2016年8月13日 聖母黙想会 シュテーリン神父様講話【10】
同時通訳:小野田圭志神父
先程は1つにまとめてお話をしようと思ったのですけれども、私たちの小さな頭にはそれを全て詰め込むのは難しいので、2つに分けて、後半の分を今から話します。
この「まことの信心」を聖グリニョン・ド・モンフォールに与えたのはマリア様ですから、マリア様がそれにインスピレーションを与えて下さったので、マリア様がそのこれをこういう形で提示するのを望みました。
今から122番の真ん中ぐらいのところに行きます。
マリア様は次の事を望んでいます。「罪の償いとなる善業、功徳となる善業、」別の言葉で言うと、「罪を償う価値、天主様に何かを祈りで祈求できる価値を持つ善業と、功徳となる価値を持つ善業、全てをマリア様に与える」という事です。
腐ったりんごの話を覚えていらっしゃいますか?償いの価値とか、功徳の価値というのも、どのように捧げたところでも、天主様の目から見ると、腐ったりんごのようにしか見えません。天主様に対する祈りも、天主様の目から見れば、一体どんな価値があるでしょうか。天主様の目から見れば、どれほど聖なる方々の生活も、聖なる方々のなさった祈りも、全く無に等しいと思われるに違いありません。
しかし、この「まことの信心」によっては、私たちの腐ったりんごのようなお祈りも、功徳も、マリア様の綺麗な籠の中に入れるので、価値を持ちます。私たちの腐ったようなりんごそれ自体では、全く汚らしくて、価値も無いようなものですけれども、マリア様の籠の中に入れられる事によって、綺麗になって、それはとても聖心に心地良いものとなります。このまことの信心によって私たちは更に、公的に与える事ができるよりも更に、もっと与える事になります。
この地上における色々な団体がありますけれども、それらのうちに、一体どのようなものが天主様に最も栄光を与えているでしょうか?
それは「修道会」で、修道生活によって全生涯を捧げる人々です。修道生活を捧げる人によっては、誓願を立てる事によって、誓願を立ていない人よりももっと大きな功徳と価値を与えています。
123番にこの事が書かれています。123番の第2段落です。この日本語では第3段落ですけれども、“修道者は、清貧の誓願によって、自分の地上の財産を天主様に捧げます。貞潔の誓願によって、自分の体を捧げます。従順の誓願によって、自分の意志をも捧げます。”
どのような修道会の最も厳しいものであっても、例えばカプチン会とか或いはカルトジオ会とかでも、「自分の善業の価値を自由に処分して良い」という事は捧げません。
124番をご覧下さい。これは先程まで申し上げた事の結論として、こう言います、“自発的に、マリア様を通して自分をイエズス様に奴隷として与える人は、この善業の価値さえも自分で処分する事ができなくなるのです。”
これはどういう事かというと、皆さんがお祈りをした時、あるいは善業をした時、あるいは苦しみや十字架を捧げた時、それは皆さんご自身のものです。これは皆さんの聖化の為に捧げる事もできますし、煉獄の霊魂に捧げる事もできます。この地上の誰かの為に捧げる事もできます。自由意志に任せて、この「どのようにそれを使うか」という事は決められる事ができます。
でもこの奉献をする事によって、それさえも、その権利さえも放棄します。このようなとても大切な事は、皆さんにも属する事ではなくなります。すると、「私はこのお祈りを、この意向の為に捧げます」という事はできなくなります。「私はこのロザリオを、この意向の為に」「この連祷をこの意向の為に」とはできなくなります。もしも奉献すると、もうそうはできなくなります。マリア様に全てを捧げたので、マリア様の望みのままになります。
でも特別な規則があります。マリア様は決して、天主様への愛を破壊するような方ではありません。ところで天主様は、特定の人には、特定の身分上の義務を与えています。
例えば司祭。例えば天主様は司祭に、「小教区の教区民の為に祈りなさい」という義務を与えています。あるいは「ミサをこの意向の為に捧げて下さい」と依頼されます。
家族は、その「自分の子供たちの為に、あるいは自分の妻の為に、あるいは夫の為に祈る」という義務を持っています。
これは天主様の愛の掟であります。この掟をマリア様は破らせる事はありません。それをマリア様は尊重します。
ですから、「マリア様、そのこれは、この為に祈るのは義務ですから、マリア様どうぞ私と一緒になさって下さい」と言う事ができます。その他の意向については、マリア様の良い思し召しのままに、そのお気に入りのままに任せて下さい。
「私のこの特別のお友達の為にお祈りしたい」とか、例えば「この御聖体拝領を、特定の、煉獄にいる神父様の為に捧げます」等と言う事ができなくなります。私たちはこの全ての善業、全てのお祈りを、マリア様の意向に捧げなければなりません。私たちが言う事ができるのは、「マリア様、お母様、私はこの神父様の、煉獄にいる神父様の霊魂の為に捧げたいのですけれども、私のものではないので、マリア様のご自由になさって下さい」と言う事ができるだけです。
もう1つの手段は、この奉献によって究極に捧げる対象というのは、イエズス様です。私たちは全てを、イエズス様に究極的には捧げるのですけれども、マリア様を通して捧げます。125番に聖グリニョン・ド・モンフォールはもう一度繰り返してこう言います、“私たちは自分自身を、み母マリアとイエズスとに同時に捧げ尽くす事になります。”
イエズス様こそ、私たちの究極の目的であります。イエズス様と一体となる事が、キリスト教の核心であります。「生けるとは、我にとりてキリストなり」と。私たちはイエズス様に従い、イエズス様に倣い、イエズス様と一致しなければなりません。でもイエズス様に従う為に、イエズス様に真似る為に、イエズス様と一致する為に最高の手段が、「マリア様と一致する」という事です。
聖グリニョン・ド・モンフォールはこの素晴らしいやり方に、2つの考察をします。この2つの事を是非覚えて下さい。
最初の考察は、ちょっと驚くかもしれません。今までこの申し上げた事を、聖グリニョン・ド・モンフォールは洗礼の秘跡に関連付けています。
洗礼を受けると、悪魔の支配下から逃れて、イエズス様の元に行きます。私たちを永遠の地獄の破滅から救って下さったイエズス様の御血のおかげによって、洗礼の前の悪魔の奴隷状態から、洗礼を受ける事によって解放されます。この洗礼を受ける時に、その「悪魔の業を捨てる、悪魔の支配下から抜ける」という事で洗礼の約束をしました。もしも洗礼を、成人になってから洗礼を受けた方は、これを自分自身で、この荘厳に誓った洗礼の約束があります。赤ちゃんの時に受けた方は、幼児洗礼の方は、代父母の方が代わってこの約束をしてくれました。ではこの洗礼の約束は何でしょうか?
「あなたは悪魔を捨てますか?」
「はい。」
「では、その悪魔の業を捨てますか?」
「そしてその全ての栄華を捨てますか?」
「あなたはイエズス・キリストを信じますか?」
洗礼の約束というのはつまり、「悪魔の支配下にはもう全くなくて、悪魔とはもう一切関係がない」という事を宣言する事です。「悪魔の代わりに、これからは、イエズス様こそ私の主であり、王である」と宣言する事です。人間が地上において約束する事ができる、最高の、最大の、荘厳な誓いです。
では、私たちの洗礼の約束はどうなったでしょうか?洗礼を受ける、という事によって私たちは、「イエズス様こそ、私たちの主人であり、王である」と認めました。天の全ての聖人と、この地上の全ての人々の前で、教会の前で、荘厳に、「これからは、イエズス・キリストに従って生活する」と約束しました。ではよく自分に尋ねて下さい。この洗礼の約束はどうなってしまったのか?
まず、洗礼の約束の事を考えた事があっただろうか?
次に、洗礼の約束を破ってばかりだったではないか?
罪を犯す為に、最も荘厳に、最も聖なる約束を破り続けてきた。友達がいて、その友達にした約束を破り続けていたら、そのような友情は長続きしません。私たちはその自分のした約束を守り続ける事ができなかったのです。私たちのできる力を超えたような約束をしてきました。私たちは心を込めて、力を尽くして、精神を込めて、イエズス様に従ってきませんでした。でもこの洗礼の約束を守らない限り、私たちは洗礼の約束に結び付いた御恵みを天主から受ける事ができないのです。
イエズス様は言いました、「信じて、洗礼を受ける者は救われる。」これは、単にこのただ水を受けて、洗礼の秘跡を受けれれば良い、という訳ではありません。この「洗礼の秘跡の御恵みを受けて、その洗礼に従って生活する」という事が必要です。
でも残念ながら、私たちについてはそうではありませんでした。ですから、永遠の命が受けれるかどうか、危険な状態になっています。私たちは特別な御恵みを頂いて、宝を頂きながら、それをいつも捨て去っています。ちょっとした誘惑、ちょっとした困難に遭うと、それを全てバッと打ち捨ててしまいます。
そのような弱い私たちを助ける為に、マリア様が与えられました。マリア様が何をなさりたいかというと、「私たちがその天主様にした約束を守る事ができるように助けたい」と思っています。
私たちが今からしようとするこの奉献は、イエズス様の聖心に非常に適うものです。なぜかというと、この奉献によって、洗礼の約束を新たにするからです。もう一度これによって、悪魔と、その業と、その栄華を打ち捨てます。
今回は自分の、持っていない私の自分の力に頼るのではありません。なぜかというと、そのような力を持っていないのですから。そうではなくて今回は、マリア様に全て依頼して、信頼してこの約束をします。なぜかというと、マリア様だけが、天主様から、悪魔のサタンの頭を踏み砕く力を得たからです。
マリア様の助けを以て悪魔を捨て、そしてその業を捨て、全て、私たちの持っている全てをイエズス様に捧げます。このグリニョン・ド・モンフォールによれば、「このマリア様を通した洗礼の約束の更新は、洗礼の約束のその時よりも、もっと聖心に、イエズス様の聖心に適うものだ」と言っています。
なぜかというと、多くの場合、この洗礼の時には代父母が、私たちの代わりに私たちの名前でやりましたけれども、この奉献は私たちが自ら、マリア様を通してするからです。洗礼の時には、マリア様の事はその名前が出ませんでした。また洗礼の時には、この奉献がどのような範囲まで及ぶのか、という事を詳しくは言及されていませんでした。でもこの奉献によって、はっきりと明確に、「何と、何を、全てを、マリア様を通してイエズス様に捧げる」と言われます。「私たちの功徳や、罪の償いの価値、全てを」はっきりと名前を出しながら、「全てを捧げる」と言います。
127番から130番までをご覧になると、5回、5つ、教会の権威を引用します。この引用を見ると、カトリックの教えである教会の教えである洗礼の約束が、どれほど重要であるか、という事がよく分かります。
127番を読みます、“聖トマス・アクィナスが言っているように、人は洗礼の時、『悪魔とその栄華を捨てる』と、天主に誓います。そして聖アウグスチノが言っているように、この誓いは、人間が立てる誓いの中で、一番大きな、一番免除不可能な誓いです。教会法学者も言っている通り、私たちが洗礼の時に天主に立てる誓いこそ、人間の誓いの中で一番重大な誓いです。“
“ところで、この一番大きな誓いを完全に守っている人はいますか?その洗礼の約束を忠実に守っている人がいますか?”
“ほとんど全てのキリスト信者が、洗礼の時、イエズス・キリストに約束した忠誠を破棄しているではありませんか。この世界的反逆はどこから来るのでしょうか?”
“洗礼の約束と誓いの忘却からこそ。洗礼の時、代父母を通して天主と結んだ契約を、ほとんど誰もが是認しないからこそ。”
教会の権威は、「この約束がどれほど大切か」という事を教えているにもかかわらず、恥ずかしい事に私たちは、この約束が大事である、という事を今まで無視してきました。
私たちはそれを、この約束を守ってこなかったばかりでなく、私たちはそれを考えてすらきませんでした。この人生を変えるような、この荘厳な、最も荘厳な誓いを立てておきながら、それ以後、その事についてケロリと忘れるという事はどのような事でしょうか。誰かが荘厳な結婚をして、その結婚をしたその直後、結婚の事をコロッと忘れる人がいたと考えて下さい。
このようなおかしな状況を是正する為に、天主様はマリア様を送られました。マリア様だけが遂に、ようやく、私たちが洗礼の約束を守る事ができるように助けてくれます。
洗礼というのは、私たちの人生の中で御恵みの源です。私たちの霊魂に刻まれた、洗礼の時に受けた刻印、霊魂の刻印は、決して消え去る事がありません。私たちがこの洗礼に忠実であれば忠実であるほど、泉からこう清い水が湧き出るように、イエズス・キリストがますますドクドクと湧き出て、私たちが成長する御恵みに満ち溢れます。
第2の考察は、この奉献に対して、反論に答える、という事です。132から134番をご覧下さい。そうすると、反論に答えています。
反論1.「あぁ神父様、もしもこのような大きな奉献は、他の誰かのお友達や、誰か自分の大切な人の為にお祈りする事ができなくなります。でも天主の掟によれば、隣人を愛さなければなりません。その隣人愛の掟を守る事ができなくなります。そうすると、私の愛すべき人々に対して何もする事ができなくなって、私には力が無くなってしまって、全く無能になってしまいます。」
聖グリニョン・ド・モンフォールはこう答えます。132です。
“私たちが、イエズス・キリストとその御母マリアへの奉仕に、自分自身を残りくまなく捧げ尽くしたが為に、私たちの友人、両親、恩人が損をする、という事はとても信じられません。そう考えるのは、イエズスとマリアの全能と慈悲に対して侮辱を加える事です。イエズス様もマリア様も、私たちの小さな霊的収入で、または他の方法で、もっと更に良い方法で、私たちの友人、両親、恩人を助ける方法をちゃんと御存知です。”
マリア様がご自分の思い、このちょっとしたこう気分によって、このコロコロ変わるような気分で、この友人の為には何もしない、という事は考えられると思いますか?
反論2.「私は全てマリア様に与えたので、もう私は誰にも他の人の為にはお祈りする事ができません。私のする事は、こう誰かの為にお祈りして、『マリア様、好きになさって下さい。』これだけです。」
答えはその反対です。この奉献をしたからといって、他の方々の為にお祈りする、という事は矛盾しません。もしもマリア様の為に全てを捧げたとしたら、厳密な意味では権利が、これはこの人の為、これはこの人の為、というのはありません。しかし、私たちが他の人々の為にお祈りする、というのはとても勧められている事です。私たちはこの奉献の後でも、他の人々の為に更にもっと多く祈らなければなりません。でもそれは権利があるからではなくて、ただ権利だから祈るのではなくて、ただそれはマリア様に信頼して、奴隷の祈りとして、そう隣人の為に祈るのです。
グリニョン・ド・モンフォールは美しい例を挙げています。
例えばここに金持ちがいて、自分の殿様に最も敬意を表す為に、全財産を提供すると仮定しましょう。ところでこのお殿様にたくさんの全財産をあげたこの家来が、友達がたくさんいて、この友達が「ちょっと恵んでほしい」と言ったとします。すると、今までと同じようにこの友人を助けたいと思っています。でもこの家来は全てお殿様に、自分の財産を与えてしまいました。ですからこの家来がする事は、大きな信頼を持って、お殿様の方に行く事です。「ところでお殿様、私はあなたに全ての全財産を捧げたのですけれども、このお友達が非常にこの困っていますが、ちょっと助けて頂く事はできますか?」お殿様はそのようなお願いを聞いて、 喜ぶに決まっています。自分にもっと敬意を表す為に極貧となったこの人に、恩返しをするチャンスが与えられたからです。
イエズス様とマリア様に関しても、恩返しの点では誰にも負けていません。
聖グリニョン・ド・モンフォールが言うには、「何と素晴らしい事でしょうか。私たちはマリア様に全てを与えます。何も残っていません。」
「マリア様、私はマリア様に全てを与え尽くしました。でもこのお友達が必要としています。マリア様、親切にこの優しく、この方の為に何かしてあげる事はできませんか?」あるいは、知っている方や愛している方々が煉獄で苦しんでいる。マリア様はこういう風に答える事でしょう、「もし、あなたがお祈りした功徳をこの霊魂に適用されるならば、きっとあなたの祈りのおかげで、1年か2年煉獄が短くなる事でしょう。でもあなたは私に全て功徳を与え尽くしてしまったので、そしてあなたが私に、このあなたが愛している霊魂が煉獄に苦しんでいるので助けてほしい、と頼んでいるので、私はあなたのお祈りを使うだけでなくて、全てを使って、今煉獄から救ってあげましょう。」
マリア様を通してなさると、私たちが当然の権利として受けるべきであるものよりも、100倍のものを、マリア様の憐れみによって、親切によって、受けるでしょう。
133番に、反論のその最後の答えがあります。
反論3.「もしも私が全てマリア様に、功徳を善業を全部捧げるとしたら、私は罪の償いをする事が、自分に使う事ができないので、私は煉獄で償わなければなりません。ですから煉獄で長い間、天国に行くまで待たなければなりません。ですから、もしも全て功徳をマリア様に与えてしまったら、私はずっと煉獄にいる事になってしまいます。なぜかというと、私は罪の為にたくさんの償いが残っているからです。」
聖グリニョン・ド・モンフォールはにこりと笑ってこう答えます、「これは、自己愛からくる反論だ。もしもそのように考えるならば、イエズス様とマリア様を何も知っていない事になります。」
“こんなに天主の奉仕に熱心で、こんなに惜しみない心を持った人が、自分の利益よりも天主の利益を優先する人が、これ以上何もできないというほど天主に全てを捧げた人が、マリアを通してイエズス・キリストの栄光と御国の到来しか祈求していない人が、その為に自分を全て犠牲にしている人が、このように広い心を持った人が、この世で天主の奉仕に他の人よりももっとおおらかで、もっと無欲だった、というたった1つの理由で、この他の人よりも重く罰せればならないとしたら、どういう事になりますか?”
これが反論に対する答えです。
こうやって聖グリニョン・ド・モンフォールは、私たちが簡単に聖人になる道を示してくれます。マリア様のおかげで、ようやく洗礼の約束の通りに生活する事ができるようになります。これが、天主様が私たちにこうあって欲しいと思っている御旨です。
こうする事によって、自分から解放されて、マリア様を通して、自由に、執着なく、天主様を愛する事ができるようになります。120番から134番までを注意深くお読みになって下さい。
あともう1つですね、講話を付け加えなければなりませんけれども、本当なら1回のところが2回になってしまったので、皆さんの許可を得て、夕食の後に、短い講話を付け加える事を許して下さい。今日は13日で、毎月13日には私たちは小さな犠牲をファチマのマリア様の為に捧げる、という事を決意したので、今回その講話を犠牲として捧げて下さい。(^^;)
同時通訳:小野田圭志神父
先程は1つにまとめてお話をしようと思ったのですけれども、私たちの小さな頭にはそれを全て詰め込むのは難しいので、2つに分けて、後半の分を今から話します。
この「まことの信心」を聖グリニョン・ド・モンフォールに与えたのはマリア様ですから、マリア様がそれにインスピレーションを与えて下さったので、マリア様がそのこれをこういう形で提示するのを望みました。
今から122番の真ん中ぐらいのところに行きます。
マリア様は次の事を望んでいます。「罪の償いとなる善業、功徳となる善業、」別の言葉で言うと、「罪を償う価値、天主様に何かを祈りで祈求できる価値を持つ善業と、功徳となる価値を持つ善業、全てをマリア様に与える」という事です。
腐ったりんごの話を覚えていらっしゃいますか?償いの価値とか、功徳の価値というのも、どのように捧げたところでも、天主様の目から見ると、腐ったりんごのようにしか見えません。天主様に対する祈りも、天主様の目から見れば、一体どんな価値があるでしょうか。天主様の目から見れば、どれほど聖なる方々の生活も、聖なる方々のなさった祈りも、全く無に等しいと思われるに違いありません。
しかし、この「まことの信心」によっては、私たちの腐ったりんごのようなお祈りも、功徳も、マリア様の綺麗な籠の中に入れるので、価値を持ちます。私たちの腐ったようなりんごそれ自体では、全く汚らしくて、価値も無いようなものですけれども、マリア様の籠の中に入れられる事によって、綺麗になって、それはとても聖心に心地良いものとなります。このまことの信心によって私たちは更に、公的に与える事ができるよりも更に、もっと与える事になります。
この地上における色々な団体がありますけれども、それらのうちに、一体どのようなものが天主様に最も栄光を与えているでしょうか?
それは「修道会」で、修道生活によって全生涯を捧げる人々です。修道生活を捧げる人によっては、誓願を立てる事によって、誓願を立ていない人よりももっと大きな功徳と価値を与えています。
123番にこの事が書かれています。123番の第2段落です。この日本語では第3段落ですけれども、“修道者は、清貧の誓願によって、自分の地上の財産を天主様に捧げます。貞潔の誓願によって、自分の体を捧げます。従順の誓願によって、自分の意志をも捧げます。”
どのような修道会の最も厳しいものであっても、例えばカプチン会とか或いはカルトジオ会とかでも、「自分の善業の価値を自由に処分して良い」という事は捧げません。
124番をご覧下さい。これは先程まで申し上げた事の結論として、こう言います、“自発的に、マリア様を通して自分をイエズス様に奴隷として与える人は、この善業の価値さえも自分で処分する事ができなくなるのです。”
これはどういう事かというと、皆さんがお祈りをした時、あるいは善業をした時、あるいは苦しみや十字架を捧げた時、それは皆さんご自身のものです。これは皆さんの聖化の為に捧げる事もできますし、煉獄の霊魂に捧げる事もできます。この地上の誰かの為に捧げる事もできます。自由意志に任せて、この「どのようにそれを使うか」という事は決められる事ができます。
でもこの奉献をする事によって、それさえも、その権利さえも放棄します。このようなとても大切な事は、皆さんにも属する事ではなくなります。すると、「私はこのお祈りを、この意向の為に捧げます」という事はできなくなります。「私はこのロザリオを、この意向の為に」「この連祷をこの意向の為に」とはできなくなります。もしも奉献すると、もうそうはできなくなります。マリア様に全てを捧げたので、マリア様の望みのままになります。
でも特別な規則があります。マリア様は決して、天主様への愛を破壊するような方ではありません。ところで天主様は、特定の人には、特定の身分上の義務を与えています。
例えば司祭。例えば天主様は司祭に、「小教区の教区民の為に祈りなさい」という義務を与えています。あるいは「ミサをこの意向の為に捧げて下さい」と依頼されます。
家族は、その「自分の子供たちの為に、あるいは自分の妻の為に、あるいは夫の為に祈る」という義務を持っています。
これは天主様の愛の掟であります。この掟をマリア様は破らせる事はありません。それをマリア様は尊重します。
ですから、「マリア様、そのこれは、この為に祈るのは義務ですから、マリア様どうぞ私と一緒になさって下さい」と言う事ができます。その他の意向については、マリア様の良い思し召しのままに、そのお気に入りのままに任せて下さい。
「私のこの特別のお友達の為にお祈りしたい」とか、例えば「この御聖体拝領を、特定の、煉獄にいる神父様の為に捧げます」等と言う事ができなくなります。私たちはこの全ての善業、全てのお祈りを、マリア様の意向に捧げなければなりません。私たちが言う事ができるのは、「マリア様、お母様、私はこの神父様の、煉獄にいる神父様の霊魂の為に捧げたいのですけれども、私のものではないので、マリア様のご自由になさって下さい」と言う事ができるだけです。
もう1つの手段は、この奉献によって究極に捧げる対象というのは、イエズス様です。私たちは全てを、イエズス様に究極的には捧げるのですけれども、マリア様を通して捧げます。125番に聖グリニョン・ド・モンフォールはもう一度繰り返してこう言います、“私たちは自分自身を、み母マリアとイエズスとに同時に捧げ尽くす事になります。”
イエズス様こそ、私たちの究極の目的であります。イエズス様と一体となる事が、キリスト教の核心であります。「生けるとは、我にとりてキリストなり」と。私たちはイエズス様に従い、イエズス様に倣い、イエズス様と一致しなければなりません。でもイエズス様に従う為に、イエズス様に真似る為に、イエズス様と一致する為に最高の手段が、「マリア様と一致する」という事です。
聖グリニョン・ド・モンフォールはこの素晴らしいやり方に、2つの考察をします。この2つの事を是非覚えて下さい。
最初の考察は、ちょっと驚くかもしれません。今までこの申し上げた事を、聖グリニョン・ド・モンフォールは洗礼の秘跡に関連付けています。
洗礼を受けると、悪魔の支配下から逃れて、イエズス様の元に行きます。私たちを永遠の地獄の破滅から救って下さったイエズス様の御血のおかげによって、洗礼の前の悪魔の奴隷状態から、洗礼を受ける事によって解放されます。この洗礼を受ける時に、その「悪魔の業を捨てる、悪魔の支配下から抜ける」という事で洗礼の約束をしました。もしも洗礼を、成人になってから洗礼を受けた方は、これを自分自身で、この荘厳に誓った洗礼の約束があります。赤ちゃんの時に受けた方は、幼児洗礼の方は、代父母の方が代わってこの約束をしてくれました。ではこの洗礼の約束は何でしょうか?
「あなたは悪魔を捨てますか?」
「はい。」
「では、その悪魔の業を捨てますか?」
「そしてその全ての栄華を捨てますか?」
「あなたはイエズス・キリストを信じますか?」
洗礼の約束というのはつまり、「悪魔の支配下にはもう全くなくて、悪魔とはもう一切関係がない」という事を宣言する事です。「悪魔の代わりに、これからは、イエズス様こそ私の主であり、王である」と宣言する事です。人間が地上において約束する事ができる、最高の、最大の、荘厳な誓いです。
では、私たちの洗礼の約束はどうなったでしょうか?洗礼を受ける、という事によって私たちは、「イエズス様こそ、私たちの主人であり、王である」と認めました。天の全ての聖人と、この地上の全ての人々の前で、教会の前で、荘厳に、「これからは、イエズス・キリストに従って生活する」と約束しました。ではよく自分に尋ねて下さい。この洗礼の約束はどうなってしまったのか?
まず、洗礼の約束の事を考えた事があっただろうか?
次に、洗礼の約束を破ってばかりだったではないか?
罪を犯す為に、最も荘厳に、最も聖なる約束を破り続けてきた。友達がいて、その友達にした約束を破り続けていたら、そのような友情は長続きしません。私たちはその自分のした約束を守り続ける事ができなかったのです。私たちのできる力を超えたような約束をしてきました。私たちは心を込めて、力を尽くして、精神を込めて、イエズス様に従ってきませんでした。でもこの洗礼の約束を守らない限り、私たちは洗礼の約束に結び付いた御恵みを天主から受ける事ができないのです。
イエズス様は言いました、「信じて、洗礼を受ける者は救われる。」これは、単にこのただ水を受けて、洗礼の秘跡を受けれれば良い、という訳ではありません。この「洗礼の秘跡の御恵みを受けて、その洗礼に従って生活する」という事が必要です。
でも残念ながら、私たちについてはそうではありませんでした。ですから、永遠の命が受けれるかどうか、危険な状態になっています。私たちは特別な御恵みを頂いて、宝を頂きながら、それをいつも捨て去っています。ちょっとした誘惑、ちょっとした困難に遭うと、それを全てバッと打ち捨ててしまいます。
そのような弱い私たちを助ける為に、マリア様が与えられました。マリア様が何をなさりたいかというと、「私たちがその天主様にした約束を守る事ができるように助けたい」と思っています。
私たちが今からしようとするこの奉献は、イエズス様の聖心に非常に適うものです。なぜかというと、この奉献によって、洗礼の約束を新たにするからです。もう一度これによって、悪魔と、その業と、その栄華を打ち捨てます。
今回は自分の、持っていない私の自分の力に頼るのではありません。なぜかというと、そのような力を持っていないのですから。そうではなくて今回は、マリア様に全て依頼して、信頼してこの約束をします。なぜかというと、マリア様だけが、天主様から、悪魔のサタンの頭を踏み砕く力を得たからです。
マリア様の助けを以て悪魔を捨て、そしてその業を捨て、全て、私たちの持っている全てをイエズス様に捧げます。このグリニョン・ド・モンフォールによれば、「このマリア様を通した洗礼の約束の更新は、洗礼の約束のその時よりも、もっと聖心に、イエズス様の聖心に適うものだ」と言っています。
なぜかというと、多くの場合、この洗礼の時には代父母が、私たちの代わりに私たちの名前でやりましたけれども、この奉献は私たちが自ら、マリア様を通してするからです。洗礼の時には、マリア様の事はその名前が出ませんでした。また洗礼の時には、この奉献がどのような範囲まで及ぶのか、という事を詳しくは言及されていませんでした。でもこの奉献によって、はっきりと明確に、「何と、何を、全てを、マリア様を通してイエズス様に捧げる」と言われます。「私たちの功徳や、罪の償いの価値、全てを」はっきりと名前を出しながら、「全てを捧げる」と言います。
127番から130番までをご覧になると、5回、5つ、教会の権威を引用します。この引用を見ると、カトリックの教えである教会の教えである洗礼の約束が、どれほど重要であるか、という事がよく分かります。
127番を読みます、“聖トマス・アクィナスが言っているように、人は洗礼の時、『悪魔とその栄華を捨てる』と、天主に誓います。そして聖アウグスチノが言っているように、この誓いは、人間が立てる誓いの中で、一番大きな、一番免除不可能な誓いです。教会法学者も言っている通り、私たちが洗礼の時に天主に立てる誓いこそ、人間の誓いの中で一番重大な誓いです。“
“ところで、この一番大きな誓いを完全に守っている人はいますか?その洗礼の約束を忠実に守っている人がいますか?”
“ほとんど全てのキリスト信者が、洗礼の時、イエズス・キリストに約束した忠誠を破棄しているではありませんか。この世界的反逆はどこから来るのでしょうか?”
“洗礼の約束と誓いの忘却からこそ。洗礼の時、代父母を通して天主と結んだ契約を、ほとんど誰もが是認しないからこそ。”
教会の権威は、「この約束がどれほど大切か」という事を教えているにもかかわらず、恥ずかしい事に私たちは、この約束が大事である、という事を今まで無視してきました。
私たちはそれを、この約束を守ってこなかったばかりでなく、私たちはそれを考えてすらきませんでした。この人生を変えるような、この荘厳な、最も荘厳な誓いを立てておきながら、それ以後、その事についてケロリと忘れるという事はどのような事でしょうか。誰かが荘厳な結婚をして、その結婚をしたその直後、結婚の事をコロッと忘れる人がいたと考えて下さい。
このようなおかしな状況を是正する為に、天主様はマリア様を送られました。マリア様だけが遂に、ようやく、私たちが洗礼の約束を守る事ができるように助けてくれます。
洗礼というのは、私たちの人生の中で御恵みの源です。私たちの霊魂に刻まれた、洗礼の時に受けた刻印、霊魂の刻印は、決して消え去る事がありません。私たちがこの洗礼に忠実であれば忠実であるほど、泉からこう清い水が湧き出るように、イエズス・キリストがますますドクドクと湧き出て、私たちが成長する御恵みに満ち溢れます。
第2の考察は、この奉献に対して、反論に答える、という事です。132から134番をご覧下さい。そうすると、反論に答えています。
反論1.「あぁ神父様、もしもこのような大きな奉献は、他の誰かのお友達や、誰か自分の大切な人の為にお祈りする事ができなくなります。でも天主の掟によれば、隣人を愛さなければなりません。その隣人愛の掟を守る事ができなくなります。そうすると、私の愛すべき人々に対して何もする事ができなくなって、私には力が無くなってしまって、全く無能になってしまいます。」
聖グリニョン・ド・モンフォールはこう答えます。132です。
“私たちが、イエズス・キリストとその御母マリアへの奉仕に、自分自身を残りくまなく捧げ尽くしたが為に、私たちの友人、両親、恩人が損をする、という事はとても信じられません。そう考えるのは、イエズスとマリアの全能と慈悲に対して侮辱を加える事です。イエズス様もマリア様も、私たちの小さな霊的収入で、または他の方法で、もっと更に良い方法で、私たちの友人、両親、恩人を助ける方法をちゃんと御存知です。”
マリア様がご自分の思い、このちょっとしたこう気分によって、このコロコロ変わるような気分で、この友人の為には何もしない、という事は考えられると思いますか?
反論2.「私は全てマリア様に与えたので、もう私は誰にも他の人の為にはお祈りする事ができません。私のする事は、こう誰かの為にお祈りして、『マリア様、好きになさって下さい。』これだけです。」
答えはその反対です。この奉献をしたからといって、他の方々の為にお祈りする、という事は矛盾しません。もしもマリア様の為に全てを捧げたとしたら、厳密な意味では権利が、これはこの人の為、これはこの人の為、というのはありません。しかし、私たちが他の人々の為にお祈りする、というのはとても勧められている事です。私たちはこの奉献の後でも、他の人々の為に更にもっと多く祈らなければなりません。でもそれは権利があるからではなくて、ただ権利だから祈るのではなくて、ただそれはマリア様に信頼して、奴隷の祈りとして、そう隣人の為に祈るのです。
グリニョン・ド・モンフォールは美しい例を挙げています。
例えばここに金持ちがいて、自分の殿様に最も敬意を表す為に、全財産を提供すると仮定しましょう。ところでこのお殿様にたくさんの全財産をあげたこの家来が、友達がたくさんいて、この友達が「ちょっと恵んでほしい」と言ったとします。すると、今までと同じようにこの友人を助けたいと思っています。でもこの家来は全てお殿様に、自分の財産を与えてしまいました。ですからこの家来がする事は、大きな信頼を持って、お殿様の方に行く事です。「ところでお殿様、私はあなたに全ての全財産を捧げたのですけれども、このお友達が非常にこの困っていますが、ちょっと助けて頂く事はできますか?」お殿様はそのようなお願いを聞いて、 喜ぶに決まっています。自分にもっと敬意を表す為に極貧となったこの人に、恩返しをするチャンスが与えられたからです。
イエズス様とマリア様に関しても、恩返しの点では誰にも負けていません。
聖グリニョン・ド・モンフォールが言うには、「何と素晴らしい事でしょうか。私たちはマリア様に全てを与えます。何も残っていません。」
「マリア様、私はマリア様に全てを与え尽くしました。でもこのお友達が必要としています。マリア様、親切にこの優しく、この方の為に何かしてあげる事はできませんか?」あるいは、知っている方や愛している方々が煉獄で苦しんでいる。マリア様はこういう風に答える事でしょう、「もし、あなたがお祈りした功徳をこの霊魂に適用されるならば、きっとあなたの祈りのおかげで、1年か2年煉獄が短くなる事でしょう。でもあなたは私に全て功徳を与え尽くしてしまったので、そしてあなたが私に、このあなたが愛している霊魂が煉獄に苦しんでいるので助けてほしい、と頼んでいるので、私はあなたのお祈りを使うだけでなくて、全てを使って、今煉獄から救ってあげましょう。」
マリア様を通してなさると、私たちが当然の権利として受けるべきであるものよりも、100倍のものを、マリア様の憐れみによって、親切によって、受けるでしょう。
133番に、反論のその最後の答えがあります。
反論3.「もしも私が全てマリア様に、功徳を善業を全部捧げるとしたら、私は罪の償いをする事が、自分に使う事ができないので、私は煉獄で償わなければなりません。ですから煉獄で長い間、天国に行くまで待たなければなりません。ですから、もしも全て功徳をマリア様に与えてしまったら、私はずっと煉獄にいる事になってしまいます。なぜかというと、私は罪の為にたくさんの償いが残っているからです。」
聖グリニョン・ド・モンフォールはにこりと笑ってこう答えます、「これは、自己愛からくる反論だ。もしもそのように考えるならば、イエズス様とマリア様を何も知っていない事になります。」
“こんなに天主の奉仕に熱心で、こんなに惜しみない心を持った人が、自分の利益よりも天主の利益を優先する人が、これ以上何もできないというほど天主に全てを捧げた人が、マリアを通してイエズス・キリストの栄光と御国の到来しか祈求していない人が、その為に自分を全て犠牲にしている人が、このように広い心を持った人が、この世で天主の奉仕に他の人よりももっとおおらかで、もっと無欲だった、というたった1つの理由で、この他の人よりも重く罰せればならないとしたら、どういう事になりますか?”
これが反論に対する答えです。
こうやって聖グリニョン・ド・モンフォールは、私たちが簡単に聖人になる道を示してくれます。マリア様のおかげで、ようやく洗礼の約束の通りに生活する事ができるようになります。これが、天主様が私たちにこうあって欲しいと思っている御旨です。
こうする事によって、自分から解放されて、マリア様を通して、自由に、執着なく、天主様を愛する事ができるようになります。120番から134番までを注意深くお読みになって下さい。
あともう1つですね、講話を付け加えなければなりませんけれども、本当なら1回のところが2回になってしまったので、皆さんの許可を得て、夕食の後に、短い講話を付け加える事を許して下さい。今日は13日で、毎月13日には私たちは小さな犠牲をファチマのマリア様の為に捧げる、という事を決意したので、今回その講話を犠牲として捧げて下さい。(^^;)