2018年8月14日(火)イエズスの聖心小黙想会
童貞聖マリアの被昇天の前日のミサ
小野田神父 説教
「イエズスの至聖なる聖心は、御肉体、命を、罪の償いとして屠る為に、愛に満ちてこの地上にやって来られる。」
聖母の汚れなき御心聖堂にようこそ。今日は2018年8月14日、聖母の被昇天の前日のミサをしています。
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
愛する兄弟の皆さん、では私たちは小黙想会の続きを致しましょう。イエズス様の聖心の無限の愛の中に入る、ますます入って行く御恵みを乞い求めましょう。
イエズス様は人類を何とかして助けよう、愛そう、慰めよう、赦そう、教えようと思われました。私たちはそのイエズス様の溢れるような愛を黙想しています。もう一度、人類の置かれた状況を振り返ってみるのを許して下さい。
人間は、この目に見える全ての被造物の全宇宙の王として、無から創造されました。
考えてもみて下さい。もしもEG新御堂の御聖堂に来ると、1階にカメラが付いていて、すぐ顔を認識して、「あ、」見るとドアがガーッと自動に開いて、「あ、誰か来た。うちの聖ピオ十世会の信者さんだ。」ドアが開いて壁に行くと、「あ、この人は御聖堂に行くから、4階まで行く。」
最高のコンピューターで、「Google、OK、今日は何とかが食べたい」と言うと、すると食べたいと言ったものがすぐにオーブンが出てきて、そして「あぁ、コーヒーも欲しい、ブラックコーヒーが欲しい」と言うと出てきたとします。非常に精巧に出てきて、何の苦労もなく、何の汗も流さないで、私たちには文明の最高の力でコンピューターで、全てが与えられたとします。
かといって、コンピューターはそのようなものを、知性的に自ら、何が真理で何が悪であり、何が誤謬であり、何が善で何が悪か、と認識して、その善を愛してこれをやっているわけではありません。ただ人間がそのようにプログラムを作ったので、そうするとただそうしているだけです。
天主はそれよりももっと素晴らしいことをしました。人間がこの地上で全く苦しまないで、この地上で全て幸福に生活する事ができるように、この地上での王として、全宇宙、動植物を人間の奉仕の為に創りました。特別の自然を超える御恵みによって、人間の体は守られていましたし、動物たちも人間の言う通りに従順でした。かといって動物たちに知性があったわけではありません。動物たちもそのように本能によってプログラムされていて、そして生まれては死に、生まれては死に、それだけの命です。植物とても同じです。動物が生まれ変わるとかいう事はありません。
ただ、人間もそうですけれども、たった一回だけの命が与えられて、そして「その生きている間に人間は、天主を愛し、愛し、そして永遠の天主の命に入るように」と創られました。人間だけが、真理と誤謬を、善と悪を認識する事ができるように創られました。人間の霊魂だけが、この物質を超える真理とか、善とか、美というものを知る事ができるように、天主を知る事ができるように、特別の永遠の能力を与えられました。永遠の命が与えられました。そして人間の霊魂だけは、たとえ肉体が滅んでも、決して滅びる事がないものとして創られました。天主は、自然を超える御恵みによって、肉体が決して人間の霊魂から離れないように守って下さっておりました。
苦しみも悲しみもないはずの地上の王であった、被造物の王であったはずの人類は人間は、与えられた特別の真理の知識と、天主への愛と、善を求める愛とをもって、全被造物を代表して、目に見える被造物たちを代表して、これらを天主の為に使って、そして全てを天主へと向ける、天主への愛の為に奉仕させるべき存在でした。
しかし、この頂点に立つ人類が、天主に逆らったのです。正しいあるべき道から敢えて自由意志を使って、乱用して、天主から与えられた最高の頭脳と知性を使って、それを天主の道を歩むのを拒み、自ら自分の力で天主の如くなろうと、創造主のようになろうと、善と悪を自分で判断しようとしました。
アダムとエヴァは、他の自由意志のない知性のない被造物たちができない、その自由意志を以て、天主に反乱する事を選択しました。蛇の言葉を信じる事を選びました。人間の創造主である天主を犯して、罪を犯す事を選択しました。
その時アダムとエヴァは、ほんの束の間、「してはいけない」という事をした、その果実の味を味わった楽しみを覚えました。しかしそれもほんの一瞬の間で、後は後悔と恐れにとらわれました。アダムとエヴァ二人は、天主が、三位一体の天主がどれほど優しい方であるか、どれほど良い方であるか、どれほど自分たちの為に全てを下さった恩人であるか、大恩人であるか、という事をよく知っていました。愛の満ちた方であると。しかしそれと同時に天主は、正義の方であって、全能の方であって、大自然の支配者であって、その力は無限である、この全宇宙を支えておられる方である、という事もよく知っていました。そこでアダムとエヴァは初めて恐怖にとらわれました。恐れにとらわれました。「何という事をしでかしてしまったのだろうか。」、生まれて初めて天主を恐れました。天主からの罰を恐れました。
そこでアダムとエヴァは、自分たちが全く無であった事に、裸である事に気付き、自分の身を隠します。その時、いつもと同じ天主様の、ヤーウェの優しい、甘美な、そして落ち着いた声が聞こえます、「アダム、どこにいるのか。」天主はアダムを探しておられました。天主は愛するアダムの事を求めていました。しかしアダムとエヴァは天主を恐れて身を隠して、初めて身を震わせて、「恐ろしい」と思いました。
天主はこの原罪を犯したアダムとエヴァを、その正義を以て罰せざるを得ませんでした。「なぜ、なぜ食べてはいけないという物を食べたのか。」
「あなたが下さった女が、私に『食べろ』と言ったのです。」
するとヤーウェは女に聞きます、「エヴァ、」エヴァに聞きます。
「あなたが創った蛇が食べろと言いました。だから私は騙されました。」
その時アダムとエヴァは、赦しを求める言葉を発しませんでした。弁解をして、自分の責任ではないかのように、口実をつけました。赦そうとされた天主は、そうして探しに来られた天主は、アダムとエヴァをこの地上の楽園から、幸せな場所から追放せざるを得ませんでした。その幸福のエデンの園が閉ざされた時、ケルヴィムを置いてそこを守らせました。
その時からこの地上は、特別の御恵みを失ってしまったので、本性に従って、貧しい、作物も実らない、普通の土地に変わってしまいました。天候も、今までは人間の為に特別に配慮されていて、特別の御恵みによって、暑くもなく寒くもなく、温暖な素晴らしい気候だったところが、今度は非常に厳しい気候に変わりました。大自然が全く変化してしまいました。動物たちも、その今までの規制を解かれて、御恵みが無くなってしまい、今度は人間を刺す虫が躊躇なく迫ってきたり、毒を与えたり、あるいはバイ菌を吹き回したりする事ができるようになりました。
人間にとって、労働と、苦しみと、辛い、悲しい人生が始まります。アダムとエヴァはその苦しい人生が始まったその時に初めて、夕方あるいは夜の真暗闇とか、あるいは寒い夜、恐ろしい動物たち、狼、獣、あるいは突然彼らを襲う嵐、冬などを体験した事でしょう。
その時、「あぁ、昔は本当によかった。」「あぁ、エデンの庭では本当に美しい、大自然の綺麗な花々と、木の実と、温暖な気候と、いつも私たちを照らしていた太陽と、光と、喜びと、そして楽しみと、いつも従順に従っていた動物たち、」優しい可愛い動物たちの事を思い出していたに違いありません。
それよりもまず、何よりも変えて、天主様と親しく語り合ったあの日々の事。天主はもちろん霊である方ですから、目には見えないのですけれども、しかし天主が実在し、いらっしゃる、天主からの優しい声が目に見えるかのように耳に聞こえるかのように、天主が私たちを愛しているという事がもう肌で感じる事ができるように、アダムとエヴァには知る事ができました。霊である天主の存在をいつも感じていました。それさえも失ってしまいました。
「アダム、お前は一体何をしたのか。」きっと、アダムとエヴァは自問自答した事でしょう。そして自分の犯した罪に対してどれほど涙を流し、どれほど悲しい思い、辛い思いを、後悔の念を起こした事でしょうか。涙を流しても、流しても、流しても、それでも足りませんでした。「あぁ、どうしたら昔のあの幸せな時代に戻る事ができるだろうか。どうしたらあの天主様ともう一度親しくお話して、お近付きになる事ができるだろうか。あぁ、早くまたもう一度昔のように、天主様と親しいお話、天主との親しい友達関係に、友情関係があれば。」
寒い冬、冷たい雨、洞窟の中、暗い闇の中で、あるいは狼や凶暴な動物たちに囲まれて、自分の身を守りながら、アダムとエヴァは空腹を抱え、疲れた体でどれほど祈った事でしょうか。「エヴァ、一緒に、」痛悔の念を捧げた事でしょうか。天主にどれほど叫びの声をあげた事でしょうか、「ヤーウェ、本当にすまない事をしてしまった。あれほどの御恵みを、全く感謝の心もなく…」と。
しかし天は、アダムとエヴァに全くドアを門をピタリと閉めていて、その願いは聞き入れられる余地もないかのようです。叫んでも叫んでも、こだまさえもしません。全く何も聞こえないかのように、耳を閉ざしているかのようです。どうしたら天主との愛を取り戻す事ができるだろうか。罪によって壊されてしまったこの愛の関係を、友情を、あの昔の仲の良い関係を、何とかして取り戻したい。幸せな日々に戻りたい。
大自然を見ると、大自然はますます荒々しく人間たちに迫っています。台風、嵐、竜巻、地震、山火事、獰猛な動物たち。そしてそのような大自然の大きな力を見ると、ますますその荒れ狂うその力を治めていた、天主の全能の力の偉大さ、大自然のこの大宇宙を支配する天主のその大きな力、そして今まであれほど秩序立てておられたその天主の力をますます認識します。それと同時に、「自分はどれほど無力なのか、天主から離れてしまった今となっては、全く自分を守ってくれるものはいない。自然さえも、鎖を放たれた獰猛な犬のように、野獣のように、人間に迫り来る。」全く自分の無に等しい存在、その弱々しさ、か弱さというものを、ますます認識するばかりでした。
しかしそれと同時に、「それでも天主様は何と良いお方であるか。なぜかというと、天主は御怒りのあまり、せっかく私たちに下さった、私とその子孫たちに下さったこの御恵みを全くひっくり返してしまったにもかかわらず、まだ私を生かして下さっている。この地は大地は、まだそれでも花を咲かせている。それでも木の実は、実を付けている。それでも大自然は、それでもこんなに美しい。それでもこの地は、私を飲み込もうとして開かない。鳥は歌うし、花は微笑むし、太陽は輝くし、それでもこの大自然は、私たちにこれほどの恵みをしてくれている。罪を犯したにもかかわらず、天主は私たちにこれほどの恵みを下さった。天主は私たちに服をも下さった。全宇宙が全て人間に対して反乱を起こしたとしても、美と、善と、美しさと、その豊かさが、破壊されて無くなってしまってもおかしくなかったのに、それにもかかわらずこんなにも豊かで、こんなにも美しいものを、まだ残して下さっている。あぁ、何と憐れみ深い天主様なのか。」
アダムとエヴァは、祈りと、黙想と、痛悔の中に、天主をどれほど讃美して、感謝して、そして天主からの赦しを乞い求めた事でしょうか。天主の正義、全能を思い、それに恐れおののく、震えると同時に、天主がこれほど憐れみ深い、という事をますます認識して、そしてその天主に、この憐れみ深い天主に、何とか罪の償いを捧げたい、生贄を捧げたい、自分の砕かれた心を表したい、と思った事でしょう。「もしもできる事ならば、自分の命を捧げて天主に償いを果たしたい」と思った事でしょう。
アダムとエヴァには子供が生まれます。そして大きな祝福を見て、罪の赦しを乞うて、きっと天に、何も耳を閉ざしているような天に、それでも声をあげずには、感謝と讃美と祈りを捧げずにはいられませんでした。
アダムとエヴァは、救い主が約束されていた事を思い出します。跪いて、涙と、汗と、そして苦しみでいっぱいであるこの大地に跪いて、アダムとエヴァは祈りと生贄を捧げようと思った事でしょう。熱烈な果てしのない祈りを捧げたに違いありません。救い主が来られる、それを待つ間に、その救い主のいけにえに合わせて、自分も生贄を捧げたい。
そこでアダムとエヴァが大切に育てていた、あるいは家畜を、あるいは一生懸命手塩を込めて作った一番良い作物、初穂を、詳しくは私たちは聖書に何も書かれていないので分かりませんが、感謝と罪の償いのしるしとして、天主にお捧げしたに違いありません。礼拝と、感謝と、讃美と、罪の償いと、ますますの御恵みを込めて、愛を込めて、最初の生贄を捧げました。
もちろん、アダムがいくらそのような物を捧げたとしても、一体どんな価値があったでしょうか。アダムにとって非常に大切で、一生懸命世話をして、心を込めて、そしてとても便利で有益で、とても良い物であると思ったとしても、そしてそれを全く屠って捧げたとしても、どんな価値があったでしょうか。
アダムのやっている事を見て、その息子であるアベルやカインも生贄を捧げています。創世記によると、「アベルの捧げ物には、天主はこれを嘉された」とあります。なぜかというと、アベルの捧げた子羊は、来たるべき真の天主の子羊、真の、唯一、天主に嘉されるべき、聖子イエズス・キリストの犠牲を思い出させるものであったからです。
しかし全能の天主が、人間にとってどれほど大切であったとしても、その動物が屠られて一体どれほどの満足を得たというのでしょうか。罪人がいくら犠牲を生贄を捧げたとして、一体どれほどの価値があったでしょうか。動物が屠られたとして一体どんな価値があったでしょうか。
しかし天主三位一体は、この人間を愛しておられました。「天主の正義を満足させたい、そして天主からのその友情をもう一度回復させたい、天主からの賜物をもう一度得たい」と願っている人間のその心を理解しておられました。しかしその人間の罪の赦しの為には、無限の天主、無限に聖である天主を犯した人間の罪を償う為には、無限の聖性が、無限に聖なる方がいけにえとならなければなりません。
三位一体の、創られなかった永遠の知恵、イエズス・キリストが聖父に、「自分が人となって、人間となって、私たち罪人の代わりに、最高の司祭として、そして唯一天主聖父の御旨に適ういけにえとして、自分の命を捧げよう」という事を提案します。
そしてイエズス・キリストは、イエズスの至聖なる聖心は、私たちの為に屠られる為に、この地上にお降りになります。私たち人類ができない事を、しかし望むけれどもそれができない事を果たして下さる為に、私たちの無知を照らし、そして私たちを赦し、私たちを慰め、そして私たちに代わって御自ら、浄い御肉体、命を、罪の償いとして屠る為に、愛に満ちてこの地上にやって来られます。このイエズス様の愛の聖心の中に深く入る事ができるように、マリア様にお願い致しましょう。
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
童貞聖マリアの被昇天の前日のミサ
小野田神父 説教
「イエズスの至聖なる聖心は、御肉体、命を、罪の償いとして屠る為に、愛に満ちてこの地上にやって来られる。」
聖母の汚れなき御心聖堂にようこそ。今日は2018年8月14日、聖母の被昇天の前日のミサをしています。
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
愛する兄弟の皆さん、では私たちは小黙想会の続きを致しましょう。イエズス様の聖心の無限の愛の中に入る、ますます入って行く御恵みを乞い求めましょう。
イエズス様は人類を何とかして助けよう、愛そう、慰めよう、赦そう、教えようと思われました。私たちはそのイエズス様の溢れるような愛を黙想しています。もう一度、人類の置かれた状況を振り返ってみるのを許して下さい。
人間は、この目に見える全ての被造物の全宇宙の王として、無から創造されました。
考えてもみて下さい。もしもEG新御堂の御聖堂に来ると、1階にカメラが付いていて、すぐ顔を認識して、「あ、」見るとドアがガーッと自動に開いて、「あ、誰か来た。うちの聖ピオ十世会の信者さんだ。」ドアが開いて壁に行くと、「あ、この人は御聖堂に行くから、4階まで行く。」
最高のコンピューターで、「Google、OK、今日は何とかが食べたい」と言うと、すると食べたいと言ったものがすぐにオーブンが出てきて、そして「あぁ、コーヒーも欲しい、ブラックコーヒーが欲しい」と言うと出てきたとします。非常に精巧に出てきて、何の苦労もなく、何の汗も流さないで、私たちには文明の最高の力でコンピューターで、全てが与えられたとします。
かといって、コンピューターはそのようなものを、知性的に自ら、何が真理で何が悪であり、何が誤謬であり、何が善で何が悪か、と認識して、その善を愛してこれをやっているわけではありません。ただ人間がそのようにプログラムを作ったので、そうするとただそうしているだけです。
天主はそれよりももっと素晴らしいことをしました。人間がこの地上で全く苦しまないで、この地上で全て幸福に生活する事ができるように、この地上での王として、全宇宙、動植物を人間の奉仕の為に創りました。特別の自然を超える御恵みによって、人間の体は守られていましたし、動物たちも人間の言う通りに従順でした。かといって動物たちに知性があったわけではありません。動物たちもそのように本能によってプログラムされていて、そして生まれては死に、生まれては死に、それだけの命です。植物とても同じです。動物が生まれ変わるとかいう事はありません。
ただ、人間もそうですけれども、たった一回だけの命が与えられて、そして「その生きている間に人間は、天主を愛し、愛し、そして永遠の天主の命に入るように」と創られました。人間だけが、真理と誤謬を、善と悪を認識する事ができるように創られました。人間の霊魂だけが、この物質を超える真理とか、善とか、美というものを知る事ができるように、天主を知る事ができるように、特別の永遠の能力を与えられました。永遠の命が与えられました。そして人間の霊魂だけは、たとえ肉体が滅んでも、決して滅びる事がないものとして創られました。天主は、自然を超える御恵みによって、肉体が決して人間の霊魂から離れないように守って下さっておりました。
苦しみも悲しみもないはずの地上の王であった、被造物の王であったはずの人類は人間は、与えられた特別の真理の知識と、天主への愛と、善を求める愛とをもって、全被造物を代表して、目に見える被造物たちを代表して、これらを天主の為に使って、そして全てを天主へと向ける、天主への愛の為に奉仕させるべき存在でした。
しかし、この頂点に立つ人類が、天主に逆らったのです。正しいあるべき道から敢えて自由意志を使って、乱用して、天主から与えられた最高の頭脳と知性を使って、それを天主の道を歩むのを拒み、自ら自分の力で天主の如くなろうと、創造主のようになろうと、善と悪を自分で判断しようとしました。
アダムとエヴァは、他の自由意志のない知性のない被造物たちができない、その自由意志を以て、天主に反乱する事を選択しました。蛇の言葉を信じる事を選びました。人間の創造主である天主を犯して、罪を犯す事を選択しました。
その時アダムとエヴァは、ほんの束の間、「してはいけない」という事をした、その果実の味を味わった楽しみを覚えました。しかしそれもほんの一瞬の間で、後は後悔と恐れにとらわれました。アダムとエヴァ二人は、天主が、三位一体の天主がどれほど優しい方であるか、どれほど良い方であるか、どれほど自分たちの為に全てを下さった恩人であるか、大恩人であるか、という事をよく知っていました。愛の満ちた方であると。しかしそれと同時に天主は、正義の方であって、全能の方であって、大自然の支配者であって、その力は無限である、この全宇宙を支えておられる方である、という事もよく知っていました。そこでアダムとエヴァは初めて恐怖にとらわれました。恐れにとらわれました。「何という事をしでかしてしまったのだろうか。」、生まれて初めて天主を恐れました。天主からの罰を恐れました。
そこでアダムとエヴァは、自分たちが全く無であった事に、裸である事に気付き、自分の身を隠します。その時、いつもと同じ天主様の、ヤーウェの優しい、甘美な、そして落ち着いた声が聞こえます、「アダム、どこにいるのか。」天主はアダムを探しておられました。天主は愛するアダムの事を求めていました。しかしアダムとエヴァは天主を恐れて身を隠して、初めて身を震わせて、「恐ろしい」と思いました。
天主はこの原罪を犯したアダムとエヴァを、その正義を以て罰せざるを得ませんでした。「なぜ、なぜ食べてはいけないという物を食べたのか。」
「あなたが下さった女が、私に『食べろ』と言ったのです。」
するとヤーウェは女に聞きます、「エヴァ、」エヴァに聞きます。
「あなたが創った蛇が食べろと言いました。だから私は騙されました。」
その時アダムとエヴァは、赦しを求める言葉を発しませんでした。弁解をして、自分の責任ではないかのように、口実をつけました。赦そうとされた天主は、そうして探しに来られた天主は、アダムとエヴァをこの地上の楽園から、幸せな場所から追放せざるを得ませんでした。その幸福のエデンの園が閉ざされた時、ケルヴィムを置いてそこを守らせました。
その時からこの地上は、特別の御恵みを失ってしまったので、本性に従って、貧しい、作物も実らない、普通の土地に変わってしまいました。天候も、今までは人間の為に特別に配慮されていて、特別の御恵みによって、暑くもなく寒くもなく、温暖な素晴らしい気候だったところが、今度は非常に厳しい気候に変わりました。大自然が全く変化してしまいました。動物たちも、その今までの規制を解かれて、御恵みが無くなってしまい、今度は人間を刺す虫が躊躇なく迫ってきたり、毒を与えたり、あるいはバイ菌を吹き回したりする事ができるようになりました。
人間にとって、労働と、苦しみと、辛い、悲しい人生が始まります。アダムとエヴァはその苦しい人生が始まったその時に初めて、夕方あるいは夜の真暗闇とか、あるいは寒い夜、恐ろしい動物たち、狼、獣、あるいは突然彼らを襲う嵐、冬などを体験した事でしょう。
その時、「あぁ、昔は本当によかった。」「あぁ、エデンの庭では本当に美しい、大自然の綺麗な花々と、木の実と、温暖な気候と、いつも私たちを照らしていた太陽と、光と、喜びと、そして楽しみと、いつも従順に従っていた動物たち、」優しい可愛い動物たちの事を思い出していたに違いありません。
それよりもまず、何よりも変えて、天主様と親しく語り合ったあの日々の事。天主はもちろん霊である方ですから、目には見えないのですけれども、しかし天主が実在し、いらっしゃる、天主からの優しい声が目に見えるかのように耳に聞こえるかのように、天主が私たちを愛しているという事がもう肌で感じる事ができるように、アダムとエヴァには知る事ができました。霊である天主の存在をいつも感じていました。それさえも失ってしまいました。
「アダム、お前は一体何をしたのか。」きっと、アダムとエヴァは自問自答した事でしょう。そして自分の犯した罪に対してどれほど涙を流し、どれほど悲しい思い、辛い思いを、後悔の念を起こした事でしょうか。涙を流しても、流しても、流しても、それでも足りませんでした。「あぁ、どうしたら昔のあの幸せな時代に戻る事ができるだろうか。どうしたらあの天主様ともう一度親しくお話して、お近付きになる事ができるだろうか。あぁ、早くまたもう一度昔のように、天主様と親しいお話、天主との親しい友達関係に、友情関係があれば。」
寒い冬、冷たい雨、洞窟の中、暗い闇の中で、あるいは狼や凶暴な動物たちに囲まれて、自分の身を守りながら、アダムとエヴァは空腹を抱え、疲れた体でどれほど祈った事でしょうか。「エヴァ、一緒に、」痛悔の念を捧げた事でしょうか。天主にどれほど叫びの声をあげた事でしょうか、「ヤーウェ、本当にすまない事をしてしまった。あれほどの御恵みを、全く感謝の心もなく…」と。
しかし天は、アダムとエヴァに全くドアを門をピタリと閉めていて、その願いは聞き入れられる余地もないかのようです。叫んでも叫んでも、こだまさえもしません。全く何も聞こえないかのように、耳を閉ざしているかのようです。どうしたら天主との愛を取り戻す事ができるだろうか。罪によって壊されてしまったこの愛の関係を、友情を、あの昔の仲の良い関係を、何とかして取り戻したい。幸せな日々に戻りたい。
大自然を見ると、大自然はますます荒々しく人間たちに迫っています。台風、嵐、竜巻、地震、山火事、獰猛な動物たち。そしてそのような大自然の大きな力を見ると、ますますその荒れ狂うその力を治めていた、天主の全能の力の偉大さ、大自然のこの大宇宙を支配する天主のその大きな力、そして今まであれほど秩序立てておられたその天主の力をますます認識します。それと同時に、「自分はどれほど無力なのか、天主から離れてしまった今となっては、全く自分を守ってくれるものはいない。自然さえも、鎖を放たれた獰猛な犬のように、野獣のように、人間に迫り来る。」全く自分の無に等しい存在、その弱々しさ、か弱さというものを、ますます認識するばかりでした。
しかしそれと同時に、「それでも天主様は何と良いお方であるか。なぜかというと、天主は御怒りのあまり、せっかく私たちに下さった、私とその子孫たちに下さったこの御恵みを全くひっくり返してしまったにもかかわらず、まだ私を生かして下さっている。この地は大地は、まだそれでも花を咲かせている。それでも木の実は、実を付けている。それでも大自然は、それでもこんなに美しい。それでもこの地は、私を飲み込もうとして開かない。鳥は歌うし、花は微笑むし、太陽は輝くし、それでもこの大自然は、私たちにこれほどの恵みをしてくれている。罪を犯したにもかかわらず、天主は私たちにこれほどの恵みを下さった。天主は私たちに服をも下さった。全宇宙が全て人間に対して反乱を起こしたとしても、美と、善と、美しさと、その豊かさが、破壊されて無くなってしまってもおかしくなかったのに、それにもかかわらずこんなにも豊かで、こんなにも美しいものを、まだ残して下さっている。あぁ、何と憐れみ深い天主様なのか。」
アダムとエヴァは、祈りと、黙想と、痛悔の中に、天主をどれほど讃美して、感謝して、そして天主からの赦しを乞い求めた事でしょうか。天主の正義、全能を思い、それに恐れおののく、震えると同時に、天主がこれほど憐れみ深い、という事をますます認識して、そしてその天主に、この憐れみ深い天主に、何とか罪の償いを捧げたい、生贄を捧げたい、自分の砕かれた心を表したい、と思った事でしょう。「もしもできる事ならば、自分の命を捧げて天主に償いを果たしたい」と思った事でしょう。
アダムとエヴァには子供が生まれます。そして大きな祝福を見て、罪の赦しを乞うて、きっと天に、何も耳を閉ざしているような天に、それでも声をあげずには、感謝と讃美と祈りを捧げずにはいられませんでした。
アダムとエヴァは、救い主が約束されていた事を思い出します。跪いて、涙と、汗と、そして苦しみでいっぱいであるこの大地に跪いて、アダムとエヴァは祈りと生贄を捧げようと思った事でしょう。熱烈な果てしのない祈りを捧げたに違いありません。救い主が来られる、それを待つ間に、その救い主のいけにえに合わせて、自分も生贄を捧げたい。
そこでアダムとエヴァが大切に育てていた、あるいは家畜を、あるいは一生懸命手塩を込めて作った一番良い作物、初穂を、詳しくは私たちは聖書に何も書かれていないので分かりませんが、感謝と罪の償いのしるしとして、天主にお捧げしたに違いありません。礼拝と、感謝と、讃美と、罪の償いと、ますますの御恵みを込めて、愛を込めて、最初の生贄を捧げました。
もちろん、アダムがいくらそのような物を捧げたとしても、一体どんな価値があったでしょうか。アダムにとって非常に大切で、一生懸命世話をして、心を込めて、そしてとても便利で有益で、とても良い物であると思ったとしても、そしてそれを全く屠って捧げたとしても、どんな価値があったでしょうか。
アダムのやっている事を見て、その息子であるアベルやカインも生贄を捧げています。創世記によると、「アベルの捧げ物には、天主はこれを嘉された」とあります。なぜかというと、アベルの捧げた子羊は、来たるべき真の天主の子羊、真の、唯一、天主に嘉されるべき、聖子イエズス・キリストの犠牲を思い出させるものであったからです。
しかし全能の天主が、人間にとってどれほど大切であったとしても、その動物が屠られて一体どれほどの満足を得たというのでしょうか。罪人がいくら犠牲を生贄を捧げたとして、一体どれほどの価値があったでしょうか。動物が屠られたとして一体どんな価値があったでしょうか。
しかし天主三位一体は、この人間を愛しておられました。「天主の正義を満足させたい、そして天主からのその友情をもう一度回復させたい、天主からの賜物をもう一度得たい」と願っている人間のその心を理解しておられました。しかしその人間の罪の赦しの為には、無限の天主、無限に聖である天主を犯した人間の罪を償う為には、無限の聖性が、無限に聖なる方がいけにえとならなければなりません。
三位一体の、創られなかった永遠の知恵、イエズス・キリストが聖父に、「自分が人となって、人間となって、私たち罪人の代わりに、最高の司祭として、そして唯一天主聖父の御旨に適ういけにえとして、自分の命を捧げよう」という事を提案します。
そしてイエズス・キリストは、イエズスの至聖なる聖心は、私たちの為に屠られる為に、この地上にお降りになります。私たち人類ができない事を、しかし望むけれどもそれができない事を果たして下さる為に、私たちの無知を照らし、そして私たちを赦し、私たちを慰め、そして私たちに代わって御自ら、浄い御肉体、命を、罪の償いとして屠る為に、愛に満ちてこの地上にやって来られます。このイエズス様の愛の聖心の中に深く入る事ができるように、マリア様にお願い致しましょう。
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。