2016年8月14日 聖母黙想会 シュテーリン神父様講話【16】
同時通訳:小野田圭志神父
新しい、私たちの、マリア様と共に開始する生活が始まりました。その為のオリエンテーションを、私たちは今まで黙想しました。
この原理を私たちの日常生活に適用させる事を望みます。私たちの個々の具体的な生活について適用させましょう。原理としては、「マリア様を通して、マリア様と共に、マリア様の内に、マリア様の為にする」という事は分かりますけれども、では具体的に日常生活の一つ一つについて、どうやって実現したら良いのでしょうか?
そこで具体的に、起床の話をしました。私たちの人生は色々な、小さな色々な出来事からなっています。そしてマリア様のご生活を一つ一つ、「どうだったのだろうか」と考えると、きっと驚くべき結論に達すると思います。私たちの人生の間どれほど多く、この人生の中でどれほど多く、マリア様と全然関係なく時を過ごしてきた事でしょうか。そのために、永遠の命の為に全く無意味に、無駄に時を過ごしてしまった、いう事がどれほど多かった事でしょうか。
私がまだ昔、黙想会に与った時の事を話します。私はこの黙想会の指導神父様にこう申し上げました。
「色んな事をしなければならないので、どうやったら良いか分かりません。私は使徒職もあるし、こう色んな所に行かなければならないし、あれもしなければならないし、これもしなければならないし。ですから一時も時間を無駄に過ごす事はできないし、どうしていったら良いか分からない」と。
するとこの神父様は、「あなたは本当に怠け者で、時間を無駄にしている」と言いました。
「え!?私が怠け者ですって!?私はいつもどこにも駆け回って、あれもこれも、あれもこれも、色んな事をしています。自由時間はほとんどありません。このもう1月1日から12月31日まで、もう1時間さえも、この何をするか予定が組んであります。」
この神父様がなぜ私に怠け者か、と言った事については私は言いませんけれども、なぜ時間を無駄にしているか、という事を言ったのか申し上げます。
そこで私は、本当に天主様の栄光の為に一生懸命働いていたので、もう時間も無駄にしたくないし、色んな事を天主様の為にしていたので、何でそんな事を言うのか分からなくて、でも後で考えると、この神父様が正しかったという事が分かります。この神父様はこう言いました、「マリア様の現存の前で、一日の事を反省してみなさい。」
その時私はワルシャワの修道院にいました。1日の各瞬間、1分1分をどうやって過ごしたのかを見て、これをマリア様と共に、マリア様を通してやっていたかどうか、という事を調べてみました。その時に分かったのです。私の仕事の部屋は事務室は下に1階にあって、私の寝室はちょっと離れた所にありました。もしも早くパッと行けば1分で行きます。普通は1分半です。ゆっくり行くと2分かかります。行ったり来たりしなければならないので、1日に20回も、自分の部屋にあるこの本、仕事場にあるこの本、色々事務室と自分の部屋を行ったり来たりしてきました。「私は一体この間、何をしているだろうか?」
色んな事を考えています。色んな事だけれども、一つの事だけは考えていない。色んな事を考えているけれども、特別な事は何も考えていない。真面目な事を、色々な事、この事、あの事、この事を、と考えています。時々私はあまりにも気が散っているので、部屋に行ってみると、「あれ?」一体何の為に部屋に来たのか、忘れてしまった時があります。
「これは時間の無駄だ。2分かかる仕事、行って帰ってくると4分。1日に20回行くとすると80分だ。1ヶ月それをすると、1ヶ月は30日だから、80分が30倍だという事は2400分だ。すると2400分は、60分が1時間で、600分が10時間だから40時間だ。すると1ヶ月に2日間、私は何もしていない事になる。全く無駄にしている。確かに私は時間を無駄にしている。」
そこで遷善の決心をしました。私の寝室からこの仕事場の部屋に行くまでには、この修道院には色々、十字架像とかマリア様とか色々な御像とか御影が掛かっているのですけれども、そこでこの部屋から事務所まで20回、良い射祷を唱える事ができたという事が分かりました。「1回行くと20回の射祷なので、1回行って帰って来ると40回の射祷を唱える事ができる。そして1日に20回行ったり来たりすると、800回できる事になる。すると1ヶ月に24000回射祷ができる。もしも100回射祷を唱える事によって、1人の霊魂を救う事ができたら、1ヶ月の間に、行って来ることによって240人の霊魂を救う事ができる」と、時間を上手く使う事ができる、という発見をする事ができました。
マリア様を通して、マリア様と共に1日を始める事によって、どれほど偉大な事をする事ができるでしょうか。マリア様と共であれば、平凡な事は全く無くなります。他の人から見れば本当に凡々俗々の事であっても、天主の目から見れば貴重な行為となります。もちろん1つの条件があります。これを「愛によってする」という事です。
天主様の振る舞いを見るのはとても面白いです。最もつまらない、何もないような事も、愛を以てなされた時には、無限の価値を持つという事です。しかしこの世の人々が目を見張るような、ものすごい達成、ものすごい事業も、天主への愛がなければ全く価値がない、という事になります。
残念ながらこのグリニョン・ド・モンフォールの本の中には、具体的なこの適用の仕方が書かれていません。なぜかというと、次の理由です。なぜかというと、100年以上もこれは失われて、見失われていたからです。それを発見した時には、ただこの一部しか残っていませんでした。この本の発見について、私はちょっと間違いを言いました。これは1842年の4月22日に発見されました。メラニーのテキスト『ラサレットの秘密』というのは、この本とは関係ない、という事は合っています。たとえ発見されたとしても、その内容を整理してそれが出版される為には時間がかかったので、ラサレットとは関係がない、という事が分かります。たとえ最初に印刷されたとしても、たくさん印刷されたわけではありません。メラニーが書いた時に、この事を知っているという事はあり得ませんでした。
2つの意見があって、1つは、この「全部原稿を発見する事ができたのではなくて、一部だった」と主張する人と、もう1つは「いや、原稿は全部だったのだけれども、実は未完で終わっていて、なぜ未完で終わったかというと、このグリニョン・ド・モンフォールの健康が悪化していて、この書き続ける事ができなかったし、使徒職があまりにも多かったのでその時間が、書く時間がなかった。」
この一般的なこのモンフォールの形式に従って、具体的なこのどうやって適用させるか、という事を書いた1つの例はあります。それだけはあります。これは、「マリア様と共に、マリア様を通して、御聖体を拝領する」というやり方についてです。これはこの本の最後の266から273番です。
モンフォール会の神父様たちは、「黄金の本」という本を書きました。その黄金の本の中には、その会の神父様が具体的な例を挙げています。これは19世紀に書かれました。でも19世紀の信心というのは、必ずしも非常に深いとは言い切れません。
では、私たちの日常の生活はどのようでなければならないでしょうか?
私たちはよく十分に祈っているでしょうか?それとも祈り過ぎているでしょうか?答えは非常に単純です。私たちの生活は、マリア様の生活を真似したものでなければなりません。これが「マリア様を通して、マリア様と共に生活する」という事です。
マリア様はいつもナザレトで生活しました。私たちの生活を、どのようなものであるかという事は、ナザレトの聖家族を、マリア様の生活を黙想する事が、最短の、最善のやり方です。
もしも小野田神父のように外国で追放の身になっていれば、エジプトに行っている聖家族の生活を黙想する事ができます。マリア様や聖ヨゼフがどれほど一生懸命働かなければならないか、という事をよく理解できます。朝早くから夜遅くまで、夕食のほんのちょっとの間だけを除いて、一生懸命働きました。この聖家族には、この肉体的な物理的には、たくさんのお祈りの時間があったわけではありません。でもマリア様はいつも祈っていました。心の中で射祷の起こらない時は一瞬もありませんでした。私たちは聖伝によって伝えられたところによると、「マリア様はいつも、詩篇を祈り、詩篇の事を黙想しながら生活していた」と言います。
もう1つの避けるべき考察は、マリア様はあたかも修道院生活をしていたかのように誤解する事です。マリア様の周囲は地中海生活、地中海の雰囲気でした。皆さんイタリアとかスペインとか地中海の国々に行くと、見て下さい、地中海の人々は皆外で生活をしていて、おしゃべりをしています。なぜかというと、家の中はとても暑いからです。ですからマリア様は外でお水を汲んだり、洗濯をしたり、外でお洗濯をしたり、外で他の方のお手伝いをしたり、庭の仕事をしたり、植木の世話をしたり等として、外で生活していました。
朝早く、朝のお祈りと夜の夕方は、天主様に捧げられていました。しかし日中は、他の社会生活をしていました。同じようになさって下さい。教会の修道士たちがするお祈りは、朝と夜です。司祭の祈りも同じです。ですから皆さんも、この教会の祈りのやり方を真似して下さい。つまり、朝の祈りを、朝の時間を無駄にしないで下さい。朝の祈りを必ずなさって下さい。つまり夜遅くまで夜更かしをして、映画を見たり、他の人とおしゃべりをしたりとかしないで。朝はお祈りができずに時間を無駄にされています。なぜかというと、その前の夜、無駄にされているからです。夜は早く床につきませんでした。なぜかというと、色々なおしゃべりがあったり、ゴシップがあったり、噂話があったり、あるいは好奇心があって、色んなものを見たりとかしていたからです。
もしもこの「マリア様の生活をする」という事が頭にあれば、私たちのキリスト教生活は保障されます。ヨゼフ様もマリア様も、この日中は忙しかったので、ロザリオを唱える時間がなかったに違いありません。つまり、長い間お祈りする時間を確保する事ができなかった、という事です。もちろん、もしもマリア様が老人になってしまって、もう体がうまく動かないとか、聖ヨゼフ様がもう引退されたなどとなれば、もちろんお祈りの時間も自由にあったかもしれませんけれども、でもあまり長生きはされませんでした。
日本人は勤勉な国民だという事で知られています。皆さんがお仕事をする時には、たくさんの射祷を以てお仕事を捧げて下さい。もしもそれができると、皆さんは天主様と共に美しい生活ができた事になります。何か特別の事情があって、ロザリオを全て唱える事ができなかったり、あるいはいつもしているお祈りができなかったとしても。
マリア様はでは、他の人々とどのように対応していたでしょうか?マリア様は色んな方々と対応しなければならなかったはずです。子供たちや、お年寄りや、あるいはその周りの方々。このマリア様がこう一緒にいなければならなかった方々は、必ずしも聖人ではなかった、という事です。よく、悪く冒涜を聞いたかもしれません。悪い言葉使いを聞きました。あるいはエジプトでは7年間、この異教の不道徳な世界の中にいなければなりませんでした。マリア様はどうやって、どのように、このような人々と話をなさっただろうか?
イエズス様が公生活を始めて、ファリザイ人から色々な非難や悪口を言った時に、色々な変な悪口をマリア様は聞かなければなりませんでした。おそらくこのような事を聞けば、自分の子について聞けば、良い母親はきっと怒ったに違いありません。
でもマリア様は決して怒りませんでしたし、悪い感情を起こそうとはしませんでした。マリア様はいつも尊厳と、そして単純さを以て話されました。自己コントロールをしていました。悪い言葉や、愚かな言葉は一切語りませんでした。誰かが屈辱の言葉を投げかけたり、あるいは悪い態度を取ったとしても、決して挑発されずにいつも冷静でした。
では私たちは何をしなければならないでしょうか?
マリア様に祈らなければなりません。マリア様が私たちの日常の生活を変えて下さいますように、特にマリア様のお考えや精神とは反対の、矛盾しているような私の態度や生活態度を変えてもらわなければなりません。必ず黙想会の時には、黙想会に参加した人は、遷善の決心を立てなければなりません。私たちはそれに対して戦って、それを直して、それを無くすようにする決心です。
今回の黙想会では、マリア様の生活と私の生活を比べて下さい。「マリア様の生活と私の生活で一番差があるのはどこだろうか」と見て下さい。そして決心を立てて下さい。黙想の決心は、マリア様に全く依存する、という事で決心されなければなりません。もしもこの決心するべきものを書き留めたら、マリア様にすぐ尋ねて下さい。お母様が、母が子供を世話するように、マリア様に「どうぞこの私の世話を、私を守って下さい」とお願いして下さい。
マリア様のご生活と私の生活を比べる、という事は、自分の良心の究明にとってとても良いやり方になります。マリア様の生活と私の生活を比べると、私がどこで怠け者だったか、どこで裏切りがあったか、どこで不忠実だったか、という事をよく認識する事ができます。だからといって、たとえマリア様の生活と私の生活があまりにも差があって、あまりにも矛盾していて、もうあまりにも対照的だとしても、落胆しないで下さい。マリア様の光に照らされて良心の究明をし始めた、という事はとても大きな御恵みです。
マリア様は、子供を愛する最高の母です。子供が、「何をしなければならないか」という事を理解し始めた事を見る母親は、とても幸せです。たとえ子供がそれをする力がなくても、しかしそれを、何をするべきかが分かっていれば、お母様はそれを、子供を助けてそれをするようにして下さいます。特にファチマのマリア様は、私たちの生活に、日常の生活に助けを与えてくれます。
聖母の汚れなき御心に対する信心というのは、特に有名なのが、初土曜日の信心です。でもシスタールチアは言います、「初土の信心というのは、単なるテストであって、単なるパターンであって、単なる見本であって、これはサンプルに過ぎない」と。マリア様を愛する霊魂は、ただ1ヶ月に一度だけ、その土曜日にだけこの信心をするのでは足りません。毎日します。
では初土にはマリア様は何をする事をお望みだったでしょうか?聖体拝領、告解、ロザリオ、15分の黙想、これらを全て、汚れなき御心に対して犯される罪を償う為にする。マリア様もそして天使も、頻繁な射祷を唱える事を勧めていました。ファチマのマリア様が仰った事を見ると、これはカトリック生活がどうあるべきであるか、という事そのままです。もしもマリア様の本当の子供でありたい、その奴隷でありたいと思えば、マリア様と同じ事を、お望みのままをしたいと思います。
マリア様は、私たちが非常に忙しいという事を知っています。ですからマリア様は、良い朝のお祈りを教えてくれます。例えば霊的聖体拝領です。例えば日本では、聖伝のミサが毎日ないので、毎日ミサに与る事ができません。ですから毎日は御聖体拝領ができません。でも霊的聖体拝領ならできます。教会の教えによれば、「もしも何らかの事情でどうしても御聖体拝領ができないという時には、霊的聖体拝領をすれば同じ御恵みを受ける事ができる」と言います。
ファチマではいつも、「ロザリオを毎日唱えなさい」と仰いました。
それからマリア様は黙想も、日々の黙想もお願いしています。マリア様は「15のロザリオの玄義を黙想する」「マリア様と一緒に黙想する」という事もお願いしています。これは私たちも黙想会の時にやっている事です。
良き夕の祈りもあります。夕の祈りでは、ファチマで求められていた告解の秘跡の代わりができます。なぜかというと、夕の祈りでは良心の究明と、そして罪の痛悔の祈りがあるからです。
それに多くの射祷を付け加える事ができます。
これら全てを、マリア様の汚れなき御心に対して犯される罪を償う精神でなされます。天主様が受けた多くの屈辱を償って、そして天主を慰めるという意向です。もしも私たちが愛の精神、愛を以てこれをしようと思えば、これは何でもありません。天主を愛する霊魂は天主を慰めようとしますし、天主への罪を償おうとします。これが償いの精神です。
償いの精神は、天主様に対して犯される罪を小さくします。これでかわいそうな罪人たちの為にお祈りをします。隣人愛を実践する時は、隣人の霊魂を救おうという願いを込めてします。これはマキシミリアノ・コルベ神父様が「無原罪の聖母の騎士」と名付けた運動の精神です。ファチマのマリア様のお言葉を実践しようとする事はつまり、グリニョン・ド・モンフォールが、マリアを通して、マリアと共に生活する、という事に繋がります。
どうぞこの黙想の時間の時に、遷善の決心を書き留めて下さい。マリア様の前で、その決心を立てて下さい。マリア様に全てにおいて依存して、マリア様のお望みの通りにする、という事で決心を立てて下さい。私たちはとても謙遜でなければなりません。自分一人ではこの決心を絶対守る事ができない、という事を確信して下さい。しかし私の罪が高い山のように高く積もっていたとしても、そしてこの遷善の決心を立てる時に本当に落胆してしまうと思ったとしても、私は償わなければならない罪が本当にたくさんあって、どこから始めていいか分からない、でもマリア様がこれをこうやれば、そんなにたくさんのものも消えてしまうので、心配しないで下さい。
266から273番の、どうやってマリア様と共に、マリア様を通して御聖体拝領するか、という事については、明日の朝ここで実践する事ができます。よく読んで下さい。これはお祈りですから時々、そうやって時々祈るのが良いと思います。
実は今までこれまでのお話は、ここに書かれている1/3も読んでいません。ではなぜこの1/3しか話さなくて、他の部分を話さないのですか?この残った半分は、この真の信心がどれほど有益であって、どれほど必要であるか、という事を説明している部分だからです。この信心を実践する動機は何か?そしてこの祈りは何か?という事を説明してあります。
次の講話は最後の講話になりますけれども、その講話になる前にこの事を、213番から225番までについて話しますので、もしも時間があればこれをお読みになって下さい。これは、もしもこの真の信心を実践するならば、どのような実りがあるか、という事について書かれています。この信心を実践する人が得るだろう7つの効果について語っています。でもまず最初に、決心について考えて下さい。
同時通訳:小野田圭志神父
新しい、私たちの、マリア様と共に開始する生活が始まりました。その為のオリエンテーションを、私たちは今まで黙想しました。
この原理を私たちの日常生活に適用させる事を望みます。私たちの個々の具体的な生活について適用させましょう。原理としては、「マリア様を通して、マリア様と共に、マリア様の内に、マリア様の為にする」という事は分かりますけれども、では具体的に日常生活の一つ一つについて、どうやって実現したら良いのでしょうか?
そこで具体的に、起床の話をしました。私たちの人生は色々な、小さな色々な出来事からなっています。そしてマリア様のご生活を一つ一つ、「どうだったのだろうか」と考えると、きっと驚くべき結論に達すると思います。私たちの人生の間どれほど多く、この人生の中でどれほど多く、マリア様と全然関係なく時を過ごしてきた事でしょうか。そのために、永遠の命の為に全く無意味に、無駄に時を過ごしてしまった、いう事がどれほど多かった事でしょうか。
私がまだ昔、黙想会に与った時の事を話します。私はこの黙想会の指導神父様にこう申し上げました。
「色んな事をしなければならないので、どうやったら良いか分かりません。私は使徒職もあるし、こう色んな所に行かなければならないし、あれもしなければならないし、これもしなければならないし。ですから一時も時間を無駄に過ごす事はできないし、どうしていったら良いか分からない」と。
するとこの神父様は、「あなたは本当に怠け者で、時間を無駄にしている」と言いました。
「え!?私が怠け者ですって!?私はいつもどこにも駆け回って、あれもこれも、あれもこれも、色んな事をしています。自由時間はほとんどありません。このもう1月1日から12月31日まで、もう1時間さえも、この何をするか予定が組んであります。」
この神父様がなぜ私に怠け者か、と言った事については私は言いませんけれども、なぜ時間を無駄にしているか、という事を言ったのか申し上げます。
そこで私は、本当に天主様の栄光の為に一生懸命働いていたので、もう時間も無駄にしたくないし、色んな事を天主様の為にしていたので、何でそんな事を言うのか分からなくて、でも後で考えると、この神父様が正しかったという事が分かります。この神父様はこう言いました、「マリア様の現存の前で、一日の事を反省してみなさい。」
その時私はワルシャワの修道院にいました。1日の各瞬間、1分1分をどうやって過ごしたのかを見て、これをマリア様と共に、マリア様を通してやっていたかどうか、という事を調べてみました。その時に分かったのです。私の仕事の部屋は事務室は下に1階にあって、私の寝室はちょっと離れた所にありました。もしも早くパッと行けば1分で行きます。普通は1分半です。ゆっくり行くと2分かかります。行ったり来たりしなければならないので、1日に20回も、自分の部屋にあるこの本、仕事場にあるこの本、色々事務室と自分の部屋を行ったり来たりしてきました。「私は一体この間、何をしているだろうか?」
色んな事を考えています。色んな事だけれども、一つの事だけは考えていない。色んな事を考えているけれども、特別な事は何も考えていない。真面目な事を、色々な事、この事、あの事、この事を、と考えています。時々私はあまりにも気が散っているので、部屋に行ってみると、「あれ?」一体何の為に部屋に来たのか、忘れてしまった時があります。
「これは時間の無駄だ。2分かかる仕事、行って帰ってくると4分。1日に20回行くとすると80分だ。1ヶ月それをすると、1ヶ月は30日だから、80分が30倍だという事は2400分だ。すると2400分は、60分が1時間で、600分が10時間だから40時間だ。すると1ヶ月に2日間、私は何もしていない事になる。全く無駄にしている。確かに私は時間を無駄にしている。」
そこで遷善の決心をしました。私の寝室からこの仕事場の部屋に行くまでには、この修道院には色々、十字架像とかマリア様とか色々な御像とか御影が掛かっているのですけれども、そこでこの部屋から事務所まで20回、良い射祷を唱える事ができたという事が分かりました。「1回行くと20回の射祷なので、1回行って帰って来ると40回の射祷を唱える事ができる。そして1日に20回行ったり来たりすると、800回できる事になる。すると1ヶ月に24000回射祷ができる。もしも100回射祷を唱える事によって、1人の霊魂を救う事ができたら、1ヶ月の間に、行って来ることによって240人の霊魂を救う事ができる」と、時間を上手く使う事ができる、という発見をする事ができました。
マリア様を通して、マリア様と共に1日を始める事によって、どれほど偉大な事をする事ができるでしょうか。マリア様と共であれば、平凡な事は全く無くなります。他の人から見れば本当に凡々俗々の事であっても、天主の目から見れば貴重な行為となります。もちろん1つの条件があります。これを「愛によってする」という事です。
天主様の振る舞いを見るのはとても面白いです。最もつまらない、何もないような事も、愛を以てなされた時には、無限の価値を持つという事です。しかしこの世の人々が目を見張るような、ものすごい達成、ものすごい事業も、天主への愛がなければ全く価値がない、という事になります。
残念ながらこのグリニョン・ド・モンフォールの本の中には、具体的なこの適用の仕方が書かれていません。なぜかというと、次の理由です。なぜかというと、100年以上もこれは失われて、見失われていたからです。それを発見した時には、ただこの一部しか残っていませんでした。この本の発見について、私はちょっと間違いを言いました。これは1842年の4月22日に発見されました。メラニーのテキスト『ラサレットの秘密』というのは、この本とは関係ない、という事は合っています。たとえ発見されたとしても、その内容を整理してそれが出版される為には時間がかかったので、ラサレットとは関係がない、という事が分かります。たとえ最初に印刷されたとしても、たくさん印刷されたわけではありません。メラニーが書いた時に、この事を知っているという事はあり得ませんでした。
2つの意見があって、1つは、この「全部原稿を発見する事ができたのではなくて、一部だった」と主張する人と、もう1つは「いや、原稿は全部だったのだけれども、実は未完で終わっていて、なぜ未完で終わったかというと、このグリニョン・ド・モンフォールの健康が悪化していて、この書き続ける事ができなかったし、使徒職があまりにも多かったのでその時間が、書く時間がなかった。」
この一般的なこのモンフォールの形式に従って、具体的なこのどうやって適用させるか、という事を書いた1つの例はあります。それだけはあります。これは、「マリア様と共に、マリア様を通して、御聖体を拝領する」というやり方についてです。これはこの本の最後の266から273番です。
モンフォール会の神父様たちは、「黄金の本」という本を書きました。その黄金の本の中には、その会の神父様が具体的な例を挙げています。これは19世紀に書かれました。でも19世紀の信心というのは、必ずしも非常に深いとは言い切れません。
では、私たちの日常の生活はどのようでなければならないでしょうか?
私たちはよく十分に祈っているでしょうか?それとも祈り過ぎているでしょうか?答えは非常に単純です。私たちの生活は、マリア様の生活を真似したものでなければなりません。これが「マリア様を通して、マリア様と共に生活する」という事です。
マリア様はいつもナザレトで生活しました。私たちの生活を、どのようなものであるかという事は、ナザレトの聖家族を、マリア様の生活を黙想する事が、最短の、最善のやり方です。
もしも小野田神父のように外国で追放の身になっていれば、エジプトに行っている聖家族の生活を黙想する事ができます。マリア様や聖ヨゼフがどれほど一生懸命働かなければならないか、という事をよく理解できます。朝早くから夜遅くまで、夕食のほんのちょっとの間だけを除いて、一生懸命働きました。この聖家族には、この肉体的な物理的には、たくさんのお祈りの時間があったわけではありません。でもマリア様はいつも祈っていました。心の中で射祷の起こらない時は一瞬もありませんでした。私たちは聖伝によって伝えられたところによると、「マリア様はいつも、詩篇を祈り、詩篇の事を黙想しながら生活していた」と言います。
もう1つの避けるべき考察は、マリア様はあたかも修道院生活をしていたかのように誤解する事です。マリア様の周囲は地中海生活、地中海の雰囲気でした。皆さんイタリアとかスペインとか地中海の国々に行くと、見て下さい、地中海の人々は皆外で生活をしていて、おしゃべりをしています。なぜかというと、家の中はとても暑いからです。ですからマリア様は外でお水を汲んだり、洗濯をしたり、外でお洗濯をしたり、外で他の方のお手伝いをしたり、庭の仕事をしたり、植木の世話をしたり等として、外で生活していました。
朝早く、朝のお祈りと夜の夕方は、天主様に捧げられていました。しかし日中は、他の社会生活をしていました。同じようになさって下さい。教会の修道士たちがするお祈りは、朝と夜です。司祭の祈りも同じです。ですから皆さんも、この教会の祈りのやり方を真似して下さい。つまり、朝の祈りを、朝の時間を無駄にしないで下さい。朝の祈りを必ずなさって下さい。つまり夜遅くまで夜更かしをして、映画を見たり、他の人とおしゃべりをしたりとかしないで。朝はお祈りができずに時間を無駄にされています。なぜかというと、その前の夜、無駄にされているからです。夜は早く床につきませんでした。なぜかというと、色々なおしゃべりがあったり、ゴシップがあったり、噂話があったり、あるいは好奇心があって、色んなものを見たりとかしていたからです。
もしもこの「マリア様の生活をする」という事が頭にあれば、私たちのキリスト教生活は保障されます。ヨゼフ様もマリア様も、この日中は忙しかったので、ロザリオを唱える時間がなかったに違いありません。つまり、長い間お祈りする時間を確保する事ができなかった、という事です。もちろん、もしもマリア様が老人になってしまって、もう体がうまく動かないとか、聖ヨゼフ様がもう引退されたなどとなれば、もちろんお祈りの時間も自由にあったかもしれませんけれども、でもあまり長生きはされませんでした。
日本人は勤勉な国民だという事で知られています。皆さんがお仕事をする時には、たくさんの射祷を以てお仕事を捧げて下さい。もしもそれができると、皆さんは天主様と共に美しい生活ができた事になります。何か特別の事情があって、ロザリオを全て唱える事ができなかったり、あるいはいつもしているお祈りができなかったとしても。
マリア様はでは、他の人々とどのように対応していたでしょうか?マリア様は色んな方々と対応しなければならなかったはずです。子供たちや、お年寄りや、あるいはその周りの方々。このマリア様がこう一緒にいなければならなかった方々は、必ずしも聖人ではなかった、という事です。よく、悪く冒涜を聞いたかもしれません。悪い言葉使いを聞きました。あるいはエジプトでは7年間、この異教の不道徳な世界の中にいなければなりませんでした。マリア様はどうやって、どのように、このような人々と話をなさっただろうか?
イエズス様が公生活を始めて、ファリザイ人から色々な非難や悪口を言った時に、色々な変な悪口をマリア様は聞かなければなりませんでした。おそらくこのような事を聞けば、自分の子について聞けば、良い母親はきっと怒ったに違いありません。
でもマリア様は決して怒りませんでしたし、悪い感情を起こそうとはしませんでした。マリア様はいつも尊厳と、そして単純さを以て話されました。自己コントロールをしていました。悪い言葉や、愚かな言葉は一切語りませんでした。誰かが屈辱の言葉を投げかけたり、あるいは悪い態度を取ったとしても、決して挑発されずにいつも冷静でした。
では私たちは何をしなければならないでしょうか?
マリア様に祈らなければなりません。マリア様が私たちの日常の生活を変えて下さいますように、特にマリア様のお考えや精神とは反対の、矛盾しているような私の態度や生活態度を変えてもらわなければなりません。必ず黙想会の時には、黙想会に参加した人は、遷善の決心を立てなければなりません。私たちはそれに対して戦って、それを直して、それを無くすようにする決心です。
今回の黙想会では、マリア様の生活と私の生活を比べて下さい。「マリア様の生活と私の生活で一番差があるのはどこだろうか」と見て下さい。そして決心を立てて下さい。黙想の決心は、マリア様に全く依存する、という事で決心されなければなりません。もしもこの決心するべきものを書き留めたら、マリア様にすぐ尋ねて下さい。お母様が、母が子供を世話するように、マリア様に「どうぞこの私の世話を、私を守って下さい」とお願いして下さい。
マリア様のご生活と私の生活を比べる、という事は、自分の良心の究明にとってとても良いやり方になります。マリア様の生活と私の生活を比べると、私がどこで怠け者だったか、どこで裏切りがあったか、どこで不忠実だったか、という事をよく認識する事ができます。だからといって、たとえマリア様の生活と私の生活があまりにも差があって、あまりにも矛盾していて、もうあまりにも対照的だとしても、落胆しないで下さい。マリア様の光に照らされて良心の究明をし始めた、という事はとても大きな御恵みです。
マリア様は、子供を愛する最高の母です。子供が、「何をしなければならないか」という事を理解し始めた事を見る母親は、とても幸せです。たとえ子供がそれをする力がなくても、しかしそれを、何をするべきかが分かっていれば、お母様はそれを、子供を助けてそれをするようにして下さいます。特にファチマのマリア様は、私たちの生活に、日常の生活に助けを与えてくれます。
聖母の汚れなき御心に対する信心というのは、特に有名なのが、初土曜日の信心です。でもシスタールチアは言います、「初土の信心というのは、単なるテストであって、単なるパターンであって、単なる見本であって、これはサンプルに過ぎない」と。マリア様を愛する霊魂は、ただ1ヶ月に一度だけ、その土曜日にだけこの信心をするのでは足りません。毎日します。
では初土にはマリア様は何をする事をお望みだったでしょうか?聖体拝領、告解、ロザリオ、15分の黙想、これらを全て、汚れなき御心に対して犯される罪を償う為にする。マリア様もそして天使も、頻繁な射祷を唱える事を勧めていました。ファチマのマリア様が仰った事を見ると、これはカトリック生活がどうあるべきであるか、という事そのままです。もしもマリア様の本当の子供でありたい、その奴隷でありたいと思えば、マリア様と同じ事を、お望みのままをしたいと思います。
マリア様は、私たちが非常に忙しいという事を知っています。ですからマリア様は、良い朝のお祈りを教えてくれます。例えば霊的聖体拝領です。例えば日本では、聖伝のミサが毎日ないので、毎日ミサに与る事ができません。ですから毎日は御聖体拝領ができません。でも霊的聖体拝領ならできます。教会の教えによれば、「もしも何らかの事情でどうしても御聖体拝領ができないという時には、霊的聖体拝領をすれば同じ御恵みを受ける事ができる」と言います。
ファチマではいつも、「ロザリオを毎日唱えなさい」と仰いました。
それからマリア様は黙想も、日々の黙想もお願いしています。マリア様は「15のロザリオの玄義を黙想する」「マリア様と一緒に黙想する」という事もお願いしています。これは私たちも黙想会の時にやっている事です。
良き夕の祈りもあります。夕の祈りでは、ファチマで求められていた告解の秘跡の代わりができます。なぜかというと、夕の祈りでは良心の究明と、そして罪の痛悔の祈りがあるからです。
それに多くの射祷を付け加える事ができます。
これら全てを、マリア様の汚れなき御心に対して犯される罪を償う精神でなされます。天主様が受けた多くの屈辱を償って、そして天主を慰めるという意向です。もしも私たちが愛の精神、愛を以てこれをしようと思えば、これは何でもありません。天主を愛する霊魂は天主を慰めようとしますし、天主への罪を償おうとします。これが償いの精神です。
償いの精神は、天主様に対して犯される罪を小さくします。これでかわいそうな罪人たちの為にお祈りをします。隣人愛を実践する時は、隣人の霊魂を救おうという願いを込めてします。これはマキシミリアノ・コルベ神父様が「無原罪の聖母の騎士」と名付けた運動の精神です。ファチマのマリア様のお言葉を実践しようとする事はつまり、グリニョン・ド・モンフォールが、マリアを通して、マリアと共に生活する、という事に繋がります。
どうぞこの黙想の時間の時に、遷善の決心を書き留めて下さい。マリア様の前で、その決心を立てて下さい。マリア様に全てにおいて依存して、マリア様のお望みの通りにする、という事で決心を立てて下さい。私たちはとても謙遜でなければなりません。自分一人ではこの決心を絶対守る事ができない、という事を確信して下さい。しかし私の罪が高い山のように高く積もっていたとしても、そしてこの遷善の決心を立てる時に本当に落胆してしまうと思ったとしても、私は償わなければならない罪が本当にたくさんあって、どこから始めていいか分からない、でもマリア様がこれをこうやれば、そんなにたくさんのものも消えてしまうので、心配しないで下さい。
266から273番の、どうやってマリア様と共に、マリア様を通して御聖体拝領するか、という事については、明日の朝ここで実践する事ができます。よく読んで下さい。これはお祈りですから時々、そうやって時々祈るのが良いと思います。
実は今までこれまでのお話は、ここに書かれている1/3も読んでいません。ではなぜこの1/3しか話さなくて、他の部分を話さないのですか?この残った半分は、この真の信心がどれほど有益であって、どれほど必要であるか、という事を説明している部分だからです。この信心を実践する動機は何か?そしてこの祈りは何か?という事を説明してあります。
次の講話は最後の講話になりますけれども、その講話になる前にこの事を、213番から225番までについて話しますので、もしも時間があればこれをお読みになって下さい。これは、もしもこの真の信心を実践するならば、どのような実りがあるか、という事について書かれています。この信心を実践する人が得るだろう7つの効果について語っています。でもまず最初に、決心について考えて下さい。