Quantcast
Channel: Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた
Viewing all articles
Browse latest Browse all 4247

現代の教会の危機に対して、一体どう考えたら良いのか?天主様が私たちに求めていらっしゃるものは?ラザロの復活の4つのステップ

$
0
0
2019年5月19日(主日)ドモルネ神父様霊的講話

「現代の教会の危機に対して、一体どう考えたら良いのか?天主様が私たちに求めていらっしゃるものは?ラザロの復活の4つのステップ」

同時通訳:東京信徒会長

金曜日の晩に、小野田神父からご連絡がありまして、「主日になったら霊的講話などをしたらどうですか?」と突然言われました笑。それは非常に良いのですけれども、準備をする時間があまりありませんでした。f(^_^;)

「conference」という名前に値するかどうか分かりませんが、「現代の教会の危機に対して、一体どういう風な見方をしたら良いのか?」という事について、ちょっとお話をさせて頂きたいと思います。

「今の教会の危機」というのは、非常に大変なものなのですけれども、それがなぜ大変なものかというと、「教会で一番権威を持っていらっしゃる教皇様、あるいは司教様という方たちが、いわゆる『近代主義』という異端に毒されているまま、教会を指導していらっしゃる」という事にあります。

ですからこういう難しい時に、私たちが一体何をしたら良いのか?何をする義務があるのか?それで、「もう混乱して、何をして良いか分からない」と、混乱に引きずられてしまうのを避ける、という必要があります。

そこで、この現代の危機を現実的に、具体的に、どういう風に見るか、私たちが一体何ができて、何をしなければいけなくて、天主様は私たちに何を期待していらっしゃるんだろうか、という事をお話したいと思います。

まず自分の考えから話したいと思いますけれども、フランスのジャン・バニエ(Jean Vanier)という方がいらっしゃって、その方の思想をお話したいと思います。

今、私たちの戦っている戦いというのは、レベルが二つあります。

まずこの二つある内の、「低いレベル」という事からお話したいと思いますけれども、黙示録の中にも出てくるのですが、「警戒して、死にかけている残りの者を強めよ。」(黙示録3章2節)という言葉にあります。

もう一つ「高いレベル」の方というのは、高いレベルで戦いが起こってるんですけれども、これはイエズス様がマルガリタ・マリアに仰った言葉で、「敵の存在にも関わらず、私が統治する」と「私が治める」と仰った言葉す。

そしてまずこの低い方のレベルで、「警戒して、死にかけている残りの者を強めよ。」という方の言葉からお話したいと思います。

まず私たちの、教会の危機で何を私たちはその低いレベルでしなければいけないかと言うと、「カトリックの文化の中で、私たちが出来る範囲で、それを保存して、そのままにして、それであるいは再建設する」という事です。

そして具体的にそれをお話し致しますと、私たちが何を保存しなければいけないかと言うと、それは「教会の教え」です。

その教会の教えというのは、イエズス様から教会が教えて頂いたもので、それは歴代の教皇様が伝えてこられたものですから、この「教会の教え」というものを、私たちは保存していかなくてはいけません。

ですから私たちは、この「カトリックの信仰」というのを持ち続けていかなくてはいけません。それから「モラル」というものも同じですが、モラルというのはカトリックの信仰から出ているからです。

二次的には、ですからこの信仰を保存して、私たちが保存していく為に何をしなければいけないかと言うと、教会ですとか、修道院ですとか、こういうミサのセンターですとか、というのを造っていって、正しいカトリックの教えが伝わっていくようにしなくてはいけません。

このミサをしているミサ会場、例えばここですけれども、何をするかと言うと、秘跡を行ないますし、後はカトリックの伝統に従った典礼を行ないます。

もう一つは、当然ですけれども、私たちは死んでしまう者ですから、私たちが亡くなった次の世代にこのカトリックの信仰を伝える為に、学校というのを建設できればしたいと思います。あと学校というのは召命の為にも非常に重要です。司祭であれ修道者であれ、召命というものの多くは、その学校を出た人から来ますので、学校というのは非常に重要です。

それからもう一つの目的というのは、私たちのこの信仰を広める、それは例えばカトリックの人ではない方にも広めるという事ですから、こういうコンファレンスであるとか、パンフレットであるとか、ウェブサイトであるとか、色々手段はあると思いますけれども、カトリックではない方、あるいはノブスオルドのミサに行っていらっしゃる方に、現代の危機について教える、という、こういう我々の信仰を広める、という事があります。

皆さん経験からご存知だと思いますけれども、お知り合いの中に非常に良い方がいらっしゃって、本当に良い方なのですけれども、その信仰について、「本当の信仰」というのを学ぶチャンスを与えられなかった人というのがいます。ですからこのような、世の中に良い方がいらっしゃって知識の無い方がいらっしゃるので、もしも私たちが「伝統的カトリック信者なんだ」と言って部屋にこもってしまったら、その素晴らしい良い人たち、その知識のない人たちに、誰が知識を伝える事ができるでしょうか。

繰り返しになりますけれども、私たちの目的、できる事というのは、「カトリックの文化を持っていて、保存していく」という事です。

ただ具体的に考えますと、現実的に考えますと、私たちに反対している勢力というのは、私たちよりもずっとずっと強い勢力です。世界の政府というのを見てみますと、大抵は現代的な民主主義、それはフリーメイソンの影響を受けているのかもしれませんけれども、そういうところであるか、間違った宗教をあげている政府から成っています。ですから国家のトップの方というのは、カトリックの信仰が広まる事に賛成されるわけではありません。

近代的な民主主義というのが非常に得意としているのは、その民主主義を、近代的な民主主義を、自分自身を守るという事です。ですから私たちのように違う人が来て、「敵だ」と思ったら、その敵を禁止するような法律を作ってしまう、というのは非常に簡単です。

またその宗教的な社会という意味で、宗教の側を見ても、今の状況は非常に大変になっています。教皇様、それから枢機卿のほとんどの方、司教のほとんどの方は、近代主義的な方になっています。

教皇様を選ぶというのは枢機卿で、枢機卿を選ぶ方は教皇様です。ですからこの繰り返しになりますので、近代主義というのがずっと繰り返し、繰り返し、続いていく事になって、我々の入り込む余地がありません。ですから人間的な目で言いますと、これを変えるようなチャンスは無いと言えます。

それから聖伝を守っている方というのはどれぐらいいるかと言うと、世界では本当に小さい、ごく少数のグループです。ですから、我々が人間的に持っている道具というのは、非常にちょっとしかないですから、世界の動きに影響を与えるというのは、普通に考えれば不可能です。

このような状況で天主様は私たちに、一体何をしろと仰るのでしょうか?

ではこの低い方のレベル、先ほど言いました低い方のレベルで言いますと、天主様が私たちに求めていらっしゃるのは、「私たちが出来る範囲で、そのまま保存して、キープしていきなさい」と仰っています。ですから私たちの戦略というのは、「既にあるものを持ち続けて、そのままキープしていく事」という事です。

ですから私たちは、このような事に関しては、良き資料を持って動かなくてはいけません。私たちが「伝統・聖伝を持っている聖伝の主義者だ」と言って、私たちが何でもやったら全て成功するわけではありません。

ですから良き資料を持って、例えば私たちの何かのグループだとか、学校だとか、何かを経営していくとか、という事に関しても、よく考えて行動しなくてはいけません。

ですから私たちが例えば、その民主主義のルールに従って、選挙によってこの国を変えてしまう、というのは不可能だと思われます。

同じように、「私たちが教会を全部変えなければいけない」というのは、教会にいわゆる正式に入って行って、その中から、下からだんだんだんだん上がって行って、遂には教皇まで達して変えるというのは、不可能だと思います。私たち、まぁ世界の経験から言いますと、このように腐敗したシステムの中に自分から入っていくと、自分が腐敗してしまうというリスクがあります。

では、私たちは何もしないで黙っていろと言っているのでしょうか?

そういうわけではありません。そういうわけではありませんが、幻想を持って、「何でもできる」と思ってはいけません。どこにいても、私たちの主イエズス・キリスト、王たるイエズス・キリストの為に戦わなくてはいけません。そして私たちの出来る範囲で、良い事ですとか、良い法律ですとか、良い考えを促進しなくてはいけません。例えば「マーチ・フォー・ライフ」というのがあったらこれは、良い事であれば是非参加して下さい。私たちの出来る範囲で、近代主義、良くない近代主義があれば、それに反して私たちは対して戦っていきます。

しかしながら、私たちがいつも忘れてはいけないのは、天主様が私たちに求められている事というのは、「自分自身の信仰を守る」という事です。「家族の信仰、それから私たちの周りの人の信仰を守る」という事、「これが第一だ」という事です。

この低いレベルにおける私たちがやるべき事というのは、何かすごい事を成し遂げるわけでも何でもなくて、非常に謙遜なものですけれども、でもしなくてはいけない事です。人間的な言葉、人間的な考えで言うと、私たちのいる状況の出口はありません、解決法もありません。

この高い方のレベルで言いますと、「王たるキリストと悪魔の間の戦い」が起こっています。

人間の歴史というのは、この創世記を皆さんご存知だと思いますけれども、「私は、お前(蛇)と女との間に、お前の末と女の末との間に、敵対を置く」(創世記3章15節)と言われたそれが、その「人間と悪魔の戦い」が、これが人類の歴史です。

そしてこの戦い、高いレベルの戦いにおいては、「我々は勝利する事ができる」というのはもう知っています。イエズス様は私たちに、「世界の終わりまで、あなた達と共にいる」と仰いましたので、勝利がある事はもう私たちは知っています。「地獄の門は教会には勝たない」と仰いましたので、私たちもそれをよく知っています。そしてイエズス様は、「私はすでにこの世界に勝利した」と仰いました。

ですからこのレベルでは、最後、「一番最後の勝利というのは、私たちのものである」という事は分かっています。

しかし、この勝利というのは一体どうやって起こるのでしょうか?

まず最初の要素というのは、「天主様は、小さい信者のグループを使って、その業を御始めになる」という事です。この小さい集団から御始めになります。

ノアの時代では、旧約のノアの時代には、世界の全ては腐敗していたので、ノアとその家族8人ですけれども、この8人から世界を作り直されました。

そしてもっと時代が下りますと、アブラハムという人がいましたけれども、アブラハムの他は皆異教徒でした。ですからこのアブラハムから選ばれた民をお作りになりました。

ギデオンの時は、300人の兵隊が、もっともっとたくさんの兵隊に勝利する、という事がありました。

マカベオの軍隊も、本当に少ない人たちが大きい軍に勝つ、という事がありました。

ですからこれまでの歴史を見てみますと、天主様のいわば戦略というのは、「小さいグループの信者を使って、その最後の大きな勝利を得る為に、その小さいグループのやっている小さい行動をお使いになる」という事です。

ですから私たちも、数が少ないというだけで恐れてはいけません。歴史を見ると、数が少ないというのは恐れる事ではない、という事が分かります。天主様にとっては、数が少ないというのは問題ではありません。

天主様がこういう事をなさるというのは、おそらく、その小さいグループが最後に勝利を得た時に、「私たちが勝ったぞ!」というのではなくて、勝てないはずの小さいグループが勝ったのは、「天主様の力で勝ったのである」と「栄光は天主にあるのである」という事を御示しになる為であろうと思います。

カトリック教会を再興復興するというのは、これは奇跡であるはずで、奇跡でしかあり得ません。この奇跡、どんな奇跡が必要かというと、これはいわば「復活」が必要です。

今の市民的社会ですとか、教会の社会を見てみますと、私たちは死んでいるわけではないですけれども、精神的に「腐っている」と言わざるを得ません。世の中を見て、たとえば性的なモラルが大変な事になっているとか、天主様が軽蔑されているとか、それから近代主義に毒されたような教えが広まっている、という事を我々は世の中に見ます。これはまぁ腐っているという事です。

ですからこれを解く為には、私たちは天主様からの奇跡が必要です。それは「復活の奇跡」と呼べます。

では福音を見て、この「腐っている人を復活する」という話があったでしょうか?

それは、「ラザロの復活」の話を見なくてはいけません。ですから私たちは、このラザロの復活を見る事によって、天主様が今、私たちのこの危機にある教会を救う計画を持っていらっしゃるのが似ているのではないか、という風に考える事ができると思います。

ラザロの復活に関しては、4つのステップがあります。

まず第1のステップというのは、イエズス様がマルタに御話になります。
そしてマルタに仰るのは、「あなたの兄弟はよみがえるだろう」と、そして「私は復活であり、命である。私を信じる者は死んでも生きる。生きて私を信じる者は永久に死なぬ。あなたはこの事を信じるか?」(ヨハネ11章24~27節)という風に仰います。

そして、マルタはここで信仰の告白をします、「そうです、主よ、あなたがこの世に来るべき御方、天主の子キリストである事を信じます」(ヨハネ11章27~28節)という信仰告白をします。

第2のステップというのは、イエズス様が、このラザロが埋められているお墓の前に来て、「その石を取りなさい」と仰るところです。

イエズス様は、ここで注意しなくてはいけないのは、自分で石をお取りになったのではありません。他の方に、「この石を取りなさい」と仰いました。

第3のステップというのは、イエズス様が奇跡を御自分でなさいます。
そしてこの奇跡というのは、イエズス様が、「ラザロ、起きなさい」と言われます。そうするとラザロが起き上がって来ます。そしてこれは、イエズス様が御自分の、天主としての力でなさった事です。

最後に4つ目のステップで、イエズス様は、「ラザロを行かせなさい」という風に仰います。そしてイエズス様がなさったのは、周りにいる人に、「この埋められていたラザロに、お風呂に入れてあげて、食べ物をやって、飲ませてやって、ちゃんとしてやりなさい」という風に仰います。

そしてラザロはこの後、自分のその社会の中に、元の所に戻っていきます。

ですからこの「4つのステップ」というのが、今の教会の危機から出る、我々がそこから脱出する方法であると思っています。

ですから教会の事を考えますと、イエズス様はマルタに、「私が復活で、私が命だから、私がこれをできると思うか?」という風に仰ったのですから、イエズス様は私たちに、この教会を復活するのをイエズス様が、イエズス様が「できる」と仰っているのを、私たちが信じるかどうか、聞いていらっしゃるという事です。

「本当に最終的に勝利するのは、イエズス・キリスト御本人である、という事を、あなたは信じますか?」と私たちに仰っています。

そしてマルタが、「その通りです。あなたは生ける天主の子ですので、私の兄弟をよみがえらせる事ができます、そう思います」と言ったように、私たちもその信仰を持たなくてはいけません。

ですから天主の御意志に関して、私たちは、「いや、そうじゃないんじゃないか」とか、疑いを持つという事は許されてはいません。悪の勢力というのが、人間的に言えば世界を支配しているのですけれども、それについて私たちが腐ったり、そういう事を考える事は許されていません。

私たちは、「天主は善い方でいらっしゃるので、私たちを必ず天国に導いて下さる」という事を信じなくてはいけません。

私たちはこの例えば、「天主が最後に勝利される」というのは、頭では信じていても、実際には信じていないという事があります。例えば私たちが会う人の中には、「いや、世界今の世の中は大変ひどい」と「もう怒りを感じる」と「とんでもない」と「嫌な事ばっかりだ」と仰って、周りの人にも「嫌な事ばっかりだ」と、周りの人にもそのような影響を与える人がいらっしゃいます。

私たちの心の中では、平静と喜びをいつも持っていなくてはいけません、「勝利に行けるのだ!」という喜びを持っていなくてはいけません。

先ほどの第2のステップでは、ラザロの墓の石を、イエズス様はそこにいる方に、「この石をどけなさい」と仰いました。そしてこの石を人がどけた後に、イエズス様は奇跡をなさいました。

ですから、この教会の危機を救うという奇跡をされる前には、イエズス様は私たちに、「この石をどけなさい」と仰っています。そして「この石をどけなさい」というのは一体どういう事でしょうか?

それは、「お祈り」ですとか「犠牲」を私たちがする事によって、「奇跡の御恵みを頂く」という事だと思います。

これは一般的な事ですけれども、ある御恵みに関しては、「私たちが天主にお願いすれば、頂ける」という御恵みがあります。なぜこういうようになっているかと言うと、「私たちが、その頂いた御恵みの良さが本当に分かる為」にこういう風になっています。

先ほどの3つ目のステップというのは、イエズス様が、「ラザロ、起きなさい」という、その奇跡自体であります。

先ほど申しましたように、現代の教会の危機を見てみますと、人間的な解決法があるのではなくて、天主の手による解決しかあり得ません。“Church「教会」”というのは、ピラミッドのようなもので、権威というのは上から下に降りてきます。

教会という社会は、一番下の者が一番上の人を変えるのではなくて、上の人が下を治めるようにできています。ですからもしも、「一番上が腐敗してしまった」という時、これを直せるのは下ではなくて、その上に唯一人おられる、「イエズス・キリスト」以外にはあり得ません。

そしてこれは実際どうやって起こるかと言うのは、これは天主様の秘密です。例えば私たちが想像するに、パウロがダマスコに行った時のように、教皇様がある日回心されるのか、という事を想像する事はできます。イエズスの聖心に従ったような教皇様が選ばれるのかもしれません、そういう想像もできます。ですからもしこういう方が、今の枢機卿たちの心を見てみると、もしそういう人が選ばれた、という事であれば、これは奇跡と言わなくてはいけません。そしてどんな事が起こるか私たちに分かりませんが、天主様に「そういう奇跡を下さい」とお願いしなくてはいけません。

最後の4つ目のステップというのは、周りの方に、「このラザロが生き返ったので、この巻いている服を取ってあげて、食べ物、飲み物をあげなさい」と言われたところです。

そしてこれは何を意味しているかと言うと、その奇跡が起こった時に、私たちがしなければいけない仕事、具体的に言うと、教会を再建したり、神学校を再建したり、学校を再建したりして、世の中にその正しいカトリックの影響が復興されるように、私たちがしなければいけない事を示しています。

ですから今お話しましたように、この二つのレベルを区別して考えるのが大事だと思います。

ですから低いレベルの方で言いますと、じゃあ日本にいて何をするかというと、今ここにあるように、ミサの会場をどうしていくかと、良くしていく事を考えなくてはいけません。もし天主様が御望みであれば、来年の1月か何か分かりませんが、日本に修道院ができる事でしょう。それに従って、その法人を作るとかいう仕事もまた出てくるでしょう。その神父様の泊まられる修練院ですとか、それから教会の物件、不動産を探すという仕事もあるでしょう。それから教会を建てるかもしれません。「私たちの出来る範囲で、カトリック信仰を広げる」という仕事があります。

皆さんのお友達か同僚かと色々お話をされて、このカトリックの信仰を広めるという仕事があります。例えばコンファレンスを組織して、そのカトリックの信仰を広めるという事もあります。例えばリーフレットを作って、カトリックの信仰を広めるという事もあります。ウェブサイトを作るという事もあるでしょう。

ですから私たちは、私たちのカトリックの信仰を証する為に、このような色々な事をしなくてはいけません。そして私たちはそれで何をしているかと言うと、「まだ正しいカトリックの信仰を知るチャンスがなかった良い人たちに、それを伝える仕事をする」という事です。

そこでは先ほど申しましたように、私たちは良き資料を持って動かなくてはいけません。私たちは必ず成功する、と約束を頂いているわけでありませんから、思慮深く動かないと、全部失敗してしまうかもしれません。

そして高いレベルの方で言いますと、天主様から、この「教会が復興する」という奇跡を頂かなくてはいけません。まず最初に、固い信仰を持っていなくてはなりません、「こんなに大変な危機が起こるという事は、それは教会がその後により輝き、大きなものとなるという、その為である」という事を信じなくてはなりません。

そしてこのような奇跡をお願いする為に、私たちができる事は、お祈りですとか犠牲をその為にお捧げするという事ができます。現代は具体的に話しますと、「聖母の汚れなき御心に対する信心」というのが私たちに与えられています。「5回の第1土曜日の信心」というのが例えばあります。またロザリオ、「聖なるロザリオを唱える」という信心もあります。各月の最初の、「初金の信心」というのもこれに付け加えられます。皆さんができる範囲内において、「お祈りですとか犠牲を捧げる」というのもこれに付け加えられます。

私たちは何よりも、「忍耐強く」なくてはいけません。天主の御時間ですから、もしこの危機があと50年続くのでしたら、50年待ちましょう。

ですから私たちは悲観主義を避けなくてはいけません、「もうだめだ」とか「悲しい」とか、そういう事を避けなくてはなりません。

私たちはまたその反対に、「慢心」を避けなくてはいけません、「私たちが世界を変えるんだ」というのは避けなくてはいけません。

ですから私たちがすべき事というのは、「私たちができる事を、単純に、いつもして行く」という事で、「栄光だけは、天主に帰属させます」という事です。

ドモルネ神父様 質疑応答 2019年5月
(これはドモルネ神父様の個人的な意見として発言されました)
同時通訳:東京信徒会長


質問者Fさん:今のフランシスコ教皇様は Amoris Laetitiae とかありますが、聖ピオ十世会の立場から見たら、ベネディクト教皇様とくらべてどう言えるのか。そのトラップ、罠(見かけは聖伝を大切にするようだけれども実は聖伝を潰そうとする罠)をかけようとしない、という点ではマシだと言えるでしょうか。


ドモルネ神父様:お二人を比べますと、やり方は二人の教皇様はすごく違いますけれども、結果としては同じ事ではないかと思います。
前の教皇様、ベネディクト十六世についてお話しますと、第二バチカン公会議の時に、近代主義者であっただろうというのは確かですけれども、外面的には伝統的なものも保存されたという方ですので、多くの人々が混乱に陥る事になりましたので、ある意味ではより危険であったと言う事ができるかもしれません。
ですからベネディクト十六世教皇のされたかった事というのは、いわば私たちSSPXを誘惑すると言ったら変ですけれども、外面的には「その古い典礼をそのまま保存できるから、一緒になってやりましょう」という事を言っていたように思います。
ですからベネディクト教皇様のなさろうとした事は、おそらくその一方では非常に近代主義的な事をされていたわけですから、その正反対の聖ピオ十世会に対して、「こんな伝統的な事も私はOKするんだ」と、「左から右まで全部OKするんだ」という事を見せようとされたように思います。
それに比べてフランシスコ教皇というのは、伝統的なところは全然ない近代主義的な方です。この現在の教皇様というのは、ある意味では非常に論理的な方で、第二バチカン公会議で決まった事をそのまま推し進めて、突き進めて行こうとされています。

この「近代主義」というのは一体何なのだ、という事を分かりやすく言うと、これは「進化するもの」という事です。
ですからフランシスコ教皇様、現在の教皇様がやっていらっしゃるのは、今の教会を進化させようと、別の言葉で言うと、違うところに持って行こうという風にされています。
そして今の教皇様の考えていらっしゃるその問題というのは、教会には既に色々組織があります。その組織というものは、そんなに簡単に動くものではないという事です。
ですから今の教皇様がやっていらっしゃるのは、一番とんでもなく近代主義的なところと、我々のように一番反対に伝統的なところを両方捕まえて、教会を揺らして何とか動かして新しい所に持って行こうとしていらっしゃるようです。
ですから、現在の教皇様が聖ピオ十世会に非常に好意的であるというのは、おそらくその好意的である事によって、教会全体を自分の思うように動かせるから、という手段として使っていらっしゃるようです。ある人が仰るのには、「聖ピオ十世会がやっている、こういうミッションの仕事というのを教皇様が見て、『これは良い』と仰っている」という人もいます。
人間的に言いますと、このフランシスコ教皇様というのは、事務室の中で仕事をやっているような方があまり好きではないようです。ですから聖ピオ十世会のこのミッションの仕事というのには、何か好意を持っていらっしゃるようです。
ですが、これによって教皇様が、我々の「伝統的な信仰を守る」という仕事を指示して下さっているかというと、全然そうではありません、誤解してはいけません。

これは私の個人的な意見です。(^^;)

ですから、私の個人的な意見としては、お二人の教皇様は違う方ですけれども、結果として同じという事です。

他に何かご質問はありますか?

ありがとうございました。

Viewing all articles
Browse latest Browse all 4247

Trending Articles