Quantcast
Channel: Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた
Viewing all articles
Browse latest Browse all 4247

教皇ヨハネ二十二世は、啓示された「質料的教義」に反する異端説を唱えたが、聖伝の教えを信じる人々が教皇に公に反対して抵抗した。

$
0
0
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛するM君、

教皇ヨハネ二十二世の件についてお話をします。

これをみると、その当時も、聖伝主義者と「聖座忠誠派」(教皇信奉者)と教皇座空位論者が出てきました。

聖伝主義者とは、今までの正統な教えられ続けてきた教義(聖伝)を信じ、もしも教皇がそれを個人的に否定したとしても、聖伝を支持し続ける人々です。しかし、聖伝主義者は、個人の資格によって教皇を教皇ではないとは主張せず、ただ、間違った教えを説く教皇に抵抗する人々です。

「聖座忠誠派」とは、教皇の言うことなら、それが聖伝に反しても何でもその通りだと信じて、それを支持することがカトリックであるという態度の人々です。

教皇座空位論者とは、教皇が聖伝の教えを否定したとき、自分の個人の判断によって、教皇を教皇ではない、と断言する人々のことです。

さて、教皇ヨハネ二十二世(1316-1334)は、アヴィニョンにいた真の教皇でした。

ヨハネ二十二世は、信徒の霊魂は死後すぐに至福直観を得るのではなく、最後の審判の後でようやく至福直観を得る、と公に教えました。

この異端説を、教皇として、枢機卿たちや高位聖職者や神学者たちを前にして、何度も説教しました。この説によると、

*死せる信者の霊魂は、世の終わりの総審判の後にならなければ、善業の報いである至福直感(天主を顔と顔を合わせて完璧に見奉り天主を享受すること)や天国での至福を得られない。
*肉体のよみがえりがあり、肉身と霊魂とがもう一度合体して初めて、完全な至福が人間に与えられる。
*煉獄で浄められた後、霊魂は「祭壇の下 sub altare」(黙示録6:9)におかれ、肉体のよみがえりと最後の審判を待つ。
*この待っている間、霊魂たちはキリストの人生によって慰めを受け、保護されるが、至福直観は受けることが出来ない。

などと教えていました。

ヨハネ二十二世の説教は記録されて、出版されています。たとえば、次が参考になります。

Marc Dykmans, "Les sermons de Jean XXII sur la vision béatifique", Rome, Gregorian University, 1973
Sermon de Toussaint 1er novembre 1331Sermon du 15 décembre 1331

次の二冊は、情報としてあげておきます。

Fr. V. F. O’Daniel, "John XXII And The Beatific Vision", The Catholic University Bulletin. vol. VIII, Washington, D.C.: The Catholic University of America, 1912

Christian Trottmann, "La vision béatifique. Des disputes scolastiques à sa définition par Benoît XII, Ecole Française de Rome", Rome 1995.

ヨハネ二十二世は、この異端説を枢機卿であるときから、すなわち教皇になる前から唱えており、印刷物として出版しました。

教皇として、これを説教し、自説をパリ大学の神学部に強要しました。しかしこの説に反対する神学者たちは、ヨハネ二十二世の説を異端的だと非難しました。

これについては、Pope John XXII in Catholic Encyclopedia (1913)には次のようにあります。すこし引用しますが、詳しくはリンク先を見て下さい。

Before his elevation to the Holy See, he had written a work on this question, in which he stated that the souls of the blessed departed do not see God until after the Last Judgment. After becoming pope, he advanced the same teaching in his sermons. In this he met with strong opposition, many theologians, who adhered to the usual opinion that the blessed departed did see God before the Resurrection of the Body and the Last Judgment, even calling his view heretical. A great commotion was aroused in the University of Paris when the General of the Minorites and a Dominican tried to disseminate there the pope's view.(…)

歴史家のロベルト・デ・マテイ(Roberto de Mattei)は、A POPE WHO FELL INTO HERESY, A CHURCH THAT RESISTED: John XXII and the Beatific Vision という記事の中で次のように書いています。詳しくは、リンク先をお読み下さい。それによると、

*ヨハネ二十二世の異端説は古くからあったが十三世紀に聖トマス・アクィナスが論破していた。【聖トマス・アクィナス De veritate (q. 8, a. 1) や Summa Theologica ( I, q. 12, a. 1)など】

*ヨハネ二十二世がこの誤謬を再提示すると、多くの神学者たちから公に批判を受けた。

*討論に参加して教皇に反対した人々のなかに、モー(Meaux)司教区の司教であった Guillaume Durand de Saint Pourcain (1270-1334)がいたが、彼は、教皇がカタリ派の異端を再提示していると告発した。

*教皇の説に反対した英国ドミニコ会士 Thomas Waleys (1318-1349)は、公に反論した結果、裁判を受けて投獄された。

*教皇に反論したフランシスコ会 Nicola da Lira (1270 -1349) と ジャック・フルニエ枢機卿 Cardinal Jacques Fournier (1280-1342)は、教皇庁の神学者たちであった。(フルニエ枢機卿は後に教皇ベネディクト十二世となる。)

*ヨハネ二十二世が自分の謬説をパリ大学の神学部に強要しようとすると、フランス王フィリップ六世はその教えを禁止し、ソルボンヌ大学の総長ジャン・ジェルソンの記述によると、ヨハネ二十二世がその教えを撤回しない限り、彼を火やぶりにすると脅しさえした(threatening John XXII with the stake)。

*聖アウグスティノ隠遁会の総長であるストラスブルクのトマス(Thomas of Strasburg)によると、ヨハネ二十二世の複数の説教は、全キリスト世界を混乱させた(totus mundum christianum turbaverunt)。

*ヨハネ二十二世の死の直前に、教皇は個人の神学者としてのみ発言して、教導権に結びつけることはしなかった(without any binding to the magisterium he held)と述べた。

*ジョヴァンニ・ヴィラ(Giovanni Villani)の年代史によると、ヨハネ二十二世は、自分の甥であったダル・ポジェット枢機卿(Cardinal Dal Poggetto)とその他の親戚の計らいによって、死ぬ前日(1334年12月3日)に自分の主張を撤回した。

*ヨハネ二十二世の死(1334年12月4日)の後、1334年12月20日、ヨハネ二十二世の異端に反対していた前述のフルニエ枢機卿が教皇に選ばれ、ベネディクト十二世(1335-1342)の名前を取った。

*後継者ベネディクト十二世は、1336年1月29日付けで勅令「ベネディクトゥス・デウス Benedictus Deus」によって、死せる信徒の霊魂は、もし必要なら煉獄で浄められた後、最後の審判の前に、すぐに至福直観を受ける、と不可謬的に定義した。

*この信仰箇条は、1439年7月6日に、フィレンツェ公会議の際に、勅令レテントゥル・チェリ(Laetentur coeli)で言及された。 (Denz-H, n. 1305)

*聖ロベルト・ベラルミンは、ヨハネ二十二世は異端的な説を、真理として信徒らに強制しようという意向を持って、それを支持したが、ドグマとして定義することが出来る前に死亡した、と書いている。従って、教皇の不可謬性の原則は揺るがされなかった。
(St. Robert Bellarmine who dealt amply with this issue in De Romano Pontifice (Opera omnia, Venetiis 1599, Book. IV, chap. 14, coll. 841-844) writes that John XXII supported a heretical thesis, with the intention of imposing it as the truth on the faithful, but died before he could have defined the dogma, without therefore, undermining the principle of pontifical infallibility by his behavior.)
【M君のために聖ベラルミンの書いた本をインターネット上で探しました。リンク先にあります。
http://cdigital.dgb.uanl.mx/la/1080015572_C/1080015573_T2/1080015573_10.pdf
P 117 の "Trigessimus sextus est Joannes XXII, Papa"という文章から始まるところです。

*ヨハネ二十二世の正統ではない教え(heterodox teaching)は、教会の信仰に関する通常の教導権(ordinary magisterium)の執行であったが、定義をするものではなかったので、不可謬ではなかった。



Photo Credit

ベネディクト十二世の勅令のラテン語原文は、次にあります。
BENEDICTUS DEUS (29 Ian. 1336) -- Pontificia definitio dogmatis de visione beatifica Sanctorum ante iudicium universale in caelo fruentium

(…)hac imperpetuum valitura Constitutione, auctoritate apostolica diffinimus, quod secundum communem Dei ordinationem animae sanctorum hominum(…)mox post mortem suam et purgationem praefatam in illis qui purgatione huiusmodi indigebant, etiam ante resumptionem suorum corporum et iudicium generale, post ascensionem Salvatoris nostri domini Iesu Christi in caelum, fuerunt sunt et erunt in caelo, caelorum regno et paradiso caelesti cum Christo, sanctorum Angelorum consortio aggregatae; ac post domini Iesu Christi passionem et mortem viderunt, vident et videbunt divinam essentiam visione intuitiva et etiam faciali, nulla mediante creatura in ratione obiecti visi se habente, sed divina essentia immediate se nude clare et aperte eis ostendente; quodque sic videntes eadem divina essentia perfruuntur nec non quod ex tali visione et fruitione eorum animae qui iam decesserunt sunt vere beatae et habent vitam et requiem aeternam et erunt illorum, qui postea decedent, cum eandem divinam videbunt essentiam ipsaque perfruentur ante iudicium generale; ac quod visio huiusmodi divinae essentiae eiusque fruitio, actus fidei et spei in eis evacuant, prout fides et spes proprie theologicae sunt virtutes; quodque postquam inchoata fuit vel erit talis intuitiva et facialis visio et fruitio in eisdem, eadem visio et fruitio sine aliqua intervisione seu evacuatione praedictae visionis et fruitionis continuata extitit et continuabitur usque ad finale iudicium et extunc usque in sempiternum.(…)

ヨハネ二十二世のケースを見ると、次のことが言えます。

教皇は、信仰に反する誤謬を公に教えることが出来る、ということです。

ヨハネ二十二世の場合、教会による定義の直前だったとはいえ「ドグマの内容(質料的教義)に反する誤謬」を教えていました。

質料的教義(material dogma)とは、啓示の源泉の中に含まれているので、教会が信仰定義をすることができる真理ですが、教会によってまだ定義されていない真理のことを言います。(Ott, Fundamentals of Catholic Dogma, p. 6; Van Noort, The Sources of Revelation, p. 229.)

死せる義人の霊魂が至福直観を享受することについて、不可謬の定義宣言が彼の死の直後にあったとは言え、これは啓示された真理の信仰の遺産の一部でした。だからこそ、教皇の教えは、すぐに、しかも、強烈に反対を受けました。聖伝に反していたからです。

教皇アドリアノ四世はヨハネ二十二世のことを「異端者」であると呼びました。これについてはラテン語原文を引用して既に述べました。
「(…)実に、複数のローマ教皇らは異端者だった。彼らの最後は、教皇ヨハネ二十二世だった。煉獄の霊魂たちは最後の審判の前にはストラを持たない、つまり、明確な天主の顔と顔とを合わせる至福直観を持たないということを、彼は公式に教え、宣言し、すべての人に信じるように(teneri)命じた。」

教皇ベネディクト十二世によれば、ヨハネ二十二世は死の直前まで自分の意見を信仰定義しようとしていましたが、死によってそれが出来なくなりました。
"Cumque idem praedecessor, ad quem praedictorum determinatio pertinebat, ad decisionem concertationum huiusmodi se pararet in suo Consistorio publico, tam Fratribus suis, sacrosanctae Romanae Ecclesiae Cardinalibus, de quorum numero tunc eramus, quam Praelatis et magistris in Theologia, qui multi aderant tunc praesentes, iniungendo districtius et mandando, ut super materia de visione praedicta, quando requirerentur ab eo, deliberate unusquisque diceret quod sentiret, tamen morte praeventus, sicut Domino placuit, perficere id nequivit."[BENEDICTUS XII, BENEDICTUS DEUS]

ヨハネ二十二世が、自分の異端説を唱えつづけた時、ヨハネ二十二世を教皇と認めつつ、しかしその異端説に抵抗した「聖伝のカトリック」がいましたが、その反対に教皇のいうことであるなら、異端説でも何でも、その先棒担ぎとなって広める「聖座忠誠派」(教皇信奉者)もいました。

その先頭がフランシスコ会のジェラール・オルドン(Gerard Ordon)らです。パリのドミニコ会士らも含めて、オルドンらは教皇の異端説を宣伝し、擁護して、パリ大学では大きな問題となりました。

他方で、異端説を唱えるヨハネ二十二世を、教皇ではないと言う者も出てきました。M君のような人です。最初のプロテスタントと呼ばれたオッカムのウィリアム(William of Ockham)です。

イングランド出身のフランシスコ会士であるオッカムのウィリアムは、異端の嫌疑がかけられていましたが、正式に(formally)異端者として排斥されたことはありません。

Franciscan Institute Publications: Philosophy series, No 1. p. 12 にオッカムのウィリアムが1334年にフランシスコ会総長に宛てて書いた手紙の英語訳が載っています。

あるいは、The Tractatus de successivis, William (of Ockham), The Franciscan institute, St. Bonaventure college, 1944, p. 12 にもあります。

オッカムのウィリアムの手紙を引用します。

At the end of his letter to the General Chapter in Assisi in the spring of 1334, he wrote:
"Because of the errors and the heresies mentioned above and countless others, I turned away from the obedience of the false Pope and all who were his friends to the prejudice of the orthodox faith. For men of great learning showed me that because of his errors and heresies the same pseudo-pope is heretical, deprived of his papacy and excommunicated by Canon Law itself, without need of further sentence ... "

"If anyone should like to recall me or anyone else who has turned away from the obedience of the false pope and his friends, let him try to defend his constitutions and sermons, and show that they agree with Holy Scripture, or that a Pope cannot fall into the wickedness of heresy, or let him show by holy authorities or manifest reasons that one who knows the Pope to be a notorious heretic is obliged to obey him."

あるいは、William of Ockham: 'A Letter to the Friars Minor' and Other Writingsにもあります。

つまり、十四世紀に、オッカムのウィリアムは、ヨハネ二十二世の誤謬と異端のために、偽りの教皇への従順を拒む、ヨハネ二十二世の誤謬と異端のために偽教皇は異端者であり、教会法によって判決の必要もなく、教皇職を失い、破門された、と主張しています。

もちろん、カトリック教会は、オッカムのウィリアムのこの主張に決して同意しません。しかし、教皇が公に誤謬を教えたことがあり、そのために教会が大混乱に陥ったという事実があることを教えています。

歴史は、教皇が誤謬や異端を教えるとき、オーバーな反応をする人々がいたことも教えています。教皇座空位論者です。自分の判断で教皇が教皇職を失ったと宣言する人々です。ただしオッカムのウィリアムの名誉のために少し付け加えると、彼は現代の教皇座空位論者らのように、世界中のすべての司教区を持っている司教らが信仰から離れているので司教職を失ったとは主張していませんでした。

【この項は続きます】

Viewing all articles
Browse latest Browse all 4247

Trending Articles