2019年6月30日(主日)聖霊降臨後第3主日 至聖なるイエズスの聖心の荘厳祭
ラファエル・デュ・シャゾ神父様御説教
同時通訳:東京信徒会長
【東京信徒会長】
今日はラファエル・デュ・シャゾ神父様が初めていらして頂いています。
それで、今日の御ミサの後に聖体降福式があります。いつものようにミサの後の祈りをした後に、聖体降福式があります。
聖体降福式の最後に、先ほどお配りしたかと思いますけれども、聖心の祝日に当たる今日はそれをお祝いしていますので、「人類の忘恩に対する償いの祈り」というのを行ないます。
それからそのミサの後ですけれども、お昼ご飯を食べた後、霊的講話があります。そしてその後晩課があります。
神父様は今日この後成田空港にいらっしゃる予定です、明日のミサはございません。
それから来週の日曜日主日は、主日のミサ、小野田神父様がいらっしゃるので通常通りあります。
【ラファエル・デュ・シャゾ神父様】
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
この今日の福音に出てきますけれども、イエズス様の胸を突いたこの槍ですけれども、これは戦いに使われた物で、色々たくさんの敵を殺す為に使われてきた槍だと思います。
しかしこの金曜日、聖金曜日ですが、この兵士がイエズス様の胸を刺したこの槍というのは、今回は死をもたらす為ではなくて、たくさんの人に生命、命をもたらす為の槍です。
槍というのはこれは武器ですけれども、今日はこの事を考えるのが非常に大事だと思います。この槍というのは、天主様がずっと永遠の昔から予定されておられたもので、その天主様の心を私たちに開く為にずっと準備しておられたものなのです。
皆さんご存じの通り、十字架というのは、これは拷問の為の道具でありました。イエズス様がその十字架の、拷問の為の道具に架けられたのですけれども、イエズス様が架けられた事によって、これは生命の木となりました。
同じように、この槍というのは元々武器でありまして、人を殺す為にあったものですけれども、それがイエズス様に刺される事によって、この槍が、天主様の用意されたその愛を私たちに与える道具と変わりました。
天主様はこの槍というのを私たちにお見せになったというのは、2つ理由があると思います。
まず1つは、天主様の愛です。聖ヨハネの福音にあります通り、天主様というのは愛でありますし、それを私たちにお見せになる為に、この槍を突かれて、胸が開かれて、その動いている、胸が鳴っている胸をお見せになるという事によって、愛を私たちにお見せになりました。
天主様がなさる事というのは、天主様がどういう御方であるかというのを示しています。ですからこの場合、この単なる武器という物をお使いになったのですけれども、武器というのをお使いになって、天主様の聖心を見せて下さるという事で、天主様が愛であるという事を私たちにお見せ下さったという事です。
天主様の愛というのは、もうそれ自体で満たされたものですので、誰かがそれを愛さなければいけないという事はありません。もう愛で満ちていますので、例えば私たちを創造して下さった、この世界を創造して下さった、という事は、天主様の愛自体が天主様から流れ出ている、という事です。
「愛」というのは、人々を結び付けるものです。しかし私たちは天主の愛から離れ離れになっている人間ですから、この離れ離れになった人間を天主の愛の元に戻さなくてはいけません。ですからこの十字架、槍で刺されたというこの事は、私たちをその天主の命の元に戻す、という方法でありました。
天主様が、この人となられたイエズス様の聖心を見せて下さったというのは、私たちが人間だからです。私たちが人間として、その人間である天主の聖心を見て、その天主様の愛にお応えする事ができるように、というのがその根拠です。
聖ヨハネは、福音にありますけれども、「イエズス様の聖心が開くのを見た」と言って、そして「そこから血と水が流れ出たのを見た」と書かれています。
私たちもこのヨハネのようにならなくてはいけません。天主の聖心から、血と水が出ているのを見る人にならなくてはいけません。
天主様の計画というのは、私たちを創造されて、そしてイエズス様がこの世に体を取っていらっしゃって、私たちを贖って下さった、この全ての計画は、天主様の愛から出ています。そしてその兵士がイエズス様を刺したのですけれども、その後回心したように、私たちも同じように回心しなくてはいけません。それは、イエズス様の聖心から出てきた水と血に洗われて、回心しなくてはいけません。
皆さんご存知の通り、ミサというのは、この天主様の犠牲の繰り返しであります。ですからその実りを私たちが受ける為には、その犠牲が行なわれているという事は、天主様の聖心が開かれているという事ですから、私たちも聖ヨハネと同じように、その聖心を見て信じる事です。それから先ほど申しましたように、その兵士のように、私たちの全ての罪から血と水で洗われるという事が必要です。
今日は私たちは、イエズス様のその開かれた聖心を見ているわけですが、私たちはこの開かれた聖心を見たヨハネ、一人一人が聖ヨハネにならなくてはいけません。そして私たちの心をも開くことが重要です。
パウロが“Credidimus Caritati”「私たちは天主の愛を信じた」と言いますが、このローマの兵士のように、私たちも犯した罪から回心する事が重要です。
天主様は、この聖心を見せて下さるというのに、非常に力強い、またその痛ましい方法で、私たちに天主様の愛を見せて下さいました。そして私たちも天主様に自分の心を開いて、これをお返ししなくてはいけません。そして先ほど申しましたように、天主様がこの世をお創りになって、この世にいらっしゃって、私たちを贖って下さったという計画の後ろにあるのは全て、愛からです。
ですから、私たちもそれを真似て、同じように愛徳から行動しなくてはいけません。私たちも自分の心を開いて、自分の隣人に同じように愛徳の行ないをしなくてはいけません。
最後に2つ述べたいと思います。
この槍というのは、先ほど申しましたように、単なる兵士の武器であります。しかしながら、天主様の愛によって、この武器というものが私たちを天国に導くいわば種となりました。ですから、私たちも日頃色んな事をするわけですが、どんな小さい事をしても、それが天主様への愛徳の道具となるようにしなくてはいけません。
それからもう1つ、イエズス様の聖心から流れ出した御血というのは、特に今日私たちはこの聖心の祝日を祝っておりますけれども、御ミサの時にカリスの中に流れ込むのが、その槍にて貫かれたイエズス様の聖心から流れ出た、私たちを浄める御血そのものです。
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
ラファエル・デュ・シャゾ神父様御説教
同時通訳:東京信徒会長
【東京信徒会長】
今日はラファエル・デュ・シャゾ神父様が初めていらして頂いています。
それで、今日の御ミサの後に聖体降福式があります。いつものようにミサの後の祈りをした後に、聖体降福式があります。
聖体降福式の最後に、先ほどお配りしたかと思いますけれども、聖心の祝日に当たる今日はそれをお祝いしていますので、「人類の忘恩に対する償いの祈り」というのを行ないます。
それからそのミサの後ですけれども、お昼ご飯を食べた後、霊的講話があります。そしてその後晩課があります。
神父様は今日この後成田空港にいらっしゃる予定です、明日のミサはございません。
それから来週の日曜日主日は、主日のミサ、小野田神父様がいらっしゃるので通常通りあります。
【ラファエル・デュ・シャゾ神父様】
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
この今日の福音に出てきますけれども、イエズス様の胸を突いたこの槍ですけれども、これは戦いに使われた物で、色々たくさんの敵を殺す為に使われてきた槍だと思います。
しかしこの金曜日、聖金曜日ですが、この兵士がイエズス様の胸を刺したこの槍というのは、今回は死をもたらす為ではなくて、たくさんの人に生命、命をもたらす為の槍です。
槍というのはこれは武器ですけれども、今日はこの事を考えるのが非常に大事だと思います。この槍というのは、天主様がずっと永遠の昔から予定されておられたもので、その天主様の心を私たちに開く為にずっと準備しておられたものなのです。
皆さんご存じの通り、十字架というのは、これは拷問の為の道具でありました。イエズス様がその十字架の、拷問の為の道具に架けられたのですけれども、イエズス様が架けられた事によって、これは生命の木となりました。
同じように、この槍というのは元々武器でありまして、人を殺す為にあったものですけれども、それがイエズス様に刺される事によって、この槍が、天主様の用意されたその愛を私たちに与える道具と変わりました。
天主様はこの槍というのを私たちにお見せになったというのは、2つ理由があると思います。
まず1つは、天主様の愛です。聖ヨハネの福音にあります通り、天主様というのは愛でありますし、それを私たちにお見せになる為に、この槍を突かれて、胸が開かれて、その動いている、胸が鳴っている胸をお見せになるという事によって、愛を私たちにお見せになりました。
天主様がなさる事というのは、天主様がどういう御方であるかというのを示しています。ですからこの場合、この単なる武器という物をお使いになったのですけれども、武器というのをお使いになって、天主様の聖心を見せて下さるという事で、天主様が愛であるという事を私たちにお見せ下さったという事です。
天主様の愛というのは、もうそれ自体で満たされたものですので、誰かがそれを愛さなければいけないという事はありません。もう愛で満ちていますので、例えば私たちを創造して下さった、この世界を創造して下さった、という事は、天主様の愛自体が天主様から流れ出ている、という事です。
「愛」というのは、人々を結び付けるものです。しかし私たちは天主の愛から離れ離れになっている人間ですから、この離れ離れになった人間を天主の愛の元に戻さなくてはいけません。ですからこの十字架、槍で刺されたというこの事は、私たちをその天主の命の元に戻す、という方法でありました。
天主様が、この人となられたイエズス様の聖心を見せて下さったというのは、私たちが人間だからです。私たちが人間として、その人間である天主の聖心を見て、その天主様の愛にお応えする事ができるように、というのがその根拠です。
聖ヨハネは、福音にありますけれども、「イエズス様の聖心が開くのを見た」と言って、そして「そこから血と水が流れ出たのを見た」と書かれています。
私たちもこのヨハネのようにならなくてはいけません。天主の聖心から、血と水が出ているのを見る人にならなくてはいけません。
天主様の計画というのは、私たちを創造されて、そしてイエズス様がこの世に体を取っていらっしゃって、私たちを贖って下さった、この全ての計画は、天主様の愛から出ています。そしてその兵士がイエズス様を刺したのですけれども、その後回心したように、私たちも同じように回心しなくてはいけません。それは、イエズス様の聖心から出てきた水と血に洗われて、回心しなくてはいけません。
皆さんご存知の通り、ミサというのは、この天主様の犠牲の繰り返しであります。ですからその実りを私たちが受ける為には、その犠牲が行なわれているという事は、天主様の聖心が開かれているという事ですから、私たちも聖ヨハネと同じように、その聖心を見て信じる事です。それから先ほど申しましたように、その兵士のように、私たちの全ての罪から血と水で洗われるという事が必要です。
今日は私たちは、イエズス様のその開かれた聖心を見ているわけですが、私たちはこの開かれた聖心を見たヨハネ、一人一人が聖ヨハネにならなくてはいけません。そして私たちの心をも開くことが重要です。
パウロが“Credidimus Caritati”「私たちは天主の愛を信じた」と言いますが、このローマの兵士のように、私たちも犯した罪から回心する事が重要です。
天主様は、この聖心を見せて下さるというのに、非常に力強い、またその痛ましい方法で、私たちに天主様の愛を見せて下さいました。そして私たちも天主様に自分の心を開いて、これをお返ししなくてはいけません。そして先ほど申しましたように、天主様がこの世をお創りになって、この世にいらっしゃって、私たちを贖って下さったという計画の後ろにあるのは全て、愛からです。
ですから、私たちもそれを真似て、同じように愛徳から行動しなくてはいけません。私たちも自分の心を開いて、自分の隣人に同じように愛徳の行ないをしなくてはいけません。
最後に2つ述べたいと思います。
この槍というのは、先ほど申しましたように、単なる兵士の武器であります。しかしながら、天主様の愛によって、この武器というものが私たちを天国に導くいわば種となりました。ですから、私たちも日頃色んな事をするわけですが、どんな小さい事をしても、それが天主様への愛徳の道具となるようにしなくてはいけません。
それからもう1つ、イエズス様の聖心から流れ出した御血というのは、特に今日私たちはこの聖心の祝日を祝っておりますけれども、御ミサの時にカリスの中に流れ込むのが、その槍にて貫かれたイエズス様の聖心から流れ出た、私たちを浄める御血そのものです。
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。