アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様、
ステイ・アット・ホーム(不要不急の外出自粛)を利用して、教皇フランシスコの考えをよく理解するようにしましょう。
私たち、すでに教皇フランシスコの新しさであると同時に、第二バチカン公会議の展開を見て、
さらに、教皇フランシスコの、教皇職を動かす原理・設計図「天主は自分自身を私たちの大地と決定的に一致させた」について考察しました。
「天主は自分自身を大地と決定的に一致させた」という原理から帰結される究極の倫理基準は「大自然と調和している」ことです。この世と「対話」するとは「聞く」ということであり、この世に聴従し、「弟子」として「姉妹」としてこの世に従うということです。
天主に対する信・望・愛、礼拝と救霊について語らず、むしろリサイクルとか森林保全とかについて語るのが、人類の最高権威である教皇の役割なのでしょうか? これは何を意味するのでしょうか?
まず「司祭職」が、この世の「まつりごと」に飲み込まれてしまいます。言い換えると政治的になります。何故なら、超自然の方向性・要素がなくなるからです。天ではなく、大地に向かうからです。全道徳と倫理すべては、大自然と調和していることにあるとされるからです。だから「エコロジカルな回心」が求められています。
ですから、天主が大地と決定的に一致しており、私たちもその大地の一部であるから、資源の再利用をして自然を保全することが、「私たち人間の尊厳を表明する愛の行為」となりうるといわれるのです。
しかし、その時、人間が大自然と全被造物においておかれている特別の場所・地位は忘れられてしまいます。知性と意志の自由決定能力とをもつ特別な理性的存在、ということが忘れ去られます。
また、始原もなく終わりもない天主の超越性も忘れ去られます。いかなる意味でも被造物とは混同されることのなく、被造物をいま、ここに有らしめている天主については、語られません。
人間は、理性を使って、この全自然を超越する天主であるいと高き主を認識し信じ、創造主のみに捧げるべき礼拝を捧げるために、特別に創造されました。自然保護よりももっと更に崇高な理性的存在である人間のみができる行為、これが天主を礼拝することです。
人間だけが、理性を使って、自然を超越する天主を礼拝することができます。理性的存在だけが、天主と人間との間の無限の隔たりを認識するがゆえに、天主が有りて在るものであり、人間が有らしめられて在る無に等しいものであると理解するがゆえに、天主に礼拝を捧げることができます。
天主の御言葉は人となりましたが、それは大地と一致するためではありませんでした。天主御父の御旨(みむね)を果たすためです。「キリストは世にはいるときいわれた。"…そこで私は、"私について巻物に書きしるされてあるとおり、天主よ、私はあなたのみ旨をおこなうために来る"といった。"」(ヘブレオ10章)
人となった天主の御言葉は、私たちに天主に対する絶対従順の模範を示されました。イエズス・キリストの御人性(人間としての本性)は、私たちに礼拝を教える道具となりました。天主に死に至るまで従順であること、しかも十字架の死に至るまで従うことを教えてくれました。イエズス・キリストの存在はその最初の瞬間から十字架の死に至るまで、絶えざる天主御父に対する従順であり、礼拝でした。
人間にとっての最大の悪は、環境汚染でも地球温暖化でもありません。人間にとって最大の悪であり不幸は、罪を犯して天主を侮辱すること、その結果永遠の地獄に堕ちることです。
しかし、エコロジカルな回心はこれの全く反対を私たちに説きます。何故なら、自然を超えるものについて目をそらさせるからです。
目に見えない天主の超越性、自然を超える超越性を認めることができないとき、絶対の超越する天主に対する礼拝は、捧げることができなくなります。
これが道徳基準に適応されると、環境保護と自然保全こそが、天主に対する礼拝や天主の掟の遵守よりも重大なことになってしまいます。エコロジカルである限り、その他のことは何でも許されて当然と考えられる危険があります。
例えば、絶滅危惧種を守るために闘争することが善とする一方で、母の胎内にいる胎児を堕胎したり老人を安楽死させたりするのは問題としなかったり、自然を守ると言いながら自然に反する同性の結合には賛成したり、殺虫剤や化学薬品の使用に絶対反対と言いつつ避妊薬には賛成したり、二酸化炭素の削減のために、子供たちが多い大家族に反対したりすることでしょう。
アマゾン・シノドスの最終文書でも言われたように「青年を神学的場所として認め、また、対話に専心しエコロジーに敏感で「共通の家」に注意深い青年らを "希望の預言者" として認める」とき、教会は、新しい「預言者」たち、新しい「宣教師」たちをすでに認めているのかもしれません。例えば、その中にはまだ16歳にしかならないけれども、全ての国家元首に働きかける使命を天から受けたと信じている人もいるのかもしれません。
その時、天主がモーゼにシナイ山の上で与えた「天主の十戒」とは似て非なる新しい「エコロジカルな十戒」が作り上げられるかもしれません。たとえば、以下は、まったくの想像で書いてみます。
第一 大自然はなんじの主なり。大自然を保全すべし。
第二 なんじ、水も食べ物も電気もプラスチックも紙もみだりに使うなかれ。
第三 なんじ、絶滅危惧種を保護すべきことをおぼゆべし。
第四 なんじ、再生エネルギーの開発を敬うべし。
第五 なんじ、地を汚すなかれ。
第六 なんじ、海・川を汚すなかれ。
第七 なんじ、リサイクルをせずに捨てるなかれ。
第八 なんじ、公共交通機関を使わずに移動するなかれ。
第九 なんじ、ごみの分類をせずに捨てるなかれ。
第十 なんじ、電気・石油の使用をみだりに望むなかれ。
回勅『ラウダート・シ』の「天主は自分自身を私たちの大地と決定的に一致させた」ので「エコロジカルな回心」をしようと、これをそのまま受け入れるところでは、天主への礼拝が、カトリックの信仰生活を送ることが、不可能になってしまいます。
カトリックの信仰生活の道というよりか、新しい道です。「天主の愛は私たちを常にいくつもの新しい道を見出させてくれる。」(回勅『ラウダート・シ』245)
主よ、我らを憐れみ給え!
聖母よ、我らをして、この地が「追放」「逐謫」の場所であると理解させ給え!
聖母よ、我らをして、この地が、つかの間の儚い「涙の谷」であると理解させ給え!
元后あわれみ深き御母、われらの命、慰め、望みなるマリア、
われら逐謫の身なるエワの子なれば、御身にむかいて呼ばわり、この涙の谷に泣き叫びてひたすら仰ぎ望み奉る!
(続く)
愛する兄弟姉妹の皆様、
ステイ・アット・ホーム(不要不急の外出自粛)を利用して、教皇フランシスコの考えをよく理解するようにしましょう。
私たち、すでに教皇フランシスコの新しさであると同時に、第二バチカン公会議の展開を見て、
さらに、教皇フランシスコの、教皇職を動かす原理・設計図「天主は自分自身を私たちの大地と決定的に一致させた」について考察しました。
「天主は自分自身を大地と決定的に一致させた」という原理から帰結される究極の倫理基準は「大自然と調和している」ことです。この世と「対話」するとは「聞く」ということであり、この世に聴従し、「弟子」として「姉妹」としてこの世に従うということです。
天主に対する信・望・愛、礼拝と救霊について語らず、むしろリサイクルとか森林保全とかについて語るのが、人類の最高権威である教皇の役割なのでしょうか? これは何を意味するのでしょうか?
まず「司祭職」が、この世の「まつりごと」に飲み込まれてしまいます。言い換えると政治的になります。何故なら、超自然の方向性・要素がなくなるからです。天ではなく、大地に向かうからです。全道徳と倫理すべては、大自然と調和していることにあるとされるからです。だから「エコロジカルな回心」が求められています。
ですから、天主が大地と決定的に一致しており、私たちもその大地の一部であるから、資源の再利用をして自然を保全することが、「私たち人間の尊厳を表明する愛の行為」となりうるといわれるのです。
しかし、その時、人間が大自然と全被造物においておかれている特別の場所・地位は忘れられてしまいます。知性と意志の自由決定能力とをもつ特別な理性的存在、ということが忘れ去られます。
また、始原もなく終わりもない天主の超越性も忘れ去られます。いかなる意味でも被造物とは混同されることのなく、被造物をいま、ここに有らしめている天主については、語られません。
人間は、理性を使って、この全自然を超越する天主であるいと高き主を認識し信じ、創造主のみに捧げるべき礼拝を捧げるために、特別に創造されました。自然保護よりももっと更に崇高な理性的存在である人間のみができる行為、これが天主を礼拝することです。
人間だけが、理性を使って、自然を超越する天主を礼拝することができます。理性的存在だけが、天主と人間との間の無限の隔たりを認識するがゆえに、天主が有りて在るものであり、人間が有らしめられて在る無に等しいものであると理解するがゆえに、天主に礼拝を捧げることができます。
天主の御言葉は人となりましたが、それは大地と一致するためではありませんでした。天主御父の御旨(みむね)を果たすためです。「キリストは世にはいるときいわれた。"…そこで私は、"私について巻物に書きしるされてあるとおり、天主よ、私はあなたのみ旨をおこなうために来る"といった。"」(ヘブレオ10章)
人となった天主の御言葉は、私たちに天主に対する絶対従順の模範を示されました。イエズス・キリストの御人性(人間としての本性)は、私たちに礼拝を教える道具となりました。天主に死に至るまで従順であること、しかも十字架の死に至るまで従うことを教えてくれました。イエズス・キリストの存在はその最初の瞬間から十字架の死に至るまで、絶えざる天主御父に対する従順であり、礼拝でした。
人間にとっての最大の悪は、環境汚染でも地球温暖化でもありません。人間にとって最大の悪であり不幸は、罪を犯して天主を侮辱すること、その結果永遠の地獄に堕ちることです。
しかし、エコロジカルな回心はこれの全く反対を私たちに説きます。何故なら、自然を超えるものについて目をそらさせるからです。
目に見えない天主の超越性、自然を超える超越性を認めることができないとき、絶対の超越する天主に対する礼拝は、捧げることができなくなります。
これが道徳基準に適応されると、環境保護と自然保全こそが、天主に対する礼拝や天主の掟の遵守よりも重大なことになってしまいます。エコロジカルである限り、その他のことは何でも許されて当然と考えられる危険があります。
例えば、絶滅危惧種を守るために闘争することが善とする一方で、母の胎内にいる胎児を堕胎したり老人を安楽死させたりするのは問題としなかったり、自然を守ると言いながら自然に反する同性の結合には賛成したり、殺虫剤や化学薬品の使用に絶対反対と言いつつ避妊薬には賛成したり、二酸化炭素の削減のために、子供たちが多い大家族に反対したりすることでしょう。
アマゾン・シノドスの最終文書でも言われたように「青年を神学的場所として認め、また、対話に専心しエコロジーに敏感で「共通の家」に注意深い青年らを "希望の預言者" として認める」とき、教会は、新しい「預言者」たち、新しい「宣教師」たちをすでに認めているのかもしれません。例えば、その中にはまだ16歳にしかならないけれども、全ての国家元首に働きかける使命を天から受けたと信じている人もいるのかもしれません。
その時、天主がモーゼにシナイ山の上で与えた「天主の十戒」とは似て非なる新しい「エコロジカルな十戒」が作り上げられるかもしれません。たとえば、以下は、まったくの想像で書いてみます。
第一 大自然はなんじの主なり。大自然を保全すべし。
第二 なんじ、水も食べ物も電気もプラスチックも紙もみだりに使うなかれ。
第三 なんじ、絶滅危惧種を保護すべきことをおぼゆべし。
第四 なんじ、再生エネルギーの開発を敬うべし。
第五 なんじ、地を汚すなかれ。
第六 なんじ、海・川を汚すなかれ。
第七 なんじ、リサイクルをせずに捨てるなかれ。
第八 なんじ、公共交通機関を使わずに移動するなかれ。
第九 なんじ、ごみの分類をせずに捨てるなかれ。
第十 なんじ、電気・石油の使用をみだりに望むなかれ。
回勅『ラウダート・シ』の「天主は自分自身を私たちの大地と決定的に一致させた」ので「エコロジカルな回心」をしようと、これをそのまま受け入れるところでは、天主への礼拝が、カトリックの信仰生活を送ることが、不可能になってしまいます。
カトリックの信仰生活の道というよりか、新しい道です。「天主の愛は私たちを常にいくつもの新しい道を見出させてくれる。」(回勅『ラウダート・シ』245)
主よ、我らを憐れみ給え!
聖母よ、我らをして、この地が「追放」「逐謫」の場所であると理解させ給え!
聖母よ、我らをして、この地が、つかの間の儚い「涙の谷」であると理解させ給え!
元后あわれみ深き御母、われらの命、慰め、望みなるマリア、
われら逐謫の身なるエワの子なれば、御身にむかいて呼ばわり、この涙の谷に泣き叫びてひたすら仰ぎ望み奉る!
(続く)