2020年5月6日(水)霊的秋田巡礼 霊的講話6
聖ピオ十世会司祭 トマス小野田神父
「十字架の荒れ野、沈黙、聖母のたたずむ十字架の足下に行く。マリア様は一体、十字架の足下で何をなさっているのか?」
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
愛する兄弟の皆さん、テレ巡礼を続けましょう。私たちは、沈黙の内の燃えるような愛の主を黙想しました。ゲッセマニの園に一緒に行きました。
これから私たちは別の荒れ野に行きます。ゲッセマニの続きです、十字架の荒れ野、沈黙、十字架の足下に行きましょう。十字架の足下にマリア様は佇んで、立ち留まっていらっしゃいます。
イエズス様とマリア様は、決して離れる事ができません。イエズス様はマリア様を選びました。御自分の母となる為に、第二のエヴァとして、共贖者として、一緒に、共に、十字架のいけにえを捧げる者として。マリア様はこの天主の御旨をご存知でした。永遠の知恵をよくご存知でした。上智の座であられるからです。
イエズス様とマリア様は、どのような事をしても切り離す事ができません。その二つの御心は一致しているからです。分かち難く一致しているからです。
イエズス様の至聖なる聖心の望む事はすなわち、マリア様の汚れなき御心の望む事。マリア様の願いはまさに、イエズス様の願いであるからです。
イエズス様を見るとはすなわち、マリア様を見る事です。
聖マリ・グリニョン・ド・モンフォールの『聖母マリアへの真の信心』の本の中でこう言われています、「マリア様は隠された者である。沈黙の方であって、その存在は知られていない。天使たちはこのマリア様についてこう感嘆する、『この方は一体どなただろうか?』マリア様は天主の御旨によって隠されて、そして知られていない、沈黙の内に置かれてくるけれども、しかし世の終わりには、時の終わりには、私たちにますます、そのマリア様がどなたであるか、という事を私たちに知らせてくれる」と。
マリア様こそ、イエズス様の招きを受けて、一緒に荒れ野に行った特別な霊魂でした。沈黙の内にイエズス様の御言葉を、イエズス様の望みを伝えられた御方でした。マリア様において天主に逆らうもの、天主の妨げとなるもの、妨害するようなものは一切ありませんでした。無原罪の御孕りであるからです。聖寵に充ち満ちた御方であるからです。そしてこの聖寵は、御恵みは、ますます人生の一瞬一瞬大きくなって、増加していきました。
マリア様の望みは一体何でしょうか?沈黙の内のマリア様は、ポロリ、ポロリ、と言葉を話されます。私の記憶が正しければ、5回マリア様は仰います。
「私は主の使い女なり。仰せの如く我になりかし。」マリア様の望みはこれです、「私は主の使い女なり。主の婢女、主の奴隷、主の道具、私に主の御旨がなされますように。」
これは、イエズス様の望みのこだまでなくて一体何でしょうか?
マリア様は後で、主を讃美して、「我が魂は主を崇め奉る。」“マグニフィカト”。あるいは、イエズス様が12歳の時に、イエズス様に向かって、「一体何でこういう事をしたのですか?」と聞いたり、あるいはカナで、「ブドウ酒がありません」と仰ったり、あるいは「このイエズス様の仰る事を、全てあなたはしなさい」と仰ったりします。
しかしそれ以外は、マリア様の御言葉は知られていません。沈黙です。
イエズス様はマリア様の事をよく知っていました。マリア様はいつも、ご自分は「使い女である、主の婢女である」という事を望んでいたので、ご自分を全て天主に与え尽くそうと思っていました。いつも天主と一致していたいと思っていました。この望みによって、天主の御旨を果たしたい、天主と一致したい、天主を喜ばせたい、というその望みによって、自然と被造物から離脱していました。
こうしてマリア様はそのイエズス様の人生の最後に、イエズス様のすぐ傍に佇んでおられます。十字架で立ち留まっておられます。もちろん私たちと同じく、イエズス様と同じく、マリア様に満ちておられた聖寵は、マリア様にとっても十字架の原理でした。贖いの原理でした。これを以ってイエズス様の十字架の伴侶と、共に贖いをする者となりました。
マリア様は、マリア様の十字架の下でのご様子は、私たちとはレベルが違うものでした。レベルが違う、もちろん成聖の愛のレベルが違うというのもそうですけれども、しかしマリア様は特別の御方でした。私たちとは違う方でした。
どのように違うかというと、イエズス様の母として、もしも天主が人となって、その御自分の肉体を、苦しむ事ができるこの肉体を持つ事ができるとしたら、そして死を受ける事ができるとしたら、屠られる事ができるとしたら、それはマリア様によって、その肉体を与えられたからです。マリア様がその御自分が苦しむ事ができるようにしてくれたからです。
私たちはそのようにする事はできません。マリア様はそれができました。マリア様がいてくれたからこそ、イエズス様は私たちの救い主となる事ができました。贖い主になる事ができました。イエズス様は全くマリア様に依存していました。マリア様がいなければ、十字架のいけにえを捧げる事ができないほどでした。
そればかりか、既にイエズス様がまだ子供であった頃、まだ幼い子供であった時から、マリア様はイエズス様の両手をお持ちになって、そして愛を以ってイエズス様を優しく養ったではないでしょうか。あたかも優しい十字架の木であるかのように。
大きくなってイエズス様は、十字架の木に釘付けされますけれども、今度は私たちを、御自分の肉体を以って養おうとされます。
イエズス様は子供の時には、マリア様に自ら近寄ってくっついていました。成人になると十字架に釘付けにされますが、幼い時にはマリア様によって養われていました。
十字架の上に付けられた後には、私たちを養おうとされます。
もしも私たちが十字架を見つけると、必ずマリア様もいらっしゃる事が分かります。私たちがマリア様がいらっしゃる所を見ると、十字架が立っている事が分かります。十字架こそ、私たちの唯一の希望(spes unica)であり、マリア様は聖なる希望の御母(Mater sactae spei)、十字架は立ち止まっています(Stat crux.)けれども、マリア様は十字架の下に立ち留まっています(Stabat Mater juxta crucem.)。
イエズス様はマリア様の御悲しみを与えてしまった方です。イエズス様をご覧になるマリア様は、どれほど悲しまれた事でしょうか。
それと同時にマリア様を御覧になったイエズス様は、その悲しむ御母を見て更に苦しまれます。その苦しむイエズス様をご覧になるマリア様は、更に苦しまれます。イエズス様とマリア様の苦しみは、無限に増加するかのようです。
この二人の苦しみと十字架は、決して分かつ事ができないほど一致しています。愛によって一致しています。
マリア様は一体、十字架の足下で何をなさっているのでしょうか?
マリア様は、十字架を黙ってご覧になっています、愛を以って。マリア様は十字架を愛を以ってご覧になっています。十字架において天主の愛を見ています。マリア様はその愛を見て、ますます天主を愛されようとされます。
マリア様は十字架において、イエズス様の苦しみ、天主の苦しみをご覧になります。そしてその苦しみを見るとますます、ご自分も苦しもうと望まれます。
マリア様は十字架において、イエズス様の平安をも見ます。それを見てマリア様は、苦しみにおいてますます、平安を勝ち取られておられます。
既に私たちは黙想しました、聖金曜日に黙想しましたが、マリア様は最初から、イエズス様の苦しみをできれば自分が苦しみたいと思っていました。
キレネのシモンは、強制的に担げ、イエズス様の「十字架を担げ」と言われて、嫌々ながらしぶしぶ担ぎました。マリア様はそうではありませんでした。どれほどイエズス様の十字架を、イエズス様に代わって一人で担ぎたかった事でしょうか。イエズス様に代わって、もしもできるならば十字架の上で1000回でも、1万回でも死んで、イエズス様を何とかしたいと思った事でしょうか。
母の本能はそうです。どれほどイエズス様を助けたい、イエズス様の身代わりになりたい、イエズス様を何とか、その苦しみを和らげたい、と思った事でしょうか。
あぁ、でもイエズス様を助ける事は天主聖父の御旨ではありませんでした。マリア様はその事をよく知っていました。なぜかというと、沈黙の内に愛を添えて、イエズス様の苦しみと共に自分の苦しみを添えて、共同の贖い者、共贖者とならなければならない、という事を知っていたからです。
ですからマリア様は沈黙に、イエズス様の沈黙に沈黙を添えて、内的な苦しみを捧げていました。どれほどキレネのシモンが羨ましかった事でしょうか。これがマリア様の沈黙です。燃えるような愛の沈黙です。
聖ヴェロニカ、マリア様はどれほどその最初の瞬間から、十字架の道行きのその最初から、行って綺麗な真っ白い布をイエズス様に捧げて、何とかイエズス様を慰めようと、お助けしようと、汗を拭こうと思われた事でしょうか。しかしそれは御旨ではない、という事を知っていました。
マリア様は母性本能に打ち勝ちました。そして沈黙を守りました。苦しみに身を委ねるイエズス様に合わせて、ご自分の苦しみを委ねました。イエズス様の苦しみを望む聖父、その天主が御覧になるのと同じような目で、信仰の目で、マリア様はイエズス様をご覧になっていました。
そして同じ目でマリア様は、十字架の足下に立ち留まっています。イエズス・キリストに対する絶対の信仰と、確信と、信頼を込めて、立ち留まっています。
「イエズス・キリストこそ、この十字架を以って、この屠りを以って、いけにえを以って、全人類を救う。」これを確信していました。
「この十字架の木の実りこそ、全人類を養う」とはっきりと分かっていました。その聖なる希望で満たされていました。
「天主は必ず勝利する。復活の大勝利をする。罪と死と地獄に打ち勝つ。私たち霊魂を救う。」その確信に満ちていました。
イエズス様の持っていた燃えるような沈黙の望み、聖父を讃美し、栄光を帰し、そして霊魂を救いたい、というそれと同じ、全く同じ望みは、マリア様の心に燃えていました、沈黙の内に。マリア様も、イエズス様と共にご自分を捧げました。ご自分を屠られました。苦しみに身を委ねました。憐みの御母は、御憐み御自身であるイエズス様に一致しました。
マリア様はその清らかさ、その純潔さ、その聖なる御方である、という事において、私たちから本当に、私たちの遥か遠くにおられる方ですけれども、私たちの霊的な母として、私たちのすぐ近くにいらっしゃいます。
なぜかというと、イエズス・キリストと共に苦しむ事によって、贖いを成し遂げる事によって、超自然の命を、私たちの為に勝ち取って下さったからです。超自然の命の母となったからです。
もしも私たちが、天国に行く為に成聖の恩寵にいる事ができる事したら、マリア様のおかげです。マリア様がイエズス様と共に苦しんで、産みの苦しみを耐え忍んで下さったからです。マリア様は私たちの本当の母で、私たちはマリア様の本当の霊的な子供です。
ですからマリア様は、私たちの避難所でもあります。罪人の避難所です。ファチマで仰いました、「私の汚れなき御心はあなた方の避難所であり、そして天に導く道である」と。
私たちはどれほど恵まれているでしょうか。このような良き母を持っているという事は、どれほどの大きな御恵みでしょうか。優しい、恵みに溢れた、寛大な慈母を持っているという事は、どれほどの御恵みでしょうか。
マリア様は私たちにイエズス・キリストを与える事しか考えていません。イエズス・キリストの御恵みを伝える事しか望んでいません。私たちに本当の喜びを、永遠の命を与える事しか望んでいません。天主の御母聖マリア。沈黙の天主の御母聖マリアは、やはり沈黙の内に、沈黙の母として、イエズス様の十字架の足下で、燃えるような私たちに対する愛と、天主聖父に対する愛に留まっております。
私たちはこのようなマリア様を、どうして感謝して、どうして讃美したら良いでしょうか?
これは、「私たちがマリア様を、本当の私たちの母であるという事を認める」事です。マリア様に「母として行動して下さい」と、マリア様が私たちの母であるという事をいわば許可する事です。「そうして下さい」とお願いする事です。「私たちがマリア様の良き子供であろうと努める」事です。そして「マリア様と共に、私たちの沈黙と、愛と、私たちの存在、私たちの人生全てを、マリア様と共にイエズス様に捧げる」事です。
マリア様とイエズス様は決して離れる事がありません。「マリア様」と言ういわば十字架に、子供の頃から両手を任せたイエズス様。マリア様にイエズス様が付いているのか、イエズス様にマリア様が付いているのか、二人は一つになっています。
それと同じように私たちも、イエズス様とマリア様の十字架に身を付ける事に致します、御恵みによって。
マリア様は秋田でこう仰います、「世の多くの人々は、主を悲しませております。私は主を慰める者を望んでおります。天の御父の御怒りを和らげる為に、罪人や忘恩者に代わって苦しみ、貧しさを以ってこれを償う霊魂を、御子と共に望んでおります。」
マリア様とイエズス様と共に、私たちの苦しみと十字架を捧げて、御父を慰める、これを望んでおられます。マリア様のように、マリア様に倣う事によって、私たちの霊魂にも天主の御国が支配しなければなりません。天主の御国が来なければなりません。到来しなければなりません。天主の御旨が私たちにおいて為されなければなりません、御恵みによって。このこれは御恵みです、この御恵みをお祈り致しましょう、与えられますように。
十字架の苦しみの最後に、イエズス様は更なる沈黙がありました。
墓に葬られました。全くこの世から切り離されて、全く閉ざされて、新しい墓に葬られました。それは栄光ある復活を待つ為です。聖パウロは言います、「私たちはキリストと共に葬られた者である。洗礼を受ける時にちょうど水を受けて、あたかも葬られたかのように、しかしキリスト共に復活した者である」と。私たちも、イエズス・キリストと共に隠されて、沈黙の内に生きる事ができるように。
ところで、墓に葬られる前に、もっと素晴らしい墓にイエズス様は置かれました。ミケランジェロの有名な『ピエタ』という彫刻があります。新しい墓、童貞なる墓マリア様の元に、イエズス様はまず抱かれました。私たちも行くべき墓は、沈黙のこの世からの離脱は、マリア様です。
私たちのこの人生、短い人生ですけれども、儚い人生ですけれども、それはイエズス様と一致する為に、イエズス様の十字架と一致する為に与えられました。私たちがマリア様を讃美する、感謝する最も良い方法は、「マリア様の御助けによって、私たちの霊魂にイエズス様の十字架が刻まれる」という事です。この御恵みを願いましょう。
そして、このテレ巡礼がたとえ終わったとしても、荒れ野に、マリア様の元に、沈黙の内に、この巡礼を続けましょう。イエズス様の十字架の御元に、マリア様と共に佇みましょう、御恵みによって。
そして愛する兄弟の皆さん、皆さんのしもべである私の為にも、お祈り下さい。
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
霊的秋田巡礼 「十字架の元に沈黙のうちにマリア様が思い祈られたこと」 霊的講話6
聖ピオ十世会司祭 トマス小野田神父
「十字架の荒れ野、沈黙、聖母のたたずむ十字架の足下に行く。マリア様は一体、十字架の足下で何をなさっているのか?」
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
愛する兄弟の皆さん、テレ巡礼を続けましょう。私たちは、沈黙の内の燃えるような愛の主を黙想しました。ゲッセマニの園に一緒に行きました。
これから私たちは別の荒れ野に行きます。ゲッセマニの続きです、十字架の荒れ野、沈黙、十字架の足下に行きましょう。十字架の足下にマリア様は佇んで、立ち留まっていらっしゃいます。
イエズス様とマリア様は、決して離れる事ができません。イエズス様はマリア様を選びました。御自分の母となる為に、第二のエヴァとして、共贖者として、一緒に、共に、十字架のいけにえを捧げる者として。マリア様はこの天主の御旨をご存知でした。永遠の知恵をよくご存知でした。上智の座であられるからです。
イエズス様とマリア様は、どのような事をしても切り離す事ができません。その二つの御心は一致しているからです。分かち難く一致しているからです。
イエズス様の至聖なる聖心の望む事はすなわち、マリア様の汚れなき御心の望む事。マリア様の願いはまさに、イエズス様の願いであるからです。
イエズス様を見るとはすなわち、マリア様を見る事です。
聖マリ・グリニョン・ド・モンフォールの『聖母マリアへの真の信心』の本の中でこう言われています、「マリア様は隠された者である。沈黙の方であって、その存在は知られていない。天使たちはこのマリア様についてこう感嘆する、『この方は一体どなただろうか?』マリア様は天主の御旨によって隠されて、そして知られていない、沈黙の内に置かれてくるけれども、しかし世の終わりには、時の終わりには、私たちにますます、そのマリア様がどなたであるか、という事を私たちに知らせてくれる」と。
マリア様こそ、イエズス様の招きを受けて、一緒に荒れ野に行った特別な霊魂でした。沈黙の内にイエズス様の御言葉を、イエズス様の望みを伝えられた御方でした。マリア様において天主に逆らうもの、天主の妨げとなるもの、妨害するようなものは一切ありませんでした。無原罪の御孕りであるからです。聖寵に充ち満ちた御方であるからです。そしてこの聖寵は、御恵みは、ますます人生の一瞬一瞬大きくなって、増加していきました。
マリア様の望みは一体何でしょうか?沈黙の内のマリア様は、ポロリ、ポロリ、と言葉を話されます。私の記憶が正しければ、5回マリア様は仰います。
「私は主の使い女なり。仰せの如く我になりかし。」マリア様の望みはこれです、「私は主の使い女なり。主の婢女、主の奴隷、主の道具、私に主の御旨がなされますように。」
これは、イエズス様の望みのこだまでなくて一体何でしょうか?
マリア様は後で、主を讃美して、「我が魂は主を崇め奉る。」“マグニフィカト”。あるいは、イエズス様が12歳の時に、イエズス様に向かって、「一体何でこういう事をしたのですか?」と聞いたり、あるいはカナで、「ブドウ酒がありません」と仰ったり、あるいは「このイエズス様の仰る事を、全てあなたはしなさい」と仰ったりします。
しかしそれ以外は、マリア様の御言葉は知られていません。沈黙です。
イエズス様はマリア様の事をよく知っていました。マリア様はいつも、ご自分は「使い女である、主の婢女である」という事を望んでいたので、ご自分を全て天主に与え尽くそうと思っていました。いつも天主と一致していたいと思っていました。この望みによって、天主の御旨を果たしたい、天主と一致したい、天主を喜ばせたい、というその望みによって、自然と被造物から離脱していました。
こうしてマリア様はそのイエズス様の人生の最後に、イエズス様のすぐ傍に佇んでおられます。十字架で立ち留まっておられます。もちろん私たちと同じく、イエズス様と同じく、マリア様に満ちておられた聖寵は、マリア様にとっても十字架の原理でした。贖いの原理でした。これを以ってイエズス様の十字架の伴侶と、共に贖いをする者となりました。
マリア様は、マリア様の十字架の下でのご様子は、私たちとはレベルが違うものでした。レベルが違う、もちろん成聖の愛のレベルが違うというのもそうですけれども、しかしマリア様は特別の御方でした。私たちとは違う方でした。
どのように違うかというと、イエズス様の母として、もしも天主が人となって、その御自分の肉体を、苦しむ事ができるこの肉体を持つ事ができるとしたら、そして死を受ける事ができるとしたら、屠られる事ができるとしたら、それはマリア様によって、その肉体を与えられたからです。マリア様がその御自分が苦しむ事ができるようにしてくれたからです。
私たちはそのようにする事はできません。マリア様はそれができました。マリア様がいてくれたからこそ、イエズス様は私たちの救い主となる事ができました。贖い主になる事ができました。イエズス様は全くマリア様に依存していました。マリア様がいなければ、十字架のいけにえを捧げる事ができないほどでした。
そればかりか、既にイエズス様がまだ子供であった頃、まだ幼い子供であった時から、マリア様はイエズス様の両手をお持ちになって、そして愛を以ってイエズス様を優しく養ったではないでしょうか。あたかも優しい十字架の木であるかのように。
大きくなってイエズス様は、十字架の木に釘付けされますけれども、今度は私たちを、御自分の肉体を以って養おうとされます。
イエズス様は子供の時には、マリア様に自ら近寄ってくっついていました。成人になると十字架に釘付けにされますが、幼い時にはマリア様によって養われていました。
十字架の上に付けられた後には、私たちを養おうとされます。
もしも私たちが十字架を見つけると、必ずマリア様もいらっしゃる事が分かります。私たちがマリア様がいらっしゃる所を見ると、十字架が立っている事が分かります。十字架こそ、私たちの唯一の希望(spes unica)であり、マリア様は聖なる希望の御母(Mater sactae spei)、十字架は立ち止まっています(Stat crux.)けれども、マリア様は十字架の下に立ち留まっています(Stabat Mater juxta crucem.)。
イエズス様はマリア様の御悲しみを与えてしまった方です。イエズス様をご覧になるマリア様は、どれほど悲しまれた事でしょうか。
それと同時にマリア様を御覧になったイエズス様は、その悲しむ御母を見て更に苦しまれます。その苦しむイエズス様をご覧になるマリア様は、更に苦しまれます。イエズス様とマリア様の苦しみは、無限に増加するかのようです。
この二人の苦しみと十字架は、決して分かつ事ができないほど一致しています。愛によって一致しています。
マリア様は一体、十字架の足下で何をなさっているのでしょうか?
マリア様は、十字架を黙ってご覧になっています、愛を以って。マリア様は十字架を愛を以ってご覧になっています。十字架において天主の愛を見ています。マリア様はその愛を見て、ますます天主を愛されようとされます。
マリア様は十字架において、イエズス様の苦しみ、天主の苦しみをご覧になります。そしてその苦しみを見るとますます、ご自分も苦しもうと望まれます。
マリア様は十字架において、イエズス様の平安をも見ます。それを見てマリア様は、苦しみにおいてますます、平安を勝ち取られておられます。
既に私たちは黙想しました、聖金曜日に黙想しましたが、マリア様は最初から、イエズス様の苦しみをできれば自分が苦しみたいと思っていました。
キレネのシモンは、強制的に担げ、イエズス様の「十字架を担げ」と言われて、嫌々ながらしぶしぶ担ぎました。マリア様はそうではありませんでした。どれほどイエズス様の十字架を、イエズス様に代わって一人で担ぎたかった事でしょうか。イエズス様に代わって、もしもできるならば十字架の上で1000回でも、1万回でも死んで、イエズス様を何とかしたいと思った事でしょうか。
母の本能はそうです。どれほどイエズス様を助けたい、イエズス様の身代わりになりたい、イエズス様を何とか、その苦しみを和らげたい、と思った事でしょうか。
あぁ、でもイエズス様を助ける事は天主聖父の御旨ではありませんでした。マリア様はその事をよく知っていました。なぜかというと、沈黙の内に愛を添えて、イエズス様の苦しみと共に自分の苦しみを添えて、共同の贖い者、共贖者とならなければならない、という事を知っていたからです。
ですからマリア様は沈黙に、イエズス様の沈黙に沈黙を添えて、内的な苦しみを捧げていました。どれほどキレネのシモンが羨ましかった事でしょうか。これがマリア様の沈黙です。燃えるような愛の沈黙です。
聖ヴェロニカ、マリア様はどれほどその最初の瞬間から、十字架の道行きのその最初から、行って綺麗な真っ白い布をイエズス様に捧げて、何とかイエズス様を慰めようと、お助けしようと、汗を拭こうと思われた事でしょうか。しかしそれは御旨ではない、という事を知っていました。
マリア様は母性本能に打ち勝ちました。そして沈黙を守りました。苦しみに身を委ねるイエズス様に合わせて、ご自分の苦しみを委ねました。イエズス様の苦しみを望む聖父、その天主が御覧になるのと同じような目で、信仰の目で、マリア様はイエズス様をご覧になっていました。
そして同じ目でマリア様は、十字架の足下に立ち留まっています。イエズス・キリストに対する絶対の信仰と、確信と、信頼を込めて、立ち留まっています。
「イエズス・キリストこそ、この十字架を以って、この屠りを以って、いけにえを以って、全人類を救う。」これを確信していました。
「この十字架の木の実りこそ、全人類を養う」とはっきりと分かっていました。その聖なる希望で満たされていました。
「天主は必ず勝利する。復活の大勝利をする。罪と死と地獄に打ち勝つ。私たち霊魂を救う。」その確信に満ちていました。
イエズス様の持っていた燃えるような沈黙の望み、聖父を讃美し、栄光を帰し、そして霊魂を救いたい、というそれと同じ、全く同じ望みは、マリア様の心に燃えていました、沈黙の内に。マリア様も、イエズス様と共にご自分を捧げました。ご自分を屠られました。苦しみに身を委ねました。憐みの御母は、御憐み御自身であるイエズス様に一致しました。
マリア様はその清らかさ、その純潔さ、その聖なる御方である、という事において、私たちから本当に、私たちの遥か遠くにおられる方ですけれども、私たちの霊的な母として、私たちのすぐ近くにいらっしゃいます。
なぜかというと、イエズス・キリストと共に苦しむ事によって、贖いを成し遂げる事によって、超自然の命を、私たちの為に勝ち取って下さったからです。超自然の命の母となったからです。
もしも私たちが、天国に行く為に成聖の恩寵にいる事ができる事したら、マリア様のおかげです。マリア様がイエズス様と共に苦しんで、産みの苦しみを耐え忍んで下さったからです。マリア様は私たちの本当の母で、私たちはマリア様の本当の霊的な子供です。
ですからマリア様は、私たちの避難所でもあります。罪人の避難所です。ファチマで仰いました、「私の汚れなき御心はあなた方の避難所であり、そして天に導く道である」と。
私たちはどれほど恵まれているでしょうか。このような良き母を持っているという事は、どれほどの大きな御恵みでしょうか。優しい、恵みに溢れた、寛大な慈母を持っているという事は、どれほどの御恵みでしょうか。
マリア様は私たちにイエズス・キリストを与える事しか考えていません。イエズス・キリストの御恵みを伝える事しか望んでいません。私たちに本当の喜びを、永遠の命を与える事しか望んでいません。天主の御母聖マリア。沈黙の天主の御母聖マリアは、やはり沈黙の内に、沈黙の母として、イエズス様の十字架の足下で、燃えるような私たちに対する愛と、天主聖父に対する愛に留まっております。
私たちはこのようなマリア様を、どうして感謝して、どうして讃美したら良いでしょうか?
これは、「私たちがマリア様を、本当の私たちの母であるという事を認める」事です。マリア様に「母として行動して下さい」と、マリア様が私たちの母であるという事をいわば許可する事です。「そうして下さい」とお願いする事です。「私たちがマリア様の良き子供であろうと努める」事です。そして「マリア様と共に、私たちの沈黙と、愛と、私たちの存在、私たちの人生全てを、マリア様と共にイエズス様に捧げる」事です。
マリア様とイエズス様は決して離れる事がありません。「マリア様」と言ういわば十字架に、子供の頃から両手を任せたイエズス様。マリア様にイエズス様が付いているのか、イエズス様にマリア様が付いているのか、二人は一つになっています。
それと同じように私たちも、イエズス様とマリア様の十字架に身を付ける事に致します、御恵みによって。
マリア様は秋田でこう仰います、「世の多くの人々は、主を悲しませております。私は主を慰める者を望んでおります。天の御父の御怒りを和らげる為に、罪人や忘恩者に代わって苦しみ、貧しさを以ってこれを償う霊魂を、御子と共に望んでおります。」
マリア様とイエズス様と共に、私たちの苦しみと十字架を捧げて、御父を慰める、これを望んでおられます。マリア様のように、マリア様に倣う事によって、私たちの霊魂にも天主の御国が支配しなければなりません。天主の御国が来なければなりません。到来しなければなりません。天主の御旨が私たちにおいて為されなければなりません、御恵みによって。このこれは御恵みです、この御恵みをお祈り致しましょう、与えられますように。
十字架の苦しみの最後に、イエズス様は更なる沈黙がありました。
墓に葬られました。全くこの世から切り離されて、全く閉ざされて、新しい墓に葬られました。それは栄光ある復活を待つ為です。聖パウロは言います、「私たちはキリストと共に葬られた者である。洗礼を受ける時にちょうど水を受けて、あたかも葬られたかのように、しかしキリスト共に復活した者である」と。私たちも、イエズス・キリストと共に隠されて、沈黙の内に生きる事ができるように。
ところで、墓に葬られる前に、もっと素晴らしい墓にイエズス様は置かれました。ミケランジェロの有名な『ピエタ』という彫刻があります。新しい墓、童貞なる墓マリア様の元に、イエズス様はまず抱かれました。私たちも行くべき墓は、沈黙のこの世からの離脱は、マリア様です。
私たちのこの人生、短い人生ですけれども、儚い人生ですけれども、それはイエズス様と一致する為に、イエズス様の十字架と一致する為に与えられました。私たちがマリア様を讃美する、感謝する最も良い方法は、「マリア様の御助けによって、私たちの霊魂にイエズス様の十字架が刻まれる」という事です。この御恵みを願いましょう。
そして、このテレ巡礼がたとえ終わったとしても、荒れ野に、マリア様の元に、沈黙の内に、この巡礼を続けましょう。イエズス様の十字架の御元に、マリア様と共に佇みましょう、御恵みによって。
そして愛する兄弟の皆さん、皆さんのしもべである私の為にも、お祈り下さい。
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
霊的秋田巡礼 「十字架の元に沈黙のうちにマリア様が思い祈られたこと」 霊的講話6
霊的秋田巡礼_「十字架の元に沈黙のうちにマリア様が思い祈られたこと」 霊的講話6 - Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた
アヴェ・マリア・インマクラータ!愛する兄弟姉妹の皆様、霊的に秋田巡礼に参加することで霊的にマリア様のみもとに参りましょう。
霊的秋田巡礼_「十字架の元に沈黙のうちにマリア様が思い祈られたこと」 霊的講話6 - Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた