愛する兄弟姉妹の皆様、
シュテーリン神父様が9月9日(主日)に読み上げられる予定だったお説教をご紹介します。
天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)
聖ピオ十世とマリアの汚れなき御心
I.聖ピオ十世の聖母への信心
私たちは、聖ピオ十世の素晴らしいモットーであり理想であるものを知っています。彼はそれを、最初の回勅でこう説明しました。OMNIA INSTAURARE CHRISTO―すべてをキリストにおいて復興させる! 聖母に奉献された二番目の回勅では、次のように確認しました。<なぜなら、すべての人類をキリストにおいて一つにするために、またキリストを通して完全な養子とするために、マリアによる以外には確実で直接的な道はない、ということを、また私たちが天主の御目に聖であり汚れのない者となりうるということを、誰も理解することはできないのでしょうか?>。また、教皇は、聖エリザベトの「幸せなこと、信じた方は」という言葉と、聖母における「主の新たな誕生」についての大聖レオの説明を引用して、<いとも聖なる御母は天主の神秘にあずかると、またある意味でその保護者であると認められ、また、土台の上のように、キリストの次に最も高貴なるお方である聖母の上に、全世紀の信仰という大建築物が建つ>という真理を養うのです。聖マキシミリアノ・コルベは、聖ピオ十世によって霊感を与えられた自分のモットーとして「Omnia instaurare in Christo PER IMMACULATAM!(インマクラータを通して、すべてをキリストにおいて復興させる!)」を選ぶとき、ただ教皇のこのビジョンを繰り返すだけなのです。
―聖ピオ十世が、自分の個人的な信心に関してだけでなく、司祭、司教、教皇としての自分の使徒職に関してだけでもなく、教皇としての計画に関しても、マリアをまさに中心に置いたのは、この宣言を見れば明らかです。それは、マリアを通してのみ、すべてをキリストにおいて復興させるためでした。以下の部分において、教皇は、天主の救いのご計画において聖母はどのような方なのか、聖母の正確な役割とは何かについて説明します。
II.聖ピオ十世と汚れなき御心
―さて、この聖なる教皇は、救いの働きそのものにおけるマリアの役割を教えています。天主はそれを別の方法で行うこともおできになりましたが、マリアを通してのみ御子を私たちに与えようとお望みになりました。ですから、<私たちは今でもマリアの御手からキリストを受けるのです>。教皇は、非常に深遠にして卓越した黙想のうちにこう続けます。キリストは、私たちに天主の恩寵を与えることで私たちをお救いになりました。さて、啓示が恩寵について語るときはいつでも、<人類の贖い主はほぼ変わることなく、その御母と一緒にいるように、私たちに示されます>。
御母のみを通して、私たちはイエズスについてのまことの知識に到達します。なぜなら、<親密さと家庭での生活による最も近い結びつきの中で、子どもが普通母親と一緒にいるように、ほかの人々のうちで御母のみとともに、イエズスは三十年間一緒におられたからです。いったい誰が、御母以上にキリストの誕生と子ども時代の驚嘆すべき神秘についての、とりわけ信仰の始まりでありかつ土台であるご托身の神秘についての公になっている知識を持つことができたというのでしょうか。マリアは、ベトレヘムの出来事とエルザレムの主の神殿で起きた事実を保って黙想なさっただけでなく、マリアは御子のいのちそのものを生きたと言われるほど、キリストの思いと秘密の望みを分かち合われたのです。そのため、マリアほど深くキリストを知った人はこれまで誰もいませんでしたし、マリアほどキリストの知識についての案内者かつ教師として十分な能力のある人はこれまで誰もいません>。
さて、このまことの「キリストについての知識」は、次の主のみ言葉によると、キリストおよび聖性と一つに結ばれることです。<「さて、これが永遠のいのちです。彼らが唯一のまことの天主であるあなたと、あなたが送られたイエズス・キリストを知ることであります」(ヨハネ17章3節)。私たちがキリストについての知識に到達するのはマリアを通してですから、マリアを通して、私たちは、キリストが源でありかつ始まりであるそのいのちを私たちが最も簡単に得るのです>。言い換えれば、マリアは「キリストの新たないのちの母」、つまり新たなエバなのです! ここに、私たちのすべての希望の源があります。天主のまことのいのちを私たちに与えてくださるこの母の熱意が、私たちの最後の希望です!
また教皇は、なぜそうなのかを説明します。
a)第一に、聖母が霊的な母であるからです。<マリアはキリストの御母ではないでしょうか? そうであるならば、マリアは私たちの母でもあるのです。私たちは実際に、肉体をお取りになったみ言葉であるキリストは人類の救い主でもあるということを信じていなければなりません。キリストは、他の人間と同じように肉の体をお持ちでした。また、人類の救い主として、霊的かつ神秘的な体、つまりキリストを信じる人々の社会をお持ちでした。さて、祝されし童貞は、主が単に聖母から人間の本性を取ることで人間になるために天主の永遠の御子を受胎なさったのではなく、主が聖母から取り込んだ人間の本性という手段によって、人間の贖い主になられるために、天主の永遠の御子を受胎なさったのです。そういう訳で、主の最も貞潔な御母の同じ聖なるふところの中で、キリストはご自身に肉体をお取りになりました。そして、彼を信じることになる人々によって形づくられる霊的な体を自分自身と一つに結ばせたのです。そのため、ご自分のうちに救い主を宿されたマリアは、そのいのちが救い主のいのちの中に含まれているすべての人々も宿されたと言うことができるのです。それゆえに、キリストと一つに結ばれている私たちはみな、頭と一つに結ばれている体のように、マリアのご胎内から出てきたのです。ですから、霊的かつ神秘的な方法ではあっても、私たちはみな、マリアの子どもであり、マリアは私たちみなの母なのです>。
親愛なる信徒の皆さん、私たちの母の愛すべき心である、聖母の汚れなき御心の神秘の持つ、この第一の面を讃美しましょう。教皇は教えます。この同じ愛をもって、主のために鼓動していた聖母の御心をもって、聖母は私たちを愛されたのです! 聖母の御体の中に主が肉体的におられたように、私たちは霊的かつ神秘的に聖母の御心の中にいるのです。実際、聖母の御心の役割は、愛すること、母であること、<主の賜物を、主の肢体であり、とりわけ主を知って主によって生きる(ヨハネ第一4章9節)すべての肢体である私たちに浸み込ませる>ことなのです。
b)第二に、聖母は共贖者であるからです。イエズスとマリアの聖心は一つに結ばれて天主の子ら、すなわち、イエズスが体で苦しまれ、マリアが御心で苦しまれたものを生みます。<そのいけにえの番をし、豊かにするという役割、定められた時に主を犠牲のために捧げるという役割が聖母の役割でした。ですから、それは、御子と御母のいのちと労苦の一致を妨げるものではありませんでした。御子の頂点となる時がやって来たとき、イエズスの十字架のそばには御母マリアがたたずんでおられ、この残酷な光景を見るだけでなく、御独り子が人類の救いのために捧げられるのを喜びつつ、主のご受難にまったく完全にあずかっておられたのでした。もし可能であったならば、聖母は御子が受けられたすべての苦しみを喜んで受けられたことでしょう。キリストとマリアの意志および苦しみのこの一致から、マリアは、失われた世界を償う者となり、また私たちの救い主がご自分の死と御血によって買い取られたすべての賜物の分配者となる功徳を得られたのです>。
この聖なる教皇は私たちに、十字架のふもとにおられる悲しみに満ちた御母のことを黙想させてくれます。新たなアダムは新たなエバとともに、新たな贖われた人類を生むのです。<御母と御子の間で、すでに言及した悲しみと苦しみを共にすることによって、荘厳な御母は、天主なる御子に対して全世界の最も力ある仲介者にして代願者となることが許されたのです(ピオ九世ineffabilis)。そして、その源は、「私たちみなが受けた充満をお持ちの」イエズス・キリストです。しかし、マリアは経路、望むならば、体を頭と結びつけ、体に頭の作用と意志を伝える働きをする結合部分なのです。私たちで言えば首のことです。そうです、シエナの聖ベルナルディーノは言います。「聖母はわれわれの頭の下にある首であり、この首によって、主はご自分の神秘体にすべての霊的賜物を伝達する」>。
教皇のこの教理は、汚れなき御心へのロシアの奉献を求めて来られたとき(それは1928年5月13日、トゥイです)である最後のご出現の間に、ファチマの聖母によって完璧に表現されました。シスター・ルチアは、このビジョンを詳細に記しています。「突然、チャペル全体が超自然の光で明るくなり、祭壇の上に天井にまで広がった光輝く十字架が現れました。さらに明るい光の中で、十字架の上に腰までの体を持つ男性の顔が現れました。胸の前には鳩がいて、同じく全体が光でできており、もう一人の男性の体が十字架の上にくぎ付けられていました。その男性の臀部の少し下には、空中に浮いているカリスと大きなホスチアが現れ、それらの上に十字架のつけられた男性の顔と傷を負った脇腹から流れ出た血のしずくが落ちていました。血のしずくはホスチアの上に流れ落ち、そこからカリスの中に落ちていました。十字架のすぐ右下には、御手に汚れなき御心をお持ちの聖母がおられました(それは汚れなき御心をお持ちのファチマの聖母であり、つるぎもバラの花もなく、茨の冠に囲まれて赤く燃え立っている御心を左手にお持ちでした)。十字架のすぐ左下には、まるで水晶のような透明な水でできた大きな文字が現れ、十字架につけられた男性の手から祭壇の上まで流れて次の言葉「恩寵とあわれみ」を形づくっていました。私は、至聖三位一体の神秘が私に示されていると理解し、私が明らかにすることを許されないこの神秘に至る洞察力を、私は受けました」。
聖母のご出現の究極の目的と最も深い意味は、この神秘の上に打ち立てられています。聖母がファチマ(および他の聖堂)で世に与えようとお望みになった個々の恩寵はすべて、人々をこの深い現実、すなわち天主と贖いの神秘におけるインマクラータのまことの意味に向けようという意向があるのです。すべては、御子を世に送られ、御子とともに聖霊を吹きかける御父からやって来るのです。御父は、すべての存在、すべてのいのち、すべての愛の源です。御父の聖心から、御子が生まれ、聖霊が息吹いたのです。御子の使命は、十字架上で世を贖うことです。トゥイのビジョンでは、十字架は祭壇から天井まで部屋全体に及んでいます。十字架は、天主の愛をそっくりそのまま啓示しています。十字架につけられたお方を通して、すべての「恩寵とあわれみ」が私たちに与えられます。贖い主の傷から流れ出る血は、神秘的なホスチアとカリスの中に集められます。キリストの贖いの働きはすべて、いとも聖なるご聖体の中に現存し、そこにおいてカルワリオの犠牲は現在化され、更新されます。聖霊の使命は、すべての贖いの働きへの「照らし」、すなわち天主の愛のすべてを、光として、恩寵として、力として輝かせ、それによって完徳に向かう天主のすべての働きをもたらすことです。天主がご自分をお与えになること、私たちと私たちの救いのために世に降りてこられること、というこの行為は、インマクラータの御心に集められます。この御心は、聖霊の光よりの光のすべて、その中に天主の愛のすべてを受けるのです。聖母の御心は、聖母の存在の奥底を、聖霊に完全に満たされた聖母の霊魂を、計り知れない知恵に満ちた聖母の知性を、信心と愛に満ちた聖母の意志を、明白に表現したものです。聖母はお一人で、新たなアダムのそばにいる新たなエバとして、そこ十字架の下にたたずんでおられます。それは、彼とともに、贖われた人類を生むためです。聖母は、贖いの犠牲の最初の実として、そこにたたずんでおられます。聖母の無原罪の御宿りという奇蹟は、この犠牲のおかげなのです。聖母の御心は、キリストの茨の冠の茨によって刺し貫かれているように見えます。それは、聖母が共贖者であること、被造物の中で最も完全に主の苦しみを共にしておられることを意味しています。聖母は御手にこの御心を持っておられます。すなわち、御心を私たちの方へ向けて持っておられ、御心を私たちにお与えになります。なぜなら、聖母は私たちの母でいらっしゃるのですから。愛の霊によって燃え立たされて、聖母の御心はご自分の子どもたちのために燃えています。聖母は彼らを、カルワリオ山で大変な痛みの中で生み、今では何としてでも彼らを永遠の破滅から救い出そうと望んでおられるのですから。
光輝く御心を持ったインマクラータは、いま、私たちの世に触れておられます。聖母から、三位一体のこのすべての愛に満ちたほとばしりが霊魂たちに流れ出ています。これは天主の働き(actio)、天主の愛の最初の動きであって、教会博士たちは「出ていくこと」、すなわちexitusと呼んでいます。この働き(actio)はまた、「流れ出ること」、つまり「恩寵とあわれみ」として十字架につけられたお方の傷から世に流れ出ていく生ける水によって象徴されるのです。
先に述べた聖ピオ十世の文章を黙想し、またそれをトゥイのビジョンと比較したあと、私たちは、この教皇が聖母についての似たようなビジョンを見なかったのかどうかについて尋ねるかもしれません。聖母の役割、聖母の神秘についてこれほど深い段階にまで書いた教皇は、それ以前には決していなかったのですから。
私たちの天主なき時代における薬であるインマクラータ:聖母の無原罪の御宿りが私たちの信仰を救い、私たちの希望を強め、私たちの愛を増加させるのです。
A)まず信仰。この聖なる教皇は、自由主義者(リベラル)と近代主義者の誤謬を説明し、その薬として無原罪の御宿りという単純な事実を示します。<彼らは、人間が罪によって堕落し、以前いた地位から落ちてしまったということを否定することから始めます。そのため、彼らは、原罪とその結果である悪を単なる作り話に過ぎないものとみなすのです。その源において損なわれた人間性が、今度は人類全体を損なうのです。こうして、悪が人間の中にもたらされ、贖い主の必要性が生じるのです。このすべてが拒絶されれば、キリストのために、教会のために、恩寵のために、すなわち本性をはるかに超えた何かのために、残された場所はない、と理解するのは簡単です。一つの言葉によって、信仰という大建築物全体が上から下まで揺り動かされているのです>。それに対して立ち上がるのは、一人ですべての異端を完全に滅ぼし給うインマクラータなる栄光あるお方です。<しかし、童貞マリアがその受胎の瞬間からすべての汚れを免れていたということを、人々に信じさせ、告白させましょう。そして、人々が、原罪とイエズス・キリストによる人類の回復、福音、そして教会および苦しみの法を認めるべきだということが、さっそく必要です。この理性主義および物質主義の力によって、根元まで引き裂かれて破壊され、キリスト教徒の知恵に残されているのは、信仰を保護し守らなければならないという誇りです>。
この驚くべき例をもって、教皇は、いかにして、また、なぜ、インマクラータの御心が、この終末の時代に私たちの救いであるのかを、また、インマクラータだけが教会のすべての危機のうちで最悪の危機に打ち勝つことを説明しています。
B)希望:<この童貞の無原罪の御宿りによって、私たちの信仰が固められ、私たちの希望が起こり、強められるのです。この童貞は、キリストの御母になるとされていたため、原罪のすべての汚れから完全に自由に守られていました。そして、この童貞は、永遠の幸福の希望が私たちの霊魂にもう一度生まれるように、キリストの御母だったのです>。「spes nostra(われらの望みなる)」マリア! この希望は、教皇が書いている終末の時代に特に関係しています。聖母の汚れなき御心への信心は、私たちの時代の最後の希望のしるし以外の何物でしょうか? 悪魔のあらゆる攻撃にもかかわらず、私たちは聖人になれるのでしょうか? 悪魔が私たちを攻撃するとき、聖母は私たちを自由の状態に守ってくださり、サタンのかしらを踏み砕くのです。
C)愛:教皇のビジョンは、黙示録の婦人という偉大なる神秘において頂点に達します。また婦人は、私たちを、天主と隣人への愛という、人生における最も深い感覚に戻してくれます。これはまさに、地上における天主の愛である婦人の汚れなき御心の役割です。ご自分の子どもたちにもう一度、この燃える愛を与え、彼らを聖人にすることです。<キリストが特にご自分に属する人々に呼び掛けた教え、すなわちご自分が私たちを愛したように互いに愛し合うようにとの教えを守ろうという心を動かされる感情なしに、誰が無原罪の童貞のことを観想することができるでしょうか? 「壮大なしるしが天に現れた。太陽に包まれた婦人があり、その足の下に月があり、その頭に十二の星の冠をいただいていた」。この婦人が、私たちの頭を生む汚れのない童貞である童貞マリアを象徴的に表していることは誰もが知っています。使徒は続けます。「この婦人は身ごもって、陣痛の悩みと苦しみの叫びを上げていた」。それゆえに、ヨハネは、天主のいとも聖なる御母がすでに永遠の幸福におられるものの、神秘的な子どもの誕生で苦しんでおられるのを見ました。この誕生とは何でしょうか? 確実に、それは、まだちくたくの身であり、天主の完全な愛に、そして永遠の幸福にまだ生まれていない私たちの誕生だったのです。そして、この生みの苦しみは、童貞が天上から私たちをご覧になり、選ばれた者の数を満たそうと飽くことのない祈りに努めるに際してお持ちの愛と望みを表しているのです>。
汚れなき御心は、私たちの心を完全に変えようと、私たちに地上であわれな罪びとに対する聖母の愛を継続させようと望んでおられます(これがファチマのメッセージの全体です)。イエズス・キリストをお慰めし、あわれな罪びとを回心させること! <すべての人が到達するよう熱心に努力したいと私たちが望むこの同じ愛徳・・・イエズス・キリストが、彼が創立なさったいとも聖なる宗教が、今いかに苦く、獰猛に迫害されていることでしょうか! 信仰を捨てるに至るまで、あらゆる方面で進行中の誤謬によって引き離されている多くの人々を脅かしている災難が、いかに深刻なことでしょうか!・・・謙遜な祈りと嘆願をもって、マリアの御取り次ぎによって、真理を捨てた人々が悔い改めるよう、みなで天主にこいねがいましょう。私たちは実際、愛から生まれ、童貞を信頼するそのような祈りが、決して虚しいものにはならなかったということを経験から知っています>。<「きょう、いにしえのヘビの頭は、そのお方によって踏み砕かれた」>ということは、常に真実であり続けるでしょう。
聖ピオ十世は私たちの保護の聖人です。彼が百年以上前に書いたこと、それは歴史上のほかのどんな人に対してよりも、私たちに対して関係しています。私たちはさらに、こう付け加えることができるかもしれません。百年ののち、ファチマの偉大なる示しと素晴らしいマリア運動のおかげによるカトリック教会の特別な復興ののち、私たちは聖母だけが私たちを救うことがおできになるという目に見える証拠をさらに多く得ている、と。聖ピオ十世に願いましょう。その回勅にある誓いを守ることができ、その内容を適用することができ、それを研究することができ、聖母の軍隊に完全に入ることができ、聖母の忠実な騎士になることができ、皆さんの霊魂と他の多くの人々の霊魂を救うことができますように。そうなれば、皆さんは自分自身の目で、次のことを見ることになるでしょう。
「最後には私の汚れなき御心は凱旋するでしょう」。
シュテーリン神父様が9月9日(主日)に読み上げられる予定だったお説教をご紹介します。
天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)
聖ピオ十世とマリアの汚れなき御心
I.聖ピオ十世の聖母への信心
私たちは、聖ピオ十世の素晴らしいモットーであり理想であるものを知っています。彼はそれを、最初の回勅でこう説明しました。OMNIA INSTAURARE CHRISTO―すべてをキリストにおいて復興させる! 聖母に奉献された二番目の回勅では、次のように確認しました。<なぜなら、すべての人類をキリストにおいて一つにするために、またキリストを通して完全な養子とするために、マリアによる以外には確実で直接的な道はない、ということを、また私たちが天主の御目に聖であり汚れのない者となりうるということを、誰も理解することはできないのでしょうか?>。また、教皇は、聖エリザベトの「幸せなこと、信じた方は」という言葉と、聖母における「主の新たな誕生」についての大聖レオの説明を引用して、<いとも聖なる御母は天主の神秘にあずかると、またある意味でその保護者であると認められ、また、土台の上のように、キリストの次に最も高貴なるお方である聖母の上に、全世紀の信仰という大建築物が建つ>という真理を養うのです。聖マキシミリアノ・コルベは、聖ピオ十世によって霊感を与えられた自分のモットーとして「Omnia instaurare in Christo PER IMMACULATAM!(インマクラータを通して、すべてをキリストにおいて復興させる!)」を選ぶとき、ただ教皇のこのビジョンを繰り返すだけなのです。
―聖ピオ十世が、自分の個人的な信心に関してだけでなく、司祭、司教、教皇としての自分の使徒職に関してだけでもなく、教皇としての計画に関しても、マリアをまさに中心に置いたのは、この宣言を見れば明らかです。それは、マリアを通してのみ、すべてをキリストにおいて復興させるためでした。以下の部分において、教皇は、天主の救いのご計画において聖母はどのような方なのか、聖母の正確な役割とは何かについて説明します。
II.聖ピオ十世と汚れなき御心
―さて、この聖なる教皇は、救いの働きそのものにおけるマリアの役割を教えています。天主はそれを別の方法で行うこともおできになりましたが、マリアを通してのみ御子を私たちに与えようとお望みになりました。ですから、<私たちは今でもマリアの御手からキリストを受けるのです>。教皇は、非常に深遠にして卓越した黙想のうちにこう続けます。キリストは、私たちに天主の恩寵を与えることで私たちをお救いになりました。さて、啓示が恩寵について語るときはいつでも、<人類の贖い主はほぼ変わることなく、その御母と一緒にいるように、私たちに示されます>。
御母のみを通して、私たちはイエズスについてのまことの知識に到達します。なぜなら、<親密さと家庭での生活による最も近い結びつきの中で、子どもが普通母親と一緒にいるように、ほかの人々のうちで御母のみとともに、イエズスは三十年間一緒におられたからです。いったい誰が、御母以上にキリストの誕生と子ども時代の驚嘆すべき神秘についての、とりわけ信仰の始まりでありかつ土台であるご托身の神秘についての公になっている知識を持つことができたというのでしょうか。マリアは、ベトレヘムの出来事とエルザレムの主の神殿で起きた事実を保って黙想なさっただけでなく、マリアは御子のいのちそのものを生きたと言われるほど、キリストの思いと秘密の望みを分かち合われたのです。そのため、マリアほど深くキリストを知った人はこれまで誰もいませんでしたし、マリアほどキリストの知識についての案内者かつ教師として十分な能力のある人はこれまで誰もいません>。
さて、このまことの「キリストについての知識」は、次の主のみ言葉によると、キリストおよび聖性と一つに結ばれることです。<「さて、これが永遠のいのちです。彼らが唯一のまことの天主であるあなたと、あなたが送られたイエズス・キリストを知ることであります」(ヨハネ17章3節)。私たちがキリストについての知識に到達するのはマリアを通してですから、マリアを通して、私たちは、キリストが源でありかつ始まりであるそのいのちを私たちが最も簡単に得るのです>。言い換えれば、マリアは「キリストの新たないのちの母」、つまり新たなエバなのです! ここに、私たちのすべての希望の源があります。天主のまことのいのちを私たちに与えてくださるこの母の熱意が、私たちの最後の希望です!
また教皇は、なぜそうなのかを説明します。
a)第一に、聖母が霊的な母であるからです。<マリアはキリストの御母ではないでしょうか? そうであるならば、マリアは私たちの母でもあるのです。私たちは実際に、肉体をお取りになったみ言葉であるキリストは人類の救い主でもあるということを信じていなければなりません。キリストは、他の人間と同じように肉の体をお持ちでした。また、人類の救い主として、霊的かつ神秘的な体、つまりキリストを信じる人々の社会をお持ちでした。さて、祝されし童貞は、主が単に聖母から人間の本性を取ることで人間になるために天主の永遠の御子を受胎なさったのではなく、主が聖母から取り込んだ人間の本性という手段によって、人間の贖い主になられるために、天主の永遠の御子を受胎なさったのです。そういう訳で、主の最も貞潔な御母の同じ聖なるふところの中で、キリストはご自身に肉体をお取りになりました。そして、彼を信じることになる人々によって形づくられる霊的な体を自分自身と一つに結ばせたのです。そのため、ご自分のうちに救い主を宿されたマリアは、そのいのちが救い主のいのちの中に含まれているすべての人々も宿されたと言うことができるのです。それゆえに、キリストと一つに結ばれている私たちはみな、頭と一つに結ばれている体のように、マリアのご胎内から出てきたのです。ですから、霊的かつ神秘的な方法ではあっても、私たちはみな、マリアの子どもであり、マリアは私たちみなの母なのです>。
親愛なる信徒の皆さん、私たちの母の愛すべき心である、聖母の汚れなき御心の神秘の持つ、この第一の面を讃美しましょう。教皇は教えます。この同じ愛をもって、主のために鼓動していた聖母の御心をもって、聖母は私たちを愛されたのです! 聖母の御体の中に主が肉体的におられたように、私たちは霊的かつ神秘的に聖母の御心の中にいるのです。実際、聖母の御心の役割は、愛すること、母であること、<主の賜物を、主の肢体であり、とりわけ主を知って主によって生きる(ヨハネ第一4章9節)すべての肢体である私たちに浸み込ませる>ことなのです。
b)第二に、聖母は共贖者であるからです。イエズスとマリアの聖心は一つに結ばれて天主の子ら、すなわち、イエズスが体で苦しまれ、マリアが御心で苦しまれたものを生みます。<そのいけにえの番をし、豊かにするという役割、定められた時に主を犠牲のために捧げるという役割が聖母の役割でした。ですから、それは、御子と御母のいのちと労苦の一致を妨げるものではありませんでした。御子の頂点となる時がやって来たとき、イエズスの十字架のそばには御母マリアがたたずんでおられ、この残酷な光景を見るだけでなく、御独り子が人類の救いのために捧げられるのを喜びつつ、主のご受難にまったく完全にあずかっておられたのでした。もし可能であったならば、聖母は御子が受けられたすべての苦しみを喜んで受けられたことでしょう。キリストとマリアの意志および苦しみのこの一致から、マリアは、失われた世界を償う者となり、また私たちの救い主がご自分の死と御血によって買い取られたすべての賜物の分配者となる功徳を得られたのです>。
この聖なる教皇は私たちに、十字架のふもとにおられる悲しみに満ちた御母のことを黙想させてくれます。新たなアダムは新たなエバとともに、新たな贖われた人類を生むのです。<御母と御子の間で、すでに言及した悲しみと苦しみを共にすることによって、荘厳な御母は、天主なる御子に対して全世界の最も力ある仲介者にして代願者となることが許されたのです(ピオ九世ineffabilis)。そして、その源は、「私たちみなが受けた充満をお持ちの」イエズス・キリストです。しかし、マリアは経路、望むならば、体を頭と結びつけ、体に頭の作用と意志を伝える働きをする結合部分なのです。私たちで言えば首のことです。そうです、シエナの聖ベルナルディーノは言います。「聖母はわれわれの頭の下にある首であり、この首によって、主はご自分の神秘体にすべての霊的賜物を伝達する」>。
教皇のこの教理は、汚れなき御心へのロシアの奉献を求めて来られたとき(それは1928年5月13日、トゥイです)である最後のご出現の間に、ファチマの聖母によって完璧に表現されました。シスター・ルチアは、このビジョンを詳細に記しています。「突然、チャペル全体が超自然の光で明るくなり、祭壇の上に天井にまで広がった光輝く十字架が現れました。さらに明るい光の中で、十字架の上に腰までの体を持つ男性の顔が現れました。胸の前には鳩がいて、同じく全体が光でできており、もう一人の男性の体が十字架の上にくぎ付けられていました。その男性の臀部の少し下には、空中に浮いているカリスと大きなホスチアが現れ、それらの上に十字架のつけられた男性の顔と傷を負った脇腹から流れ出た血のしずくが落ちていました。血のしずくはホスチアの上に流れ落ち、そこからカリスの中に落ちていました。十字架のすぐ右下には、御手に汚れなき御心をお持ちの聖母がおられました(それは汚れなき御心をお持ちのファチマの聖母であり、つるぎもバラの花もなく、茨の冠に囲まれて赤く燃え立っている御心を左手にお持ちでした)。十字架のすぐ左下には、まるで水晶のような透明な水でできた大きな文字が現れ、十字架につけられた男性の手から祭壇の上まで流れて次の言葉「恩寵とあわれみ」を形づくっていました。私は、至聖三位一体の神秘が私に示されていると理解し、私が明らかにすることを許されないこの神秘に至る洞察力を、私は受けました」。
聖母のご出現の究極の目的と最も深い意味は、この神秘の上に打ち立てられています。聖母がファチマ(および他の聖堂)で世に与えようとお望みになった個々の恩寵はすべて、人々をこの深い現実、すなわち天主と贖いの神秘におけるインマクラータのまことの意味に向けようという意向があるのです。すべては、御子を世に送られ、御子とともに聖霊を吹きかける御父からやって来るのです。御父は、すべての存在、すべてのいのち、すべての愛の源です。御父の聖心から、御子が生まれ、聖霊が息吹いたのです。御子の使命は、十字架上で世を贖うことです。トゥイのビジョンでは、十字架は祭壇から天井まで部屋全体に及んでいます。十字架は、天主の愛をそっくりそのまま啓示しています。十字架につけられたお方を通して、すべての「恩寵とあわれみ」が私たちに与えられます。贖い主の傷から流れ出る血は、神秘的なホスチアとカリスの中に集められます。キリストの贖いの働きはすべて、いとも聖なるご聖体の中に現存し、そこにおいてカルワリオの犠牲は現在化され、更新されます。聖霊の使命は、すべての贖いの働きへの「照らし」、すなわち天主の愛のすべてを、光として、恩寵として、力として輝かせ、それによって完徳に向かう天主のすべての働きをもたらすことです。天主がご自分をお与えになること、私たちと私たちの救いのために世に降りてこられること、というこの行為は、インマクラータの御心に集められます。この御心は、聖霊の光よりの光のすべて、その中に天主の愛のすべてを受けるのです。聖母の御心は、聖母の存在の奥底を、聖霊に完全に満たされた聖母の霊魂を、計り知れない知恵に満ちた聖母の知性を、信心と愛に満ちた聖母の意志を、明白に表現したものです。聖母はお一人で、新たなアダムのそばにいる新たなエバとして、そこ十字架の下にたたずんでおられます。それは、彼とともに、贖われた人類を生むためです。聖母は、贖いの犠牲の最初の実として、そこにたたずんでおられます。聖母の無原罪の御宿りという奇蹟は、この犠牲のおかげなのです。聖母の御心は、キリストの茨の冠の茨によって刺し貫かれているように見えます。それは、聖母が共贖者であること、被造物の中で最も完全に主の苦しみを共にしておられることを意味しています。聖母は御手にこの御心を持っておられます。すなわち、御心を私たちの方へ向けて持っておられ、御心を私たちにお与えになります。なぜなら、聖母は私たちの母でいらっしゃるのですから。愛の霊によって燃え立たされて、聖母の御心はご自分の子どもたちのために燃えています。聖母は彼らを、カルワリオ山で大変な痛みの中で生み、今では何としてでも彼らを永遠の破滅から救い出そうと望んでおられるのですから。
光輝く御心を持ったインマクラータは、いま、私たちの世に触れておられます。聖母から、三位一体のこのすべての愛に満ちたほとばしりが霊魂たちに流れ出ています。これは天主の働き(actio)、天主の愛の最初の動きであって、教会博士たちは「出ていくこと」、すなわちexitusと呼んでいます。この働き(actio)はまた、「流れ出ること」、つまり「恩寵とあわれみ」として十字架につけられたお方の傷から世に流れ出ていく生ける水によって象徴されるのです。
先に述べた聖ピオ十世の文章を黙想し、またそれをトゥイのビジョンと比較したあと、私たちは、この教皇が聖母についての似たようなビジョンを見なかったのかどうかについて尋ねるかもしれません。聖母の役割、聖母の神秘についてこれほど深い段階にまで書いた教皇は、それ以前には決していなかったのですから。
私たちの天主なき時代における薬であるインマクラータ:聖母の無原罪の御宿りが私たちの信仰を救い、私たちの希望を強め、私たちの愛を増加させるのです。
A)まず信仰。この聖なる教皇は、自由主義者(リベラル)と近代主義者の誤謬を説明し、その薬として無原罪の御宿りという単純な事実を示します。<彼らは、人間が罪によって堕落し、以前いた地位から落ちてしまったということを否定することから始めます。そのため、彼らは、原罪とその結果である悪を単なる作り話に過ぎないものとみなすのです。その源において損なわれた人間性が、今度は人類全体を損なうのです。こうして、悪が人間の中にもたらされ、贖い主の必要性が生じるのです。このすべてが拒絶されれば、キリストのために、教会のために、恩寵のために、すなわち本性をはるかに超えた何かのために、残された場所はない、と理解するのは簡単です。一つの言葉によって、信仰という大建築物全体が上から下まで揺り動かされているのです>。それに対して立ち上がるのは、一人ですべての異端を完全に滅ぼし給うインマクラータなる栄光あるお方です。<しかし、童貞マリアがその受胎の瞬間からすべての汚れを免れていたということを、人々に信じさせ、告白させましょう。そして、人々が、原罪とイエズス・キリストによる人類の回復、福音、そして教会および苦しみの法を認めるべきだということが、さっそく必要です。この理性主義および物質主義の力によって、根元まで引き裂かれて破壊され、キリスト教徒の知恵に残されているのは、信仰を保護し守らなければならないという誇りです>。
この驚くべき例をもって、教皇は、いかにして、また、なぜ、インマクラータの御心が、この終末の時代に私たちの救いであるのかを、また、インマクラータだけが教会のすべての危機のうちで最悪の危機に打ち勝つことを説明しています。
B)希望:<この童貞の無原罪の御宿りによって、私たちの信仰が固められ、私たちの希望が起こり、強められるのです。この童貞は、キリストの御母になるとされていたため、原罪のすべての汚れから完全に自由に守られていました。そして、この童貞は、永遠の幸福の希望が私たちの霊魂にもう一度生まれるように、キリストの御母だったのです>。「spes nostra(われらの望みなる)」マリア! この希望は、教皇が書いている終末の時代に特に関係しています。聖母の汚れなき御心への信心は、私たちの時代の最後の希望のしるし以外の何物でしょうか? 悪魔のあらゆる攻撃にもかかわらず、私たちは聖人になれるのでしょうか? 悪魔が私たちを攻撃するとき、聖母は私たちを自由の状態に守ってくださり、サタンのかしらを踏み砕くのです。
C)愛:教皇のビジョンは、黙示録の婦人という偉大なる神秘において頂点に達します。また婦人は、私たちを、天主と隣人への愛という、人生における最も深い感覚に戻してくれます。これはまさに、地上における天主の愛である婦人の汚れなき御心の役割です。ご自分の子どもたちにもう一度、この燃える愛を与え、彼らを聖人にすることです。<キリストが特にご自分に属する人々に呼び掛けた教え、すなわちご自分が私たちを愛したように互いに愛し合うようにとの教えを守ろうという心を動かされる感情なしに、誰が無原罪の童貞のことを観想することができるでしょうか? 「壮大なしるしが天に現れた。太陽に包まれた婦人があり、その足の下に月があり、その頭に十二の星の冠をいただいていた」。この婦人が、私たちの頭を生む汚れのない童貞である童貞マリアを象徴的に表していることは誰もが知っています。使徒は続けます。「この婦人は身ごもって、陣痛の悩みと苦しみの叫びを上げていた」。それゆえに、ヨハネは、天主のいとも聖なる御母がすでに永遠の幸福におられるものの、神秘的な子どもの誕生で苦しんでおられるのを見ました。この誕生とは何でしょうか? 確実に、それは、まだちくたくの身であり、天主の完全な愛に、そして永遠の幸福にまだ生まれていない私たちの誕生だったのです。そして、この生みの苦しみは、童貞が天上から私たちをご覧になり、選ばれた者の数を満たそうと飽くことのない祈りに努めるに際してお持ちの愛と望みを表しているのです>。
汚れなき御心は、私たちの心を完全に変えようと、私たちに地上であわれな罪びとに対する聖母の愛を継続させようと望んでおられます(これがファチマのメッセージの全体です)。イエズス・キリストをお慰めし、あわれな罪びとを回心させること! <すべての人が到達するよう熱心に努力したいと私たちが望むこの同じ愛徳・・・イエズス・キリストが、彼が創立なさったいとも聖なる宗教が、今いかに苦く、獰猛に迫害されていることでしょうか! 信仰を捨てるに至るまで、あらゆる方面で進行中の誤謬によって引き離されている多くの人々を脅かしている災難が、いかに深刻なことでしょうか!・・・謙遜な祈りと嘆願をもって、マリアの御取り次ぎによって、真理を捨てた人々が悔い改めるよう、みなで天主にこいねがいましょう。私たちは実際、愛から生まれ、童貞を信頼するそのような祈りが、決して虚しいものにはならなかったということを経験から知っています>。<「きょう、いにしえのヘビの頭は、そのお方によって踏み砕かれた」>ということは、常に真実であり続けるでしょう。
聖ピオ十世は私たちの保護の聖人です。彼が百年以上前に書いたこと、それは歴史上のほかのどんな人に対してよりも、私たちに対して関係しています。私たちはさらに、こう付け加えることができるかもしれません。百年ののち、ファチマの偉大なる示しと素晴らしいマリア運動のおかげによるカトリック教会の特別な復興ののち、私たちは聖母だけが私たちを救うことがおできになるという目に見える証拠をさらに多く得ている、と。聖ピオ十世に願いましょう。その回勅にある誓いを守ることができ、その内容を適用することができ、それを研究することができ、聖母の軍隊に完全に入ることができ、聖母の忠実な騎士になることができ、皆さんの霊魂と他の多くの人々の霊魂を救うことができますように。そうなれば、皆さんは自分自身の目で、次のことを見ることになるでしょう。
「最後には私の汚れなき御心は凱旋するでしょう」。