2020年3月20日(金)四旬節第3主日の後の金曜日のミサ
聖ピオ十世会司祭 小野田神父説教
聖母の汚れなき御心聖堂にようこそ。今日は2020年3月20日、四旬節第3主日の後の金曜日のミサをしております。
今日、コロナウィルスの影響で、私たちの御聖堂にいらっしゃりたくてもそれができない方がたくさんいらっしゃいます。
また世界中でミサが行なう事ができない場所もたくさんあると聞きました。イタリアとかフランスとか、あるいはスペイン、アメリカ、その他中国、韓国。
そこで今日ぜひ、この私たちのミサが復活祭まで予定通り行なわれますように、それ以後ももちろん予定通り行われますように、また世界中の所でまたミサがちゃんとできるようになりますように、祈りましょう。
このミサの後に御聖体降福式を、短かなものですが、特にマリア様からの祝福を願って、イエズス様からの祝福を願って、御聖体降福式を行ないたいと思っています。どうぞいらして下さい。
また食事の後に、聖週間の簡単な練習と、午後3時頃から、今日は金曜日ですので、十字架の道行きを皆さんとする事を提案します。時間がある方はいらして下さい。
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
愛する兄弟の皆さん、今日この御ミサの中で、民数の書、モーゼに人々がユダヤの民が、「水を欲しい」と言った事と、そして福音では、イエズス様がサマリアの女性に「水を欲しい」と仰った事、そしてこの旧約でも新約でも、「生ける水が与えられる」という史実が、歴史上の事実が語られました。
そこで今日、このミサについて一緒にこの事を黙想する事に致しましょう。
⑴まず今日の1点は、四旬節には毎日のように、指定巡礼教会というものがあります。今日はルチナの聖ラウレンチオ教会ですが、一体、水とどのような関係があるのか?
⑵第2に、旧約聖書のモーゼの話について黙想して、
⑶次に福音の黙想をして、
⑷その次に、今日の遷善の決心を立てる事に致しましょう。
⑴今日は教会は霊的に、指定巡礼教会、ルチナの聖ラウレンチオという所に行きます。この教会は元々3世紀頃、ある「ルチナ」という、「輝く女性」という名前です。「光の女性」という意味ですけれども、その方が造った教会に行きます。
でもこの教会は後に5世紀になると、シクスト3世教皇様がこれを、聖ラウレンチオ殉教者、ローマの殉教者の教会として任命します。そしてここに聖ラウレンチオが焼かれた鉄板・グリルの聖遺物が置かれました。
一体何故かというと、典礼学者は2つ指摘しています。
「一体なぜなのかというと、このルチナの聖ラウレンチオの教会においては、そのすぐ近くには有名な泉があったからだ」と言います。
「そして同時に、ギリシャの伝統によると、サマリアの女性、今日福音に出たサマリアの女性の名前は、『ソティナ』と言う名前で、これは『光の女性』という意味で、『ルチナ』と同じ意味だ。そこでこの教会が選ばれたのだろう」と言います。
⑵そして旧約聖書での話を、史実を、黙想する事に致しましょう。
皆さんもご存知の通り、かつてモーゼの時代にユダヤ人たちは、ファラオの下で奴隷状態でした。太祖ヨゼフによって食べ物を与えられて、そして皆食べ物を食べる為にエジプトに来て、ヤコブとその兄弟たちがエジプトに来て、そしてユダヤ人たちはたくさん増えていきましたが、彼らはエジプト人たちによって圧迫されて、そして奴隷のようにこき使われていました、時代が経つにつれて。
そしてもはやヨゼフの事を忘れる人々の事も多くなり、そして彼らはピラミッドの建設等をおそらくしていたのでしょう。遂に彼らは天主の命令によって、モーゼの指導の下に、エジプトを脱出します。紅海を渡って、そして砂漠を歩いて、マンナによって養われながら、蜜と乳の溢れる約束の地にまで行こうとするのです。
しかし、ユダヤ人たちは文句を言い出します、「あぁ、エジプトにいた方が良かった。」
「なぜかというと、エジプトにいればおいしい牛肉も食べられたし、面白おかしく遊ぶ事もできたし、しかしここでは、味気のないマンナしかないし、砂漠の中だし、面白おかしくもない、エジプトの方がいい。奴隷生活のほうがいい。もう嫌だ」と。
「喉が渇いた、飲み物が欲しい」と、文句を言います。不平不満を言い出します。
そこでモーゼは天主に祈ると、「何とか助けてほしい」と言うと、「杖を持って、岩を叩けば、水が出てくる、生ける水が流れ出てくる。彼らをそこで飲ませよ」と命令を受けます。ところがモーゼは、それを叩く前にそれを疑って、「本当にこんな石から水が出るものか?」と言いながら打つと、水がたくさん溢れて、人々も家畜も全て、十分飲むほどの水が出るようになります。
もちろんこの「岩」は「イエズス・キリスト」の前兆であって、「生ける水」というのは「洗礼の水」の前兆です、前印です。
将来生ける水として永遠の命に導かれるだろう洗礼の水。
「マンナ」が「御聖体」の前兆であるならば、この「水」は「洗礼の水」の前兆でもありました。
そこで教父たちはこう黙想します、実は私たちも、旧約の時代のユダヤ人たちのように、せっかく罪の、悪魔の支配の下の罪の奴隷状態から解放されて、「洗礼の水」という紅海を渡って、そして天から降る「御聖体」のマンナで養われたにもかかわらず、そして「イエズス様」という雲の柱のような御摂理、愛の御摂理によって導かれながら、あるいは「カトリック教会」というモーゼの指導に従いながら、私たちは天国へと道を歩んでいる。
にもかかわらず、私たちの弱さから、あるいは私たちのよろしくない愛着から、「あぁ、エジプトのような、罪の生活の方がよっぽど面白おかしく楽しかった。」「あぁ、昔の生活に戻ったほうが良い。そうすれば面白おかしく生活できる。ふしだらな生活もできる。自由気ままに生きる事ができる。もっと簡単な生活ができる」と、もしかしたら不平不満を言う人々も、あるいは言う時もあったかもしれません。
「あぁ、もう嫌になってしまった。もうこれ以上この道を歩くのは疲れた。もう面白くない。退屈だ」などと、古代の旧約のユダヤ人たちと同じ不平不満を言うかもしれません。
「あぁ、辛い事ばかりある。面白おかしくできないものか。」
もしかしたら、教会の指導者たちも、その考えに犯されてしまいつつあるのかもしれません。
天主様はこう言います、「あぁ、心配するな。この岩を見よ。カルワリオの丘だ。イエズス・キリストと言う巌だ。そしてこの杖を持って、十字架の杖を持って、これを叩け。この十字架とこの岩が重なる時に、お前たちを癒す、生きる水が出てくる。そうしたら、その喉の渇きは満たされるし、永遠の命まで導かれる」と。
「しかし、あぁ、一体キリストにこの十字架が、一体どうやって水を出す事ができるだろうか?この十字架ではなくて、私が欲しいのは環境問題だ。」あるいは、「エキュメニズムだ、もっと別の話だ」と言うかもしれません、「あぁ、到底これで私たちの問題は解決できない」と思っているかもしれないしません。
しかし天主はまさに、この「十字架」と「キリスト」を通してのみ、私たちに生きる水を与えようとしています。
⑶第3の点は、福音です。これも聖ヨハネがきっとその場に居合わせた事でしょう。聖ヨハネはその場に居合わせとると、「今何時だった」とか、その事をしっかりと覚えていて、生き生きと描写します。「ちょうどこのサマリアの女とイエズス様が会っていたのは、12時頃だった、お昼だ」と書いています。
教父たちによると、あるいは黙想の手引きによると、「このサマリアの女は、私たちの霊魂のようではないか」と。
イエズス様は疲れて、お疲れになって、おそらく十字架の苦しみを思われたのでしょうか、ヤコブの井戸の近くに座っておられますが、「疲れて座っていた」というのは実は、状況がそうさせたのですけれども、イエズス様の本当の目的は、サマリアの罪の女を回心させようとして待っていたのです。
イエズス様はやはり、ヤコブの泉であるミサ聖祭の所においても、罪人、私たちの霊魂が近寄ってくるのを待っておられます。そして私たちに語りかけようとして、待っておられます。
イエズス様が私たちに下さるのは、汚れた、汚い情欲の、あるいは自己満足の、あるいは自分勝手な事をやりたい放題したいという、そのような汚れた水ではなくて、アルプスの、あるいは富士山の麓から流れる、水よりももっときれいな、純粋な、私たちの渇きを、「あぁ、おいしい」と癒してくれる生きる水です。
私たちはこの水を、洗礼の時に受けました。イエズス様だけが癒して下さる事ができるその水。そしてこの水は、イエズス様だけから出る水であって、つまり御聖体からも私たちの元に渾々と与えられます。
イエズス様は私たちに語りかけます、「聖父は、本当の礼拝者を待っている。真理と霊において礼拝する者を待っている。」
つまり、「私たちが、イエズス様のいけにえを私たちのと共に、私たちの十字架と共に捧げる者を待っている」のです。
何故かというと、「真理と霊」というのは、「嘘」ではなくて、「この世の物体的なもの」ではないという事であるからです。
つまり「嘘」というのは、「この世の物体的なものである」というのはつまり、「偶像」の事であって、つまり「偶像化された、私たちの自分勝手な思いや、あるいは自己愛や、自分の勝手に作り出した望み」であって、天主の望みでない、天主の御旨ではないものです。私のやりたい放題にやるという、偶像ではないものを、私たちが捧げる事を望んでおられるという事です。
この言葉は、秋田のマリア様のメッセージを私たちに思い出させます。
イエズス様は私たちにこう言います。「水が欲しい」と。イエズス様は、喉が渇いておられるという事です。
イエズス様はこの同じ事を、十字架上でも仰いました、「私は渇く」と。イエズス様が渇いておられるのは霊魂たちであって、私たちの愛であって、私たちからイエズス様に捧げるいけにえであって、祈りに渇いています。
⑷では私たちは今日、どのような最後の遷善の決心を立てたら良いでしょうか?
この新約のヤコブの泉である聖伝の御ミサ、またイエズス様の十字架の杖と、そしてイエズス様御自身である岩が合わさった、そして水が渾々と湧き出る御恵み、生ける泉、聖寵の御恵みが渾々と湧き出るこのミサ、御聖体、そこから、イエズス様の水を、どうぞたくさん受け取って下さい。
そしてこの私たちもこの水に、霊と真理とを以って礼拝者となる事ができますように、自分を奉献致しましょう。この四旬節をその精神で送る事に致しましょう。
マリア様にお願い致しましょう。私たちがその事を実現できますように。
聖父と聖子と聖霊の御名によりて、アーメン。
聖ピオ十世会司祭 小野田神父説教
聖母の汚れなき御心聖堂にようこそ。今日は2020年3月20日、四旬節第3主日の後の金曜日のミサをしております。
今日、コロナウィルスの影響で、私たちの御聖堂にいらっしゃりたくてもそれができない方がたくさんいらっしゃいます。
また世界中でミサが行なう事ができない場所もたくさんあると聞きました。イタリアとかフランスとか、あるいはスペイン、アメリカ、その他中国、韓国。
そこで今日ぜひ、この私たちのミサが復活祭まで予定通り行なわれますように、それ以後ももちろん予定通り行われますように、また世界中の所でまたミサがちゃんとできるようになりますように、祈りましょう。
このミサの後に御聖体降福式を、短かなものですが、特にマリア様からの祝福を願って、イエズス様からの祝福を願って、御聖体降福式を行ないたいと思っています。どうぞいらして下さい。
また食事の後に、聖週間の簡単な練習と、午後3時頃から、今日は金曜日ですので、十字架の道行きを皆さんとする事を提案します。時間がある方はいらして下さい。
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
愛する兄弟の皆さん、今日この御ミサの中で、民数の書、モーゼに人々がユダヤの民が、「水を欲しい」と言った事と、そして福音では、イエズス様がサマリアの女性に「水を欲しい」と仰った事、そしてこの旧約でも新約でも、「生ける水が与えられる」という史実が、歴史上の事実が語られました。
そこで今日、このミサについて一緒にこの事を黙想する事に致しましょう。
⑴まず今日の1点は、四旬節には毎日のように、指定巡礼教会というものがあります。今日はルチナの聖ラウレンチオ教会ですが、一体、水とどのような関係があるのか?
⑵第2に、旧約聖書のモーゼの話について黙想して、
⑶次に福音の黙想をして、
⑷その次に、今日の遷善の決心を立てる事に致しましょう。
⑴今日は教会は霊的に、指定巡礼教会、ルチナの聖ラウレンチオという所に行きます。この教会は元々3世紀頃、ある「ルチナ」という、「輝く女性」という名前です。「光の女性」という意味ですけれども、その方が造った教会に行きます。
でもこの教会は後に5世紀になると、シクスト3世教皇様がこれを、聖ラウレンチオ殉教者、ローマの殉教者の教会として任命します。そしてここに聖ラウレンチオが焼かれた鉄板・グリルの聖遺物が置かれました。
一体何故かというと、典礼学者は2つ指摘しています。
「一体なぜなのかというと、このルチナの聖ラウレンチオの教会においては、そのすぐ近くには有名な泉があったからだ」と言います。
「そして同時に、ギリシャの伝統によると、サマリアの女性、今日福音に出たサマリアの女性の名前は、『ソティナ』と言う名前で、これは『光の女性』という意味で、『ルチナ』と同じ意味だ。そこでこの教会が選ばれたのだろう」と言います。
⑵そして旧約聖書での話を、史実を、黙想する事に致しましょう。
皆さんもご存知の通り、かつてモーゼの時代にユダヤ人たちは、ファラオの下で奴隷状態でした。太祖ヨゼフによって食べ物を与えられて、そして皆食べ物を食べる為にエジプトに来て、ヤコブとその兄弟たちがエジプトに来て、そしてユダヤ人たちはたくさん増えていきましたが、彼らはエジプト人たちによって圧迫されて、そして奴隷のようにこき使われていました、時代が経つにつれて。
そしてもはやヨゼフの事を忘れる人々の事も多くなり、そして彼らはピラミッドの建設等をおそらくしていたのでしょう。遂に彼らは天主の命令によって、モーゼの指導の下に、エジプトを脱出します。紅海を渡って、そして砂漠を歩いて、マンナによって養われながら、蜜と乳の溢れる約束の地にまで行こうとするのです。
しかし、ユダヤ人たちは文句を言い出します、「あぁ、エジプトにいた方が良かった。」
「なぜかというと、エジプトにいればおいしい牛肉も食べられたし、面白おかしく遊ぶ事もできたし、しかしここでは、味気のないマンナしかないし、砂漠の中だし、面白おかしくもない、エジプトの方がいい。奴隷生活のほうがいい。もう嫌だ」と。
「喉が渇いた、飲み物が欲しい」と、文句を言います。不平不満を言い出します。
そこでモーゼは天主に祈ると、「何とか助けてほしい」と言うと、「杖を持って、岩を叩けば、水が出てくる、生ける水が流れ出てくる。彼らをそこで飲ませよ」と命令を受けます。ところがモーゼは、それを叩く前にそれを疑って、「本当にこんな石から水が出るものか?」と言いながら打つと、水がたくさん溢れて、人々も家畜も全て、十分飲むほどの水が出るようになります。
もちろんこの「岩」は「イエズス・キリスト」の前兆であって、「生ける水」というのは「洗礼の水」の前兆です、前印です。
将来生ける水として永遠の命に導かれるだろう洗礼の水。
「マンナ」が「御聖体」の前兆であるならば、この「水」は「洗礼の水」の前兆でもありました。
そこで教父たちはこう黙想します、実は私たちも、旧約の時代のユダヤ人たちのように、せっかく罪の、悪魔の支配の下の罪の奴隷状態から解放されて、「洗礼の水」という紅海を渡って、そして天から降る「御聖体」のマンナで養われたにもかかわらず、そして「イエズス様」という雲の柱のような御摂理、愛の御摂理によって導かれながら、あるいは「カトリック教会」というモーゼの指導に従いながら、私たちは天国へと道を歩んでいる。
にもかかわらず、私たちの弱さから、あるいは私たちのよろしくない愛着から、「あぁ、エジプトのような、罪の生活の方がよっぽど面白おかしく楽しかった。」「あぁ、昔の生活に戻ったほうが良い。そうすれば面白おかしく生活できる。ふしだらな生活もできる。自由気ままに生きる事ができる。もっと簡単な生活ができる」と、もしかしたら不平不満を言う人々も、あるいは言う時もあったかもしれません。
「あぁ、もう嫌になってしまった。もうこれ以上この道を歩くのは疲れた。もう面白くない。退屈だ」などと、古代の旧約のユダヤ人たちと同じ不平不満を言うかもしれません。
「あぁ、辛い事ばかりある。面白おかしくできないものか。」
もしかしたら、教会の指導者たちも、その考えに犯されてしまいつつあるのかもしれません。
天主様はこう言います、「あぁ、心配するな。この岩を見よ。カルワリオの丘だ。イエズス・キリストと言う巌だ。そしてこの杖を持って、十字架の杖を持って、これを叩け。この十字架とこの岩が重なる時に、お前たちを癒す、生きる水が出てくる。そうしたら、その喉の渇きは満たされるし、永遠の命まで導かれる」と。
「しかし、あぁ、一体キリストにこの十字架が、一体どうやって水を出す事ができるだろうか?この十字架ではなくて、私が欲しいのは環境問題だ。」あるいは、「エキュメニズムだ、もっと別の話だ」と言うかもしれません、「あぁ、到底これで私たちの問題は解決できない」と思っているかもしれないしません。
しかし天主はまさに、この「十字架」と「キリスト」を通してのみ、私たちに生きる水を与えようとしています。
⑶第3の点は、福音です。これも聖ヨハネがきっとその場に居合わせた事でしょう。聖ヨハネはその場に居合わせとると、「今何時だった」とか、その事をしっかりと覚えていて、生き生きと描写します。「ちょうどこのサマリアの女とイエズス様が会っていたのは、12時頃だった、お昼だ」と書いています。
教父たちによると、あるいは黙想の手引きによると、「このサマリアの女は、私たちの霊魂のようではないか」と。
イエズス様は疲れて、お疲れになって、おそらく十字架の苦しみを思われたのでしょうか、ヤコブの井戸の近くに座っておられますが、「疲れて座っていた」というのは実は、状況がそうさせたのですけれども、イエズス様の本当の目的は、サマリアの罪の女を回心させようとして待っていたのです。
イエズス様はやはり、ヤコブの泉であるミサ聖祭の所においても、罪人、私たちの霊魂が近寄ってくるのを待っておられます。そして私たちに語りかけようとして、待っておられます。
イエズス様が私たちに下さるのは、汚れた、汚い情欲の、あるいは自己満足の、あるいは自分勝手な事をやりたい放題したいという、そのような汚れた水ではなくて、アルプスの、あるいは富士山の麓から流れる、水よりももっときれいな、純粋な、私たちの渇きを、「あぁ、おいしい」と癒してくれる生きる水です。
私たちはこの水を、洗礼の時に受けました。イエズス様だけが癒して下さる事ができるその水。そしてこの水は、イエズス様だけから出る水であって、つまり御聖体からも私たちの元に渾々と与えられます。
イエズス様は私たちに語りかけます、「聖父は、本当の礼拝者を待っている。真理と霊において礼拝する者を待っている。」
つまり、「私たちが、イエズス様のいけにえを私たちのと共に、私たちの十字架と共に捧げる者を待っている」のです。
何故かというと、「真理と霊」というのは、「嘘」ではなくて、「この世の物体的なもの」ではないという事であるからです。
つまり「嘘」というのは、「この世の物体的なものである」というのはつまり、「偶像」の事であって、つまり「偶像化された、私たちの自分勝手な思いや、あるいは自己愛や、自分の勝手に作り出した望み」であって、天主の望みでない、天主の御旨ではないものです。私のやりたい放題にやるという、偶像ではないものを、私たちが捧げる事を望んでおられるという事です。
この言葉は、秋田のマリア様のメッセージを私たちに思い出させます。
イエズス様は私たちにこう言います。「水が欲しい」と。イエズス様は、喉が渇いておられるという事です。
イエズス様はこの同じ事を、十字架上でも仰いました、「私は渇く」と。イエズス様が渇いておられるのは霊魂たちであって、私たちの愛であって、私たちからイエズス様に捧げるいけにえであって、祈りに渇いています。
⑷では私たちは今日、どのような最後の遷善の決心を立てたら良いでしょうか?
この新約のヤコブの泉である聖伝の御ミサ、またイエズス様の十字架の杖と、そしてイエズス様御自身である岩が合わさった、そして水が渾々と湧き出る御恵み、生ける泉、聖寵の御恵みが渾々と湧き出るこのミサ、御聖体、そこから、イエズス様の水を、どうぞたくさん受け取って下さい。
そしてこの私たちもこの水に、霊と真理とを以って礼拝者となる事ができますように、自分を奉献致しましょう。この四旬節をその精神で送る事に致しましょう。
マリア様にお願い致しましょう。私たちがその事を実現できますように。
聖父と聖子と聖霊の御名によりて、アーメン。