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「カトリックの家族とは何か:カトリック両親による子女の教育:教育の目的」サマース神父様霊的講話

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アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

2018年12月2日(主日)に東京でなされたサマース神父様霊的講話をご紹介いたします。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

「カトリックの家族とは何か:
カトリック両親による子女の教育:
教育の目的」

同時通訳:小野田圭志神父

今日は、主日のお休みの時間のところを遅くまで残って下さって、皆さんの貴重な時間を下さった事を感謝します。

「カトリックの家族とは何か」という事について、話の願いを受けました。それはとても複雑で、しかし大きな話題性を持っています。

100年前は、このカトリックの家族について特に話す必要はなかったかもしれません。しかしこの100年の間に、この「家族」というものが、だんだん有るべき型から離れてきている、という現象が生じてしまいました。「産業革命」、またその前には「フランス革命」などといって、家庭がだんだん崩壊するように向かって来てしまいました。更にもっと行くと、「プロテスタント革命」もあります。
「家族」という自然の中核に、色々な悪い影響が与えるという事は、そのような歴史的な影響を辿る事ができます。

そして歴史が経つにつれて、「カトリックの家族」というものが、だんだん稀なものになってしまいました。それと同時に、「カトリックの司祭職」というものの難しさについても同様の事が言えるようになりました。あるいは「カトリックの召命、修道生活」もそうです。なぜかというと、良いカトリックの家族から普通は、カトリックの司祭、カトリックの修道者が生まれるからです。

「カトリックの司祭職の問題は、カトリックの家族の事にある」と、ルフェーブル大司教様はそこに解決を求めていました。

司祭の養成に関われば関わるほど、カトリックの家族を直さなければならない、という事を理解しました。そして2つには関係があります、相互関係があります。カトリック司祭は良いカトリック家庭を作るし、良いカトリック家庭は良い司祭を生み出す。司祭を弱めてしまうと、カトリックの司祭を薄めてしまうと、カトリックの家族が弱ってしまいます。もしもカトリックの家族が攻撃されてしまうと、今度は良い司祭が生まれなくなってしまいます。


では今の導入の分を終えると、一体、私たちはどうやったら子供たちを聖人に、聖なる人間として育てる事ができるでしょうか?なぜかというと、お父さんとお母さん、あるいは夫婦は、死後の裁きの場所に立った時に、自分の霊魂のみならず、子供の霊魂についても問われるからです。配偶者と、そして天主が送られた子供たちについても裁かれるからです。

もちろん全ての、配偶者や子供たちの全ての行動について裁かれるわけではないですけれども、「どれほど良い影響を与えたのか」とか、あるいは「どれほど悪い影響を与えてしまったのか」等について裁かれます。

では先程も申し上げましたけれども、「子供を育てる」という事の最終の目的は何でしょうか?もしも最終の目的地を知らないならば、その目的地に達する為の行動を起こす事ができません。

私はこの今、子供を育てる事の究極の目的、ゴールを、このようにまとめたいと思います。『子供たちが、あるいは結婚生活において、あるいは修道生活・司祭生活において、自分の霊魂と自分たちに委ねられた霊魂たちを救う事ができるように準備する』これが目的です。

結婚生活と修道生活だけなのでしょうか。一人で独身生活をする、というのは、必ずしもそれだけの為に追求されるものではないからです。もちろんある霊魂については、良い方を天主様が送って下さらなかった、あるいは巡り会う事ができなかったとか、あるいは色々修道生活をしたけれども、結局修道生活への召し出しはなかった、という場合もあります。それもとてもあり得るので、もちろんそれはそれで良い事です。そして自分の選択ではないにも関わらず、天主様の御摂理によって、独身のまま一生を終える方々もいらっしゃいます。それも天主様の御摂理です。

しかし、こう「身分」というのは大体は普通は、修道生活・司祭生活、あるいは結婚生活です。ですから両親は、子供たちがそのどちらかの身分に生活に入るように、子供たちを準備します。ですからこの両親は、お父さんとお母さんは、子供たちが大人になった時に、その自分の生活を決めて、霊魂を救う事ができるようにへと準備させる、この使命があります。

そこである聖人は、両親の役割というのは子供たちの教育というのは、主にこれだけではないのですけれども、主に「子供たちの意志を訓練する事である」と言っています。

この「意志」については、現代において極めて蔑ろにされている危険な問題です。現代の社会では、「子供たちは何をしても、決して悪い事はしていない。だから何も叱るべきものは何もない」という誤謬があります。もちろん子供を皆さん持っている方はご存知ですけれども、これは「そうではない」という事はよく皆さんご存知です。これはジャン=ジャック・ルソーという人が言い出した間違いであって、300年も前からある誤謬です。

私は10年間、イギリスで学校の校長をしていました。多くの両親たちが学校に子供を連れて来て、「この私の子供は、私に決して嘘をついた事はありません」と言います。そしてその両親の言葉を聞くと、あたかも子供が天から、原罪の汚れも無く天使からのように降ってきたかのように、清らかな存在であるかのように描写をしてくれます。そしてもちろん、この子供たちが、自分の子供が何か罪を犯す、何かおかしい事をするというのは、ちょっと恥ずかしい事であるからかもしれません。しかし子供たちは、親御さんたちの謙遜の為に与えられた、という事もあります。ですから聖人たちは、「子供たちの意志を訓練させる事」について話しています。

子供たちの意志を訓練するのは難しいプロセスです。親が子供に「よろしい、いいですか?これが良い事で、こうしなければなりません。なぜならば、これでこうだから、こうだからです。」だからといって、子供がそれをするとは限りません。しかし子供が良い事をするようになるまで、そのような習慣を、良い習慣をつける事ができる為には、何ヶ月も何年もかかります。

それでこの意志を訓練する為には、2つの極端があるので、この2つの極端を避けなければなりません。ラテン語では言い方は、「徳は中庸に有り」と言いますけれども、この2つの両極端のやり過ぎの中庸を取らなければなりません。

1つは、「厳しすぎる事」です。もう1つは、「あまりにも緩慢で、そして優しすぎる事」です。

最初の、この「厳しすぎる、あまりにも厳格すぎる」というのは、あまりよくある事ではないのですけれども、でもあり得る事です。このあまりにも厳格で厳しすぎる親は、この例えば何かの罰のその背後に、愛も、あるいはその合理的な理由もなくて、ただ機械であるかのようにマシーンであるかのように取り扱っている場合です。強い矯正というよりは、あるいは力ずくで、子供にある行動の取り方を押し付ける、というやり方での教え方です。

私たちの見る限りは、この「厳しすぎる」というのは、あまりよくあるケースではありません。よくあるパターンは、「優しすぎる」か、あるいは「緩慢しすぎる」ような教育の仕方です。

司祭は色々な国や色々な民族で、色々な習慣のメンタリティーの人々の間で働いていますけれども、人間の本性というのはどこでも同じです。マリア様を除いて、私たちは皆原罪を持っているので、人間の本性としては同じような欠陥を持っています。では「優しすぎる」とか「緩慢しすぎる」という問題はどこにあるのでしょうか?

問題は、「意志が強くならない」という事です。びっことか片端になってしまう事です。あまりにも厳しすぎると、この子供の意志を壊してしまう危険があります。しかし緩慢しすぎてしまうと、そこには意志の強さが全くないので、意志の強さが見られなくなってしまいます。

「修道生活に入りたい」あるいは「司祭になりたい」と言う若い男女がいたとします。毎日お祈りもするし、主日にはミサも与るし、熱心にやっています。しかし、「罪の習慣を断ち切る」とか、あるいは自分の意志を固くして、修道生活、あるいは「天主様の為に身を捧げる」という決意を取る事ができません。

「なぜその決心を立てる事が難しいのですか?」と聞きます。「子供の時はどんな生活を受けたのですか?」と聞いたとします。

すると子供たちは青年は、その子供の時に受けた教育について、両親に不満で、怒りを持っている場合があります。「私は甘やかされて育ちました。いつでもお菓子や食べ物を食べる事ができたし、もしも望むならば午前中ずっと寝ている事もできたし、家で何の責任もなかったし、手伝いもしなかったし、もしも何か欲しいと言えばすぐにそれを親がくれたし、ですから大人になった時に、私には意志の強さが何もありませんでした。自分を否定して、自分がこれがダメだ、という事ができませんでした。なぜかというと、子供の頃から欲しいものはすぐ手に入れたからです。」

そしてこの「自分が失敗した」という事で、それを大きな心の傷として持っています。

この意志が養成されなかったので、意志が強くならなかったので、結婚生活においても非常に苦しみます。なぜかというと、意志が弱いので、配偶者の為、あるいは子供たちの為に、自分を犠牲にする事ができないからです。

あるいは修道生活に入る事ができません。なぜかというと、自分の個人的な喜びや良いものを放棄する事ができないからです。

ここに、「子供への愛」という事の誤解があります。「子供を愛する」という事は、子供がしたい事をすぐさせてあげるという事ではありません。

私は学校で、ある生徒がいましたが、その生徒は宿題を全くした事がなくて、非常に怠慢な学生でした。7歳の子供だったので、そんなに大した事を要求したわけではなくて、ほんのちょっとした事だけだったのです。私は両親に聞いたのです。
「この子は一体、放課後ほんの10分か15分あればすぐ出来てしまうような宿題を何でしないのですか?」
「あぁ、なぜかというと、うちの子はいつもテレビを見るのが好きで、テレビのショーを見ているのですけれども、その子供に『テレビを見ずに宿題をしなさい』とは言えないのです。なぜかというと、子供を愛しているので、子供が泣いたり、子供に辛い思いをさせたくないのです。」
「そうではありません、親御さん、それはですね、子供を憎んでいる事です。子供が欲しい、やりたい、と言ったこのその時に与えてしまうという事は、子供を壊してしまう事です。」

ですから、本当の良いお父さんとお母さんは、子供を賞賛して、必要ならばそれに矯正を与えて、それを矯めして、これを注意して、そして必要なやり方でそれを行ないます。もちろん子供は、家族は色々違っているので、それらに全て適応するような黄金の規則というものはありません。私たちに与えられた知性と、常識と、それから良い賢明な方々のアドバイスを受けて、それを行ないます。

子供を育てる、良く育てるという事は、難しい仕事です。時々お父さんとお母さんから聞きます、「あぁ神父様、あぁ私、修道者になった方が良かったです。」ちょっとこれは皮肉なように聞こえます。なぜかというと、そのような方々が結婚生活を選んだのは、「修道生活の方が難しいだろう」と思ったからです。「修道生活の犠牲をする事が嫌だ」というような人は、やはり同じく、「家庭生活の犠牲も嫌だ」と思うでしょう。

よく人々が修道生活に対して恐れているのは、「自己否定」とか、あるいは「共同生活」、あるいは「他の人の為の奉仕」、「天主様への奉仕」ですけれども、しかし結婚生活にも同じような犠牲が要求されます。「自分の自己否定」や、あるいは「他者の為の奉仕」という事が要求されます。

「共同生活」や「誓願」も同じです。「家庭生活」という共同生活や、「夫婦の忠実」という誓願も守らなければなりません。

ですからまとめて言うと、修道生活を送ろうが、家庭生活結婚生活を送ろうが、同じく、強い良い意志の養成が、形成が必要です。ですから両親は、子供の意志をよく訓練させてあげて、どのような職業でも、どのような生活でも、身分にも、対応できるようにしてあげなければなりません。

これは大きな中の小さな、子供の養成の一部でした。

では、今からのものが結論です。問題は、よく頻繁に起こるのは、「寛大さの欠如」から問題が生じます。寛大さがない、寛大に与え尽くす事ができないという事は、「自分勝手」があります。この自分勝手、利己主義というのは、近代の色々な誤謬の中に、誤りの中にあります。物質主義、あるいはその他近代の色々な弊害をもたらすような何とか主義は、結局はとどのつまり、利己主義に端を発しています。

若い、まだ年端のいかない子供の時から、「他の人の為に奉仕をさせる、他の人の為に役に立つような事をして、寛大に与える事を覚えさせる」という事はとても良い事です。

そしてこの「他の人の為に自分を与える、寛大に与える」という事こそ、将来の良き夫、良き妻、そして良き司祭、修道者となるものです。

今日私の言いたかったのはその事です。ではご清聴ありがとうございました。
お祈りをします。


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