2018年7月15日(主日)聖霊降臨後第8主日のミサ
小野田神父 説教
聖なる日本の殉教者巡回教会にようこそ。
今日は2018年7月15日、聖霊降臨後第8主日のミサをしております。
今日は少しいくつかのお知らせがあるのをお許し下さい。
まず、今総会、聖ピオ十世会の総会が行なわれている最中です。そしてその総会の最初に、新しい総長様と2人の補佐が決定されました。総長様は日本にも10年以上前に来られた事がある、ダヴィデ・パリャラーニというイタリア人の神父様です。
また第一補佐としては、今度あと1ヶ月後に日本に来られるデ・ガラレタ司教様、そして第二補佐はフランス管区長をしておられましたブシャクール神父様です。この3人の方が12年の間、この重要な責務を果たす事になります。
この神父様司教様方を霊的にお支えする為に、できれば皆さんから寛大な霊的な花束をお願いしたいと思っています。
デ・ガラレタ司教様が日本にいらした時に、東京にいらした時に、その霊的花束をお渡ししたいと、その3名の方の為としてプレゼントを贈り物をしたいと思っています。どうぞ皆さんのご協力をお願いします。
それでまだ総会は続いておりますので、この前先週の主日にしたように、退場の前に「Veni Creator」と「Sub tuum」のお祈りをしてから退場したいと思っています。それで総会の大成功の為にお祈りをしたいと思っています。
それからいつもの通り、ミサの後の祈りの後に、予定された通り今日は聖体降福式があります。特に7月13日は、日本では堕胎が罰せられなくなってしまったために、多くの赤ちゃんが殺され始めてしまって、3,830万以上の子供たちが、お母さんの胎内で殺されてしまっている、その罪の償いの為にも、この戦争が終わりますように、という平和を求める為にも、この御聖体降福式を行ないたいと思っています。
その中で聖母の連祷を唱えて、マリア様の御取次ぎを願いたいと思っています。どうぞ皆さんいらして下さい。
それから明日も、この次のミサとしては明日もミサがあります。明日は10時半から、主日と同じような時間帯です。明日の午後はマーチ・フォー・ライフがあるので、私としては是非皆さんに参加して頂きたいと思っています。
8月は、8月6日とそれから19日に2回ミサがありますが、19日にはデ・ガラレタ司教様がいらっしゃって堅振式をして下さいます。
そこで今日の午後の公教要理と8月6日の最初の主日の公教要理は、この2つの午後を使って、堅振を受ける方の準備の為の要理を考えています。14時半頃からこれを行ないたいと思っております。14時半から15時半まで1時間ぐらい、「一体堅振とは何なのか?あるいはなぜ油を使うのか?なぜ聖香油を混ぜるのか?あるいは一体誰がこれを行なう事ができるのか?いつ行なうのか?あるいはこの効果は何なのか?」等という事を、聖トマス・アクィナスの教えに従って、それを皆さんに提案したいと思っています。
16時からは晩課があります。いらして下さい。
「私たちは、養子の霊を受けた。そこで、“アッバ、父よ!”と叫ぶ。」
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
愛する兄弟の皆さん、先週の主日に私たちは、「公教会は聖霊降臨後、新しいテーマに入った」という話をしました。主日というのは、復活祭の小さなバージョンであって、それで主の復活を祝う、また私たちが洗礼を受けた、という事を祝うのですけれども、「いつまでも子供ではなく、成長しなければならない。そしてその成長するに従って、大人として悪と戦っていかなければならない。世の終わりに近付くに従って、私たちはますます悪と戦っていかなければならない」というテーマが前面に出る、という事を黙想しました。
そこで今日は教会は、そのテーマを続けます、「光の子供と肉の子供」「霊の子供と肉の子供」「光の子供とこの世の子供」という2人の対立が出てきます。
そして先週の主日は、ミサの時に昇階誦で、「子供たちよ、来なさい。私はあなたに、主への畏れを教えてあげよう」という、「主の畏れ」「敬畏」について黙想しました。今日もその「主の畏れ」が出ますが、今度は同時に、昔受けたその主の怖れではなく、つまり罰を怖れるのではなく、主を子供として怖れる、主を天主を父として呼ぶ、という事に言及されています。
そこで今日は、「この世の戦いを、善と悪の戦いを戦う為に、光の子である為に、あるいは肉の人から霊の人になる為に、私たちは霊を受けなければならない。そして洗礼を受けた時にその霊を受けたけれども、その受けた霊の力を強めなければならない。そしてますます私たちは子供として天主を、“父よ、アッバ、父よ!”と呼ばなければならない」という事を黙想したいと思います。これは私たちにとって、「孝愛」という賜物で知らされます。
⑴ それで、この「孝愛」を受ける事によって、私たちはどうやって光の人と、霊の人となり、光の子となるのか?
⑵ では、その孝愛を受ける為に私たちはどうすれば良いのか?
⑶ 最後に、この私たちの心を強める為に、遷善の決心を立てる事に致しましょう。
⑴ 第1の点は、そこで聖パウロが今日ローマ人への書簡の中で話す、「肉の人と霊の人」の対比です。
肉の人は、この世の事に関心があって、この世の事に一生懸命になるので、非常に多くこの世の事の為に誘惑を受けます。この世の事を受ける為に誘惑を受けて、そしてそれが罪への機会となっています。
ところが霊の人は、天主の霊によって動かされているので、その霊の望む事を望みます。そしてその次に行くその行き先は、永遠の命であって、天の遺産を相続する事、天主の子供として相続する事、そしてキリストの共同相続者となる事です。今日聖パウロは、「聖霊が私たちに養子の霊を与えて下さるので、私たちは天主を、『父よ』と呼ぶ事ができる」と言います。
これはどういう事かというと、「天主」というのは宗教の徳であって、本来ならば天主から受けたものをそのまま返さなければならない、という正義に属する事です。しかし聖霊の賜物によって、聖霊の力の御恵みによって、私たちは天主を単なる創造主のみならず、「父親として認める」という事です。
これを「孝愛」と言いますが、地上の場合には、例えば孝行、親孝行とか、あるいは自分よりも目上の方に対して、その権力や、あるいは権威、あるいはその素晴らしい徳などに対する尊敬を表します。しかしこれは超自然のものではなくて、善徳です。訓練してますます多くなる徳です。孝行の徳です。
ところが聖霊は、天主のその聖徳を、その超越性を私たちに示して、そして「全てこの天主から来た」として、あたかも天主を父親であるかのよう、更に父であるものとして、本能的にこれを、「あぁ、父である」と見做させます。
もしも私たちが天主を、「父である」と見たならば、私たちはますます謙遜になっていきます。そしてこの自分の父親である方、あるいはこの最高の恩人である天主、父であるような天主を悲しませるような事を避けようとします。悲しませるという事を怖れます。
ですからこのような霊を受けると、私たちはますます1つの事を望むようになります。イエズス・キリストが望んだものと同じ望みです、「願わくは御名の尊まれん事を。我御身の偉大なるが故に、御身に感謝し奉る。」“ Gratias agimus tibi propter magnam gloriam tuam.”という、この主の栄光をますます求める祈りとなります。これは主への怖れが、子供としての怖れに変わったから来る事です。
それと同時に、忠孝の念は更に、天主を父と見ると同時に、私たちの隣人たちを兄妹姉妹として見させます。同じ聖父である天主の元に生かされている、兄弟である隣人を見ます。隣人は兄弟であると見ます。すると、一緒にこの兄弟として住んでいるのであるから、私たちはますます兄弟に対して憐れみ深く、柔和であろうとなります、「同じ同胞ではないではないか、同じ家族のものではないか、同じ父の元にいる同じ家のものではないか。」柔和になります。
そしてそのような柔和になった私たちは、この事を望むようになります、「“アッバ”聖父よ、御国の来たらん事を。」これは、「聖霊の七つの賜物と、そして主の祈りが、実は対応している」という事を指摘した聖アウグスティヌスの説明です。
もしも私たちがこのように孝愛の賜物を受けるならば、ますます隣人に対する柔和と、そして天主を聖父として愛する心に燃えるはずです。
そしたら私たちは、孝愛から来るその副作用も得るはずです。この副作用は何かというと、徳としての孝行は、父親のもの、あるいは親のものは大切にする」という副作用があります。ですから祖国を愛するとか、あるいは親の名前を大切にするとか、あるいは親からの財産である家督を大切にする等というものがあります。あるいは親戚を大切にするという副作用があります。孝行の徳から来るものです。
同じように、聖霊な賜物である「孝愛」の副作用としては、天主に関わる全てのものを、私たちは愛させるという事を受けます。これはどういう事かというと、天主に関わる全ての聖なるもの、諸聖人、あるいは天主の愛される人々を愛するという事です。聖トマス・アクィナスによると、「私たちが最後の審判の後では、天主のものとして、諸聖人は天国において相互に愛し合うだろう」と言っています。ところが「最後の審判の前では、私たちはまだ地上にいるこの隣人たちを、天主からのものとして、天主に属するものとして、お互いに柔和に憐れみ合って、助け合って、そしてその足りない所を補い合う」とあります。つまりこの私たちは、将来の天国の友達を作るという事です。
こう私たちが孝愛の聖霊の賜物について黙想すると、これは聖霊の七つの賜物の第二ですけれども、ちょうど聖福音の話に繋がってきます。なぜかというと、聖福音では不忠実な管理人の話が出てくるからです。この不忠実な管理人というのは、そのやり方がずるくて、この地上の事を考えているので、聖書の解説者によると、「これは肉の人だ、この世の人だ。私たちは違う。私たちは光の子であるから、この世の人とは違う。」しかし、主は彼のやり方の賢明さを褒め称えました。どこが賢明だったかというと、彼は自分の将来の為の準備をしたからです。自分の持てるものを使って、将来の為に友達を作ったからです。
⑵ では私たちは、どんなものを以て将来の為の友達を作る事ができるでしょうか?どうしたら私たちは聖霊の賜物を受ける事ができるでしょうか?そうして受けて、将来の為に多くの友人を、兄妹姉妹を準備しておく事ができるでしょうか?
イエズス様は、特別に聖霊を私たちが受ける事ができるように、堅振の秘跡を準備して下さいました。堅振の秘跡を受ける事によって、私たちの聖寵が、生まれたばかりの子供が、霊的な増加と成長を以て完成に至ります。聖霊が与えられ始めたのが、堅振の秘跡を受ける事によって完成させられます。そして聖霊にますます祈る事によって、ますます完成へと行きます。
すると、ちょうどこの聖霊を受けるように促された私たちは、その為にも聖体拝領へと招かれます。なぜかというと詩篇によると、“Panis cor hominis confirmet”とあるからです。この詩篇の意味は、「パンは人間の心を強める、固める」と。ですからこの私たちを強める為に、私たちを養う為にも、イエズス様は御聖体を以ても強めて下さいます。そしてもしもまだ堅振を受けていない方がいれば、「御聖体を受ける事によって、早く堅信の秘跡を受ける事ができるように、早く成長する事ができるように」と促して下さいます。
ミサの時にこう教会は歌うように言います、“Gustate et videte, quoniam suavis est Dominus.”「見て味わえ、味わってみよ。主はどれほど甘美なる事か、甘い事か。」ギリシア語でγεύσασθε καὶ ἴδετε ὅτι χρηστὸς ὁ Κύριος· μακάριος ἀνήρ, ὃς ἐλπίζει ἐπ᾿ αὐτόν.
ところで典礼学者によると、この「甘い」というのは、実は言葉遊びなのだそうです。なぜかというと、「甘い」というのをギリシャ語で、“χρηστὸς chrestos(クレストス)”「主はどれほどクレストスかを見よ、味わってみよ。」すると、「甘い」という“クレストス”というのと、そして“Christ(キリスト)「油を受けた者」”という言葉が非常に重なって来るからです。
はい、私たちは洗礼の聖香油を受ける事によって固められて、イエズス様の恵みにますます満たされるものとならなければなりません。ですから「主がどれほどキリストであるか、甘いものであるかを見よ」と、音が重なって聞こえるではないでしょうか。
⑶ では、今日この御ミサで、堅振の秘跡を受けた方は、ますますその御恵みを感謝して、孝愛の御賜物をますます乞い求めましょう。そしてこれから堅振を受けようとする方は、孝愛の御賜物を受けるように乞い求めましょう。
「養子の霊を受けた私たちは、こう呼ぶ、“アッバ、父よ!”と。」
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
小野田神父 説教
聖なる日本の殉教者巡回教会にようこそ。
今日は2018年7月15日、聖霊降臨後第8主日のミサをしております。
今日は少しいくつかのお知らせがあるのをお許し下さい。
まず、今総会、聖ピオ十世会の総会が行なわれている最中です。そしてその総会の最初に、新しい総長様と2人の補佐が決定されました。総長様は日本にも10年以上前に来られた事がある、ダヴィデ・パリャラーニというイタリア人の神父様です。
また第一補佐としては、今度あと1ヶ月後に日本に来られるデ・ガラレタ司教様、そして第二補佐はフランス管区長をしておられましたブシャクール神父様です。この3人の方が12年の間、この重要な責務を果たす事になります。
この神父様司教様方を霊的にお支えする為に、できれば皆さんから寛大な霊的な花束をお願いしたいと思っています。
デ・ガラレタ司教様が日本にいらした時に、東京にいらした時に、その霊的花束をお渡ししたいと、その3名の方の為としてプレゼントを贈り物をしたいと思っています。どうぞ皆さんのご協力をお願いします。
それでまだ総会は続いておりますので、この前先週の主日にしたように、退場の前に「Veni Creator」と「Sub tuum」のお祈りをしてから退場したいと思っています。それで総会の大成功の為にお祈りをしたいと思っています。
それからいつもの通り、ミサの後の祈りの後に、予定された通り今日は聖体降福式があります。特に7月13日は、日本では堕胎が罰せられなくなってしまったために、多くの赤ちゃんが殺され始めてしまって、3,830万以上の子供たちが、お母さんの胎内で殺されてしまっている、その罪の償いの為にも、この戦争が終わりますように、という平和を求める為にも、この御聖体降福式を行ないたいと思っています。
その中で聖母の連祷を唱えて、マリア様の御取次ぎを願いたいと思っています。どうぞ皆さんいらして下さい。
それから明日も、この次のミサとしては明日もミサがあります。明日は10時半から、主日と同じような時間帯です。明日の午後はマーチ・フォー・ライフがあるので、私としては是非皆さんに参加して頂きたいと思っています。
8月は、8月6日とそれから19日に2回ミサがありますが、19日にはデ・ガラレタ司教様がいらっしゃって堅振式をして下さいます。
そこで今日の午後の公教要理と8月6日の最初の主日の公教要理は、この2つの午後を使って、堅振を受ける方の準備の為の要理を考えています。14時半頃からこれを行ないたいと思っております。14時半から15時半まで1時間ぐらい、「一体堅振とは何なのか?あるいはなぜ油を使うのか?なぜ聖香油を混ぜるのか?あるいは一体誰がこれを行なう事ができるのか?いつ行なうのか?あるいはこの効果は何なのか?」等という事を、聖トマス・アクィナスの教えに従って、それを皆さんに提案したいと思っています。
16時からは晩課があります。いらして下さい。
「私たちは、養子の霊を受けた。そこで、“アッバ、父よ!”と叫ぶ。」
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
愛する兄弟の皆さん、先週の主日に私たちは、「公教会は聖霊降臨後、新しいテーマに入った」という話をしました。主日というのは、復活祭の小さなバージョンであって、それで主の復活を祝う、また私たちが洗礼を受けた、という事を祝うのですけれども、「いつまでも子供ではなく、成長しなければならない。そしてその成長するに従って、大人として悪と戦っていかなければならない。世の終わりに近付くに従って、私たちはますます悪と戦っていかなければならない」というテーマが前面に出る、という事を黙想しました。
そこで今日は教会は、そのテーマを続けます、「光の子供と肉の子供」「霊の子供と肉の子供」「光の子供とこの世の子供」という2人の対立が出てきます。
そして先週の主日は、ミサの時に昇階誦で、「子供たちよ、来なさい。私はあなたに、主への畏れを教えてあげよう」という、「主の畏れ」「敬畏」について黙想しました。今日もその「主の畏れ」が出ますが、今度は同時に、昔受けたその主の怖れではなく、つまり罰を怖れるのではなく、主を子供として怖れる、主を天主を父として呼ぶ、という事に言及されています。
そこで今日は、「この世の戦いを、善と悪の戦いを戦う為に、光の子である為に、あるいは肉の人から霊の人になる為に、私たちは霊を受けなければならない。そして洗礼を受けた時にその霊を受けたけれども、その受けた霊の力を強めなければならない。そしてますます私たちは子供として天主を、“父よ、アッバ、父よ!”と呼ばなければならない」という事を黙想したいと思います。これは私たちにとって、「孝愛」という賜物で知らされます。
⑴ それで、この「孝愛」を受ける事によって、私たちはどうやって光の人と、霊の人となり、光の子となるのか?
⑵ では、その孝愛を受ける為に私たちはどうすれば良いのか?
⑶ 最後に、この私たちの心を強める為に、遷善の決心を立てる事に致しましょう。
⑴ 第1の点は、そこで聖パウロが今日ローマ人への書簡の中で話す、「肉の人と霊の人」の対比です。
肉の人は、この世の事に関心があって、この世の事に一生懸命になるので、非常に多くこの世の事の為に誘惑を受けます。この世の事を受ける為に誘惑を受けて、そしてそれが罪への機会となっています。
ところが霊の人は、天主の霊によって動かされているので、その霊の望む事を望みます。そしてその次に行くその行き先は、永遠の命であって、天の遺産を相続する事、天主の子供として相続する事、そしてキリストの共同相続者となる事です。今日聖パウロは、「聖霊が私たちに養子の霊を与えて下さるので、私たちは天主を、『父よ』と呼ぶ事ができる」と言います。
これはどういう事かというと、「天主」というのは宗教の徳であって、本来ならば天主から受けたものをそのまま返さなければならない、という正義に属する事です。しかし聖霊の賜物によって、聖霊の力の御恵みによって、私たちは天主を単なる創造主のみならず、「父親として認める」という事です。
これを「孝愛」と言いますが、地上の場合には、例えば孝行、親孝行とか、あるいは自分よりも目上の方に対して、その権力や、あるいは権威、あるいはその素晴らしい徳などに対する尊敬を表します。しかしこれは超自然のものではなくて、善徳です。訓練してますます多くなる徳です。孝行の徳です。
ところが聖霊は、天主のその聖徳を、その超越性を私たちに示して、そして「全てこの天主から来た」として、あたかも天主を父親であるかのよう、更に父であるものとして、本能的にこれを、「あぁ、父である」と見做させます。
もしも私たちが天主を、「父である」と見たならば、私たちはますます謙遜になっていきます。そしてこの自分の父親である方、あるいはこの最高の恩人である天主、父であるような天主を悲しませるような事を避けようとします。悲しませるという事を怖れます。
ですからこのような霊を受けると、私たちはますます1つの事を望むようになります。イエズス・キリストが望んだものと同じ望みです、「願わくは御名の尊まれん事を。我御身の偉大なるが故に、御身に感謝し奉る。」“ Gratias agimus tibi propter magnam gloriam tuam.”という、この主の栄光をますます求める祈りとなります。これは主への怖れが、子供としての怖れに変わったから来る事です。
それと同時に、忠孝の念は更に、天主を父と見ると同時に、私たちの隣人たちを兄妹姉妹として見させます。同じ聖父である天主の元に生かされている、兄弟である隣人を見ます。隣人は兄弟であると見ます。すると、一緒にこの兄弟として住んでいるのであるから、私たちはますます兄弟に対して憐れみ深く、柔和であろうとなります、「同じ同胞ではないではないか、同じ家族のものではないか、同じ父の元にいる同じ家のものではないか。」柔和になります。
そしてそのような柔和になった私たちは、この事を望むようになります、「“アッバ”聖父よ、御国の来たらん事を。」これは、「聖霊の七つの賜物と、そして主の祈りが、実は対応している」という事を指摘した聖アウグスティヌスの説明です。
もしも私たちがこのように孝愛の賜物を受けるならば、ますます隣人に対する柔和と、そして天主を聖父として愛する心に燃えるはずです。
そしたら私たちは、孝愛から来るその副作用も得るはずです。この副作用は何かというと、徳としての孝行は、父親のもの、あるいは親のものは大切にする」という副作用があります。ですから祖国を愛するとか、あるいは親の名前を大切にするとか、あるいは親からの財産である家督を大切にする等というものがあります。あるいは親戚を大切にするという副作用があります。孝行の徳から来るものです。
同じように、聖霊な賜物である「孝愛」の副作用としては、天主に関わる全てのものを、私たちは愛させるという事を受けます。これはどういう事かというと、天主に関わる全ての聖なるもの、諸聖人、あるいは天主の愛される人々を愛するという事です。聖トマス・アクィナスによると、「私たちが最後の審判の後では、天主のものとして、諸聖人は天国において相互に愛し合うだろう」と言っています。ところが「最後の審判の前では、私たちはまだ地上にいるこの隣人たちを、天主からのものとして、天主に属するものとして、お互いに柔和に憐れみ合って、助け合って、そしてその足りない所を補い合う」とあります。つまりこの私たちは、将来の天国の友達を作るという事です。
こう私たちが孝愛の聖霊の賜物について黙想すると、これは聖霊の七つの賜物の第二ですけれども、ちょうど聖福音の話に繋がってきます。なぜかというと、聖福音では不忠実な管理人の話が出てくるからです。この不忠実な管理人というのは、そのやり方がずるくて、この地上の事を考えているので、聖書の解説者によると、「これは肉の人だ、この世の人だ。私たちは違う。私たちは光の子であるから、この世の人とは違う。」しかし、主は彼のやり方の賢明さを褒め称えました。どこが賢明だったかというと、彼は自分の将来の為の準備をしたからです。自分の持てるものを使って、将来の為に友達を作ったからです。
⑵ では私たちは、どんなものを以て将来の為の友達を作る事ができるでしょうか?どうしたら私たちは聖霊の賜物を受ける事ができるでしょうか?そうして受けて、将来の為に多くの友人を、兄妹姉妹を準備しておく事ができるでしょうか?
イエズス様は、特別に聖霊を私たちが受ける事ができるように、堅振の秘跡を準備して下さいました。堅振の秘跡を受ける事によって、私たちの聖寵が、生まれたばかりの子供が、霊的な増加と成長を以て完成に至ります。聖霊が与えられ始めたのが、堅振の秘跡を受ける事によって完成させられます。そして聖霊にますます祈る事によって、ますます完成へと行きます。
すると、ちょうどこの聖霊を受けるように促された私たちは、その為にも聖体拝領へと招かれます。なぜかというと詩篇によると、“Panis cor hominis confirmet”とあるからです。この詩篇の意味は、「パンは人間の心を強める、固める」と。ですからこの私たちを強める為に、私たちを養う為にも、イエズス様は御聖体を以ても強めて下さいます。そしてもしもまだ堅振を受けていない方がいれば、「御聖体を受ける事によって、早く堅信の秘跡を受ける事ができるように、早く成長する事ができるように」と促して下さいます。
ミサの時にこう教会は歌うように言います、“Gustate et videte, quoniam suavis est Dominus.”「見て味わえ、味わってみよ。主はどれほど甘美なる事か、甘い事か。」ギリシア語でγεύσασθε καὶ ἴδετε ὅτι χρηστὸς ὁ Κύριος· μακάριος ἀνήρ, ὃς ἐλπίζει ἐπ᾿ αὐτόν.
ところで典礼学者によると、この「甘い」というのは、実は言葉遊びなのだそうです。なぜかというと、「甘い」というのをギリシャ語で、“χρηστὸς chrestos(クレストス)”「主はどれほどクレストスかを見よ、味わってみよ。」すると、「甘い」という“クレストス”というのと、そして“Christ(キリスト)「油を受けた者」”という言葉が非常に重なって来るからです。
はい、私たちは洗礼の聖香油を受ける事によって固められて、イエズス様の恵みにますます満たされるものとならなければなりません。ですから「主がどれほどキリストであるか、甘いものであるかを見よ」と、音が重なって聞こえるではないでしょうか。
⑶ では、今日この御ミサで、堅振の秘跡を受けた方は、ますますその御恵みを感謝して、孝愛の御賜物をますます乞い求めましょう。そしてこれから堅振を受けようとする方は、孝愛の御賜物を受けるように乞い求めましょう。
「養子の霊を受けた私たちは、こう呼ぶ、“アッバ、父よ!”と。」
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。