苦しみの玄義 第4玄義黙想
(2018年7月7日(初土)御聖体降福式にて 小野田神父)
御聖体の秘跡の内に真に在し給うイエズス様の御前で、初土の15分間の黙想を致しましょう。
茨の冠の、突き刺さった茨から御頭から流れる御血。
体中傷だらけに、体から流れる、あるいは固まった傷から流れる御血。
重い十字架を担いつつ、イエズス様がその十字架の重さに耐え切れず倒れてしまった時に流される御血。
おそらく裸足で歩かされた、石だらけの地面を歩いた時に、傷付く足から流れる御血。
イズエス様の十字架の道を黙想する事を提案致します。
私がちょっとした事故で体に傷を負ったり、怪我をした時に、イエズス様ほど傷を受けたわけではありませんでした。しかし、ちょっとした傷はとても痛く、血が少しでも流れようものならば大変です。
イエズス様は手当ても受けられず、傷だらけの御体で、十字架を担われました。どれほどの痛み、どれほどの屈辱だった事でしょうか。
マリア様はその朱の血に染まった御体を見て、その御服を見て、赤く血にまみれる御衣を見て、どれほど御悲しみになったでしょうか。
イエズス様は、私を愛する為に、それでも十字架を担い、苦しみと痛みに耐えて、歩き続けられます。
マリア様はその御跡を、祈りと沈黙の内に従って行かれます。小突かれ、嘲られ、邪魔をされ、力も絶え絶えに、重い十字架を担うイエズス様の御跡を、マリア様は黙って付き従われます。マリア様はイエズス様の苦しみを、自分の苦しみとして捧げておられました。イエズス様がシレネのシモンに助けられた時、どれほどお喜びになった事でしょう。ベロニカがイエズス様の御顔を拭いた時に、どれほどお喜びになった事でしょうか。
イエズス様から十字架が与えられる時、私はすぐにそれを受け入れようとしません。十字架から逃げようとさえします。イエズス様の御顔を拭こうとする事よりは、自分の都合をまず考えます。マリア様をどれほどがっかりさせてしまった事でしょうか。せっかくのイエズス様をお慰めするチャンスがあったのに、マリア様をお喜ばせするチャンスがあったのに。
イエズス様はこのような助けを受けて、どれほど力付いた事でしょうか。どれほどお喜びになった事でしょうか。
睡眠不足、夜暑くて眠られない、喉が渇いた、お腹が減った、力が尽きた、体が痛い、頭が痛い、体中が痛い、体が弱った。
イエズス様はもはや気絶し、力尽き、十字架の重さの為に十字架の下敷きになってしまって、地に倒られます。何度も倒られました。それでも力を振り絞って十字架を担い、また道を、起き上がって十字架の道を歩み始めます。
どれほど私は、寝不足だ、頭痛がする、お腹が減った、痛い、疲れた、だるい、と言って十字架を、私の務めを、イエズス様への愛を忘れてしまった事でしょうか。マリア様はイエズス様のこの寛大な努力と、気力と、固い意思を見て、どれほど感嘆と感謝の念に満ちていた事でしょうか。
このような酷い取り扱いを受けている私たちの主を見て、一部の夫人たちは涙にむせんで、哀れに思いました。するとイエズス様は御自分の事もすっかりお忘れになって、この婦人たちを慰めて言います、「私の為に泣くな。それよりも、お前たちとお前たちの子孫の為に泣け。まだ生きている枝でさえこのように取り扱われるならば、枯れた木は一体どのように取り扱われるのか。私の為に泣くな。自分の罪に泣け。子供たちの罪に泣け。」マリア様も、私たちの罪を見て涙を流されています。
苦しい事があると、私は他の人からの慰労の言葉や、応援の言葉を期待します。イエズス様はむしろ、苦しみの中にありながら他の人々を慰めておられました。天主聖父への愛と、隣人への愛をただ思っておられました。マリア様の心も同じでした。
遂にカルワリオに近付きました。ゴルゴタの丘に近付きました。しかしこの山を登るには、丘を登るには、あまりにも十字架は重すぎました。十字架の重さにひしがれて、この重さに耐えずして、倒れ、傷付き、気絶し、意識を失ってしまいました。マリア様はイエズス様をどれほど心の中で励ました事でしょうか、「さぁ、もうすぐだ。」
救いの御業の為に、イエズス様はまた十字架を取って、力を振り絞って、カルワリオの丘を登ります。十字架に釘付けにされる為に、御血潮を全て振り絞る為に、私たちを天国に連れて行く為に、罪の赦しの為に。
「聖母の汚れなき御心、マリア様の汚れなき御心を通して、イエズス様の聖心に近付くようにさせて下さい。イエズス様の御苦難のその大きさ、その深さ、広さを理解させて下さい。イエズス様が私たちを愛する為にそれを喜んで受けた、その愛の力強さを分からせて下さい。」
(2018年7月7日(初土)御聖体降福式にて 小野田神父)
御聖体の秘跡の内に真に在し給うイエズス様の御前で、初土の15分間の黙想を致しましょう。
茨の冠の、突き刺さった茨から御頭から流れる御血。
体中傷だらけに、体から流れる、あるいは固まった傷から流れる御血。
重い十字架を担いつつ、イエズス様がその十字架の重さに耐え切れず倒れてしまった時に流される御血。
おそらく裸足で歩かされた、石だらけの地面を歩いた時に、傷付く足から流れる御血。
イズエス様の十字架の道を黙想する事を提案致します。
私がちょっとした事故で体に傷を負ったり、怪我をした時に、イエズス様ほど傷を受けたわけではありませんでした。しかし、ちょっとした傷はとても痛く、血が少しでも流れようものならば大変です。
イエズス様は手当ても受けられず、傷だらけの御体で、十字架を担われました。どれほどの痛み、どれほどの屈辱だった事でしょうか。
マリア様はその朱の血に染まった御体を見て、その御服を見て、赤く血にまみれる御衣を見て、どれほど御悲しみになったでしょうか。
イエズス様は、私を愛する為に、それでも十字架を担い、苦しみと痛みに耐えて、歩き続けられます。
マリア様はその御跡を、祈りと沈黙の内に従って行かれます。小突かれ、嘲られ、邪魔をされ、力も絶え絶えに、重い十字架を担うイエズス様の御跡を、マリア様は黙って付き従われます。マリア様はイエズス様の苦しみを、自分の苦しみとして捧げておられました。イエズス様がシレネのシモンに助けられた時、どれほどお喜びになった事でしょう。ベロニカがイエズス様の御顔を拭いた時に、どれほどお喜びになった事でしょうか。
イエズス様から十字架が与えられる時、私はすぐにそれを受け入れようとしません。十字架から逃げようとさえします。イエズス様の御顔を拭こうとする事よりは、自分の都合をまず考えます。マリア様をどれほどがっかりさせてしまった事でしょうか。せっかくのイエズス様をお慰めするチャンスがあったのに、マリア様をお喜ばせするチャンスがあったのに。
イエズス様はこのような助けを受けて、どれほど力付いた事でしょうか。どれほどお喜びになった事でしょうか。
睡眠不足、夜暑くて眠られない、喉が渇いた、お腹が減った、力が尽きた、体が痛い、頭が痛い、体中が痛い、体が弱った。
イエズス様はもはや気絶し、力尽き、十字架の重さの為に十字架の下敷きになってしまって、地に倒られます。何度も倒られました。それでも力を振り絞って十字架を担い、また道を、起き上がって十字架の道を歩み始めます。
どれほど私は、寝不足だ、頭痛がする、お腹が減った、痛い、疲れた、だるい、と言って十字架を、私の務めを、イエズス様への愛を忘れてしまった事でしょうか。マリア様はイエズス様のこの寛大な努力と、気力と、固い意思を見て、どれほど感嘆と感謝の念に満ちていた事でしょうか。
このような酷い取り扱いを受けている私たちの主を見て、一部の夫人たちは涙にむせんで、哀れに思いました。するとイエズス様は御自分の事もすっかりお忘れになって、この婦人たちを慰めて言います、「私の為に泣くな。それよりも、お前たちとお前たちの子孫の為に泣け。まだ生きている枝でさえこのように取り扱われるならば、枯れた木は一体どのように取り扱われるのか。私の為に泣くな。自分の罪に泣け。子供たちの罪に泣け。」マリア様も、私たちの罪を見て涙を流されています。
苦しい事があると、私は他の人からの慰労の言葉や、応援の言葉を期待します。イエズス様はむしろ、苦しみの中にありながら他の人々を慰めておられました。天主聖父への愛と、隣人への愛をただ思っておられました。マリア様の心も同じでした。
遂にカルワリオに近付きました。ゴルゴタの丘に近付きました。しかしこの山を登るには、丘を登るには、あまりにも十字架は重すぎました。十字架の重さにひしがれて、この重さに耐えずして、倒れ、傷付き、気絶し、意識を失ってしまいました。マリア様はイエズス様をどれほど心の中で励ました事でしょうか、「さぁ、もうすぐだ。」
救いの御業の為に、イエズス様はまた十字架を取って、力を振り絞って、カルワリオの丘を登ります。十字架に釘付けにされる為に、御血潮を全て振り絞る為に、私たちを天国に連れて行く為に、罪の赦しの為に。
「聖母の汚れなき御心、マリア様の汚れなき御心を通して、イエズス様の聖心に近付くようにさせて下さい。イエズス様の御苦難のその大きさ、その深さ、広さを理解させて下さい。イエズス様が私たちを愛する為にそれを喜んで受けた、その愛の力強さを分からせて下さい。」