2019年2月17日(主日)七旬節の主日のミサ
小野田神父 説教
聖なる日本の殉教者巡回教会にようこそ。
今日は2019年2月17日、七旬節のミサを捧げています。
今日は14時から15時まで、このミサの後に小さな短い公教要理を提案します。そこでは、「イエズス様が御受難を受けるのには、その他の方法がなかったのか?」「なぜ御受難をするのが良かったのか?」という事を、聖トマス・アクィナスの説明によって色々黙想したいと思っています。
侍者の会も14時からあります。
15時からは晩課があります。今日は晩課の時間が1時間繰り上がっております、ご注意下さい。
3月の予定ですが、3月は色々な行事が予定されています。
まず、3月2日の初土曜日には、去年の12月に行なったように、サマーズ神父様がまた来日されて、初土のミサを捧げて下さいます。
3月3日の主日にも、いつものようにミサがあります。その日サマーズ神父様は大阪で夕方に今度ミサをするのですけれども、午前中は皆さんに御説教をここで捧げて下さるとの事です。
6日は灰の水曜日です。火曜日は私の都合があってミサはできないのですけれども、水曜日にはここで夕方に、灰の水曜日のミサをしようと予定しております。いらして下さい。
3月17日にも、いつものように第3主日のミサがあります。
秋田の巡礼があります。5月1日から4日です。是非、新しい日本の時代が始まるこの日に、その日に多くの方が、マリア様に日本の為にお祈り下さる事をお待ちしています。サマーズ神父様もその為に、他の用事をキャンセルして来て下さる、ともう飛行機の切符も買って、もう準備されています。皆さんも是非参加なさって下さい。
“Quid hic statis tota die otiosi? ”
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
「一体、何でお前たちは、ここにぽけっと突っ立って1日いるのか?私のブドウ畑に行け」と、今日福音の中で私たちの主がたとえを出して、最後の夕方の、あとほんの数分しか働かないような人たちを呼んで、「お前も行って働け」と言う、有名なたとえを読みました。
七旬節です。
そこで、私たちも公教会の精神に従って、イエズス様からの呼びかけを今日聞く事に致しましょう。教会は聖パウロを通して、またイエズス様を通して私たちに、「さぁ、お前たちも行って、私のブドウ畑で働け」と呼びかけています。もう最早、ぼけっと何もせずに、広場に突っ立って、携帯を見ている事はできません。私たちもこの主の招きに応えて、主のブドウ畑に行く事にしましょう。
では今日、教会の教えようとするプログラムは一体何なのか、ミサに沿って黙想する事を提案します。
⑴まず教会は、「私たちが罪人である」という事を思い出させます。
⑵ですから、罪人である私たちは一体何をしなければならないのか?
⑶そして、そうすると一体どんな事があるのか?
⑷そしてそのどんな事があるかについて、良い模範と悪い模範を見せます。良い模範は、今日の指定巡礼教会「聖ラウレンチオ」であり、悪い模範は、「古(いにしえ)のイスラエル人」でした。
⑸そして今日、教会と一緒に遷善の決心を立てる事に致しましょう。
⑴第1のポイントは、「私たちは罪人だ」という事です。
これは司祭が、ここの祭壇の前に立ってミサを始めようとすると、とても聞き慣れた、しかし美しいメロディーが流れました、“Circumdederunt me…”「死の影が私を取り囲んでいる。死のうめきが取り囲んでいる。地獄の苦しみが私を取り囲んでいる。私を圧迫している」と。
これは、私たちの置かれている状況を示しています。私たちは罪人であって、死の周りに囲まれて、地獄へとまっしぐらに歩んでいる者です。
⑵そこで第2のポイントは、聖パウロとイエズス様の声を通して、教会は私たちを、「何とかするように」と招いています、「働け」と、「それに打ち勝つように、勝て」と、「地獄の圧迫に打ち勝て」と。
今日の家長、あるいはブドウ畑の主人は、イエズス様であり、天主三位一体です。それが「私たちの救霊」という、ブドウ畑で働くように招いています。その招きはこの例えのように、いつでもなされています。そしてその招きはどんな所でもなされています。しかし残念ながら、今まで私たちは、その声に耳を貸さないで来たかもしれません。
しかし今日こそは、それにその声を聞き取らなければなりません。決して遅すぎる事はないからです。たとえほんのちょっとしか働かなかったとしても、有効だからです。若い人も年寄りも、男も女も、お金持ちも貧しい人も、会社の社長もあるいは従業員も、同じく招かれています、イエズス様のブドウ畑で働く事を。
もしかしたら私たちは、「そんなに暇じゃない」と言うかもしれません、「一生懸命、日夜仕事をしている。」
ところで聖パウロも、聖パウロはこの事を競技場の例えで出します、「一体力士がどうやって訓練するかを見た事があるか。陸上の選手がどうやって鍛錬するか見た事があるか。」
ウェイトオーバーをしないように、あるいは、どうやったらより早く走る事ができるか、その為に研究して、それに必要なものの為に全て訓練する。陸上の競手が、懸垂をやって「あぁ、100回できた!」と、そのようなコーチがすぐにクビになってしまった、全てはより早く走る為に。水泳の選手でしたら、全てはより速く泳ぐ為に、訓練がプログラムされています。
ですから私たちの訓練は、では私たちの救霊の為に、一体どうしたらより良い結果が出るのか?そこがポイントになります。「ブドウ畑に働く」というのはまさにその事です。
フィリピンに行くと、暑い国ですので、子供たちも大人もビリヤードを外でやっていたりとか、あるいはギターを持って歌を歌っていたりとか、一生懸命バスケットボールをやっていたりとかしますが、あまり働いているように思えません。しかし彼らに聞くと、一生懸命やっています。
私たちの日常の生活も、イエズス様からの目によると同じかもしれません。一生懸命働いているかに見えていながら、実は救霊の為にあまり役に立っていない。
⑶第3の点はまさにそこです。一体私たちがブドウ畑で働くと、あるいはその訓練を鍛錬をすると、一体何が待っているのか?
「滅びぬ栄冠が待っている。永遠の栄光が待っている。」
そこで聖パウロは、企画を出します、「よく考えてほしい。オリンピックの選手は、小さい時から20何歳まで、その限られた間、全てを使って、その金メダルを取る為に一生懸命全てを犠牲にして、それだけに時間を使って、一生を使っている。野球の選手は、ホームランを打つ為に、勝利の為に訓練する。しかしその為に受けた勝利というのは、儚い王冠に過ぎない。しかも勝利を受けるのはたった一人だ。」
「しかしそれと比べると、私たちの努力をはるかに超える、とてつもない無限の、滅びる事のない栄冠が待っている。もしもこの儚いものの為にこれほどの努力をする人がいるならば、それよりもはるかに多いものの為に、私たちはどれほど努力をしなければならないだろうか。しかも誰でもそれを取る事ができる。だから鍛錬して戦え。目標を持って戦え」と励まします。
⑷そこで教会は、第4番に最後に、良い模範を見せます。それが聖ラウレンチオです。
聖ラウレンチオは助祭で、ローマで非常に有名な愛された、愛徳の聖なる聖人でした。ちょうど聖ラウレンチオは、最後まで罪を犯す事を拒否し、イエズス様だけを天主として礼拝しました。そしてその為に焼かれます。鉄板の上で焼かれて、半分焼かれて、あたかも「地獄の苦しみが周りを囲んだ」と言われているかのようです。しかしそれでもめげずに、「半分焼かれたから、もうちょっと半分焼いて」とお願いしました。全部焼いたら、「もう食べていいよ」と余裕を持って冗談を言いました。その聖ラウレンチオの忍耐と愛を、私たちにまず指定巡礼教会で見せます。
次に聖パウロは悪い模範として、イスラエルの人々を出します。
「イスラエルの人々も、モーゼにおいて、雲と海において紅海を渡りながら洗礼を受けた、エジプトから救われた、しかも天からの食べ物によって養われた。これは、洗礼を受けて御聖体によって養われている私たちのようだ。それにも関わらず滅びた。約束の地に行く事ができなかった。辿り着けなかった。その地に辿り着いたのはほんの少しだった。だから警戒せよ。気を緩ませてはいけない。」
⑸今日は、私たちはどのような遷善の決心をしたら良いでしょうか?
私たちはまず、七旬節にあたって、「あぁ、そういえば私の時間の使い方は一体どうなっていただろうか?」と、「私たちは一日中何もせずに、救霊の為にをぽけっとして時間を使っていたのではないだろうか?」と黙想するのはどうでしょうか。「一体、『主のブドウ畑で働け』と言われながらも、行って働いただろうか?それよりもタブレットを持って、ブドウ畑に行かずに他の事をしていたかもしれない。」
あるいは、「私の究極の人生の目的は、一体何なのだろうか?『永遠の救い』というのは、どれほどの価値があるのだろうか?滅びない栄冠、栄光、無限の喜び、永遠の命、これが待っている。」
東京オリンピック、パラリンピックに出るという選手の話を聞く度に、どうぞ皆さん考えて下さい、「私たちも実は、ものすごい栄光の、栄冠の為に走っているのだ。」
第2に、今日は、聖ラウレンチオが苦しみの周りに取り囲まれながらも、勝利の喜びを得ていたように、私たちも死の苦しみに周りを取り囲まれながら、イエズス様、御聖体によってイエズス様という報いを既に受けて下さい。これは天国への勝利の前兆であって、味見です。最後の最後までこれを走り切り、そして勝利の冠を受ける事ができるように、イエズス様に求めながら御聖体拝領をなさって下さい。
最後に、マリア様にお祈り致しましょう、マリア様は私たちの救霊を非常に母として望んでおります。私たちの救霊のみならず、日本の全ての方々の永遠の命の為にもお祈りなさって下さいます。ですから自分自身だけでなく、他の私たちの友人や多くの方々がこの七旬節から、この七旬節の御恵みによって、イエズス様へと導かれるように、マリア様にお祈り致しましょう。
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
小野田神父 説教
聖なる日本の殉教者巡回教会にようこそ。
今日は2019年2月17日、七旬節のミサを捧げています。
今日は14時から15時まで、このミサの後に小さな短い公教要理を提案します。そこでは、「イエズス様が御受難を受けるのには、その他の方法がなかったのか?」「なぜ御受難をするのが良かったのか?」という事を、聖トマス・アクィナスの説明によって色々黙想したいと思っています。
侍者の会も14時からあります。
15時からは晩課があります。今日は晩課の時間が1時間繰り上がっております、ご注意下さい。
3月の予定ですが、3月は色々な行事が予定されています。
まず、3月2日の初土曜日には、去年の12月に行なったように、サマーズ神父様がまた来日されて、初土のミサを捧げて下さいます。
3月3日の主日にも、いつものようにミサがあります。その日サマーズ神父様は大阪で夕方に今度ミサをするのですけれども、午前中は皆さんに御説教をここで捧げて下さるとの事です。
6日は灰の水曜日です。火曜日は私の都合があってミサはできないのですけれども、水曜日にはここで夕方に、灰の水曜日のミサをしようと予定しております。いらして下さい。
3月17日にも、いつものように第3主日のミサがあります。
秋田の巡礼があります。5月1日から4日です。是非、新しい日本の時代が始まるこの日に、その日に多くの方が、マリア様に日本の為にお祈り下さる事をお待ちしています。サマーズ神父様もその為に、他の用事をキャンセルして来て下さる、ともう飛行機の切符も買って、もう準備されています。皆さんも是非参加なさって下さい。
“Quid hic statis tota die otiosi? ”
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
「一体、何でお前たちは、ここにぽけっと突っ立って1日いるのか?私のブドウ畑に行け」と、今日福音の中で私たちの主がたとえを出して、最後の夕方の、あとほんの数分しか働かないような人たちを呼んで、「お前も行って働け」と言う、有名なたとえを読みました。
七旬節です。
そこで、私たちも公教会の精神に従って、イエズス様からの呼びかけを今日聞く事に致しましょう。教会は聖パウロを通して、またイエズス様を通して私たちに、「さぁ、お前たちも行って、私のブドウ畑で働け」と呼びかけています。もう最早、ぼけっと何もせずに、広場に突っ立って、携帯を見ている事はできません。私たちもこの主の招きに応えて、主のブドウ畑に行く事にしましょう。
では今日、教会の教えようとするプログラムは一体何なのか、ミサに沿って黙想する事を提案します。
⑴まず教会は、「私たちが罪人である」という事を思い出させます。
⑵ですから、罪人である私たちは一体何をしなければならないのか?
⑶そして、そうすると一体どんな事があるのか?
⑷そしてそのどんな事があるかについて、良い模範と悪い模範を見せます。良い模範は、今日の指定巡礼教会「聖ラウレンチオ」であり、悪い模範は、「古(いにしえ)のイスラエル人」でした。
⑸そして今日、教会と一緒に遷善の決心を立てる事に致しましょう。
⑴第1のポイントは、「私たちは罪人だ」という事です。
これは司祭が、ここの祭壇の前に立ってミサを始めようとすると、とても聞き慣れた、しかし美しいメロディーが流れました、“Circumdederunt me…”「死の影が私を取り囲んでいる。死のうめきが取り囲んでいる。地獄の苦しみが私を取り囲んでいる。私を圧迫している」と。
これは、私たちの置かれている状況を示しています。私たちは罪人であって、死の周りに囲まれて、地獄へとまっしぐらに歩んでいる者です。
⑵そこで第2のポイントは、聖パウロとイエズス様の声を通して、教会は私たちを、「何とかするように」と招いています、「働け」と、「それに打ち勝つように、勝て」と、「地獄の圧迫に打ち勝て」と。
今日の家長、あるいはブドウ畑の主人は、イエズス様であり、天主三位一体です。それが「私たちの救霊」という、ブドウ畑で働くように招いています。その招きはこの例えのように、いつでもなされています。そしてその招きはどんな所でもなされています。しかし残念ながら、今まで私たちは、その声に耳を貸さないで来たかもしれません。
しかし今日こそは、それにその声を聞き取らなければなりません。決して遅すぎる事はないからです。たとえほんのちょっとしか働かなかったとしても、有効だからです。若い人も年寄りも、男も女も、お金持ちも貧しい人も、会社の社長もあるいは従業員も、同じく招かれています、イエズス様のブドウ畑で働く事を。
もしかしたら私たちは、「そんなに暇じゃない」と言うかもしれません、「一生懸命、日夜仕事をしている。」
ところで聖パウロも、聖パウロはこの事を競技場の例えで出します、「一体力士がどうやって訓練するかを見た事があるか。陸上の選手がどうやって鍛錬するか見た事があるか。」
ウェイトオーバーをしないように、あるいは、どうやったらより早く走る事ができるか、その為に研究して、それに必要なものの為に全て訓練する。陸上の競手が、懸垂をやって「あぁ、100回できた!」と、そのようなコーチがすぐにクビになってしまった、全てはより早く走る為に。水泳の選手でしたら、全てはより速く泳ぐ為に、訓練がプログラムされています。
ですから私たちの訓練は、では私たちの救霊の為に、一体どうしたらより良い結果が出るのか?そこがポイントになります。「ブドウ畑に働く」というのはまさにその事です。
フィリピンに行くと、暑い国ですので、子供たちも大人もビリヤードを外でやっていたりとか、あるいはギターを持って歌を歌っていたりとか、一生懸命バスケットボールをやっていたりとかしますが、あまり働いているように思えません。しかし彼らに聞くと、一生懸命やっています。
私たちの日常の生活も、イエズス様からの目によると同じかもしれません。一生懸命働いているかに見えていながら、実は救霊の為にあまり役に立っていない。
⑶第3の点はまさにそこです。一体私たちがブドウ畑で働くと、あるいはその訓練を鍛錬をすると、一体何が待っているのか?
「滅びぬ栄冠が待っている。永遠の栄光が待っている。」
そこで聖パウロは、企画を出します、「よく考えてほしい。オリンピックの選手は、小さい時から20何歳まで、その限られた間、全てを使って、その金メダルを取る為に一生懸命全てを犠牲にして、それだけに時間を使って、一生を使っている。野球の選手は、ホームランを打つ為に、勝利の為に訓練する。しかしその為に受けた勝利というのは、儚い王冠に過ぎない。しかも勝利を受けるのはたった一人だ。」
「しかしそれと比べると、私たちの努力をはるかに超える、とてつもない無限の、滅びる事のない栄冠が待っている。もしもこの儚いものの為にこれほどの努力をする人がいるならば、それよりもはるかに多いものの為に、私たちはどれほど努力をしなければならないだろうか。しかも誰でもそれを取る事ができる。だから鍛錬して戦え。目標を持って戦え」と励まします。
⑷そこで教会は、第4番に最後に、良い模範を見せます。それが聖ラウレンチオです。
聖ラウレンチオは助祭で、ローマで非常に有名な愛された、愛徳の聖なる聖人でした。ちょうど聖ラウレンチオは、最後まで罪を犯す事を拒否し、イエズス様だけを天主として礼拝しました。そしてその為に焼かれます。鉄板の上で焼かれて、半分焼かれて、あたかも「地獄の苦しみが周りを囲んだ」と言われているかのようです。しかしそれでもめげずに、「半分焼かれたから、もうちょっと半分焼いて」とお願いしました。全部焼いたら、「もう食べていいよ」と余裕を持って冗談を言いました。その聖ラウレンチオの忍耐と愛を、私たちにまず指定巡礼教会で見せます。
次に聖パウロは悪い模範として、イスラエルの人々を出します。
「イスラエルの人々も、モーゼにおいて、雲と海において紅海を渡りながら洗礼を受けた、エジプトから救われた、しかも天からの食べ物によって養われた。これは、洗礼を受けて御聖体によって養われている私たちのようだ。それにも関わらず滅びた。約束の地に行く事ができなかった。辿り着けなかった。その地に辿り着いたのはほんの少しだった。だから警戒せよ。気を緩ませてはいけない。」
⑸今日は、私たちはどのような遷善の決心をしたら良いでしょうか?
私たちはまず、七旬節にあたって、「あぁ、そういえば私の時間の使い方は一体どうなっていただろうか?」と、「私たちは一日中何もせずに、救霊の為にをぽけっとして時間を使っていたのではないだろうか?」と黙想するのはどうでしょうか。「一体、『主のブドウ畑で働け』と言われながらも、行って働いただろうか?それよりもタブレットを持って、ブドウ畑に行かずに他の事をしていたかもしれない。」
あるいは、「私の究極の人生の目的は、一体何なのだろうか?『永遠の救い』というのは、どれほどの価値があるのだろうか?滅びない栄冠、栄光、無限の喜び、永遠の命、これが待っている。」
東京オリンピック、パラリンピックに出るという選手の話を聞く度に、どうぞ皆さん考えて下さい、「私たちも実は、ものすごい栄光の、栄冠の為に走っているのだ。」
第2に、今日は、聖ラウレンチオが苦しみの周りに取り囲まれながらも、勝利の喜びを得ていたように、私たちも死の苦しみに周りを取り囲まれながら、イエズス様、御聖体によってイエズス様という報いを既に受けて下さい。これは天国への勝利の前兆であって、味見です。最後の最後までこれを走り切り、そして勝利の冠を受ける事ができるように、イエズス様に求めながら御聖体拝領をなさって下さい。
最後に、マリア様にお祈り致しましょう、マリア様は私たちの救霊を非常に母として望んでおります。私たちの救霊のみならず、日本の全ての方々の永遠の命の為にもお祈りなさって下さいます。ですから自分自身だけでなく、他の私たちの友人や多くの方々がこの七旬節から、この七旬節の御恵みによって、イエズス様へと導かれるように、マリア様にお祈り致しましょう。
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。