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聖心の小黙想会-6 2018年8月13日霊的講話【3】 「マグダラのマリアとザケオ」

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2018年8月13日(月)イエズスの聖心小黙想会
小野田神父 霊的講話【3】
「マグダラのマリアとザケオ」

今日は新しい初参加者も増えて嬉しいです。この小黙想会は、イエズス様の聖心の、私たちに対する愛について黙想しています。

三位一体、真の天主は、この全世界を愛によって創造しました。無から創造しました。三位一体の、永遠の昔から永遠の未来に至るその命は、愛の命です。聖父と聖子と聖霊の三位一体は、永遠の昔から永遠の未来に向かって、愛し愛される存在です。

イエズス様の聖心は、まさに愛の聖心で、そして愛によって人類を創ったのですけれども、創造されたのですけれども、人類はこの愛を裏切りました。天主からの愛を拒否した、あるいはその愛を愛し返さない人類にとって、待っていたのは不幸でした。悲しみでした。惨めさでした。

天主三位一体は、この哀れな人類を、更に大きな愛を以て愛そうとしました。人類が負った大きな傷の1つは、最も悲惨なのは、「罪」でした。なぜかというと、罪を犯す事によって人間は、天主から受けたその御恵みに恩知らずとなったからです。恩知らずばかりか、天主に対して私たちが持っている、人類が持っている義務を打ち捨てて、反乱を起こしたからです。罪を犯すという事は、天主に挑んで逆らった、という事だからです。罪を犯すという事は、恩知らずであって、反乱を起こしたのみならず、天主から受けたその信頼を全く裏切った、背信の裏切り行為をした、という事です。今までの友の関係、親子の関係は、敵の関係になってしまいました。

しかし天主は、このような人類を更に愛そうと思いました。このような人類を赦そうと思いました。「私は、失われたものを救う為に来た」とイエズス様は言います。イエズス様はこの罪人の霊魂を探して、疲れを知らずに、果てしなく、どこまでも助けようと汗を流します。

そこで今日は、「じゃあイエズス様は一体どういう事をやったのですか?」と言うお友達の為に、いくつか例を取って黙想してみます。

マテオの9章にはこうあります、“『私が望むのはあわれみであって、いけにえではない』とはどんな意味かを学びに行け。私が来たのは義人を招く為ではなく、罪人を招く為である。”

マテオ9章には、中風の人に向かって、イエズス様がガリレア湖を渡っていると、人々が中風の人の元にやって来て、「信頼せよ。お前の罪は赦された」と仰いました。イエズス様は罪の赦しを与えようと、海を渡り、陸を渡ります。

今日、まずこの今日の午後、特にお話したいと思うのは、自分の方からやって来た霊魂たちについてです。

イエズス様が探して行った霊魂たちもいるのですけれども、自分の方からやって来た霊魂があります。自分の犯した罪に対して嫌気が差して、それから良心の声を聞いて、あるいはもしかしたらイエズス様の話を噂で聞いたのかもしれませんけれども、天主の元に戻りたいと思った霊魂がいます。たまたま聞いた話というのはないのですけれども、たまたまというのはないのですけれども、全て御摂理によって、イエズス様がそのように、その時に、そのような方法で、御自分の話を伝えるのですけれども、最後にイエズス様の御恵みによって動かされて、やって来た霊魂がいます。

その内で有名な一人が、マグダラのマリアで、イエズス様の御足に自分を任せて、そして涙を流します。そして自分の過去の恥ずかしい屈辱の罪をイエズス様に告白して、赦しを求めます。自分の罪を非常に痛悔してそれを悲しく思うのですけれども、それと同時に、イエズス様に対して信頼をもって近寄ります。イエズス様から何か赦しをもらおうと、何か御言葉をもらおうと待っているのです。

するとイエズス様は、このマグダラのマリアに罪の赦しを与えます。元々は高貴な、ラザロとマルタの立派な家に生まれていたのです。

しかし何か人間の愛情にほだされて、あるいは騙されて、その儚い蜃気楼のような幻想や、あるいは何か甘い言葉に騙されて、道を外してしまいました。少しずつ少しずつ、深い淵へとはまって行ってしまった霊魂でした。そこでその罪の中にはまって行ってしまったので、ますます弱く、心は弱くなってしまって、ユダヤの教え、伝統、家族のその色々な教え、という事も忘れてしまって、遂には家族の恥となってしまって、悲しみの元となってしまいました。

しかしこの霊魂はとても高貴だったので、その罪の中に幸せを見出す事はできませんでした。この被造物の中に本当の喜びを見出すには、あまりにも霊魂が高いものを望んでいたからです。高貴だったからです。

そこでイエズス様の話を聞いて、元にやって来ます。「イエズス様ならば自分を救う事ができる」と信じていました。そこで赦しを乞い求める為に、イエズス様の元に近寄ります。信仰がありました。マグダラのマリアには、「イエズス様ならば憐れみ深く、自分の為に何かをして下さる」という信頼がありました。そしてマグダラのマリアには、イエズス様に対する愛もありました。「多く愛した者は、多く赦される。」

イエズス様はそこで、マグダラのマリアをまず、自分の罪の状態のマグダラから、ベタニアに連れ戻します。それからベタニアから、カルワリオに。そしてカルワリオから、天国へと、少しずつ連れて行きます。少しずつ永遠の幸せに導いていきます。

でも全てが最初から簡単だったわけではありません。イエズス様が御復活なさった後でさえも、マグダラのマリアには自己放棄をする事を、犠牲を払う事を教えます。あれほど十字架の下に佇んだ、それよりも更に大きな犠牲を今度は払わせます。イエズス様によって後には、エルサレムから離れなければならない、という迫害自体も体験させられます。

でもイエズス様の導きによって、家の悲しみの元であったマグダラのマリアは、イエズス様の愛の奇跡となり、カトリック教会の誇る大聖人となりました。イエズス様から最も清く愛された、イエズス・キリストを最も清く愛する、十字架の下に佇む、偉大な聖人となりました。

もう一人の例は、ザケオです。これはお金持ちの税吏で、イエリコに住んでいます。ルカの19章。

ザケオは背の低い男で、しかし税吏として、他の役人がやっているような事を多かれ少なかれやって、簡単なやり方で莫大な財を築いていました。この世の精神に従って、面白おかしく生活をしていたのですが、しかし、もっと高貴な、もっと良い立派な生活があるのではないか、という事に、心の中では気付いていたようです。でもそんなに、そういう考えも一瞬の事で、「仕事にも忙しいし、この世のお金もたくさんあるし、美味しいものも食べているし、大きな家もきれいな家もあるし、あんまり気にしなくてもいいんじゃないか」等と思っていたのかもしれません。

でもやっぱり、このザケオにもイエズス様の話が届きます、「奇跡をするメシアがいる。」
「ほう、面白い。へぇ~、そんな話もあるんだ」と言っても、仕事もあったし、特に関心は無かったかもしれません。
でも何か噂によると、この偉大な預言者が、自分の街イエリコにやって来るという話を聞きます。

イエズス様はこのザケオに、この霊魂に、御恵みや聖寵の光を与えて、色々準備していたに違いありません。それでこのザケオに好奇心を起こさせます。この「イエズス様を見てみたいなぁ」と思うのです。

ザケオはこの何も、イエズス様にこの罪の告白をするとか、自分の生活がどうのこうの、というよりは、「ただ見てみたい」という事だけでいっぱいでした。するとイエズス様がこの話によると、通ると言うじゃないか。そこで、でも群衆の波があったので見る事ができません。そこでどうしようかな、と思ったのですが、近くにあった高い木に登って、そしてイエズス様を見ようと思いました。

“イエズスは、イエリコに入って、その町をお通りになった。そこに、名をザケオという人がいた。彼は、税吏のかしらで、金持ちだった。そして、イエズスがどんな人かを見ようとしたが、背が低かったし、群衆の波で見る事ができなかった。そこで、前に走っていって、イエズスを見ようとして桑葉いちじくの木によじ登った。イエズスは、そこをお通りになるはずだった。”

木に登って、一生懸命イチジクの木に登って、「あぁ、あの人だあの人だ!ゆっくり歩いている。顔も、顔つきも良いじゃないか。髭も生えている。あんな服を着ているのか。たくさん弟子がいるなぁ」と見て、イエズス様がゆっくりゆっくりこう近付いてくるのを見て、「ほほぅ、ほほぅ」と見ると、いきなりイエズス様が自分の方を見るのです。すると自分の名前を呼ぶのです、「ザケオ、早く降りてきなさい。」

“イエズスはそこに来られると、目を上げて、『ザケオ、早く降りよ。私は今日、あなたの家に泊まる』と仰せられた。”

何という優しい御言葉でしょうか。

考えてもみて下さい。皆さんがどこかのスターの追っかけでですね、有名な、世界でも有名なスターが、そして皆がファンがキャーキャー言っている中を歩いている。その中で名前を呼ばれて、「家に行くから。」

するとザケオは、木から喜んで飛び降りて、イエズス様を迎え入れました。イエズス様は何とお優しい方なのでしょうか。ザケオが誰かを知っていました、もちろん。皆から憎まれたり、嫌われたりしていたという事を知っていました。ザケオもその事を知っていました。自分がどういう立場にあるかという事も知っていました。しかしイエズス様の優しい、その憐れみ深い態度で、こう見て本当に感動します。

でも他の人はそうでありませんでした。これを見ていた人々は皆、「あの人は罪人の家の客になったのか」と非難しました。

きっとザケオは、木から降りてすぐに家に帰って、家の掃除をしたり、イエズス様を迎え入れる準備をしたに違いありません。自分でこう色々召使いに言って、「さぁ、ここに応接間に大きな綺麗な椅子を、一番良い椅子を持ってきなさい。」「ここにテーブルも並べて、ここにお花を飾って、」「ここはこうして、ここにはこう、」そしてイエズス様は約束通り、このザケオの家に、大きな家へと向かいます。

イエズス様が家の中に入って、ザケオはイエズス様を迎え受けると、イエズス様の姿を見てきっと、近くに見てきっとビックリしたかもしれません、「あの偉大な預言者でも、衣服は非常に質素で、収入はといえば献金で生きているし、善を施しながらユダヤ、ガリレアを回っておられる。奇跡を起こして、病人を治して、色んな良いお言葉をしているのだけれども、非常に謙虚で、偉ぶらないし。」

すると、自分の生活とあまりにも違う事に気が付きます、「あぁ、自分はこんなに裕福な家に、美味しい食べ物と、安楽の内に生きているけれども、簡単にお金も儲けているけれども、イエズス様はこうやって、質素に善を施して生きている。私もイエズス様のようになる事ができるんじゃないか。もっと善を施す事ができるんじゃないか。自分の今までの生活は、あまりにもイエズス様と比べたら違っている」という事に気が付いたのかもしれません。

するとザケオは言います、「主よ、私は財産の半分を貧しい人々に施します。また私が人に何らかの損害を与えていたら4倍にして返します。」このラテン語ではですね、4倍にして「返すでしょう」とか、「返そうとします」と言うのではなくて、もう「返す」と断定しているのです。この現在形で言っているのです。

それを見てイエズス様はどれほどお喜びになったでしょうか、「今日この家に救いが来た。この人もアブラハムの子である。人の子は(御自分の事ですけれども)、見失ったものを訪ねて救う為に来た」と仰いました。

こうやってイエズス様は一人一人に優しく近付いて、そしてその霊魂に光を、御恵みと成聖への聖徳への道を少しずつ導いて下さるのです。

少しだけ黙想します。私たちもマグダラのマリアであって、ザケオです。

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