アヴェ・マリア・インマクラータ!
2019年4月6日(初土)四旬節第4主日の後の土曜日のミサ
小野田神父 説教
聖母の汚れなき御心聖堂にようこそ。
今日は2019年4月6日、四旬節の第4主日の後の土曜日のミサをしています。
来週の金曜・土曜・日曜日もミサがあります。金曜・土曜はいつもの通り、主日は枝の主日で、午後の18時から。
今日は初土でもあります。本来ならば初土の信心をしていますけれども、私たちは今日は特別に、今度復活祭の時に洗礼を受けて、天主の子供となろうとしている4人の方々の為に、その洗礼の前の、復活際には洗礼の儀式があまり長くなりすぎないように、その前の重要な部分をあらかじめ今日、ミサの後にしておこうと思っています。ですから皆さんどうぞ、この4人の、お母さんと子供たちの為にお祈り下さい。
本来ならば今日は、アメリカの神学校で、ティシエ・ド・マルレ司教様によって叙階式が行なわれるはずでした。下級品級の叙階式が行なわれる予定でしたが、しかしティシエ・ド・マルレ司教様が感染、体力が弱っておられたせいか、何か非常に体が弱っておられて、そして手術を受けなければならなくなってしまったとの事です。そこで本来今日行なわれるべき叙階式は、後日に延期されたとの事です。司教様のご健康の為に、どうぞ皆さんお祈りなさって下さい。
“Sitientes venite ad aquas.”
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
「渇く者よ、水の元にやって来なさい。」
入祭誦で、教会は私たちに、特に洗礼志願者の方々にこう呼びかけました。典礼学者は声をそろえて言います。そして今日聖歌隊の方がそのミサを歌うと聞いて、「あぁ、この歌詞を見ると、まさに洗礼の事が書かれてある。」まさにその通り、教会は復活祭の洗礼に備えて今日、洗礼志願者の為に最終の準備を行なおうとしています。
「真理に喉が渇く者、天主の正義に、義に飢え渇く者、聖徳に飢え渇く者、天主の御旨を果たそうと飢え渇く者、水の元にやって来なさい。私はお前たちを癒す。喉の渇きを潤せ。水の元にやって来なさい。」まさに洗礼志願者に対して、心から呼びかけるイエズス様の招きの声です。
この「水の元にやって来なさい」という、この「水」というのは、生ける水である、生ける水が滾々と湧き出る泉の元、「イエズス・キリスト」の事です。イエズス様は「生ける水」として、教会は私たちにイエズス様の姿をイメージとして表そうとしています。
そればかりか、イザヤの預言を使って、イエズス様が良き牧者であり、彼らを良い牧草地に導いて、水を与えるのみならず、豊かな、そして青々と茂った牧草地に導き、そして太陽の照りつける所からは木陰を準備し、羊の為に一生懸命心を尽くす、「良き牧者」としても表しています。私たちは決して、この牧者の元にいれば飢え渇く事がない、と知っています。
イエズス様はそれと同時に、良き牧者と同時に、イザヤの書の終わりの方には、「優しい母」として姿を見せています、私は母親の心を持って羊たちを、私たちを御覧になっています。これほどの優しい愛に満ちた母親の心があるでしょうか。預言者イザヤの口を使ってこう聞きます、「母親が、自分の産んだ子供を、乳飲み子を忘れる事があろうか。自分の子供の事を蔑ろにする事があるだろうか。たとえあったとしても、私はお前を決して忘れない。私の心は、母親の心よりもさらに母親の心だ。」
イエズス様は福音の中では、御自分の事を「世の光である」と言います。「私に従う者は、決して闇を歩まない。」
この「闇」というのは、罪の闇であり、悪の闇であり、嘘の闇であり、惑い、混乱の闇、真っ暗な闇です。
しかし、イエズス様の後に付く人は、このような暗闇を歩きません。光の中を、太陽に輝かされて、真理と、正義と、聖徳と、正しい道を歩きます。何が善で、何が悪かをよく分かって歩きます。
今日イエズス様は特に、洗礼志願者の方々を、そして私たちを招いて、「さぁ、水の元に、生ける水の元にやって来なさい。良き牧者の元にやって来なさい。世の光の元にやって来なさい。もう闇の中に入る必要はない。もう苦しんで喉が渇いている必要はない。もうお腹をペコペコにして苦しむ必要はない。私が養ってあげる。私はまさに、母よりも母である、愛の天主である」と呼びかけています。
ですから今日は、散らされた、南からも東からも北の色々な多くの民がイエズス様の元にやって来て、良き牧者の元に集まって、母であるイエズス様の元にやって来ている姿を見せます。
この洗礼の水、生ける水イエズス様が養って下さるその食べ物、私たちに下さる食べ物、これはイエズス様の愛の結晶です。どのような愛だったでしょうか?
これは、イエズス様の御受難の、十字架の木の上に成る愛の木の実りです。イエズス様は私たちを、この生ける水で洗い清め、養い、御自分の体で養おうとする、そのそれは、その後ろには、十字架の苦しみがありました。
ですから今日は、イエズス様の近くに行くと同時に、イエズス様が歩まれた、カルワリオの道に馳せ行く事に致しましょう。水の元に行く為に、生ける水が滾々と湧き出るその泉に近付く為に、その泉の元は、十字架のこの木の根っこにあるという事を、その根元に行きましょう。
喧騒が聞こえます。人々がざわめいています。私たちは今、2000年前のエルサレムにいます。
イエズス様が、罪の無いイエズス様が死刑を受けました。十字架の死刑を受けました。ポンシオ・ピラトが不正にも、イエズス様を「十字架に付けるように」と言いました。
道端に、道に、イエズス様の歩く道を探して、私たちはそこに駆け寄ります。
イエズス様の来る前に、多くの人々が、特にファリサイ人たちが、イエズス様の事を口汚く罵っています。知ったかぶりをしています。イエズス様の事を、嘘とでたらめで悪口を言っています。馬鹿にしています。イエズス様が言った事を半分本当、半分嘘で固めています。
その後に、イエズス様を苦しめるべきロープや、あるいは釘や、あるいは金槌や、その他色々な処刑の道具を持っている人々が歩いてきます。
その後で、他の盗賊と、そしてイエズス様が歩いてきます。
イエズス様の姿をご覧下さい。私たちを浄め、そして私たちを養う為に、イエズス様は全身血だらけで、重い十字架を担いながら、十字架の木を担いながら、歩いて来られます。その頭には、茨の冠を被せられています。全身、頭から足まで傷だらけです。健康な肌はひとつもありません。息はゼェゼェ、ハァハァ、喘ぎ喘ぎ、一生懸命歩いています。
イエズス様は何を考えているのでしょうか?
皆さんと、私の事を考えています。「霊魂を救う。皆さんをそして私を、愛している。この霊魂を天国まで導く。その為に、罪の償いを果たす。皆さんと私の代わりに、この重い十字架を担う。」
あっ!イエズス様はよろけて倒れました。重い十字架の木が、イエズス様の上にのしかかります。気絶をしているかのようです。誰も憐れもうとする人はいません。蹴飛ばしたり、ざわめいて笑ったり、悪口を言ったりしています。それを私たちは聞いています、「あぁ、かわいそうに、かわいそうに。」
しかし、イエズス様は気絶をしても、私たちの事を、皆さんと私の事を考えていました。「さぁ、早く起き上がって、カルワリオまで行く。」
横を見て下さい。マリア様が来ておられます。聖ヨハネも来ておられます。マリア様は目にうるうると涙を溜めながら、御子イエズス様の事を見ておられます。マリア様こそ、イエズス様が罪の無い、どれほど愛に満ちた方であるかをよく知っていたので、どれほどお苦しみになった事でしょうか。自分の子供がこんなに苦しめられているのを目の前に見る、血だらけの御子、馬鹿にされている御子をご覧になられるマリア様。
マリア様はこのような光景を見ない事もできたはずですが、共に苦しむ為に、ますますイエズス様の方に近寄ります。私たちもマリア様と共に、イエズス様に近付きます。
イエズス様は起き上がって、マリア様と出会います。今まで茨の冠が入って、目に入って、あるいは血だらけでよく見えなかった目ですが、目を凝らして、マリア様をじっとお見つめになります。どれほど、苦しむお母様マリア様を御覧になったイエズス様は、苦しまれた事でしょうか。
マリア様も、そのようなイエズス様を見て、どれほど心に痛い思いをされた事でしょうか、張り裂けるばかりだったでしょうか。マリア様は何も仰らずに、目に涙をたたえながら、イエズス様の後を歩まれます。
カルワリオの下で、イエズス様が服を剥ぎ取られたり、茨の冠を取られて、また押し付けられたりするのを見て、どれほど心が痛んだ事でしょうか。屈辱を受け、馬鹿にされ、ある事ない事言われ、他の人たちが何を言っているかをよく聞き見る事ができた、イエズス様とマリア様。
イエズス様が十字架の木の上に手を出して、差し出して、釘を刺し貫かされる、釘を打ち付けられる、その金槌の音を、ゴーン!ゴーン!という音を聞く時、イエズス様の御痛みを思ったマリア様は、どれほどお苦しみになった事でしょうか。
イエズス様も、御自分の痛みも増して、全身にビクビクと響く、神経を貫く、この電撃が走るような苦しみを超えて、マリア様の悲しい御姿を見たその時には、どれほど御苦しみになった事でしょうか。
イエズス様は十字架の上に立てられて、御自分を御受難の実として、私たちの為に与え尽くそうとします。御血潮は全て流され、後は数時間、そこの十字架の上で苦しみを、私たちの為に、皆さんと私の為に、御母と共に御捧げになります。
十字架を立てた後には、皆はイエズス様をほっぽらかして帰って行きます。でもマリア様は、そのまま留まります。マリア様と共にイエズス様の足元に、十字架の足元に留まりましょう。この十字架のこの木の根っこから、生ける水が滾々と、御恵みが滾々と湧き溢れてきます。
イエズス様が苦しむ、十字架の上で苦しんでおられるその御様子をご覧になるマリア様、そして苦しむお母様マリア様を、汚れなき御心を御覧になるイエズス様、どれほど心が張り裂ける思いだったでしょうか。イエズス様と共に苦しむマリア様。マリア様と共に苦しむイエズス様。
この二人の、第2のアダムと第2のエヴァによって、私たちに生ける水が、そして御聖体が与えられる事ができるようになります。
聖ヨハネ・クリゾストモによると、「カルワリオには2つの祭壇があった」と言います。「1つは『イエズス様の御体』の上、そしてもう1つは『マリア様の汚れなき御心』だった。」
今日、イエズス様とマリア様は、母の心で私たちを呼びかけています、「渇く者よ、聖徳に渇く者よ、天主の御旨に渇く者よ、真理に渇く者よ、本当の命と、本当の美しい事に渇く者よ、生ける水の元にやって来なさい。イエズス様の元にやって来なさい。」
“Sitientes venite ad aquas.”
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
2019年4月6日(初土)四旬節第4主日の後の土曜日のミサ
小野田神父 説教
聖母の汚れなき御心聖堂にようこそ。
今日は2019年4月6日、四旬節の第4主日の後の土曜日のミサをしています。
来週の金曜・土曜・日曜日もミサがあります。金曜・土曜はいつもの通り、主日は枝の主日で、午後の18時から。
今日は初土でもあります。本来ならば初土の信心をしていますけれども、私たちは今日は特別に、今度復活祭の時に洗礼を受けて、天主の子供となろうとしている4人の方々の為に、その洗礼の前の、復活際には洗礼の儀式があまり長くなりすぎないように、その前の重要な部分をあらかじめ今日、ミサの後にしておこうと思っています。ですから皆さんどうぞ、この4人の、お母さんと子供たちの為にお祈り下さい。
本来ならば今日は、アメリカの神学校で、ティシエ・ド・マルレ司教様によって叙階式が行なわれるはずでした。下級品級の叙階式が行なわれる予定でしたが、しかしティシエ・ド・マルレ司教様が感染、体力が弱っておられたせいか、何か非常に体が弱っておられて、そして手術を受けなければならなくなってしまったとの事です。そこで本来今日行なわれるべき叙階式は、後日に延期されたとの事です。司教様のご健康の為に、どうぞ皆さんお祈りなさって下さい。
“Sitientes venite ad aquas.”
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
「渇く者よ、水の元にやって来なさい。」
入祭誦で、教会は私たちに、特に洗礼志願者の方々にこう呼びかけました。典礼学者は声をそろえて言います。そして今日聖歌隊の方がそのミサを歌うと聞いて、「あぁ、この歌詞を見ると、まさに洗礼の事が書かれてある。」まさにその通り、教会は復活祭の洗礼に備えて今日、洗礼志願者の為に最終の準備を行なおうとしています。
「真理に喉が渇く者、天主の正義に、義に飢え渇く者、聖徳に飢え渇く者、天主の御旨を果たそうと飢え渇く者、水の元にやって来なさい。私はお前たちを癒す。喉の渇きを潤せ。水の元にやって来なさい。」まさに洗礼志願者に対して、心から呼びかけるイエズス様の招きの声です。
この「水の元にやって来なさい」という、この「水」というのは、生ける水である、生ける水が滾々と湧き出る泉の元、「イエズス・キリスト」の事です。イエズス様は「生ける水」として、教会は私たちにイエズス様の姿をイメージとして表そうとしています。
そればかりか、イザヤの預言を使って、イエズス様が良き牧者であり、彼らを良い牧草地に導いて、水を与えるのみならず、豊かな、そして青々と茂った牧草地に導き、そして太陽の照りつける所からは木陰を準備し、羊の為に一生懸命心を尽くす、「良き牧者」としても表しています。私たちは決して、この牧者の元にいれば飢え渇く事がない、と知っています。
イエズス様はそれと同時に、良き牧者と同時に、イザヤの書の終わりの方には、「優しい母」として姿を見せています、私は母親の心を持って羊たちを、私たちを御覧になっています。これほどの優しい愛に満ちた母親の心があるでしょうか。預言者イザヤの口を使ってこう聞きます、「母親が、自分の産んだ子供を、乳飲み子を忘れる事があろうか。自分の子供の事を蔑ろにする事があるだろうか。たとえあったとしても、私はお前を決して忘れない。私の心は、母親の心よりもさらに母親の心だ。」
イエズス様は福音の中では、御自分の事を「世の光である」と言います。「私に従う者は、決して闇を歩まない。」
この「闇」というのは、罪の闇であり、悪の闇であり、嘘の闇であり、惑い、混乱の闇、真っ暗な闇です。
しかし、イエズス様の後に付く人は、このような暗闇を歩きません。光の中を、太陽に輝かされて、真理と、正義と、聖徳と、正しい道を歩きます。何が善で、何が悪かをよく分かって歩きます。
今日イエズス様は特に、洗礼志願者の方々を、そして私たちを招いて、「さぁ、水の元に、生ける水の元にやって来なさい。良き牧者の元にやって来なさい。世の光の元にやって来なさい。もう闇の中に入る必要はない。もう苦しんで喉が渇いている必要はない。もうお腹をペコペコにして苦しむ必要はない。私が養ってあげる。私はまさに、母よりも母である、愛の天主である」と呼びかけています。
ですから今日は、散らされた、南からも東からも北の色々な多くの民がイエズス様の元にやって来て、良き牧者の元に集まって、母であるイエズス様の元にやって来ている姿を見せます。
この洗礼の水、生ける水イエズス様が養って下さるその食べ物、私たちに下さる食べ物、これはイエズス様の愛の結晶です。どのような愛だったでしょうか?
これは、イエズス様の御受難の、十字架の木の上に成る愛の木の実りです。イエズス様は私たちを、この生ける水で洗い清め、養い、御自分の体で養おうとする、そのそれは、その後ろには、十字架の苦しみがありました。
ですから今日は、イエズス様の近くに行くと同時に、イエズス様が歩まれた、カルワリオの道に馳せ行く事に致しましょう。水の元に行く為に、生ける水が滾々と湧き出るその泉に近付く為に、その泉の元は、十字架のこの木の根っこにあるという事を、その根元に行きましょう。
喧騒が聞こえます。人々がざわめいています。私たちは今、2000年前のエルサレムにいます。
イエズス様が、罪の無いイエズス様が死刑を受けました。十字架の死刑を受けました。ポンシオ・ピラトが不正にも、イエズス様を「十字架に付けるように」と言いました。
道端に、道に、イエズス様の歩く道を探して、私たちはそこに駆け寄ります。
イエズス様の来る前に、多くの人々が、特にファリサイ人たちが、イエズス様の事を口汚く罵っています。知ったかぶりをしています。イエズス様の事を、嘘とでたらめで悪口を言っています。馬鹿にしています。イエズス様が言った事を半分本当、半分嘘で固めています。
その後に、イエズス様を苦しめるべきロープや、あるいは釘や、あるいは金槌や、その他色々な処刑の道具を持っている人々が歩いてきます。
その後で、他の盗賊と、そしてイエズス様が歩いてきます。
イエズス様の姿をご覧下さい。私たちを浄め、そして私たちを養う為に、イエズス様は全身血だらけで、重い十字架を担いながら、十字架の木を担いながら、歩いて来られます。その頭には、茨の冠を被せられています。全身、頭から足まで傷だらけです。健康な肌はひとつもありません。息はゼェゼェ、ハァハァ、喘ぎ喘ぎ、一生懸命歩いています。
イエズス様は何を考えているのでしょうか?
皆さんと、私の事を考えています。「霊魂を救う。皆さんをそして私を、愛している。この霊魂を天国まで導く。その為に、罪の償いを果たす。皆さんと私の代わりに、この重い十字架を担う。」
あっ!イエズス様はよろけて倒れました。重い十字架の木が、イエズス様の上にのしかかります。気絶をしているかのようです。誰も憐れもうとする人はいません。蹴飛ばしたり、ざわめいて笑ったり、悪口を言ったりしています。それを私たちは聞いています、「あぁ、かわいそうに、かわいそうに。」
しかし、イエズス様は気絶をしても、私たちの事を、皆さんと私の事を考えていました。「さぁ、早く起き上がって、カルワリオまで行く。」
横を見て下さい。マリア様が来ておられます。聖ヨハネも来ておられます。マリア様は目にうるうると涙を溜めながら、御子イエズス様の事を見ておられます。マリア様こそ、イエズス様が罪の無い、どれほど愛に満ちた方であるかをよく知っていたので、どれほどお苦しみになった事でしょうか。自分の子供がこんなに苦しめられているのを目の前に見る、血だらけの御子、馬鹿にされている御子をご覧になられるマリア様。
マリア様はこのような光景を見ない事もできたはずですが、共に苦しむ為に、ますますイエズス様の方に近寄ります。私たちもマリア様と共に、イエズス様に近付きます。
イエズス様は起き上がって、マリア様と出会います。今まで茨の冠が入って、目に入って、あるいは血だらけでよく見えなかった目ですが、目を凝らして、マリア様をじっとお見つめになります。どれほど、苦しむお母様マリア様を御覧になったイエズス様は、苦しまれた事でしょうか。
マリア様も、そのようなイエズス様を見て、どれほど心に痛い思いをされた事でしょうか、張り裂けるばかりだったでしょうか。マリア様は何も仰らずに、目に涙をたたえながら、イエズス様の後を歩まれます。
カルワリオの下で、イエズス様が服を剥ぎ取られたり、茨の冠を取られて、また押し付けられたりするのを見て、どれほど心が痛んだ事でしょうか。屈辱を受け、馬鹿にされ、ある事ない事言われ、他の人たちが何を言っているかをよく聞き見る事ができた、イエズス様とマリア様。
イエズス様が十字架の木の上に手を出して、差し出して、釘を刺し貫かされる、釘を打ち付けられる、その金槌の音を、ゴーン!ゴーン!という音を聞く時、イエズス様の御痛みを思ったマリア様は、どれほどお苦しみになった事でしょうか。
イエズス様も、御自分の痛みも増して、全身にビクビクと響く、神経を貫く、この電撃が走るような苦しみを超えて、マリア様の悲しい御姿を見たその時には、どれほど御苦しみになった事でしょうか。
イエズス様は十字架の上に立てられて、御自分を御受難の実として、私たちの為に与え尽くそうとします。御血潮は全て流され、後は数時間、そこの十字架の上で苦しみを、私たちの為に、皆さんと私の為に、御母と共に御捧げになります。
十字架を立てた後には、皆はイエズス様をほっぽらかして帰って行きます。でもマリア様は、そのまま留まります。マリア様と共にイエズス様の足元に、十字架の足元に留まりましょう。この十字架のこの木の根っこから、生ける水が滾々と、御恵みが滾々と湧き溢れてきます。
イエズス様が苦しむ、十字架の上で苦しんでおられるその御様子をご覧になるマリア様、そして苦しむお母様マリア様を、汚れなき御心を御覧になるイエズス様、どれほど心が張り裂ける思いだったでしょうか。イエズス様と共に苦しむマリア様。マリア様と共に苦しむイエズス様。
この二人の、第2のアダムと第2のエヴァによって、私たちに生ける水が、そして御聖体が与えられる事ができるようになります。
聖ヨハネ・クリゾストモによると、「カルワリオには2つの祭壇があった」と言います。「1つは『イエズス様の御体』の上、そしてもう1つは『マリア様の汚れなき御心』だった。」
今日、イエズス様とマリア様は、母の心で私たちを呼びかけています、「渇く者よ、聖徳に渇く者よ、天主の御旨に渇く者よ、真理に渇く者よ、本当の命と、本当の美しい事に渇く者よ、生ける水の元にやって来なさい。イエズス様の元にやって来なさい。」
“Sitientes venite ad aquas.”
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。