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聖心の小黙想会-7 2018年8月13日霊的講話【4】 「サマリアの女」

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2018年8月13日(月)イエズスの聖心小黙想会
小野田神父 霊的講話【4】

サマリアの女

この今日の午後の目的は目標は、この黙想を通して、イエズス様の燃える聖心にぜひ触れて頂きたいということです。

イエズス様が私たちを愛しておられて、私たちを赦したいと思っておられる、その事をぜひ深く理解して頂きたい、と思っています。

この為にイエズス様は、色んな手段を使って心を動かして、御自分の元に引き寄せようとします。ある時には聖マグダレナ・マリアのように、自分の意思から自ら、良心の呵責によって、イエズス様の事を聞いて近寄った。あるいはザケオのように、好奇心から、イエズス様を見てみたい、会ってみたいと思った。

ある時には、あまりにもイエズス様という存在が遠くにあって、聞いた事もないし、話した事もないし、しかしイエズス様が探して行った、というケースもあります。

そこで、イエズス様が探して行ったケースをちょっと黙想します。これはサマリアの女性についてです。ヨハネの4章にあります。

ユダヤからガリレアの方に行く時に、よくその当時の人が通っていた道の1つに、サマリアを通る道がありました。サマリアというのは、ユダヤの人にとってあまり評判が良くなかったのですけれども、ユダヤの人とサマリアの人はあまり仲も良くなかったし、対立していたし、両方とも両者とも軽蔑していたのですけれども、そこを通らなければなりません。イエズス様が今回そこを通らなければならなかったというのも、御摂理の内の1つでした。なぜかというと、そこに自分の回心させたいと思っていた霊魂がいたからです。

色々イエズス様は霊魂たちに御恵みを与えて、光の元に来るように、正しい道に来るようにと招いているのですけれども、多くの場合、人々は自分の罪の中にすっかり深く入ってしまって、あるいは自分の耳を霊魂の耳を閉ざしてしまって、この御恵みの声に耳を傾けようとしません。そこで、御恵みを与えて、与えて、与えても、それを気が付かないので、今度はイエズス様が御自分で行って、話をされようとされます。きっとイエズス様は何度も何度も、霊魂たちの為にお祈りして、聖父にお祈りして、そしてお願いされたに違いありません。

その時は何月だったのでしょうか。リッチオーリという聖書学者によると、「5月だった」とありましたが、もしかしたら日本の暑い8月の中旬だったのかもしれません。非常に日差しの強い日で、喉が渇いたのではないかと思います。

“イエズスは、ユダヤを去って再びガリラヤにおいでになった。その時、サマリアを通らねばならなかったが、ヤコブがその子ヨゼフに与えた畑に近いシカルというサマリアの町に主はおいでになった。そこにはヤコブの泉があった。旅に疲れたイエズスは、その泉のかたわらに座っておられた。昼頃の事だった。”

きっと、イエズス様はお疲れになったのだと思います。食べ物もないし、喉も渇いたし、日は暑いし、ちょうどその泉の所に木陰があって、ちょっとその木陰で腰を下ろしてお休みになっていたのでしょう。

“するとサマリアのある女が水を汲みに来たので、イエズスは『飲ませて下さい』とおおせられた。弟子たちは、食物を買いに町に行っていた。”

おそらくイエズス様はちょうど、このサマリアの女性が来る、水を汲みに来るというのを知っておられたのかもしれません。あるいは来るように、こう御恵みで来るようにさせたのかもしれません。あるいは全て天主の御摂理の内に、それがなるように、ちょうどその時にイエズス様がそこを通るように御計画されたのかもしれません。弟子たちは、「先生、ここで休んでて下さい。お昼を買ってきます」と言って、イエズス様だけを残して行ったのかもしれません。イエズス様も本当に色々のお説教や、色々の事で本当に疲れ切ってしまっていたのでしょう。それも御顔に現れていたのかもしれません。でも全ては御摂理のままでした。

すると、イエズス様がその為に祈っていたサマリアの女性がやって来ます。その彼女が来るのをイエズス様は見つけます。

サマリアは必ずしも正しい教えを守っていませんでした。確かに唯一のヤーウェを信じていましたけれども、しかしそれなりのやり方をしていました。そのような所で子供の頃から住んでいたサマリアの女性は、間違った教えに影響を受けたかもしれません。あるいは近くに住んでサマリアの街に住んでいた、あるいはシカルの町に住んでいた色々な男性から騙されたのかもしれません。あまり良い生活は送っていませんでした。イエズス様はそのこの彼女の霊魂を何とかしたいと思って、最初にこう仰った事が、「飲ませて下さい。お水を飲ませて下さい」とお願いした事でした。

イエズス様は非常に謙遜で、霊魂の事を尊重して、最初からワーッと言うのではなくて、優しく近寄りました。何か「ちょっとした親切をお願いします」と「お水を一杯下さい。」

するとサマリアの女は、軽蔑を以て答えました、「あなたはユダヤ人なのに、サマリアの女の私に飲ませて下さいと仰るのですか。」ユダヤ人とサマリア人は犬猿の仲で、付き合わないのです。

するとイエズス様は、少しずつこのかわいそうなサマリアの婦人に光を与えます、「あなたが天主の恵みを知っているなら、天主の恵みを知って、『飲ませて下さい』と言っている人が誰かを知っているなら、自分の方から『そうさせて下さい』と頼んだに違いない。そしてあなたは生ける水を受けた事だろう。」

何かすごい深い話をしているのだな、という事だけは分かったのですけれども、でもこのサマリアの女性は、その生ける水とか、天主の御恵みとか、自分がこの誰か、この飲ませて下さいと言うのは誰か、という事を、一体何の話をしているのかあまりよく分からなかったようです。

ですから、「主よ、あなたは汲む物も持っておられず、井戸は深いのに、その生ける水をどこから持って来るのですか。私たちにこの井戸を与えてくれた先祖ヤコブよりも、あなたは偉大な方なのですか。ヤコブもその子孫もこの家畜も、この井戸で飲んだのに」と答えます。この地上の水の話しか頭にありません。

でもイエズス様は少しずつ、少しずつ、この霊魂を照らしていきます。最初からこの女性の置かれているやっている生活や、過去の生活等について触れるわけではありませんでした。叱るわけでもありませんでした。辱めるわけでもありませんでした。またこの女性が理解していないという事も、かといって指摘するわけでもありませんでした。やさしく説明します。するとイエズスは、「この水を飲んでもまた渇きを覚えるが、私の与える水を飲む者は、いつまでも渇きを知らないだろう。私が与える水は、その人の中で永遠の命に湧き出る水の泉となる」と仰るのです。

“この水を飲んでもまた渇きを覚えるが、私の与える水を飲む者は、いつまでも乾きを知らないだろう。私が与える水は、その人の中で永遠の命に湧き出る水の泉となる。”

するとこのサマリアの女性の中には、最初は「ユダヤ人だ」と言って軽蔑したのですけれども、だんだんこのイエズス様との、対話をしている人に対しての信頼が沸き起こって来て、今度はお願いします、「主よ、私に二度と渇きを知らず、ここに水を汲みに来ないように、その水を下さい。」

では、イエズス様が水を与える為にはどうしたら良いのでしょうか?永遠の命の水の泉を与える為にはどうしたら良いのでしょうか?清い生活の永遠の命の水の為にはどうしたら良いのでしょうか?

イエズス様は更に言葉を進めます。でもこの時にはですね、叱る事もなく、非常に単純に、更に一歩追います、「あなたの夫を呼びに行って、連れて来なさい。」
するとそのサマリアの女性は、本当の事を言います、「夫はいません。」

するとイエズス様は優しく、単純に、こう言います、「夫がいないというのはよく言った。本当の事だ。あなたには5人の男がいたが、今のは夫ではない。だからあなたの言う事は本当だ。」

こうして、自分の罪の生活についてよく知っているという事を明かされたイエズス様は、かといって説教をするわけでもなく、かといって叱るわけでもありませんでした。

するとこの女性は、「主よ、私は、あなたが預言者だと認めます。私たちの先祖は、この山の上で礼拝しました。それなのに、イエルザレムで礼拝しなければならないと、あなたたちは言っています・・・」と、またユダヤとサマリアの問題について話を移します。

するとイエズス様は、その問題について素晴らしい回答をします。疑いを晴らそうとします、「婦人よ、私のいう事を信じなさい。この山でもなくイエルザレムでもなく、あなたたちが聖父を礼拝する時が来る。あなたたちは知らないものを拝み、私たちは知っているものを拝んでいる。救いはユダヤ人から来る。しかし、真の礼拝者が、霊と真理とをもって聖父を拝む時がくる。いやもう来ている。聖父は、そういう礼拝者を望んでおられる。天主は霊であるから、礼拝者も、霊と真理とをもって礼拝しなければならない。」

するとこのサマリアの女性は、「私は、キリストといわれるメシアがおいでになる事を知っています。その方が見えれば、全ての事を知らせてくださるでしょう」と言うと、イエズス様は、「あなたに話している私がそうだ」と言われました。

イエズス様は、御自分の事を「メシアだ」とか、「俺がそうだ」といった話は一度もないのですけれども、例外が1つだけ、サマリアの女性の時だけでした。「あなたに話している私がそうだ。」

するとこの婦人は、そこに水瓶を置いて町に走って行って、確かにイエズス様がメシアだと信じたわけではないのかもしれませんが、「私がした事を全部話した人がいます。見にいらっしゃい。あの人がメシアではないでしょうか?」と言います。そして人々に、イエズス様についての話をします。自分の良心に咎める事があって、それに動かされたに違いありません。

「この人は非常に単純で、非常に純粋で、優しくて、自分が何をしたかを知っているけれでも、何も『コラ!』とか言わずに、軽蔑もせずに、優しく接して下さっている。この方をメシアとして信じなければならないのかもしれない」とは思っても、でもそこまではまだいってないけれども、でも「他の人にも知ってもらいたい。とても偉大な方がいらっしゃる。」

それで、“その町のサマリア人の多くは、『私がした事を全部話した』と女が証明した事から、イエズスを信じた。そしてイエズスの元に来て、自分たちの所に留まってくださいと頼んだので、二日お留まりになった。”

おそらく、サマリア人はユダヤ人と仲が悪かったので、本当ならば「泊まって下さい」等とは言わないはずなのですけれども、でもイエズス様の場合には、あまりにも聖なる方であって、お優しい方なので、イエズス様には是非泊まって頂きたいと思ったに違いありません。それでその日イエズス様の元にやって来たに違いありません。おそらくイエズス様の元から、今までの罪の赦しを受けたに違いありません。

二日間、イエズス様はサマリアに留まると、その間多くの人々が、イエズス様の御言葉を聞いて信じました。その二日の後には、そのサマリアの女性に向かって、「私たちが信じたのはもうあなたの言葉のためではない。自分で彼の御言葉を聞き、本当に彼こそ、この世の救い主だと確信したからだ」と言うようになりました。

このサマリア人が、イエズス様の事を最初に、「この世の救い主だ」と宣言しました。そして「確信した」と宣言しました。

このサマリア人たちが言った、2000年前に言ったこの言葉を、今でも私たちは繰り返しています、「この世の救い主。」私たちの霊魂の深くを知り尽くして、私たちに必要なものが何かをよく知っていて、それを癒す為に全ての力を持っているイエズス様、世の救い主。

21世紀の私たちも、イエズス様の事を「世の救い主」と言いますけれども、世の終わりまでずっと、「救い主」と言い続ける、そして永遠に言い続けます。なぜかというと、この世はイエズス様の憐れみ深い罪の赦しを必要としているからです。そのような優しい救い主を必要としているからです。

では、10分程の後に、御聖体降福式をします。

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