いますが、
それでも、私に強く印象に残っている言葉があります。
『義人は、肉体の腐敗を恐れるはずがありません。それは、体はいつか栄光のうちに、しかも、まったき栄光の輝きのうちに復活するに違いないからです。』という、聖ベルナデッタの言葉です。
彼女は、肉体の腐敗を怖れていなかった!、そして彼女の肉体は腐敗を免れている!
そのように思いました。人間の思いというのは、なんと大きいなものなのでしょう。そしてそれよりも大きいのは信仰だと思いました。
聖ベルナデッタは、義人の死について書いていたのでした。
義人となれますように、毎日の生活をしっかりと生きていかねばならないとあらためて思います。
自分の惨めさに打ちのめされようとも、諦めずに。
また「カトリックの司祭はどれほど霊的な復活のために心を配らなければならないか」というお話にジーンといたしました。霊的な復活のことをいっても、まるで理解しない使徒を歎かれたイエズス様のことを思い出します。
今、イエズス様は自分は殺されて三日後に復活するということを信じようとしない大勢の使徒に囲まれているかのようですが、地上でイエズス様の代わりにわたしたちを司牧される真(まこと)のカトリックの司祭はそのことを信じている、霊的な復活のために心を配ってくださる司祭様だと思いました。まことの司祭は、霊的な復活も体の復活も説いてくださいます、イエズス様の代わりとして導いてくださるのですから、と思いました。私たちの大切な司祭のためにたくさんお祈りいたします。
そして、「ミサの後の祈り」とお告げの祈りの次に、すぐに神父様は御聖体降福式を執り行ってくださいました。平和のため、そして東京にも聖堂ができますように、皆でご聖体のうちにましまし給うイエズス様を賛美し礼拝し聖マリアの連禱を唱えました。この9月から、月の第一主日に御聖体降福式を行ってくださるとのこと、とてもうれしく思います。本当にありがとうございます。
公教要理の時間は、次回のミサの中で歌われるグレゴリア聖歌の練習をしました。
特に聖体拝領誦のグレゴリア聖歌のラテン語の説明を聞きながら、うっとりしました。
御聖体拝領のあとに、このような歌を歌いながら、”私の中庭である霊魂の奥ふかいところで、主を礼拝いたします”カトリック信者はなんと幸福なことでしょうか。聖寵によって、聖伝のミサから下される恩寵によって、その神秘的な喜びがますます降りてきますように。
9月3日は聖ピオ十世会の守護の聖人の聖ピオ10世教皇様の祝日でした。第一級の祝日でした。
いつもよりも多くの方たちが集まり(20名ぐらい?すごいです!)、聖ピオ十世会のために祈ることができてよかったです。
ファチマ・ローマの巡礼で、バチカンの聖ピオ十世教皇さまの祭壇で小野田神父様の司式でごミサに与ったことが思い出されました。あの時は、聖ピオ十世教皇様に東京の修道院ができますようにと、お取次ぎをお願いして祈りました。今回も心を込めてごミサに与り祈りました。
このところ新しく見える方がたとお話する機会がありますが、今回も、実は自分は17年前から小野田神父様のブログの愛読者なんですとおっしゃる方がいて、驚きました。思えば、わたしたちもよく、このブログ(クレカリ)を読んでいてもごミサにはまだ与る機会を持たない方がたくさんいるだろうね、ということを話しております。でも、この17年という数字にはびっくりしました。赤ちゃんが青春を迎える年月です。その間、その時どきに、神父様のブログから、心にカトリック信仰の糧をいただき養分をいただいてきたとのこと、自然と時が満ちて御摂理はこの方を聖ピオ十世会のごミサにいらっしゃるようにしてくださったのでしょうと思いました。少しづつごミサに与る方が増え求道する人も見られ、これまでの神父様の深い祈りと長いご苦労の日々を思いました。
神父様、いつも本当にありがとうございます。
愛する兄弟姉妹の皆様、
台風21号で、まさか関空が被害を受けて閉鎖に追い込まれるとは思ってもいませんでした。ニュースによると北海道でも大きな地震があり多くの方が被害を受けたと知らされました。北海道の方々は大変な思いをされたと思います。私たち人間の小ささを改めて思い知らされます。
たとえ家を失っても財産を失っても、聖伝のミサだけは最高の宝で失いたくないと思っている私たちの大切な信徒の方々が、なんとかこの主日にミサが出来ないかと訴えてこられました。そのお気持ちが大変良く理解できましたし、その聖伝のミサに対する愛情を素晴らしいと思いました。しかし、私の力ではどうすることも出来ず、かえって天主の今までの憐れみ深い愛に気づかされるのみでした。
全財産と引き替えにでも聖伝のミサに与りたいという方々は、そのミサに与れないということを犠牲に捧げ、友人たちがミサに与れないその辛い気持ちを乗り越えることが出来るように祈り合っている、ということを知り、さらに、愛する兄弟姉妹の皆様の寛大なお心に感謝申し上げます。
たとい天主が私たちに辛いことが起こることを許されたとしても、全知全能の天主にはそこから遙かに大いなる善を引き出すことが出来ます。
天主が、どのようなことをお許しになったとしても、ご聖体を大切に礼拝するがために迫害を受けて「教会難民」となっても、たとえ250年間司祭が不在になることを許したとしても、それを通して天主は、主を愛するもとたちが天主に近づくための手段としてくださいます。
天主が望むことは、たった一つしかありません。天主を信じ愛する者たちが永遠の命を受けて永遠の至福を受けることです。信仰を守るがゆえに迫害を受ける「難民」は、もはや行くところが一つしかありません。避難所であり、天主へと私たちを導く道である聖母の汚れなき御心しか、私たちに行き場所はありません。
聖母の汚れなき御心よ、我らのために祈り給え!
聖母の汚れなき御心よ、日本のために祈り給え!
ところで、私は今日の主日は、マニラで過ごしました。フィリピンではフェレー司教様が各地で堅振を授けて下さいました。
8月31日カモテス島で22名、
9月1日セブで43名、
ダバオで31名、
カガヤン・デ・オロで57名、
ジェネラル・サントスで39名、
9月7日バト(レイテ島)で42名、
9月9日マニラで37名が堅振を受けました。天主様に感謝!
天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)
【報告】
Ave Maria Immculata!
報告が遅くなってしまって、大変申し訳ありません。
聖霊降臨後第15主日のミサをありがとうございました。
この日は、ナインのやもめの一人息子がイエズス様によって蘇らせてもらったことの聖福音を黙想しました。
「洗礼によって命を得ても、罪のために死んでしまう人間のために、イエズス様はごミサによりもう一度私たちの罪の身代わりに犠牲となられ、私たちにいのちを得させてくださいます。」と。
私たちの霊的な復活と肉体の復活とその二つのことが、このナインのやもめの一人息子のよみがえりによって、暗示されているとおっしゃられました。
霊的な復活というのは、私たちの考えや思いが天主を礼拝する喜びを知ることであるかなと想像しました。
霊の種を蒔くというのは、そのことと関係するのかもしれません。
私の思いが、天主を崇め奉ることから遠く主イエズス・キリストへのご受難への感謝から遠い時、私はまだ霊的な復活から遠いかもしれません。
肉体の復活についてですが、、使徒信経で毎日肉身の甦りを信じますと唱えているものの、
この頃、肉身の復活ということをあまり考えていませんでした。
けれども、この世の命が終わっても、復活により肉身を得るということ、それはとても神秘だと思います。
そして、神父様は、皆で食事をしているとき、私たちが復活するとき、それは33歳の時の身体を持つと教えて下さいました。
そのことで、昔ご聖体をいただいた後に感じたことがあります。
それは、ある神父様がお説教で話してくださったことだったのですが、ご聖体は復活したイエズス様の御体なので、その復活したイエズス様をいただくことで私たちも復活の身体を持つことができるようになるということでした。
平信徒で、ご聖体をいただく機会が少ない私は、どうしたら、よいのでしょう。
本当に信仰が必要だと思います。
復活ということと、聖人の身体が腐敗を免れておられることとは、異なることだと思いますが、
それでも、私に強く印象に残っている言葉があります。
『義人は、肉体の腐敗を恐れるはずがありません。それは、体はいつか栄光のうちに、しかも、まったき栄光の輝きのうちに復活するに違いないからです。』という、聖ベルナデッタの言葉です。
彼女は、肉体の腐敗を怖れていなかった!、そして彼女の肉体は腐敗を免れている!
そのように思いました。人間の思いというのは、なんと大きいなものなのでしょう。そしてそれよりも大きいのは信仰だと思いました。
聖ベルナデッタは、義人の死について書いていたのでした。
義人となれますように、毎日の生活をしっかりと生きていかねばならないとあらためて思います。
自分の惨めさに打ちのめされようとも、諦めずに。
また「カトリックの司祭はどれほど霊的な復活のために心を配らなければならないか」というお話にジーンといたしました。霊的な復活のことをいっても、まるで理解しない使徒を歎かれたイエズス様のことを思い出します。
今、イエズス様は自分は殺されて三日後に復活するということを信じようとしない大勢の使徒に囲まれているかのようですが、地上でイエズス様の代わりにわたしたちを司牧される真(まこと)のカトリックの司祭はそのことを信じている、霊的な復活のために心を配ってくださる司祭様だと思いました。まことの司祭は、霊的な復活も体の復活も説いてくださいます、イエズス様の代わりとして導いてくださるのですから、と思いました。私たちの大切な司祭のためにたくさんお祈りいたします。
そして、「ミサの後の祈り」とお告げの祈りの次に、すぐに神父様は御聖体降福式を執り行ってくださいました。平和のため、そして東京にも聖堂ができますように、皆でご聖体のうちにましまし給うイエズス様を賛美し礼拝し聖マリアの連禱を唱えました。この9月から、月の第一主日に御聖体降福式を行ってくださるとのこと、とてもうれしく思います。本当にありがとうございます。
公教要理の時間は、次回のミサの中で歌われるグレゴリア聖歌の練習をしました。
特に聖体拝領誦のグレゴリア聖歌のラテン語の説明を聞きながら、うっとりしました。
御聖体拝領のあとに、このような歌を歌いながら、”私の中庭である霊魂の奥ふかいところで、主を礼拝いたします”カトリック信者はなんと幸福なことでしょうか。聖寵によって、聖伝のミサから下される恩寵によって、その神秘的な喜びがますます降りてきますように。
9月3日は聖ピオ十世会の守護の聖人の聖ピオ10世教皇様の祝日でした。第一級の祝日でした。
いつもよりも多くの方たちが集まり(20名ぐらい?すごいです!)、聖ピオ十世会のために祈ることができてよかったです。
ファチマ・ローマの巡礼で、バチカンの聖ピオ十世教皇さまの祭壇で小野田神父様の司式でごミサに与ったことが思い出されました。あの時は、聖ピオ十世教皇様に東京の修道院ができますようにと、お取次ぎをお願いして祈りました。今回も心を込めてごミサに与り祈りました。
このところ新しく見える方がたとお話する機会がありますが、今回も、実は自分は17年前から小野田神父様のブログの愛読者なんですとおっしゃる方がいて、驚きました。思えば、わたしたちもよく、このブログ(クレカリ)を読んでいてもごミサにはまだ与る機会を持たない方がたくさんいるだろうね、ということを話しております。でも、この17年という数字にはびっくりしました。赤ちゃんが青春を迎える年月です。その間、その時どきに、神父様のブログから、心にカトリック信仰の糧をいただき養分をいただいてきたとのこと、自然と時が満ちて御摂理はこの方を聖ピオ十世会のごミサにいらっしゃるようにしてくださったのでしょうと思いました。少しづつごミサに与る方が増え求道する人も見られ、これまでの神父様の深い祈りと長いご苦労の日々を思いました。
神父様、いつも本当にありがとうございます。