アヴェ・マリア・インマクラータ!
2019年4月7日(主日)受難節第1主日のミサ
小野田神父 説教
聖なる日本の殉教者巡回教会ようこそ。
今日は2019年4月7日、受難節第1主日のミサを行なっております。
今日この御ミサの直後に、御聖体降福式があります。月の最初の主日ですので、御聖体降福式があります。
それから、新しく生まれた赤ちゃんの洗礼式があります。皆さんもどうぞこの洗礼式に与って行って下さい。次のミサは、来週の主日、枝の主日、またここで10時半からあります。
それから4月は、主日のミサが3回あります。復活祭は大阪ですが、東京では3回あります。最後の主日に、第3回目に、サマーズ神父様が10時半からミサを、白衣の主日をなさって下さいます。どうぞいらして下さい。
秋田の巡礼も5月にありますので、皆さんの参加をお待ちしております。
「私の言葉を守る者は、永遠に死を味わないであろう。」
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
愛する兄弟の皆さん、聖伝によると、受難の第1主日から教会は、喪に服します。母なる教会は私たちに、子供を教えるように、今からどういう事が起こるか、という事を目に見える形で教えようとします、「花婿が花嫁から取られる。イエズス・キリストの御受難が始まる」という事です。
そこで今日は、
⑴教会がどのようにして私たちに御受難を教えようとしているのか?教会が私たちに伝えようとしているメッセージは一体何なのか?
⑵次に、ではそのメッセージを聞いて、教会は私たちに、イエズス様は一体私たちに、何を期待しているのか?一体私たちは何をするように招かれているのだろうか?という事を黙想して、
⑶最後に、遷善の決心を立てる事に致しましょう。
⑴教会は今日、喪に服す為に、ベールを被りました。紫のベールです。教会の十字架像、あるいは御影(ごえい)、あるいは御像などには、紫のベールがかかります。これはあたかも、イエズス様の御受難を前に、喪に服すかのようです。
そればかりではありません。教会は、もしかしたら聖歌を聞いて、「あれ?今日は入祭誦にあるグロリアも、栄唱も歌われなかった」という事にお気付きになられたかと思います。司祭も栄唱を唱えません。なぜかというと、教会と共に喪に服すからです。私たちの主の御受難と御死去を、今から黙想する時が来たからです。
しかし、では教会が私たちに伝えようとしているこの喪に服し方、このイエズス様の苦しみの意味というのは、一体何なのでしょうか?
贖いの死です。わたしたちを救おうと思われる死です。私たちに命を与える、私たちを天主の子供とする、天主の養子とする、天国の王子様とする、跡継ぎとする、その死です。
そこで、この十字架にカバーをかける、覆いをする、というのはまさに一致するのです。一般、普通一目、ちょっと見た見た目には、「あれ?イエズス様の御受難を黙想するには、イエズス様の御像があった方が良いのじゃないか?」と思うかもしれません。しかし教会は、十字架の神秘をあまりにも深く知りすぎてしまっています。私たちは表面しか知らないので、その事がちょっとした目には理解できずに、誤解してしまいます。
教会は何を知っていたかと言うと、十字架の本質を知っていました。「十字架こそが、私たちの勝利の元である、生命の元である、救いの元である、私たちが歩むべき王の道である、これ以外に私たちには救いがない、恵みの元がない、十字架にこそ光があって、十字架にこそ喜びがあって、十字架にこそ本当の幸せがある。」これが教会の深い理解です。
ですから十字架というのは、教会にとっては喜びであって、栄光であって、そしてイエズス様が私たちに残した最大の宝でもあります。教会はいつも十字架のその道行きの、究極を見ているからです。つまり「復活」と「イエズス様の栄光」。
ちょうど私たちは、エンマウスの旅人のようであるかのようです。イエズス様から教えられたにもかかわらず、よく分かっていない。しかしイエズス様は私たちに教えます、「キリストは、苦しみを受けて栄光に入るべきではなかったのか。」
ここにキリスト教の深い、難しい、ちょっと見には理解しがたい、しかし深い神秘があります。贖いの神秘です。アダムとエヴァが罪を犯して、その為に当然受けてしまった罰、苦しみ、死、屈辱、悲しみ、しかし天主の憐れみと全能は更に偉大であって、この罪の結果である苦しみや死さえをも、私たちに喜びと、幸せと、命を与える為の手段と変えて下さった。
そして今度は、「これを通してこそ、十字架を通してこそ、イエズス・キリストとの十字架を通してこそ、受難を通してこそ、復活に至る唯一の道である」と教えているからです。
ですから教会にとって十字架というのは、何と美しく、何と幸せで、何と神々しく、何と祝福に満ちたものであると映っている事でしょうか。ですから今日から、そのあまりにも栄光に輝く、あまりにも美しい十字架を少し隠して、そして喪に服そうとするわけです。
⑵第2に、ですから私たちは、一体何をする事が期待されているでしょうか?
十字架の神秘の中に深く入る事が期待されています。つまり「十字架の究極の目的を見る」という事です。“Per crucem ad lucem”「十字架を通して、光へ。」十字架を通して私たちは命へと、十字架の死を通して命へと至る、という事です。
この十字架は、イエズス・キリスト様の十字架を通してのみ、光に、命に至る事ができます。私たちはそのままでは命に至る事ができません。アダムとエヴァの罰の苦しみのまま残ります。それを聖化する道が、イエズス・キリスト様と共に担ぐ十字架です。
「もしも私の弟子になりたいのならば、自分を捨て、自分の十字架を担い、私に従え。」
イエズス様は私たちに、十字架を担って、御自分の元に従うように招いておられます。十字架の友となる事を招いておられます。天主の言葉を聞く事を、御言葉を聞く事を招いています。そうすれば私たちは、天主からのものとなります。
ここにカトリックとプロテスタントの違いがあります。
「私たちは、キリストの神秘体の十字架の欠けたところを、私たちが進んでイエズス様と共に捧げる」という事です。「イエズス様と共に苦しみ、栄光に入る」という事です。「イエズス様と共に罪に死に、この肉体を十字架に付けて、キリストと共に復活する」という事です。
ですから、私たちにとって十字架というのは、教会にとっての十字架と同じです。喜びと命と幸せの源です。ですから私たちは、この受難節の時に、十字架の玄義を深く味わう事に致しましょう。
⑶どうやって味わったら良いでしょうか?
イエズス様がどれほどの屈辱、侮辱、痛みを具体的に受けたか、という事を、一つ一つ黙想する事です。なぜかというと、その一つ一つは、私たちに大きな慰めと力を与えてくれるからです。なぜかというと、私たちが受ける十字架や苦しみは、イエズス様の受けた一つ一つに比べると、全く何でもなく、なんちゃって十字架しかないからです。もちろん私たち本人にとってはとても苦しいものですけれども、しかしイエズス様の天主の苦しみと比べると、あまりにも軽いので、私たちは「あぁ、どれほどのイエズス様は苦しみを捧げられたのか」という事を見て、力を受ける事ができます。
そしてそれと同時に、「イエズス様の栄光に与る事ができる」という慰めを受けるからです。「我にとりて生けるはキリストなり。」十字架のないキリストはいません。
私たちも、この十字架の神秘に深く入る事ができるように、マリア様に、悲しみのマリア様にお祈り致しましょう。マリア様はいつも十字架の足元で留まっておられました。その神秘を深く、一番深くよく分かっておられました。
「私の言葉を守る者は、永遠に死を味わないであろう。」
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
2019年4月7日(主日)受難節第1主日のミサ
小野田神父 説教
聖なる日本の殉教者巡回教会ようこそ。
今日は2019年4月7日、受難節第1主日のミサを行なっております。
今日この御ミサの直後に、御聖体降福式があります。月の最初の主日ですので、御聖体降福式があります。
それから、新しく生まれた赤ちゃんの洗礼式があります。皆さんもどうぞこの洗礼式に与って行って下さい。次のミサは、来週の主日、枝の主日、またここで10時半からあります。
それから4月は、主日のミサが3回あります。復活祭は大阪ですが、東京では3回あります。最後の主日に、第3回目に、サマーズ神父様が10時半からミサを、白衣の主日をなさって下さいます。どうぞいらして下さい。
秋田の巡礼も5月にありますので、皆さんの参加をお待ちしております。
「私の言葉を守る者は、永遠に死を味わないであろう。」
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
愛する兄弟の皆さん、聖伝によると、受難の第1主日から教会は、喪に服します。母なる教会は私たちに、子供を教えるように、今からどういう事が起こるか、という事を目に見える形で教えようとします、「花婿が花嫁から取られる。イエズス・キリストの御受難が始まる」という事です。
そこで今日は、
⑴教会がどのようにして私たちに御受難を教えようとしているのか?教会が私たちに伝えようとしているメッセージは一体何なのか?
⑵次に、ではそのメッセージを聞いて、教会は私たちに、イエズス様は一体私たちに、何を期待しているのか?一体私たちは何をするように招かれているのだろうか?という事を黙想して、
⑶最後に、遷善の決心を立てる事に致しましょう。
⑴教会は今日、喪に服す為に、ベールを被りました。紫のベールです。教会の十字架像、あるいは御影(ごえい)、あるいは御像などには、紫のベールがかかります。これはあたかも、イエズス様の御受難を前に、喪に服すかのようです。
そればかりではありません。教会は、もしかしたら聖歌を聞いて、「あれ?今日は入祭誦にあるグロリアも、栄唱も歌われなかった」という事にお気付きになられたかと思います。司祭も栄唱を唱えません。なぜかというと、教会と共に喪に服すからです。私たちの主の御受難と御死去を、今から黙想する時が来たからです。
しかし、では教会が私たちに伝えようとしているこの喪に服し方、このイエズス様の苦しみの意味というのは、一体何なのでしょうか?
贖いの死です。わたしたちを救おうと思われる死です。私たちに命を与える、私たちを天主の子供とする、天主の養子とする、天国の王子様とする、跡継ぎとする、その死です。
そこで、この十字架にカバーをかける、覆いをする、というのはまさに一致するのです。一般、普通一目、ちょっと見た見た目には、「あれ?イエズス様の御受難を黙想するには、イエズス様の御像があった方が良いのじゃないか?」と思うかもしれません。しかし教会は、十字架の神秘をあまりにも深く知りすぎてしまっています。私たちは表面しか知らないので、その事がちょっとした目には理解できずに、誤解してしまいます。
教会は何を知っていたかと言うと、十字架の本質を知っていました。「十字架こそが、私たちの勝利の元である、生命の元である、救いの元である、私たちが歩むべき王の道である、これ以外に私たちには救いがない、恵みの元がない、十字架にこそ光があって、十字架にこそ喜びがあって、十字架にこそ本当の幸せがある。」これが教会の深い理解です。
ですから十字架というのは、教会にとっては喜びであって、栄光であって、そしてイエズス様が私たちに残した最大の宝でもあります。教会はいつも十字架のその道行きの、究極を見ているからです。つまり「復活」と「イエズス様の栄光」。
ちょうど私たちは、エンマウスの旅人のようであるかのようです。イエズス様から教えられたにもかかわらず、よく分かっていない。しかしイエズス様は私たちに教えます、「キリストは、苦しみを受けて栄光に入るべきではなかったのか。」
ここにキリスト教の深い、難しい、ちょっと見には理解しがたい、しかし深い神秘があります。贖いの神秘です。アダムとエヴァが罪を犯して、その為に当然受けてしまった罰、苦しみ、死、屈辱、悲しみ、しかし天主の憐れみと全能は更に偉大であって、この罪の結果である苦しみや死さえをも、私たちに喜びと、幸せと、命を与える為の手段と変えて下さった。
そして今度は、「これを通してこそ、十字架を通してこそ、イエズス・キリストとの十字架を通してこそ、受難を通してこそ、復活に至る唯一の道である」と教えているからです。
ですから教会にとって十字架というのは、何と美しく、何と幸せで、何と神々しく、何と祝福に満ちたものであると映っている事でしょうか。ですから今日から、そのあまりにも栄光に輝く、あまりにも美しい十字架を少し隠して、そして喪に服そうとするわけです。
⑵第2に、ですから私たちは、一体何をする事が期待されているでしょうか?
十字架の神秘の中に深く入る事が期待されています。つまり「十字架の究極の目的を見る」という事です。“Per crucem ad lucem”「十字架を通して、光へ。」十字架を通して私たちは命へと、十字架の死を通して命へと至る、という事です。
この十字架は、イエズス・キリスト様の十字架を通してのみ、光に、命に至る事ができます。私たちはそのままでは命に至る事ができません。アダムとエヴァの罰の苦しみのまま残ります。それを聖化する道が、イエズス・キリスト様と共に担ぐ十字架です。
「もしも私の弟子になりたいのならば、自分を捨て、自分の十字架を担い、私に従え。」
イエズス様は私たちに、十字架を担って、御自分の元に従うように招いておられます。十字架の友となる事を招いておられます。天主の言葉を聞く事を、御言葉を聞く事を招いています。そうすれば私たちは、天主からのものとなります。
ここにカトリックとプロテスタントの違いがあります。
「私たちは、キリストの神秘体の十字架の欠けたところを、私たちが進んでイエズス様と共に捧げる」という事です。「イエズス様と共に苦しみ、栄光に入る」という事です。「イエズス様と共に罪に死に、この肉体を十字架に付けて、キリストと共に復活する」という事です。
ですから、私たちにとって十字架というのは、教会にとっての十字架と同じです。喜びと命と幸せの源です。ですから私たちは、この受難節の時に、十字架の玄義を深く味わう事に致しましょう。
⑶どうやって味わったら良いでしょうか?
イエズス様がどれほどの屈辱、侮辱、痛みを具体的に受けたか、という事を、一つ一つ黙想する事です。なぜかというと、その一つ一つは、私たちに大きな慰めと力を与えてくれるからです。なぜかというと、私たちが受ける十字架や苦しみは、イエズス様の受けた一つ一つに比べると、全く何でもなく、なんちゃって十字架しかないからです。もちろん私たち本人にとってはとても苦しいものですけれども、しかしイエズス様の天主の苦しみと比べると、あまりにも軽いので、私たちは「あぁ、どれほどのイエズス様は苦しみを捧げられたのか」という事を見て、力を受ける事ができます。
そしてそれと同時に、「イエズス様の栄光に与る事ができる」という慰めを受けるからです。「我にとりて生けるはキリストなり。」十字架のないキリストはいません。
私たちも、この十字架の神秘に深く入る事ができるように、マリア様に、悲しみのマリア様にお祈り致しましょう。マリア様はいつも十字架の足元で留まっておられました。その神秘を深く、一番深くよく分かっておられました。
「私の言葉を守る者は、永遠に死を味わないであろう。」
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。