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Channel: Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた
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イエズスは、御自分が約束されたメシアであるという事を全てを以って証明した

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2020年3月29日(主日)御受難の主日のミサ

聖ピオ十世会司祭 トマス小野田神父 説教
聖母の汚れなき御心聖堂にようこそ。今日は2020年3月29日、御受難の主日です。 今日このミサの退場の歌はありませんが、日本語のいつもの歌はありませんが、司祭はミサの直後、退堂の直前に、諸聖人の連祷を唱えます。特にコロナウィルスの疫病の一刻も早い終息をお祈り致しましょう。
司祭が退場する時には、特別にStella Caeliを歌いましょう。
また今日、ミサの後の感謝の祈りの後に、終課を一緒に歌う事を提案します。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
愛する兄弟の皆さん、今日の指定巡礼教会は、バチカンの丘にある聖ペトロ大聖堂です。ローマ皇帝ネロが、聖ペトロを十字架につけた所です。つまり、キリストの最初の代理者が十字架に付けられた所です。 今日の私たちの黙想は、この典礼に従って、「聖なる方が、最も邪悪な迫害を受けて苦しむ」ということに集中しましょう。今日ミサの典礼に従って、その私たちの黙想を致しましょう。
罪のないイエズス・キリストは、ユダヤの衆議所(サンヘドリン)から憎しみを受けます。イエズスは、御自分を擁護する人々からも、友人たちからも切り離されてしまいます。誰もイエズス様を守る人はいません。
今日の入祭誦は、キリストが御父に向かって、信頼を込めてする祈りです。グロリア(栄唱:栄光唱)は省略されます。
これからイエズス・キリストが捧げようとする犠牲(いけにえ)は、旧約の生け贄の完成です。
聖パウロは書簡の中で、旧約に対して新約がどれほど優位に立っているか、という事を説明します。なぜかというと、旧約と新約の比較をするからです。
旧約では、大司祭が一年に一度、唯一大司祭のみが入る事ができる、エルサレムの神殿の最も奥にある至聖所に入り、罪の赦しのために動物の生け贄の血を祭壇に注いでいた事に言及します。
しかしこれは、新約の大司祭であるイエズス・キリストが、たった一度だけで、全人類のため、アダムの全ての子孫のために、永久の贖いを成し遂げる、という事の前兆に過ぎませんでした。
そして皆さんが今、今日与っているこのミサ聖祭では、カルワリオのこの決定的で完成された同じ唯一の犠牲(いけにえ)が、私たちの眼の前で実現します、再現致します。
トラクトゥスと言われている詠誦では、イエズス様の御誕生の時からすでに、ヘロデから殺害されようとしてきた事を黙想します。「彼らは、私の若い時から、絶えず私に対して戦い続けた。」
そしてその同じ彼らは、その戦いに成功する事ができなかったので、この彼の、イエズス・キリストの背中をむち打ち、茨の冠を押し被らせることになります。「罪びとは私の背中を打ち叩いた。彼らは長らくその悪を続けた。」と。
しかし、悪は続きません、イエズス・キリストは必ず復活します。
キリストと衆議所の対立は、決定的になります。これは公に宣言されます。
イエズス・キリストはもはや排除されて、イスラエルの遺産から除かれます。イエズス様の側に立つ者も、イエズス様の味方をする者は誰であっても、破門されます、非国民扱いにされます、隔離されます、村八分、いじめに遭います。
そのような状況を見て、イエズス様は言います、「自分のうちに誰か罪を見いだす者があるのか?」と。
私たちの主は、ユダヤの衆議所の盲目に対して嘆きます。イエズス様がなさった事は、善であり、福祉であり、善業でした。イエズス様が仰った事は、全て真理であり、預言の成就でした。しかし理由も無く、衆議所は、イエズス・キリストを断罪します。
イエズス様は真理を言い続けます、「私は在る。アブラハムが在ったその時、私は在る。」御自分が天主であることを宣言します、断言します。
オッフェルトリウムと言われる奉献文では、イエズス様の祈りが代弁されます。キリストは、この世の死から逃れるのではなくて、永遠の命・栄光の命に生きることを祈っています。
密唱では、キリストの犠牲によって私たちが、「罪の鎖」から「不義の鎖」から解放されることを祈ります。なぜかというと、「罪を犯す」ということは、本当の自由ではなくて、かえって情念の奴隷状態になっていること、恥ずかしい悪魔の奴隷状態にあることだからです。なぜかというと、罪を犯す人はすべて、罪の奴隷だからです。“Omnis qui facit peccatum, servus est peccati.”
この罪から私たちを解放しようと、イエズス様は喜んで、御自分の身に、私たちの罪の結果、全ての罰を、全ての苦しみを、受けようとされます。
聖体拝領唱では、私たちが御聖体拝領をする時に、新約の犠牲(いけにえ)に参与することが実現する、と歌っています。「これは、あなたたちのための、私の体である。この杯は、私の血における新しい契約である。これを飲むごとに、私の記念として行え。」
私たちはただ単に、御聖体を拝領するだけでは足りません。この御聖体のいけにえに私たちも参加し、私たちのいえにえを交じ合わせなければなりません。戴いた御恵みを使って、イエズス様の御恵みを成長させなければなりません。 ではこのイエズス様の苦しみ、ユダヤの衆議所から受ける迫害を黙想した後に、私たちはどのような遷善の決心をしたらよろしいでしょうか?
私たちは、キリストと衆議所の対立の後ろに、天主とサタンの対立、真理と偽りの対立、善と悪の対立を垣間見ます。私たちは、「キリストの側に付こう」と遷善の決心を立てましょう。
現代では、このキリスト側に付こうとしようとする私たちに、「それでも、悪魔の方にも一緒に同時に付く事ができるのではないか?」と誘惑をしています。悪と善を曖昧に、真理と誤りを曖昧にさせようとする傾向があるのではないでしょうか。キリストの教えと世俗の精神と妥協させようと。
私たちを待っている永遠のことを考えさせずに、あるいは考えずに、永遠に在し給う天主のことを考えずに、人間の世間体、あるいは噂話、あるいは世論を忖度して、それに傷付けないように、むしろ世間体の方を大切にして、イエズス・キリストを蔑ろにしてしまう、天主の真理をうやむやにしてしまう誘惑に満ちています。
しかし、イエズス様の今日の態度を見ると、私たちにこう教えています。「本当の愛徳とは、人々に真理を伝えて永遠の続く命へと、天主の命へと行くことを助けることにある」と。「その為に、時には自分がたとえ理解されなかったとしても、本当のことを言う必要がある時がある」と。もしもそうでなければ、「キリスト教」という名前だけが付いた、実は偽物のキリスト教、世俗主義に陥ってしまうからです。
イエズス様は、御自分が約束されたメシアであるという事を、全てを以って証明しました。預言を成就することによって、奇跡を為すことによって、善を為すことによって、人々に奇跡を以って治癒することによって、あるいはパンの増加の奇跡を以って、あるいは真理の教えてによって。しかし、闇はそれを、真理を光を理解できませんでした。
しかし、イエズス様はこの真理を証明するが為に、その真理が為に、御自分の命を懸けます。御血を流しても、それを証明されます。
私たちもぜひ、イエズス様の側に常に付くことができますように、お祈り致しましょう。そのためにも、常にイエズス様と共に居た、最後まで、十字架の下にまで、最後の最後までもイエズス様と共に居た、マリア様にお祈り致しましょう。
聖母の汚れなき御心の御取り次ぎによって、私たちも常にイエズス様の側に留まりますように。
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。









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