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サムエルの書(上)第一章の解説と黙想 大聖グレゴリオによる神秘的な意味

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愛する兄弟姉妹の皆様、

サムエルの書(上)第一章の黙想を提案します。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

ラマタイム(Ramathaim)の町の中に一人の男がいた。天主のしもべであり、エルカナと呼ばれていた。

ラマタイムは、私たちにとってアリマテアとしてよく知られている。衆議所のアリマテアのヨゼフがピラトから私たちの主イエズス・キリストを葬る許可をとったが、そのヨゼフの出身地である。

エルカナは、父によりレビ族に属していた。母によってはユダ族に属していた。
彼は、エフラタの出身であった。エフラタとは、ベトレヘムのことである。

エルカナには、美しい妻がいた。アンナという名前である。残念なことに、可哀想なアンナには子供が授からなかった。

モーゼの掟によると、特別な場合には子供を得るために、副次的な妻を娶ることが特例として許されていたので、別の女性を娶った。ペンニナ(フェネンナ Fenenna)といった。

ユダヤの歴史家による別の文献を信じるならペンニナには男の子だけで10人いた。

エルカナは、毎年、過ぎ越しと、五旬祭と、幕屋祭に、いけにえをささげるために自分の町からシロ(Silo)に上った。その当時、シロに契約の櫃があった。

エルカナはレヴィ族でしかなく、司祭ではなかったので、司祭の手を通して犠牲を捧げた。

ある日、エルカナはいけにえをささげた後、犠牲(いけにえ)の残りを二人の妻と子供たちと分けた。いけにえの脂身は祭壇で燃やされ、胸の部分は司祭に与えられ、残りが奉献者に属するからだ。

アンナは、食卓について、その分け前が、別の妻のペンニナとその息子と娘らにそれぞれ与えられるのを見て、ペンニナがアンナを軽蔑するようなコメントを聞いて、エルカナがアンナをより愛するのを嫉妬するペンニナの残酷な態度を見て、毎年のいけにえの巡礼は、アンナにとって苦痛であった。

競争者のペンニナはアンナの恥、つまり主が彼女の胎を閉じて子を与えられないことについて、ひどく辱めていたからだ。毎年そうであった。主の聖所に上るごとにペニンナはアンナを悲しませていた。

エルカナはアンナの涙を見て、慰めようとする。
「アンナ、なぜ泣くのだ。なぜそう悲しむのだ。なぜ食べないのか。おまえにとって十人の子よりも私のほうが良いではないか。」

つまり、おまえのことをこんなにも愛している夫が一人いることは、数え切れない心配を与える子供の数々よりもよっぽど良いのではないか?という意味だ。

アンナは、宴会のあと、立ち上がり幕屋の方に向かい、祈るために主の前に出た。
そのとき祭司エリ(Heli)は主の聖所の扉の柱に近い腰かけに腰を下ろしていた。
アンナは心を痛め、泣きに泣いて主に祈った。

「ああ万軍の主なる天主よ、あなたのはしためのこの惨めさを顧み、私のことを思い出したまえ。このはしためを忘れず、男の子を与えられるなら私は一生その子を主にささげ、その子の頭にかみそりをあてることもしますまい。」

アンナの主の前での長く祈った。同じことを何度も祈った。
アンナは沈潜し、深く心の中で語っていて、くちびるだけ動かし、声は外に出ていなかった。

ユダヤ人にとって、祈りは体の動きとなって、大きな声で唱えなければならないとされていた。

大司祭エリはこの女は酔っているなと思った。宴会でたくさん酒を飲んだのだろう、と。エリはアンナに言った。
「酔っていつまでそこにいるのか。ぶどう酒の酔いを早くさませ。すこし横になって休んだらどうか。」

競争者ペンニナからの侮辱を避けるために、祈りに慰めを求めて逃げてきたアンナは、司祭からも酒飲みだと馬鹿にされた。しかし、アンナは怒らずに静かに答えた。

「いえ、主よ、私は悲しみに打ちひしがれています。ぶどう酒も酔う物も飲んではいません。ただ主の前で私の思いを告げていたにすぎません。主の婢を、ベリアルの娘等の一人と思うなかれ。このはしためを自堕落な女だと思ってくださいますな。私は苦しみと悲しみのあまり主に語りかけていたのです。」

エリはアンナが本当のことを言っていると分かった。アンナの平静さ、単純さ、慎み深さがよく分かった。
「安心して行け。イスラエルの天主はおまえの願いを聞きたもうだろう」。

アンナは司祭の言葉を主からの言葉として受け入れた。天主は彼女の祈りを聞き入れて下さるだろう!
アンナは言った。「願わくは汝の婢、汝の御眼前に恩恵を得んことを。」
つまり、「私のためにお祈り下さい。」

それからアンナは夫のもとにもどり、喜んで食事をとった。もう前のように悲しんではいなかった。「その顔色最早さまざまに変わることなかりき。」つまり、気分のむらもなく、喜んだり、悲しんだりすることなく、大司祭の言葉に信頼し、平和を取り戻した。

この次の日、日の昇るころ一同は起き出し、もう一度幕屋に行って、主の前にひれ伏してラマタ[イム]の家への帰途についた。

その後エルカナが妻を知ったとき、主は彼女を思い出された。アンナは身ごもった。その年の終わりころ彼女は身ごもって男の子を生んだ。その子はサムエルと名づけられた。サムエル、つまり「主に願った」。

夫のエルカナは毎年のいけにえを主にささげて、サムエルの誕生を感謝し、誓いを果たすために家族一同を連れていこうとした。

しかし、アンナはついていそうとせず、夫にこう言った、「この子が乳離れして主の顔をおがみに連れていけるようになり、ずっと向こうにとどめておけるようになるまで、私は参りません。」

夫のエルカナは答えた、「おまえの思うようにしてよい。子を育て上げるまでいかなくてよい。主はおまえの望みをかなえてくださるだろう。」

アンナは家に残り、乳離れするまでその子を育てた。

乳離れしたときアンナは子を連れ聖なる場所に登った。三歳の雄牛一頭、一エファの麦粉、皮袋一つのぶどう酒を持ち、子の手をひいてシロの主の神殿に上った。雄牛をほふってから彼女は子どもをエリに紹介した。

「主よ、お聞きください。あなたのお命が真実であるように、私もそれにかけて事実を申します。私はちょうどここ、あなたのそばで長くとどまって主に祈った女です。私はこの子について祈りました、主は私の願いを聞き届けてくださいました。それで私もこの子の一生を主にゆだねます。この子を主にささげます。」
そして彼女はその子を主の前に残して去った。

大聖グレゴリオによると、次のような神秘的な意味があると言います。

エルカナは、キリストの前表(figura)である。だから「ひとりの男 vir unus」と言われている。唯一の人であり、第二はない。聖父が喜びとする御独り子である。

エフライムの山地なるラマタイムソフイムに彼はいた。
ラマタ・サフィム Ramatha Saphim この二つの名前は「完成したヴィジョン、観想」を意味する。何故なら、キリストは天主性を観想する至福直観の内におられ、そこからこの地にやってこられたから。

彼は「エフライムの山地」からの人だ。「エフライムの山」の意味は「豊かさの山」である。キリストは、全ての聖徳の満ちあふれた山すなわちマリア様からの人だから。

エフライムの人である。エフライムとは「実り豊かな」という意味だ。何故なら、キリストは全世界を養う豊かな実りをもたらすからだ。

彼はシロに決められた日に登った。「さてこの人はシロに於いて萬軍の主を禮拜し、之に禮物を献げんとて定めの日にその市より上りぬ。」何故ならキリストは、預言者によって定められた日と段階を厳格に守って、この地上での生活を送り、常に自分の体を全世界の救いのためのいけにえとして捧げるために天上の方へと歩んでいたからだ。

シロとは、「送られた」という意味だ。何故ならキリストの全生涯は従順の生涯であり、聖父から与えられた使命を果たすだけに費やされたからだ。

この地上で、彼には二人の妻がいた。つまり、ユダヤ会堂(シナゴーグ)【ペンニナ】と教会【アンナ】である。二つとも当時は本当の宗教であった。両者とも、当時は、永遠の生命に霊魂を生むことが出来た。

ペンニナには子供が多くいた。何故ならシナゴーグは物質的に豊かだったから。アンナは子供がなかった。何故なら生まれたばかりの初代教会は、キリストから愛されていたにもかかわらず、信徒の数が少なかったからだ。この初代教会について雅歌はこう歌っている。"Soror nostra parva, et ubera non habet." (8:8)

ペンニナのアンナへの迫害は、ユダヤ人たちが教会に対してなした迫害と軽蔑である。アンナは涙を流し祈る。使徒たちもユダヤ人たちの不信を歎いたからだ。聖パウロもユダヤ人たちについてこう言う。「私は、心に大きな悲しみと絶えまない苦しみを感じている。私の兄弟と、肉親の者のためならば、私自身は呪われてキリストから棄てられた者となることさえ望む。」(ローマ9:3)

キリストは、教会を慰める。「アンナよ、汝は何故泣くや、何故食せざるや、また何故汝の心を悩ますや。我は汝にとりて、十人の子にも優るに非ずや」と。

おまえは私という最高の宝を持っているではないか。おまえは天の王と婚姻の絆で分かちがたく結ばれているではないか。10人の子供、つまり天主の十戒を知っているがそれよりも上に行くことを知らない子供たちよりも、すぐれていることではないか。

アンナは子供が授かるように祈る。絶え間なく祈る。沈黙の内に祈る。内的に祈る。

大司祭エリは「主の聖殿の門前なる腰掛に坐しおれり」、主の聖所の扉の柱に近い腰かけに腰を下ろしていたが、アンナが何をしているか理解できなかった。何故ならユダヤ教の司祭職は、モーゼの座に座っていたが、神殿の外に、聖殿の門前にあったからだ。聖殿の中には入らなかった、真の天主を霊と真理のうちに礼拝する本当の聖殿が理解できなかった。

だから、使徒たちが聖霊降臨の時に神殿で天主の御業を語ったとき、彼らは使徒たちが酒に酔っていると思った。「かれらは、うまいぶどう酒をいっぱいのんだのだ」とからかう者もあった。

「汝何時まで酔えるぞ。汝の飲み過ぎたる葡萄酒の酔を醒ませ」とは、つまり、使徒たちに、「一切イエズスの名によって話したり教えたりするなと禁じた」ことだ。

アンナの答え「然らず、葡萄酒をも、強き酒をも、飲みたるにあらず」は、聖ペトロの使徒たちを代表した答えに通ずる。「ユダヤの人々、イェルザレムに住んでいるすべての人々よ、私のことばに耳をかたむけて、次にいうことを知っていただきたい。今は、朝の九時であるから、あなたたちが思っているように、この人々は、酔っているのではありません。」

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