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司教聖別二十五周年に際しての宣言(二〇一三年六月二十七日) 日本語訳

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アヴェ・マリア!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 こんにちは! 司教聖別二十五周年に際しての宣言の日本語訳ができあがりました。翻訳の原稿はすでに7月4日に完成していました。遅れてしまいましたが、愛する兄弟姉妹の皆様にご紹介いたします。この日本語訳を作って下さった方には感謝を申し上げます!

 天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


司教聖別二十五周年に際しての宣言
(一九八八年六月三十日〜二〇一三年六月二十七日)

二〇一三年六月二十七日


1- 司教聖別二十五周年に際し、聖ピオ十世会司教三名は、ルフェーブル大司教とアントニオ・デ・カストロ・マイヤー司教に対して、一九八八年六月三十日、両名が恐れることなく執り行った英雄的行為に対して、荘厳に自らの感謝の念を表明することを切望する。三司教は特に、教会と教皇に長年に渡って仕え続けたのち、信仰とカトリック司祭職の擁護のため、不従順という不当な非難を耐え忍ぶことを躊躇しなかった尊敬すべき創立者に対して、子としての感謝の念を表明したいと思う。

2- 司教聖別の前、大司教は私たちにあてた書簡の中でこのように述べている。「私は、あなた方に懇願します。信仰告白の中で、トリエント公会議による公教要理の中で、表明されているとおりの完璧なカトリック信仰において、神学校であなた方が教えられたことに合致して、ペトロの座、全ての[地方]教会の母であり教師であるローマ教会に愛着し続けることを、あなた方に懇願します。聖主の統治の来たらんがため、この信仰を伝え続けることに忠実にとどまりなさい。」この一節こそが、実に、大司教がなした行為の深い理由を表明している。「御国の来たらんことを adveniat regnum tuum!」

3- 教会を破壊しつつある憂慮すべき重大な誤謬の原因は、公会議諸文書の悪質な解釈──つまり「継続における改革の解釈学」と対立するものとされる「断絶の解釈学」──にではなく、むしろ、第二バチカン公会議によってなされた前例のない選択により、真実に、諸文書そのもののにあると私たちは断言する。この選択はその諸文書とその精神の中に明らかにある。それは「世俗の天主なき人間主義」(l'humanisme laique et profane)に直面し、つまり「自らを天主となす人間の宗教───なぜならそれも一つの宗教ですから───」に直面し、「人となった天主」の啓示を唯一守護する教会は、自分の「新しい人間中心主義」を「私たちも、私たちもだれにもまして人間を礼讚する(le culte de l'homme)」(一九六五年十二月七日、パウロ六世による閉幕の挨拶)と述べることで、現代世界に知らしめることを望んだ。だが、天主の崇敬と人間の崇敬との共存は、根本的にカトリック信仰に反している。カトリック信仰は私たちに、唯一のまことの天主と、そのおんひとり子なるイエズス・キリスト、「神性のみちみちたものが、すべて、体の形をとってやどっている」(コロサイ二章九節)お方のみに対し排他的に最高の崇敬と至上の地位とを与えることを教えている。

4- 私たちは、他の公会議と比較し得ないこの公会議、単に司牧的なものにとどまり、教義的であることを欲しなかったこの公会議は、教会内にこれまでに前例のない新種の、聖伝に由来しない教導職を始動せしめたのだと、真実に意見を述べざるを得ない。すなわち、カトリック教義を自由主義思想と和解させようと決意し、偽りの生ける聖伝という概念にしたがった、主観主義と、(生命的)内在論と、恒久的進化論という近代主義的観念に染まり、教会の教導職の本性と中身と役割と行使とを損なっている。

5- これ以降、「私には、天と地との一切の権威が与えられている」(マテオ二十八章十八節)というキリストのみことばが依然として絶対的真実であり絶対的現実であるという事実にも関わらず、キリストの統治は、もはや教会当局の最大関心事ではない。行動においてこれらを否むことは、実践上、聖主の天主性をもはや認めないことである。従って、第二バチカン公会議のために、人間社会の上に及ぶキリストの主権はまったく無視されかつ反対されてすらおり、教会は、特に信教の自由、エキュメニズム、司教団体主義(*)、また新しいミサにおいて明らかである、この自由主義精神に染まっている。

6- 『信教の自由に関する宣言』によって示され、過去五十年にわたってその実際上の適用されたままの信教の自由は、必然的に、「人となられた天主」が「自らを天主とする人間」の上にその統治を及ぼすことを放棄するように要求し、このことはキリストを解体することと等しい。私たちの主イエズス・キリストが持つ現実の権能への堅固な信仰によって息吹を受けた行動の代わりに、私たちは以下のことを見ている、すなわち、教会が恥ずべきことに人間的な賢明さによって導かれ、しかもフリーメーソンのロッジが教会に譲歩することを望むこと以外は何も要求しないという自己疑念を持っていることを。すなわち、教会がもはやあえて偽りであると言わなくなった他の諸宗教の中で、それと同じレベルにおいて、教会は[真理のみが有することのできる特権ではなく]どの宗教にも適応される共通法以外を何も要求していない。

7- 至るところに存在するエキュメニズム(『エキュメニズムに関する教令』)とむなしい諸宗教の対話(『キリスト教以外の諸宗教に対する教会の態度についての宣言』)との名のもとに、唯一のまことの教会についての真理は沈黙させられている。また、聖職者と信者の大部分は、もはや、私たちの主イエズス・キリストとカトリック教会において、救霊の唯一無二の道であるとは見ておらず、偽りの諸宗教の信奉者たちを唯一の真理についてむしろ無知なままにしておきつつ、彼らを回心させることを放棄してしまっている。このエキュメニズムは、こうして文字通り教会の宣教精神を殺したのである。偽りの一致を模索しつつ、教会の使命を非常にしばしば、純粋に地上的平和のメッセージ、及び世界における貧困の緩和という人道主義の役割のメッセージを伝達するのみという使命に縮小させ、その結果、教会を諸々の国際組織に倣って位置づけている。

8- 聖主が天主であることに対する信仰を弱めることは、団体主義と、平等主義と、民主主義との精神の導入により(『教会憲章』)、教会において権威の一致を解体させることを促進させている。キリストはもはや、そこからすべてが流れ出る頭ではなく、とりわけ権威の行使がそこから流れ出る頭ではない。教皇は自分の権威の十全をもはや効果的に行使しせず、そして司教たちは──第一バチカン公会議の教えに反して──団体的にかつ恒常的に最高権力の充満を分かちあっていると考えており、教皇と司教らとは、結果として、司祭らともに、新しい主権である「天主の民」に聞き従うことを自らに課している。これは、権威の破壊を、従ってキリスト教的制度である家庭、神学校、修道会の荒廃を意味している。

9- 一九六九年に公布された新ミサは、キリストが十字架より統治し給う("regnavit a ligno Deus")という肯定を貶めている。実に、この典礼様式そのものが、聖体の犠牲が生贄であり宥めの本性を持っていることを弱め、覆い隠している。この新しい典礼の下に隠れているものは、過ぎ越しの神秘という新しい偽りの神学である。新しい典礼と新しい神学の双方は、聖主がカルワリオでの犠牲の上に打ち立てたカトリックの霊性を破壊している。このミサには、エキュメニカルかつプロテスタントの精神、民主的かつ人間中心主義の精神が浸透しており、十字架の生贄を空洞化している。この新しいミサは、司祭の秘跡的司祭職を弱体化させる「洗礼を受けた者らの共通司祭職」という新たな概念を描き出している。

10- 五十年後の現在、[教会を破壊している]この原因の数々は根強く存続し、なおも同じ影響を生み出している。それ故に、今日でもなおかつ司教聖別はその完全な正当性を保っている。ルフェーブル大司教を導いたのは、そしてその後継者らを導いているのは、教会への愛であった。「カトリック司祭職をそのすべての教義の純粋性と宣教者の愛徳のうちにおいて伝える」(ルフェーブル大司教著『霊魂の旅路』)という同じ渇望であり、この渇望は、聖ピオ十世会が、ローマ当局に対し、教義と道徳と典礼とに関する聖伝の宝をふたたび取り戻すことを断固として要求する時、教会への奉仕において聖ピオ十世会を動かしているものである。

11- この教会への愛は、ルフェーブル大司教が常に遵守していた法則を説き明かしている。すなわち、あらゆる状況において、み摂理に先駆けることを許さず、み摂理に付き従うこと、である。私たちも同じことを行うつもりである。すなわち、ローマがまもなく聖伝と永遠の信仰に戻る時──これは教会内に秩序を再建するだろう──あるいは、私たちが信仰を完全に告白し、これに反する誤謬を拒絶する権利、さらに誤謬と誤謬の支持者らが何者であれ、これらに公に反対する私たちの権利と義務とをローマが明確に認める時に──これは秩序の再建のはじめとなるだろう──。それを待ちながら、教会内で破壊を続けているこの危機に直面して、私たちはカトリック聖伝の擁護を忍耐強く続け、「地獄の門はこれに勝たざるべし」(マテオ十六章十八節)と信仰の確実さによって私たちが知っているが故に、私たちの希望はそのまま完全に残る。

12- 私たちは、司教職において敬愛する霊父の戒めに従うつもりである。曰く「愛する友人たちよ、天と地におけるイエズス・キリストの凱旋と栄光とのため、キリストにおける私の慰めとなり、信仰において堅固なままでおり、ミサの真の犠牲と、聖主のまことの聖なる司祭職とに忠実であるように」(司教たちへの手紙)。願わくは聖三位一体の天主が、マリアのけがれなき御心のおん取り次ぎにより、私たちが拝命した司教職、天主の名誉のため、教会の凱旋と霊魂の救いとのために行使せんと望む司教職に忠実なる恩寵を私たちに賜らんことを。


二〇一三年六月二十七日、絶えざるおん助けの聖母の祝日に。エコンにて。

ベルナール・フェレー司教
ベルナール・ティシエ・ド・マルレ司教
アルフォンソ・デ・ガラレタ司教

フランス語原文

英語訳


訳者注(*) 司教団体主義という訳語について

 司教団体主義とは、collegialitas の訳である。何故「司教団体主義」という訳をつけたかというと、第二バチカン公会議の collegialitas, collegiality, collegialité は、教会憲章 第3章 教会の聖職位階制度、特に司教職について(§§18 - 29) の中にある表現に由来しているからである。

 教会憲章によると、イエズス・キリストは12使徒たちを「使徒団」という団体(collegium)として制定し、それと同じように「司教団」がこれを継承するという。そこで一般には、世界中の司教たちは「使徒団」の継承として「司教らの団体」を構成し、「司教団(Collegium Episcoporum)は、かしらとともに普遍教会に対する最高かつ十全な権限の主体として存在し、そのかしらなしには決して存在し得ない」(新教会法典336条)とされるようになった。教会憲章による主張は、司教聖別を受けることによって自動的に司教団の中に組み込まれ、司教は、司教聖別と同時に教皇が望もうが望むまいが、司教団の一員として裁治権上の権能を受け取ることと理解されるようになった。

 これに反して、聖伝によれば、教皇のみが普遍教会に対する最高かつ十全な権限・権能の唯一の主体であり、最高権力は、教皇によって、教皇の望みのままに(ad nutum)、伝えられる場合のみ、団体的なものとなる(たとえば公会議の時)。聖伝によれば、天主から与えられた制度としてキリストの教会は君主制であり、「司教団体制」をとっていない。また、教会を統治する裁治権は教皇が司教に伝えるのであって、司教聖別を受けることによって司教が裁治権を自動的に受けるものではない。そこで、第二バチカン公会議の文章でも使われている「司教聖別」という言い方は司教を作ることであるが、「叙階」ではなく「司教聖別」というこの表現は、叙階による聖職の位階秩序とは区別されたものとしての裁治権の位階秩序は教皇によって与えられることを暗に示していた。

 教会憲章§19にはこうある。「主イエズスは聖父に祈った後、自分が望んだ人たちを自分のもとに招き、自分の伴侶とするため、また天主の国の宣教に送るために、12人を任命した(cfr. Marc 3, 13-19; Matth. 10, 1-42)。主はこの使徒たちを(cfr. Luc 6, 13)、団体、すなわち永続的な集団の形に(ad modum collegii seu coetus stabilis)制定し、彼らの中からペトロを選んでその頭とした (cfr. Io. 21, 15-17)。[…] 」

(§22)「主の制定によって 、聖ペトロと他の使徒たちとが一つの使徒団体(unum Collegium apostolicum)を構成しているのと同じように 、ペトロの後継者であるローマ教皇と使徒たちの後継者である司教たちとは、互いに結ばれている。[…]秘跡的聖別の力によって、また司教団体の頭ならびに構成員との(cum Collegii Capite atque membris)位階的交わりによって、人は司教団の一員となる 。 しかし、司教団体すなわち司教団は(Collegium autem seu corpus Episcoporum)、ペトロの後継者であるローマ教皇をその頭として一致したもの 、また牧者も信者も含めた全ての人に対する教皇の首位権は完全に 存続するもの、と考えるのでなければ、権威を持つことはない。[…] 」

 (ラテン語は次にある。LUMEN GENTIUM

 第二バチカン公会議の collegialitas の日本語訳語としては、その要素と語源である collegium「団体」の元の意味を保持することが大切である。そこで司教団体主義、あるいは単に団体主義と訳す。私はかつて、誤った司教団制度 (collegialité) と訳したこともある。

 さて、普通であれば「-tas」は「 -性」と訳される。collegialitas を「司教団体性」と訳すこともできるが、意味の上から、司教たちが団体として教会の最高の権力を持っているという主張であって、そのような本性上の性格ではないが故に、「 -性」という訳は採用しなかった。第二バチカン公会議後、教皇がその最高の十全の権能を、司教団としての司教たちに自由に与えているように思われるので、制度として「司教団制」と言うことができるだろう。しかし、そのときでも、カトリック教会の君主制の本性はそのまま残る。何故なら、天主の作った制度なので人間が変えることができないからだ。そこでその意味を含めて「司教団体主義」と訳した。

 そのほかにも、『提題解説』に対する日本の教会の公式回答(1997年7月23日 日本カトリック司教協議会)には、「中央集権」 (centralization)への対比として「協働性」(collegiality)と訳されていた。気持ちはわかるが、「協働」という言葉は、collaboration の訳語に普通使われているので、混乱をもたらすだけだと思う。

 あるいは、「同僚性」とするものも見つかった。「同僚性」とは、collegium(団体、集団、組合)というラテン語やそれから由来する英語 college ではなく、colleague (同僚)との連想からの訳語であるように思われる。


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