聖体の制定された理由
『聖体の黙想』テニエール(Révérend Père Albert Tesnière (1847-1909))著より
聖体は天主のご托身の継続である
礼拝 聖体の中にまことにこもります天主にして人なる私たちの主イエズス・キリストを、大いなる信仰をもって拝したてまつろう。そしてかつてベトレヘムにて天使と三博士とが主を拝んだような、心からの礼拝を主にささげたのちに、この秘跡が、天主が地上におくだりになった大きな恩恵をいつまでも継続し、またその影響の範囲を広めるために定められたものであるとの、たいせつな真理をよく黙想し、その深い意味を理解するよう努めなければならない。
あなたたちは天主のご托身の奥義を知り、かつこれを信じている。至聖なる三位一体の第二のペルソナであるみ言葉は、天主になしましながら人となり、私たちのもとにおいでになり、私たちとともにお住みになった。ご托身によって天主ご自身が実際に地上に生活したもうたのである。天主は見ることのできない、近づくことのできない御者であるが、イエズスにおいて、私たちは、天主に近づき、天主に語り、天主の御からだに触れることができるようになった。それはまことの人であるイエズス・キリストはまた同時にまことの天主にてましますからである。
イエズスのご来臨までは、私たちは被造物という不完全な鏡を通じて天主を見るだけであった。しかし主において、天主はまことに、直接にペルソナ的におあらわれになった。天主は無限の存在と、あまねき全能の御力とをもって、宇宙のどこにもましましながら、イエズスにおいてひとつの場所に限定され、霊魂と肉体、血液と心臓、頭と手足を有する人となり、その御口によって語り、その手足によって働かれた。主は私たちのように労働し、疲れ,飢え、渇かれた。主は御血をもってするまえに御汗をもって地を潤わされた。主は私たちの不幸をあわれみ、これに同情し、病と悩みと死を司る全能の御手をかざしてもろもろの奇跡を行われた。また、主は人間の理知のあこがれ慕う真理、すなわち天主に関し、そのみいつ、慈愛、あわれみに関し、また、私たちの終わりなき生命に関する誤りのない真理を教えられた。さらにまた、主は正義の天主と罪人との両極を一身のうちに結びつけるためにおいでになった。主はそのご来臨と恩恵とによって、最も完全な罪の許しの証拠、並びに将来の平和と幸福との安心を人々に与えて、彼らを天主とわぼくさせられた。
天主の地上へのご来臨は、長くやみの中に嘆き苦しんでいた全被造物によって待ち望まれ、慕い求められていた。それは、天主のみわざの中の最も偉大なみわざ、天主のたまものの中で最も尊いたまもの、その全能のこのうえない大傑作、御あわれみの最大の祝福であった。もし、主のご来臨がなかったなら、世界はあげて悩みと罪と失望の中にとどまり、永遠の死の深くて暗いふちの中に沈まねばならなかったであろう。だから、み言葉のご托身は天主の摂理の最終目的であり、その最大の祝福であったともいえる。
そうして、聖体はこのうえない大傑作、この最大の祝福を引きつづき世界に与えてくださるのである。天主はこの秘跡の中にペルソナ的に、肉身と霊魂とをそなえられるイエズス・キリストとして来たり、私たちとともに住み、私たちが主に近づいて祈るのを許し、また私たちの姿を見、私たちの言葉を聞き、人間の心をもって私たちを愛してくださる。しかも主は以前ユデアにお住みになったときのように、ただひとところにおとどまりにならず、同時に地球上のあらゆる場所にあり、また、わずかに数年ないし数十年を私たちとともにおいでになるのでなく、世の終わりまで常に絶え間なく私たちとともにとどまられるのである。
だから、大いなる信仰と愛とをもって、聖体の中においでになる人となられた天主の御子、托身なさったみ言葉を拝もう。また、天主にして人である主のご能力と、その中にたたえられる豊かなご生命とを拝もう。
感謝 救い主が周囲の人々にお与えになった無数の御恵みを聖福音書の中で読むとき、私たちは主に近づき、主にまみえ、主の御口から奇跡的治癒を命ずるお言葉を聞くことができた人々の幸福を、うらやましく思うのである。ユデア人らは主をさして『なんびともこの人のように語った者はない』と感嘆し、また地上での主のご生涯を『彼は善をなしつつ過ぎゆきたまえり』の一句で総括した。しかし、同一の存在は同一の結果を生ずるはずである。もしイエズスが聖体によって地上に存在をおつづけになるならば、やはり以前と同一の能力、同一の慈愛を示されねばならない。だから、罪の中に沈んでいた世界の建てなおしが、ご托身によって成就したものであるならば、それが今日なお保たれて、あらゆる時代、あらゆる場所で、新しい生命が、私たちに与えられるのは、ひとえに聖体の秘跡のおかげである。なぜなら、この聖体は、天主の全能なる御子にして童貞母のあわれみ深き御子なるキリストご自身にほかならないからである。実にイエズスが聖体の中にましまして、この世界におとどまりになる事実そのものによって、また、聖体の能力と不思議な御働きによって、真理も、善徳も、秩序も、平和も、世界並びに霊魂の中でのあらゆる調和も存在するのである。また、まずかずの罪悪が絶え間なく世に行われるにもかかわらず、天主と人間の交渉が依然として存続するものも、同じく聖体のおかげである。もし、かりに一瞬間でも聖体が地上から消失したならば、霊魂の世界に非常な無秩序と混乱とが生じ、この物質世界から突如として太陽が取り去られ、宇宙がこなごなになる場合よりも、もっとはなはだしいであろう。
だから、イエズスがあなたたちのためにこの世にとどまり、あなたたちのその存在のすべての恩恵を与えられることを思い、その深き慈愛を感謝しよう。主が聖体の中においでになって、あなたたちに与えられる恩恵は、主がユデア国にお住まいになったときと同じく、いや、なおいっそう大である。なぜなら、ユデア人らは主の御からだを見、御言葉を聞いただけであるが、あなたたちは主によって養われ、主を完全に所有し、主は全くあなたたちに属したまうからである。
償い イエズスがこの世においでになったとき、ユデア人らが犯した罪は、主を知らず、主を認めず、かえって主を迫害し、カルワリオ山上にて主を殺したてまつったことであった。これが十九世紀間、ユデア人の上にとどまった天主の御怒りの理由である。ところが悲しいことに、今日の国々も主を認めず、聖体中の天主の愛の統治を拒み、人々の信仰を滅ぼし、主を迫害して人間の間より追い出そうとしているのである。この大いなる罪の償いとして、あなたたちはますます聖体に忠実であり、できるだけ多くの人々、特に子供らの霊魂を聖体の秘跡に近づけるよう努めなければならない。
祈願 天主にして人である存在を、あなたたちのために地上にてつづけたもう聖体の秘跡に対する熱烈な信仰を与えられるよう祈ろう。聖体がイエズスご自身にほかならないことを確固不抜の信仰をもって信ずる御恵みをお願いしよう。そうすればこの信仰によって、あなたたちは主に引きつけられ、聖体のみ前に出るたびごとに、ちょうど馬ぶねの中、あるいはタボル山頂、あるいは十字架に救い主を拝して起したような信心をもつようになるであろう。
実行 聖堂内にはいったならばすぐに聖ひつに向かって『御身は生ける天主の御子キリストなり』と唱えながら主を拝もう。
『聖体の黙想』テニエール(Révérend Père Albert Tesnière (1847-1909))著より
アルベール・テニエール神父は、聖ピエールジュリアン・エマールの創立した聖体修道会の司祭で、聖体修道会の総長(1887-1893)も務めた。
『聖体の黙想』テニエール(Révérend Père Albert Tesnière (1847-1909))著より
聖体は天主のご托身の継続である
礼拝 聖体の中にまことにこもります天主にして人なる私たちの主イエズス・キリストを、大いなる信仰をもって拝したてまつろう。そしてかつてベトレヘムにて天使と三博士とが主を拝んだような、心からの礼拝を主にささげたのちに、この秘跡が、天主が地上におくだりになった大きな恩恵をいつまでも継続し、またその影響の範囲を広めるために定められたものであるとの、たいせつな真理をよく黙想し、その深い意味を理解するよう努めなければならない。
あなたたちは天主のご托身の奥義を知り、かつこれを信じている。至聖なる三位一体の第二のペルソナであるみ言葉は、天主になしましながら人となり、私たちのもとにおいでになり、私たちとともにお住みになった。ご托身によって天主ご自身が実際に地上に生活したもうたのである。天主は見ることのできない、近づくことのできない御者であるが、イエズスにおいて、私たちは、天主に近づき、天主に語り、天主の御からだに触れることができるようになった。それはまことの人であるイエズス・キリストはまた同時にまことの天主にてましますからである。
イエズスのご来臨までは、私たちは被造物という不完全な鏡を通じて天主を見るだけであった。しかし主において、天主はまことに、直接にペルソナ的におあらわれになった。天主は無限の存在と、あまねき全能の御力とをもって、宇宙のどこにもましましながら、イエズスにおいてひとつの場所に限定され、霊魂と肉体、血液と心臓、頭と手足を有する人となり、その御口によって語り、その手足によって働かれた。主は私たちのように労働し、疲れ,飢え、渇かれた。主は御血をもってするまえに御汗をもって地を潤わされた。主は私たちの不幸をあわれみ、これに同情し、病と悩みと死を司る全能の御手をかざしてもろもろの奇跡を行われた。また、主は人間の理知のあこがれ慕う真理、すなわち天主に関し、そのみいつ、慈愛、あわれみに関し、また、私たちの終わりなき生命に関する誤りのない真理を教えられた。さらにまた、主は正義の天主と罪人との両極を一身のうちに結びつけるためにおいでになった。主はそのご来臨と恩恵とによって、最も完全な罪の許しの証拠、並びに将来の平和と幸福との安心を人々に与えて、彼らを天主とわぼくさせられた。
天主の地上へのご来臨は、長くやみの中に嘆き苦しんでいた全被造物によって待ち望まれ、慕い求められていた。それは、天主のみわざの中の最も偉大なみわざ、天主のたまものの中で最も尊いたまもの、その全能のこのうえない大傑作、御あわれみの最大の祝福であった。もし、主のご来臨がなかったなら、世界はあげて悩みと罪と失望の中にとどまり、永遠の死の深くて暗いふちの中に沈まねばならなかったであろう。だから、み言葉のご托身は天主の摂理の最終目的であり、その最大の祝福であったともいえる。
そうして、聖体はこのうえない大傑作、この最大の祝福を引きつづき世界に与えてくださるのである。天主はこの秘跡の中にペルソナ的に、肉身と霊魂とをそなえられるイエズス・キリストとして来たり、私たちとともに住み、私たちが主に近づいて祈るのを許し、また私たちの姿を見、私たちの言葉を聞き、人間の心をもって私たちを愛してくださる。しかも主は以前ユデアにお住みになったときのように、ただひとところにおとどまりにならず、同時に地球上のあらゆる場所にあり、また、わずかに数年ないし数十年を私たちとともにおいでになるのでなく、世の終わりまで常に絶え間なく私たちとともにとどまられるのである。
だから、大いなる信仰と愛とをもって、聖体の中においでになる人となられた天主の御子、托身なさったみ言葉を拝もう。また、天主にして人である主のご能力と、その中にたたえられる豊かなご生命とを拝もう。
感謝 救い主が周囲の人々にお与えになった無数の御恵みを聖福音書の中で読むとき、私たちは主に近づき、主にまみえ、主の御口から奇跡的治癒を命ずるお言葉を聞くことができた人々の幸福を、うらやましく思うのである。ユデア人らは主をさして『なんびともこの人のように語った者はない』と感嘆し、また地上での主のご生涯を『彼は善をなしつつ過ぎゆきたまえり』の一句で総括した。しかし、同一の存在は同一の結果を生ずるはずである。もしイエズスが聖体によって地上に存在をおつづけになるならば、やはり以前と同一の能力、同一の慈愛を示されねばならない。だから、罪の中に沈んでいた世界の建てなおしが、ご托身によって成就したものであるならば、それが今日なお保たれて、あらゆる時代、あらゆる場所で、新しい生命が、私たちに与えられるのは、ひとえに聖体の秘跡のおかげである。なぜなら、この聖体は、天主の全能なる御子にして童貞母のあわれみ深き御子なるキリストご自身にほかならないからである。実にイエズスが聖体の中にましまして、この世界におとどまりになる事実そのものによって、また、聖体の能力と不思議な御働きによって、真理も、善徳も、秩序も、平和も、世界並びに霊魂の中でのあらゆる調和も存在するのである。また、まずかずの罪悪が絶え間なく世に行われるにもかかわらず、天主と人間の交渉が依然として存続するものも、同じく聖体のおかげである。もし、かりに一瞬間でも聖体が地上から消失したならば、霊魂の世界に非常な無秩序と混乱とが生じ、この物質世界から突如として太陽が取り去られ、宇宙がこなごなになる場合よりも、もっとはなはだしいであろう。
だから、イエズスがあなたたちのためにこの世にとどまり、あなたたちのその存在のすべての恩恵を与えられることを思い、その深き慈愛を感謝しよう。主が聖体の中においでになって、あなたたちに与えられる恩恵は、主がユデア国にお住まいになったときと同じく、いや、なおいっそう大である。なぜなら、ユデア人らは主の御からだを見、御言葉を聞いただけであるが、あなたたちは主によって養われ、主を完全に所有し、主は全くあなたたちに属したまうからである。
償い イエズスがこの世においでになったとき、ユデア人らが犯した罪は、主を知らず、主を認めず、かえって主を迫害し、カルワリオ山上にて主を殺したてまつったことであった。これが十九世紀間、ユデア人の上にとどまった天主の御怒りの理由である。ところが悲しいことに、今日の国々も主を認めず、聖体中の天主の愛の統治を拒み、人々の信仰を滅ぼし、主を迫害して人間の間より追い出そうとしているのである。この大いなる罪の償いとして、あなたたちはますます聖体に忠実であり、できるだけ多くの人々、特に子供らの霊魂を聖体の秘跡に近づけるよう努めなければならない。
祈願 天主にして人である存在を、あなたたちのために地上にてつづけたもう聖体の秘跡に対する熱烈な信仰を与えられるよう祈ろう。聖体がイエズスご自身にほかならないことを確固不抜の信仰をもって信ずる御恵みをお願いしよう。そうすればこの信仰によって、あなたたちは主に引きつけられ、聖体のみ前に出るたびごとに、ちょうど馬ぶねの中、あるいはタボル山頂、あるいは十字架に救い主を拝して起したような信心をもつようになるであろう。
実行 聖堂内にはいったならばすぐに聖ひつに向かって『御身は生ける天主の御子キリストなり』と唱えながら主を拝もう。
『聖体の黙想』テニエール(Révérend Père Albert Tesnière (1847-1909))著より
アルベール・テニエール神父は、聖ピエールジュリアン・エマールの創立した聖体修道会の司祭で、聖体修道会の総長(1887-1893)も務めた。