アヴェ・マリア・インマクラータ!
2019年4月12日(金)御受難の第1主日の後の金曜日
聖母の七つの御悲しみのミサ
小野田神父 説教
「聖母よ、御身と共に、十字架の元に立たせて下さい。」
Juxta Crucem tecum stare, et me tibi sociáre in planctu desídero.
photo credit
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
愛する兄弟の皆さん、今日は御受難の第1主日の後の金曜日です。典礼によると、「もしも七つの御悲しみの信心を行なうのであれば、この七つの聖母のミサをする事ができる」とあります。
そこで今日は、この七つの御悲しみの信心を一緒に黙想する事によって、この御ミサを捧げようと思っています。一体、この典礼はどのように始まったのか、という事を簡単に見てから、七つの御悲しみを黙想する事に致しましょう。
マリア様の悲しみについては、色々な信心がありました。そして色々な名前を持っていました。
特に「七つの御悲しみ」という事で、教会は特別の典礼をする事になりました。有名なのが、1239年の聖金曜日に、マリア様が7人の男性に現れて、「マリア様の御悲しみを黙想する特別の修道会を創って欲しい。マリアのしもべの修道会を創って欲しい」と願われた事、そして特に9月14日の十字架の称讃の翌日には、七つの聖母の悲しみの祝日ができた事、あるいは聖金曜日の一週間前には、マリア様の悲しみを祝う特別の記念日が作られました。
ピオ十二世教皇様の典礼改革、聖週間の改革の前までは、この金曜日は実は祝日で、マリア様の悲しみのミサをしていましたが、ピオ十二世教皇様が、「信心をする限りにはこれのミサを、しかしそうでなければ、マリア様の記念を行なう」という風に決定しました。
では、マリア様の七つの御悲しみを簡単に垣間見る事に致しましょう。
第一の悲しみは、シメオンによって預言を受けた事でした。マリア様の御悲しみはそれ以外にもたくさんあります。七つ以外にもたくさんあります。全生涯に渡って、悲しみと苦しみの連続でした。しかし特に、マリア様にとっての重要な御悲しみを取り上げたのが、その七つで、第一がシメオンの預言でした。
マリア様はイエズス様の全き生き写しで、イエズス様にキリストに倣う完璧な模倣者でしたので、マリア様こそまず、十字架の苦しみに、一番近く立ち留まらなければならない方でした。
シメオンは預言します、「この生まれたばかりの40日後のこの幼子こそが、多くの人々の、イスラエルの多くの人々の滅びと、そして復活の元となるだろう。そしてこの子は逆らいのしるしとなるだろう。」
既にマリア様は、預言者の元后であり、聖書の事を深く知っていましたが、しかし更にはっきりとシメオンによって、「このイエズス様を機会に、イエズス様を拒否する人がいて、イエズス・キリスト様の、イエズス様のその愛と、優しさと、御親切と、その憐れみを機会にして、それを敢えて拒否する人がいて、その為に多くの人々は、イエズス・キリストを信じずに、あるいはイエズス・キリストの教えを受けないが為に、自分の暗闇と罪を望むが為に、自分の生活を改めようとしないが為に、罪を捨てないが為に、自分の道を行く為に光から逃れる為に、暗闇を頑固にしがみつく為に、イエズス様の照らした光を敢えて拒否するが為に、滅びるだろう」と預言を受けました。
「それと同時に」この多くの人々は、イエズス様が原因で滅びるわけではなくて、イエズス様にもかかわらず、それを頑固にも拒むが為に滅びるのですけれども、「しかしそれと同時に、イエズス・キリストが、この聖子が、御自分の苦しみと、そして犠牲と、そして愛と憐れみによって、復活の原因ともなる」とも聞きました。
そして「イエズス様は既に、逆らう、逆らいのしるしとなる。イエズス・キリストを信じるか、あるいは信じないか。キリストに従うか、あるいはキリストに反対するか、反キリストとなるか。世の中はこれによって二つに分裂する。逆らいのしるしとなる。」
「そしてこの『しるし』というのはつまり『十字架』であって、これを受けるか受けないか、キリストを受けるか受けないか、キリストの十字架を取るか取らないかによって分かれる。多くの人々の心の秘密がこれで明らかになる」と預言をされました。
「救い主が来たにもかかわらず、天主の憐れみがこれほど現れたにもかかわらず、天主が人となったにもかかわらず、預言が、預言された通りに救い主が生まれて来たにもかかわらず、それを受け入れない人々がいる」という事を知った、そして「御子を、この幼子を受け入れない、救い主を受け入れない人々がいる」という事の預言されたマリア様の御悲しみ。そしてイエズス様のその御心痛を思う、マリア様の御悲しみ。
イエズス様は私たちに、謙遜と、従順と、貞潔と、清貧と、主の御旨を愛する道を教えようとされます。しかし人々は、イエズス様の十字架よりも自分の腹を、自分の欲望を、自分の考えを、あるいは富を、快楽を、名誉と栄光を、自分の為にかき集めようと、そしてイエズス様を拒む。マリア様はその事を予め知らされました。
Photo credit
マリア様の生涯は、イエズス様のその十字架が既に、全生涯に渡ってその影を落としていました。その事をよく現したのは、このシメオンの預言の直後でした。
第二の苦しみ。ヘロデが、ユダヤの最高の行政の王が、イエズス・キリストを狙っている。政府当局が、イエズス・キリストの命を狙って、母親の手から奪おうとしている。そして全ての人類の手から奪おうとしている。この幼い、救い主の天主の命を殺そうと狙っている。罠をかけている、という事を知ります。
マリア様のその御心痛はどれほどだったでしょうか。既に十字架の、救い主の死がもう身近に迫っている。聖ヨゼフの夢を通して、また聖ヨゼフの命令を通して、聖家族はエジプトに逃亡します。
マリア様は全く罪の無い方でした。イエズス様も罪の無い方でした。天主の聖子でした。そしてマリア様はエジプトでおそらく、ニュースを聞かれた事でしょう。多くの幼子たちが犠牲となった、母親から取り去られて亡くなった、罪の無い子供たちが殺された、ヘロデの快楽と、ヘロデの地位と安泰を確保する為に、自分勝手の為に。マリア様の御心痛はどれほどだったでしょうか。
また外国での生活、一体何年、どこでどうしたら良いのか分からない。それにもかかわらず、天主に全く委ねたその生活。もちろん天主にとって、ヘロデを亡き者にするのはとても簡単な事でした。しかし「イエズス様をエジプトに逃亡させる」という事を御望みだったその天主様の御摂理、それに従うマリア様。十字架の影は既に、幼きイエズス様に深く染み込んでいました。
第三の苦しみ。マリア様がエジプトから戻って、聖家族がナザレトに行って、そしてエルサレムの神殿に毎年通った時も、12歳になった時のイエズス様は、既に聖父の業をする為に、マリア様とヨゼフ様から離れました。これも3日間の間、マリア様はイエズス様を見る事ができませんでした。あたかも亡くなっていなくなってしまったかのように。聖父の業をイエズス様はする。神殿に残られました。
これも、十字架の上において、聖父の御旨の通り御自分を捧げて、マリア様の目から3日の間姿を消される事の前兆でなくて何でありましょうか。
「マリア様は、イエズス様が仰った言葉が理解できない」と書かれています。「しかし、その汚れなき御心に、その事をいつも留めて思い巡らしていた」と。「私が聖父の仕事をしなければならない、という事を知らなかったのか。」イエズス様は既に、十字架の苦しみのリハーサルを、マリア様になさっていたのでした。
第四の苦しみは、マリア様がイエズス様と十字架の道行きの時に、カルワリオへの道すがら、お会いになった時です。
マリア様はほぼ確実に、そして典礼でも言われている通り、イエズス様の鞭打たれたのを、あるいは他のニュースであるいは聖ヨハネから聞いて、その近くに居たに違いありません。鞭打たれたその御様子を、遠くからご覧になっていたに違いありません。
そしてイエズス様の審判。ピラトによる断罪についても、その始終を聞き、それのその事を、「どうなる事か」イエズス様の事を思って近くに居たに違いありません。他の人の間の中に居たに違いありません。群衆の中に居たに違いありません。イエズス様が全く無罪である、という事をピラトが何度も言うにもかかわらず、人々はイエズス様を、「十字架に付けよ!」と言うのを聞いた、その憎しみの叫びの声、嘘の告発、ユダヤの宗教上の最高の指導者たちがイエズス様を告発しようとするのを見たり、聞いたりした時、どれほど胸が裂かれる思いだったでしょうか。そして遂に死刑の宣告。誰もイエズス様を守る人はいませんでした。
十字架を担うイエズス様。そのイエズス様が通るのをマリア様は敢えて、イエズス様の元に近寄ろうとします。マリア様は決して、イエズス様とお会いになって気絶したり、あるいは泣き崩れてそして倒れてしまうような事はありませんでした。イエズス様をはっきりご覧になって、そして目に涙は溜めながら、しかしその苦しみを捧げておられました。
マリア様は一体何をお考えだったのでしょうか。
イエズス様の、その人類に対する愛と、聖父に対する愛。この人々の忘恩と、冒瀆と、そして嘲りの態度。イエズス様の正義にかかわらず、その聖徳にもかかわらず、しかしその受ける態度の醜さ。天主聖父の御旨。マリア様の心にあった御悲しみと、その観想、黙想の深みは、どれほどだったでしょうか。
マリア様はイエズス様の後を、すぐ近くを歩いて行きます。喚き立てもせずに、イエズス様に対して不正に対して抗議する事もなく、このこれを受け入れて、そしてこの「人類の罪の為に、イエズス様がこの十字架を担っている」という事をよく理解されて、御自分もその苦しみを共に歩かれようとされました。黙って付いて行きました。ちょうど、イサアクが薪を持って、ホレブの山に行こうとする時に、アブラハムがイサアクの隣に一緒に行ったかのようです。私たちの模範を示すかのように、イエズス様のすぐ近くを歩かれました。
第五の御悲しみは、イエズス様が十字架に付けられ、そしてお亡くなりになるまで、ずっと、しっかりと背筋を伸ばして、十字架の足元に立ち留まっておられた事です。
マリア様は、イエズス様のその聖なる態度、御言葉を全て聞いて、見ておられました。ユダヤの司祭たちやあるいはローマの人々、また群衆の態度、悪い態度、嘲り、冒瀆、唾など、暴力も、見聞きされました。イエズス様が服を脱がされる時、十字架に付けられる時、十字架が立てられる時、全て見ておられました。マリア様は、イエズス様がまずそのイエズス様の敵に対して、キリストがお祈りされている事も聞いておられました。十字架の苦しみと、旧約の預言が全て成就していくのも見ていました。
マリア様も、御自分の悲しみを添えて、イエズス様の悲しみの事をずっと思っていたに違いありません。そして罪人の回心の為に祈っていたに違いありません。イエズス様がヨハネを通して、私たち罪人をマリア様の子供にした時に、マリア様は、イエズス様に対する愛とその同じ愛を以て、罪人を私たちの事を深く子供として愛し、そして私たちの為に祈ります。マリア様の養子となった私たちの為に祈ります。
聖ヨハネ・ダマスコによると、「善き盗賊は、マリア様の側に、十字架のイエズス様と自分の間にマリア様が居たので、回心の恵みを受けた」と言っています。
自分の子供がこうやって不正に、残酷な死を遂げるのを見る母親の心は、どれほど辛かった事でしょうか。「マリア様がこの受けた苦しみは、肉体の苦しみよりも霊魂による苦しみだったので、はるかに深いものだった」と聖人たちは言います。「もしも、マリア様の御悲しみをもしも分配する事ができたとしたら、それを何等分かにする事ができたとしたら、そしてそれを生きている全世界中の人々に配る事ができたとしたら、その自分の分を受けた人、全世界の人々は、その苦しみのあまり息絶えてしまうだろう。マリア様の悲しみのほんのちょっと、欠片でも受けただけで、私たちはその辛さのあまり、もう息をする事もできないだろう。胸が苦しくてもう生きていられないだろう。そしてマリア様がこうやって、十字架の元にずっとこうやって立って、そして命を落とさずにいる事ができたのは、天主様の大きな大奇跡であった」と言います。
第六の御悲しみ。マリア様はこうやって、イエズス様の御亡骸を御手に抱き、その御顔、御手、傷だらけの亡骸に、接吻と涙を流して綺麗にされます。御降誕の時とははるかに違った、十字架での御体。マリア様はそれを新しい墓に葬ります。
第七の御悲しみ。第六の悲しみが、マリア様がそのイエズス様の御亡骸をその手にされたとすると、最後の御悲しみは、マリア様が新しい墓にイエズス様の御体を葬られた事。そして大きな石を以て岩を以て、その墓を閉じた事です。
典礼によると、私たちはマリア様にこう祈ります、特に有名なスタバト・マーテルの続誦によれば、こうあります。
「マリア様、御身にお願いします。マリア様と共に、十字架の傍に立たせて下さい。マリア様と共に泣くのを許して下さい。
Fac me tecum pie flere, crucifixo condolere, donec ego vixero.
Iuxta Crucem tecum stare, et me tibi sociare in planctu desidero.
御悲しみを私にも分けて下さい。私の心にもその傷を深くつけてください。
Sancta Mater, istud agas, crucifixi fige plagas cordi meo valide.
Tui Nati vulnerati, tam dignati pro me pati, poenas mecum divide.
マリア様、私にも御身とともに嘆くのを許してください。イエズス様の十字架の苦しみを、私の身に運ぶ事ができるようにして下さい。
Virgo virginum praeclara, mihi iam non sis amara, fac me tecum plangere.
Fac, ut portem Christi mortem, passionis fac consortem, et plagas recolere.
マリア様のこう泣くのを見て、一体誰が、同情の涙を流さない人がいるでしょうか。
Quis est homo qui non fleret, matrem Christi si videret in tanto supplicio? Quis non posset contristari Christi Matrem contemplari dolentem cum Filio?
愛の泉であるマリア様!私にもそのマリア様の悲しみを分け与えて下さい。
Eia, Mater, fons amoris me sentire vim doloris fac, ut tecum lugeam.」
今日は、イエズス様の御受難を崇める為に、まずマリア様に、マリア様の御悲しみを分けて下さいますように、お祈り致しましょう。
「聖母よ、御身と共に、十字架の元に立たせて下さい。」
Juxta Crucem tecum stare, et me tibi sociáre in planctu desídero.
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
2019年4月12日(金)御受難の第1主日の後の金曜日
聖母の七つの御悲しみのミサ
小野田神父 説教
「聖母よ、御身と共に、十字架の元に立たせて下さい。」
Juxta Crucem tecum stare, et me tibi sociáre in planctu desídero.
photo credit
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
愛する兄弟の皆さん、今日は御受難の第1主日の後の金曜日です。典礼によると、「もしも七つの御悲しみの信心を行なうのであれば、この七つの聖母のミサをする事ができる」とあります。
そこで今日は、この七つの御悲しみの信心を一緒に黙想する事によって、この御ミサを捧げようと思っています。一体、この典礼はどのように始まったのか、という事を簡単に見てから、七つの御悲しみを黙想する事に致しましょう。
マリア様の悲しみについては、色々な信心がありました。そして色々な名前を持っていました。
特に「七つの御悲しみ」という事で、教会は特別の典礼をする事になりました。有名なのが、1239年の聖金曜日に、マリア様が7人の男性に現れて、「マリア様の御悲しみを黙想する特別の修道会を創って欲しい。マリアのしもべの修道会を創って欲しい」と願われた事、そして特に9月14日の十字架の称讃の翌日には、七つの聖母の悲しみの祝日ができた事、あるいは聖金曜日の一週間前には、マリア様の悲しみを祝う特別の記念日が作られました。
ピオ十二世教皇様の典礼改革、聖週間の改革の前までは、この金曜日は実は祝日で、マリア様の悲しみのミサをしていましたが、ピオ十二世教皇様が、「信心をする限りにはこれのミサを、しかしそうでなければ、マリア様の記念を行なう」という風に決定しました。
では、マリア様の七つの御悲しみを簡単に垣間見る事に致しましょう。
第一の悲しみは、シメオンによって預言を受けた事でした。マリア様の御悲しみはそれ以外にもたくさんあります。七つ以外にもたくさんあります。全生涯に渡って、悲しみと苦しみの連続でした。しかし特に、マリア様にとっての重要な御悲しみを取り上げたのが、その七つで、第一がシメオンの預言でした。
マリア様はイエズス様の全き生き写しで、イエズス様にキリストに倣う完璧な模倣者でしたので、マリア様こそまず、十字架の苦しみに、一番近く立ち留まらなければならない方でした。
シメオンは預言します、「この生まれたばかりの40日後のこの幼子こそが、多くの人々の、イスラエルの多くの人々の滅びと、そして復活の元となるだろう。そしてこの子は逆らいのしるしとなるだろう。」
既にマリア様は、預言者の元后であり、聖書の事を深く知っていましたが、しかし更にはっきりとシメオンによって、「このイエズス様を機会に、イエズス様を拒否する人がいて、イエズス・キリスト様の、イエズス様のその愛と、優しさと、御親切と、その憐れみを機会にして、それを敢えて拒否する人がいて、その為に多くの人々は、イエズス・キリストを信じずに、あるいはイエズス・キリストの教えを受けないが為に、自分の暗闇と罪を望むが為に、自分の生活を改めようとしないが為に、罪を捨てないが為に、自分の道を行く為に光から逃れる為に、暗闇を頑固にしがみつく為に、イエズス様の照らした光を敢えて拒否するが為に、滅びるだろう」と預言を受けました。
「それと同時に」この多くの人々は、イエズス様が原因で滅びるわけではなくて、イエズス様にもかかわらず、それを頑固にも拒むが為に滅びるのですけれども、「しかしそれと同時に、イエズス・キリストが、この聖子が、御自分の苦しみと、そして犠牲と、そして愛と憐れみによって、復活の原因ともなる」とも聞きました。
そして「イエズス様は既に、逆らう、逆らいのしるしとなる。イエズス・キリストを信じるか、あるいは信じないか。キリストに従うか、あるいはキリストに反対するか、反キリストとなるか。世の中はこれによって二つに分裂する。逆らいのしるしとなる。」
「そしてこの『しるし』というのはつまり『十字架』であって、これを受けるか受けないか、キリストを受けるか受けないか、キリストの十字架を取るか取らないかによって分かれる。多くの人々の心の秘密がこれで明らかになる」と預言をされました。
「救い主が来たにもかかわらず、天主の憐れみがこれほど現れたにもかかわらず、天主が人となったにもかかわらず、預言が、預言された通りに救い主が生まれて来たにもかかわらず、それを受け入れない人々がいる」という事を知った、そして「御子を、この幼子を受け入れない、救い主を受け入れない人々がいる」という事の預言されたマリア様の御悲しみ。そしてイエズス様のその御心痛を思う、マリア様の御悲しみ。
イエズス様は私たちに、謙遜と、従順と、貞潔と、清貧と、主の御旨を愛する道を教えようとされます。しかし人々は、イエズス様の十字架よりも自分の腹を、自分の欲望を、自分の考えを、あるいは富を、快楽を、名誉と栄光を、自分の為にかき集めようと、そしてイエズス様を拒む。マリア様はその事を予め知らされました。
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マリア様の生涯は、イエズス様のその十字架が既に、全生涯に渡ってその影を落としていました。その事をよく現したのは、このシメオンの預言の直後でした。
第二の苦しみ。ヘロデが、ユダヤの最高の行政の王が、イエズス・キリストを狙っている。政府当局が、イエズス・キリストの命を狙って、母親の手から奪おうとしている。そして全ての人類の手から奪おうとしている。この幼い、救い主の天主の命を殺そうと狙っている。罠をかけている、という事を知ります。
マリア様のその御心痛はどれほどだったでしょうか。既に十字架の、救い主の死がもう身近に迫っている。聖ヨゼフの夢を通して、また聖ヨゼフの命令を通して、聖家族はエジプトに逃亡します。
マリア様は全く罪の無い方でした。イエズス様も罪の無い方でした。天主の聖子でした。そしてマリア様はエジプトでおそらく、ニュースを聞かれた事でしょう。多くの幼子たちが犠牲となった、母親から取り去られて亡くなった、罪の無い子供たちが殺された、ヘロデの快楽と、ヘロデの地位と安泰を確保する為に、自分勝手の為に。マリア様の御心痛はどれほどだったでしょうか。
また外国での生活、一体何年、どこでどうしたら良いのか分からない。それにもかかわらず、天主に全く委ねたその生活。もちろん天主にとって、ヘロデを亡き者にするのはとても簡単な事でした。しかし「イエズス様をエジプトに逃亡させる」という事を御望みだったその天主様の御摂理、それに従うマリア様。十字架の影は既に、幼きイエズス様に深く染み込んでいました。
第三の苦しみ。マリア様がエジプトから戻って、聖家族がナザレトに行って、そしてエルサレムの神殿に毎年通った時も、12歳になった時のイエズス様は、既に聖父の業をする為に、マリア様とヨゼフ様から離れました。これも3日間の間、マリア様はイエズス様を見る事ができませんでした。あたかも亡くなっていなくなってしまったかのように。聖父の業をイエズス様はする。神殿に残られました。
これも、十字架の上において、聖父の御旨の通り御自分を捧げて、マリア様の目から3日の間姿を消される事の前兆でなくて何でありましょうか。
「マリア様は、イエズス様が仰った言葉が理解できない」と書かれています。「しかし、その汚れなき御心に、その事をいつも留めて思い巡らしていた」と。「私が聖父の仕事をしなければならない、という事を知らなかったのか。」イエズス様は既に、十字架の苦しみのリハーサルを、マリア様になさっていたのでした。
第四の苦しみは、マリア様がイエズス様と十字架の道行きの時に、カルワリオへの道すがら、お会いになった時です。
マリア様はほぼ確実に、そして典礼でも言われている通り、イエズス様の鞭打たれたのを、あるいは他のニュースであるいは聖ヨハネから聞いて、その近くに居たに違いありません。鞭打たれたその御様子を、遠くからご覧になっていたに違いありません。
そしてイエズス様の審判。ピラトによる断罪についても、その始終を聞き、それのその事を、「どうなる事か」イエズス様の事を思って近くに居たに違いありません。他の人の間の中に居たに違いありません。群衆の中に居たに違いありません。イエズス様が全く無罪である、という事をピラトが何度も言うにもかかわらず、人々はイエズス様を、「十字架に付けよ!」と言うのを聞いた、その憎しみの叫びの声、嘘の告発、ユダヤの宗教上の最高の指導者たちがイエズス様を告発しようとするのを見たり、聞いたりした時、どれほど胸が裂かれる思いだったでしょうか。そして遂に死刑の宣告。誰もイエズス様を守る人はいませんでした。
十字架を担うイエズス様。そのイエズス様が通るのをマリア様は敢えて、イエズス様の元に近寄ろうとします。マリア様は決して、イエズス様とお会いになって気絶したり、あるいは泣き崩れてそして倒れてしまうような事はありませんでした。イエズス様をはっきりご覧になって、そして目に涙は溜めながら、しかしその苦しみを捧げておられました。
マリア様は一体何をお考えだったのでしょうか。
イエズス様の、その人類に対する愛と、聖父に対する愛。この人々の忘恩と、冒瀆と、そして嘲りの態度。イエズス様の正義にかかわらず、その聖徳にもかかわらず、しかしその受ける態度の醜さ。天主聖父の御旨。マリア様の心にあった御悲しみと、その観想、黙想の深みは、どれほどだったでしょうか。
マリア様はイエズス様の後を、すぐ近くを歩いて行きます。喚き立てもせずに、イエズス様に対して不正に対して抗議する事もなく、このこれを受け入れて、そしてこの「人類の罪の為に、イエズス様がこの十字架を担っている」という事をよく理解されて、御自分もその苦しみを共に歩かれようとされました。黙って付いて行きました。ちょうど、イサアクが薪を持って、ホレブの山に行こうとする時に、アブラハムがイサアクの隣に一緒に行ったかのようです。私たちの模範を示すかのように、イエズス様のすぐ近くを歩かれました。
第五の御悲しみは、イエズス様が十字架に付けられ、そしてお亡くなりになるまで、ずっと、しっかりと背筋を伸ばして、十字架の足元に立ち留まっておられた事です。
マリア様は、イエズス様のその聖なる態度、御言葉を全て聞いて、見ておられました。ユダヤの司祭たちやあるいはローマの人々、また群衆の態度、悪い態度、嘲り、冒瀆、唾など、暴力も、見聞きされました。イエズス様が服を脱がされる時、十字架に付けられる時、十字架が立てられる時、全て見ておられました。マリア様は、イエズス様がまずそのイエズス様の敵に対して、キリストがお祈りされている事も聞いておられました。十字架の苦しみと、旧約の預言が全て成就していくのも見ていました。
マリア様も、御自分の悲しみを添えて、イエズス様の悲しみの事をずっと思っていたに違いありません。そして罪人の回心の為に祈っていたに違いありません。イエズス様がヨハネを通して、私たち罪人をマリア様の子供にした時に、マリア様は、イエズス様に対する愛とその同じ愛を以て、罪人を私たちの事を深く子供として愛し、そして私たちの為に祈ります。マリア様の養子となった私たちの為に祈ります。
聖ヨハネ・ダマスコによると、「善き盗賊は、マリア様の側に、十字架のイエズス様と自分の間にマリア様が居たので、回心の恵みを受けた」と言っています。
自分の子供がこうやって不正に、残酷な死を遂げるのを見る母親の心は、どれほど辛かった事でしょうか。「マリア様がこの受けた苦しみは、肉体の苦しみよりも霊魂による苦しみだったので、はるかに深いものだった」と聖人たちは言います。「もしも、マリア様の御悲しみをもしも分配する事ができたとしたら、それを何等分かにする事ができたとしたら、そしてそれを生きている全世界中の人々に配る事ができたとしたら、その自分の分を受けた人、全世界の人々は、その苦しみのあまり息絶えてしまうだろう。マリア様の悲しみのほんのちょっと、欠片でも受けただけで、私たちはその辛さのあまり、もう息をする事もできないだろう。胸が苦しくてもう生きていられないだろう。そしてマリア様がこうやって、十字架の元にずっとこうやって立って、そして命を落とさずにいる事ができたのは、天主様の大きな大奇跡であった」と言います。
第六の御悲しみ。マリア様はこうやって、イエズス様の御亡骸を御手に抱き、その御顔、御手、傷だらけの亡骸に、接吻と涙を流して綺麗にされます。御降誕の時とははるかに違った、十字架での御体。マリア様はそれを新しい墓に葬ります。
第七の御悲しみ。第六の悲しみが、マリア様がそのイエズス様の御亡骸をその手にされたとすると、最後の御悲しみは、マリア様が新しい墓にイエズス様の御体を葬られた事。そして大きな石を以て岩を以て、その墓を閉じた事です。
典礼によると、私たちはマリア様にこう祈ります、特に有名なスタバト・マーテルの続誦によれば、こうあります。
「マリア様、御身にお願いします。マリア様と共に、十字架の傍に立たせて下さい。マリア様と共に泣くのを許して下さい。
Fac me tecum pie flere, crucifixo condolere, donec ego vixero.
Iuxta Crucem tecum stare, et me tibi sociare in planctu desidero.
御悲しみを私にも分けて下さい。私の心にもその傷を深くつけてください。
Sancta Mater, istud agas, crucifixi fige plagas cordi meo valide.
Tui Nati vulnerati, tam dignati pro me pati, poenas mecum divide.
マリア様、私にも御身とともに嘆くのを許してください。イエズス様の十字架の苦しみを、私の身に運ぶ事ができるようにして下さい。
Virgo virginum praeclara, mihi iam non sis amara, fac me tecum plangere.
Fac, ut portem Christi mortem, passionis fac consortem, et plagas recolere.
マリア様のこう泣くのを見て、一体誰が、同情の涙を流さない人がいるでしょうか。
Quis est homo qui non fleret, matrem Christi si videret in tanto supplicio? Quis non posset contristari Christi Matrem contemplari dolentem cum Filio?
愛の泉であるマリア様!私にもそのマリア様の悲しみを分け与えて下さい。
Eia, Mater, fons amoris me sentire vim doloris fac, ut tecum lugeam.」
今日は、イエズス様の御受難を崇める為に、まずマリア様に、マリア様の御悲しみを分けて下さいますように、お祈り致しましょう。
「聖母よ、御身と共に、十字架の元に立たせて下さい。」
Juxta Crucem tecum stare, et me tibi sociáre in planctu desídero.
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。