テニエール神父著『聖体の黙想』 (1953年) (Révérend Père Albert Tesnière (1847-1909))より
人である聖体
聖体はわが助言者である
礼拝 イエズスを助言者として、聖体の秘跡のうちに礼拝しよう。これは主にとってまことにふさわしく、またあなたにとっては大いに有益である。主はいにしえのエルサレムの至聖所の契約の櫃(ひつ)の中におけるように、今日、祭壇の上にとどまり、永遠の救霊に導こうとされる人々に助言を与え、彼らを照らしてお導きになるのである。大いなる助言の使者とは、人となられた御言葉の公におとりになった御名のひとつである。すなわちイザヤ書は言っている。『そのみ名は助言者ととなえられ、知識の霊は彼の上にとどまりたまわん』と。
イエズスが私たちによい助言を与えてくださるのは、単に主の自然的賢徳、すぐれた御知恵、忠実な真心だけによるのではない。それは、実に主ひとり有していらっしゃる三つの尊いご資格によるのである。
第一に主は永遠の英知である。 『彼ははじめより知恵とともに住み、すべての賢き思念の生まるるときに在したまえり』とあるとおりである。このように主は、造られない知恵、天主のあらゆる思念を映(うつ)す完全な鏡でいらっしゃるから、 『知識と賢徳と公正とは彼のものなり』といわれるのである。
次に、主の人性は、造られた最高の知恵である。天主の第二のペルソナとの結合によって、イエズスの霊魂には最も大きな光が点じられた。この光によって、主は、天主と人類とに関し、またすべての未来のできごと、およびあらゆる心の秘密に関して、天父のみ旨を全部知っておいでになる。
最後に主は人類のかしらであり牧者である。これによって主は、あらゆる必要に際し、またあらゆる道において、人類を導き守り助けてくださるのである。主はこれに要する知識を、主のご霊魂の造られた瞬間から天主より注ぎ入れられたのである。そして人生の諸経験、すなわち危険、戦い、悩みなどによってこれを深められた。実に主は、完全な助言者として欠くことのできない知恵と賢徳と経験と、無私無欲な忠実な心とをもっておられる。主はこのようにして、やみの中をさまよう人々の疑惑に悩む心に語られる。 『わがうちにはすべての道と真理との恩恵あり、わがうちには生命と善徳との希望あり』と。
主は三年の公生活の間、教えを請う人々に対して、賢明善良な助言を与えつづけられた。そして主は教会を通じて、これをやはり今日全世界に与えられる。すなわち悪を避け罪を悔い改め、肉身の生命より霊魂の生命を重んじ、永遠の宝を買うためには万物を売りはらわなければならないことなどである。また主はある人々に対しては彼らが個人的に歩まなければならない道をも示された。すなわち清貧、貞潔、従順の完徳の勧告がそれである。そのほか、使徒たちや友人たちの求めに応じては、特殊のご助言をも惜しまれなかった。主はいまや聖体の秘跡のうちに沈黙を守られるかのように、また、私たちの祈り、私たちの悩みに耳を傾けられないかのようにみえる。けれど実はそうではない。主が秘跡のおおいをおかぶりになるのは、かつて黙想したとおり、一方では私たちに対する試練となり、同時に他方では主の御いつくしみのあらわれとなるためである。どうしてこのおおいが、救い主の地上に来られた最も大きな目的のひとつを滅ぼすのだろうか。どうして主は私たちの最も必要とする助けのひとつを、これによって私たちに拒まれるのであろうか。
主が聖体の秘跡の中においでになるのは、沈黙無為の外観にもかかわらず、そこから人々を導き、また支配して、教会のかしら、牧者、指導者、司祭としての任務を営まれるためであった。もし主と私たちとの間になんらの交わりもなければ、すなわち、私たちが主に語ることもできず、また私たちが主のお答えを聞くこともできなかったら、どうして主のお務めが行なわれるであろうか。
だから、主に私たちの足りないところを示して私たちの困難を告げ、また主のみ前に私たちの疑いを述べてそのご助言を願うのは、私たちの大切な義務である。主が私たちを眺め、私たちの言葉を聞き、私たちと同じ感情を経験される事実を疑ってはならない。たとえ肉体の耳をもって主のお返事を聞くことができなくとも、主は私たちの霊魂に語り、私たちに確信を与え、勇ましい決心を固めさせ、これに平和と内心の幸福という天主の印章を押すことがおできになるのである。
あるいは、主はそのご模範を示して、あなたの祈りに答えられるであろう。すなわち同じような場合に、主はどのようにして行動なさったかをあなたに思い出させ、主のなさったように行なうようお勧めになるのである。
あるいは、主はあなたが主のご助言を求めているそのできごとの経過をもって、あなたに答え、そのうちに安らかに満足する恩恵をあなたに与えてくださるであろう。
最後に、主はあなたが相談する指導霊父に霊感を与えて、あなたの心に平和をもたらす解決の方法を示されることもあるだろう。主があなたに答えるために秘跡のおおいをお脱ぎになる方法のいかに多いかを考えよう。
ああ、拝すべき霊魂の助言者よ、主を助言者として拝することができるよう、心と判断とを主にささげよう。全く主により頼み、自分の知恵をあなどって、主のご助言の御手のうちに自分自身をまかせよう。
感謝 ある人が他人に助言を請うて失敗すると、よく世間は、『やっぱり助言は当人でないからだ』という皮肉な批評をする。その意味は、だから、私たちはどんな助言者にも盲目的に信頼してはならないということである。助言者の中には、信用をおかれない罪人もあるし、またそれほどでなくても、全然無私無欲な心をもつ人は比較的少ないし、またその少ない無私無欲な心をもつ助言者の中でも、その助言を実際に実現させるために有効な助言を与えることのできる人は、なおさら少ないからである。
だが私たちの主であるイエズスは、決してそんな無力な御方ではない。主は主により頼むどんな人にとっても、まことの友、忠実で信頼すべき助言者である。主はただ助言を与えられるばかりでなく、これを実行するために必要な恩恵も与えてくださる。 『律法はモイゼにより与えられしが、恩恵と真理とはイエズスによれり Lex per Moysen, gratia et Veritas per Jesum』と聖書にもあるとおり、主は知恵を照らし、意志を強め助け、同時に光明と勇気とを注いで、そのことを実現されるのである。主は、このように行なわれるに際して、種々の困難や反対などによって起こる心の躊躇(ちゅうちょ)を追いはらい、堅固な決心を回復し、また、困難それ自身を除き去ってしまうか、あるいは少なくともこれを軽減されて、最後の成功をおさめなければ、その人のそばを立ち去られることがない。あなたが、なにか実行するために、長い時間を必要とする重大な事件について主の助言を求めるときにも、主はその間、毎日あなたの心に臨まれ、あなたに光と力とを添え、目的に達するために必要な堅忍不抜の勇気を与えてくださる。それは、主が御知恵とともに御力を有しておられ、またこの両者を愛によって用いられるからである。
だから私たちは、『キリストにならう』の著者とともに深い感謝をもっていわなければならない。『昔イスラエルの子孫、モイゼにいいけるは、「なんじわれに語れ、われら聞かん、ただ願わくは、天主われらに語りたまわざらんことを、おそらくはわれら死なん」と。ああ、しかし主よ、われはかくのごとく祈り求めず、むしろ予言者サムエルとともに、へりくだりて熱心に祈らん。 「主よ語りたまえ、なんじのしもべ聞きたてまつる」 と。モイゼあるいは他の予言者のうちのなんぴともわれに語ることなく、ただなんじのみ語りたまえ。ああ主なる天主よ、なんじはあらゆる予言者に霊感を与えたもうなり。 けだし、主は彼らによらずして完全にわれに教うることをえたまえども、彼らはなんじによらざれば少しも有益なることをなすあたわざるなり、彼らは言葉を発すれども精神を伝うるあたわず。彼らの語るや巧みならざるにあらず。しかもなんじにして沈黙したまわば、彼らは心を励ますことあたわず。彼らは文字を述ぶ。されどその意味を示したもうものはなんじなり。彼らは神秘を示す。されどその深き心を説きたもうものはなんじなり。彼らは戒律を述ぶ。されどわれらにこれを守らしめたもうものはなんじなり。彼らは道を示す。されど力を与えてこれを歩ましめたもうものはなんじなり。彼らの働きは外部にとどまる。されど心を指導啓発したもうものはなんじなり。彼らは外より水を注ぐ。 されど成長を与えたもうものはなんじなり。彼らは言語を語る。されど聞く者に理解を与えたもうものはなんじなり』と。
ああ主はこのように真実で、忠誠な助言者でいられる。われら御身のもとでなくてなんぴとのもとに行かねばならないか。ひとり御身のみ生命の言葉を有しておられるのである。
償い もしあなたがまじめに考えてみるなら、あなたはたったひとつの大きな怠りが、過去の生活の多くの罪悪と多くの損失との源となっているのを発見することができるであろう。それは祈りによって主のご助言を願うのではなくて、あなたの計画、あなたのとらねばならない道を、主である助言者に判断していただかず、性急に種々の事がらを自分から決定し、または仕事に着手したことである。老トビヤはその子にいった。 『常に主に祈り、あなたの道を導きたまわんことを主にこいねがえ、あらゆるあなたの計画、あなたの意志、あなたの決心を主のみ前にてつくり、祈りをもって主のみ前にとどまり、常に主の御助けを願え Omni tempore benedic Deum, et pete ab eo ut vias tuas dirigat, et omnia consilia tua in ipso permaneant.』と。
あなたの性急は、あなた自身の知恵と力とにより頼む隠れた傲慢の結果である。この傲慢は、ルチフェルを天から落とし、アダムに楽園を失わせた最も不幸な罪である。
天主の本質は他によらない独立の存在(Ens a se)であり、純粋な現実態(Actus purus)である。これに反して被造物の本質は、天主により頼んではじめて存在することができる依存性(Ens ab alio, non ens)をもつ。だから天主により頼むことを望まないで、自分自身の力で万事をなしとげようとするのは、天主の権利、 天主のみわざを無視して、非常に重大な点において、被造物と天主との関係を乱すことにほかならない。これが、すべての罪の源である根本的罪悪で、そして同時に無数の損害と失望と不幸との原因である。
あなたの過去の生活を思い出そう。主のみ前において、また、熱心な祈りをもって常に更新しなかったあなた自身の計画は、すべて主によってくつがえされる事実を発見するであろう。主はおおせになった。 『われは知者の知恵をあざけり、賢者の賢さを滅ぼさん』と。
自分の罪を償うために、『キリストにならう』の著者のいうところを聞こう。『すべての事件において外観にとらわれず、見聞する事物を肉眼によって判断せず、いかなる場合にも必ずモイゼのごとく主の教えを請わんがために幕屋に入らば、時ありて、主のお言葉を聞き、現在未来の幾多のことについて、み教えを得て退出することをえん』Si autem in omni eventu stas non in apparentia externa, nec oculo carnali lustras visa vel audita, sed mox in qualibet causa intras cum Moyse in tabernaculum ad consulendum Dominum: et audies nonnunquam divinum responsum et redies instructus de multis præsentibus et futuris.と。
祈願 聖櫃の中においでになる天主である助言者のみ前にひざまずいて、集会書の次の言葉を思い出そう。それはなによりも主イエズスにあてはまるものである。 『よき友とは、忠実に天主を恐れ、その霊魂はなんじの霊魂とともに一致し、なんじが暗やみにおいて不幸にあうときになんじを慰め、なんじとともに嘆く者である。cujus anima est secundum animam tuam, et qui, cum titubaveris in tenebris, condolebit tibi. よき助言を与うる者の近くにおらねばならぬ。Cor boni consilii statue tecum 彼より尊いものはこの世にない。彼は七人の大学者がなんじに語りうるよりも多くの事がらを、ただ一言をもってなんじに告げるであろう Anima viri sancti enuntiat aliquando vera, quam septem circumspectatores sedentes in excelso ad speculandum.』と。あるいは、そのために、あなたの歩みを真理に従って導いてくださるよう天主に願い求めよう。すなわち、あなたは天主があなたについて抱かれているみ旨を知り、また、これを実行することができるよう、まじめに祈り求めなければならない。
これを示してくださるよう主である助言者に願おう。主は必ずこれを聞き入れてくださるであろう。しかしそのためには、ただひとつの条件が必要である。すなわち、あなたが被造物よりも主により多くより頼み、被造物よりもより多くこれを相談することである。Multi pacifici sint tibi: et consiliarius sit tibi unus de mille.
もしあなたが不安と孤疑とのあらしの海に漂い、何をしていいかわからないなら、あの大いなる助言者イエズスの御もとに行くがよい。
あなたの精神が萎えて砕けて、あなたの霊魂が死んだもののようになり、あなたの勇気が阻喪(そそう)したなら、あの大いなる助言者の御助けを願うがよい。
もしあなたが危険の中にあって、おとし穴の中に陥って、どうしてのがれてよいかわからないなら、あの大いなる助言者に向かって祈るがよい。
もしあなたが将来の方針について思いわずらい、その選択について迷うなら、あの大いなる助言者に光を求めるがよい。
そうするなら砂漠の中においても、あなたの行くべき道が示されるであろう。危険、迫害、悲哀、困難の中にあって、それを免れる方法がわからなかったなら、あの大いなる助言者を呼んでエステルとともに祈ろう。 『ああ主よ、わが君よ、御身はわが唯一の大王にてまします。わが悩みを救いたまえ。そは主ならでわれを救いうべき者ほかにあらざればなり』Domine mi, qui Rex noster es solus , adjuva me solitariam, et cujus prater te nullus est auxiliator alius と。
実行 毎日大いなる助言者にその日その日の予定を語って主のみ旨を聞き、また、何ごとか起こったら、さっそくこれについて助言を願い求めよう。
VIII. Jesus in the Sacrament is our Counsellor.
I. Adoration. Adore, under this name of great glory for Jesus and of great utility to you, the divine Friend of the Sacrament, who remains upon the altar as formerly upon the propitiatory of the ark, to counsel, enlighten, direct all those whom He has undertaken to bring to eternal salvation.
"Counsellor, Angel of the great Counsel," is one of the authentic names of the Word Incarnate: Et vocabitur nomen ejus Consiliarius. (Isaias ix. 6.) " The spirit of counsel shall repose in Him "—and with what perfection !
It is not only by means of His natural prudence, the clearness of His intellect, His sincere devotion, that Jesus is capable of giving good counsel: it is by a triple title that none but He alone has.
First, the title of Eternal Wisdom. "He dwells in the counsel from the beginning; He assists at the birth of all learned and wise thoughts " : In consilio habito et eruditis inter sum cogitationibus ; " counsel is His and prudence and equity": Meum est consilium ; His, because His is increated knowledge, the perfect mirror of all the divine thoughts.
Then, by means of the title of created but blessed knowledge, of which the hypostatic union lighted the inextinguishable flame in His soul and which shows Him in God Himself, without shadow, all the will of God, in relation to angels and men, the future of all that will be, and the most secret thoughts of all hearts.
Lastly, by means of His office of Head and of Pastor of humanity, which He has to lead, defend, and assist in all its needs and in all its paths; a knowledge at one and the same time infused into His soul from the moment of its formation, and acquired by His own experience of our human life, of its perils, of its strifes, and of its sufferings.
Ah ! He has the knowledge, He has the prudence, He has the experience, He has the disinterestedness and the devotion, of which is made the perfect and sure, faithful and constant counsellor! He can offer Himself, as such, to every anxious soul, seeking its way lost in darkness, a prey to perplexity shaken by doubt, saying to it, "In Me is the grace of all ways and of all truth, the only hope of all virtue and of all life " : In me gratia omnis vice et veritatis; in me omnis spes vitce et virtutis.
Adore Him in the memory of His life, wholly occupied in sowing good, wise, and great counsels, those which He addressed to crowds, and through them to the whole world; to fly from sin, to do penance, to prefer the life of the soul to that of the body, and to sell all in order to acquire the eternal treasure; those which He addressed to certain persons with regard to their individual path: the perfect counsels of poverty, of chastity, and of obedience; those, lastly which He gave in private to His Apostles, to His friends, to those who came to consult Him.
But can He still counsel us now that He has placed upon His lips the seal of the inert species of the Sacrament ? Does He hear us, is He moved by our prayers and our anguish in the rigid insensibility which the Eucharistic state presents to us ?
Ah! wherefore should this veil, formed at once of trial and of mercy, deprive the Saviour of one of the essential ends of His coming upon earth ? Why should He deprive us of one of the helps which we most need to find in Him ?
Spite of appearances, He has come back in the Sacrament that He may there lead men, govern them from there, and from there exercise His functions of Head and of Pastor, of Guide and of Priest. Could that be done if He had not an intercourse with us corporal as well as spiritual; if we could not speak to Him, if He could not hear us and if we could not receive His answers ?
It is, therefore, our duty to show our needs to Him, to submit to Him our difficulties, to place before Him our doubts, to question and to consult Him. Let us be certain that He hears us, that He sees us, and that His heart experiences the same feelings as ours.
As to His answers, seeing that it is not for the body to comprehend them, or even in fact to carry them into practice, but for the soul, He will make His answers to the soul ; \t will make them vivid, penetrating, convincing; He will impress them on the soul in the clearest characters, in resolute convictions, in courageous determination, and He will seal them with the divine seal of peace, of interior content.
He will reply to you also by the voice of His example, recalling to you how He acted in a call similar to yours, and by exciting you to do as He did.
He will reply to you, moreover, by the tendency and the tenor which will be taken by events on the issue of which you consult Him, by giving you the inspiration and the grace of acquiescing in them peacefully.
Lastly, He will inspire authorized persons, whom you will consult in His name, to give you solutions which will pacify you.
Behold the numerous means which He has for answering you and piercing the veil of the Sacrament in your favor.
Oh! the adorable Counsellor of souls! Give to Him, that you may adore Him in this His perfection and office, your mind and judgment; abandon yourself to Him, despise your own prudence and your own wisdom, and deliver yourself up into the hands of His counsel.
II. Thanksgiving.
The world ironically says to those who, having confided in the counsels of sects, have been miserably deceived: "Counsellors are not payers." It means that we must not confide in every counsellor: that there are amongst them men who are false and perverse; that amongst those who really give good counsel there are few who do so with absolute disinterestedness; still fewer those who give to the persons who consult them an efficacious succor carried into action and devotedness to put their counsels into execution.
But with our adorable Counsellor it is something quite different. Ah ! it is because He shows Himself to be a trustworthy and devoted Counsellor, a true friend of whoever may have recourse to Him! He not only gives counsel but also the grace to follow it: Lex per Moysen, gratia et Veritas per Jesum. (John i. 17.) That is to say that He does not merely speak to the mind, but He gains it over: He persuades it by interiorly enlightening it; He excites and determines the will, He gives strength and courage. Then in the execution of it, He supports, raises up, dissipates the fogs occasioned by the delays, the difficulties of the work; He renews the clearness and the vigor of the first resolve; He lends His aid for the removing of obstacles, or at least of smoothing them down; He does not take His departure until the end is reached.
Is it not so ? And when you consult Him respecting any important affair and one that takes a long time to execute, does not His daily morning visit during all the time that it lasts, renew in you the light, the strength, and the constancy necessary for pursuing it until the term is reached ?
Ah! it is because He has power as well as wisdom, and that both the one and the other are at the disposal of His goodness !
Therefore, it is with a deep feeling of gratitude that we must say, with the Author of the Imitation : "Heretofore the children of Israel said to Moses: Speak thou to us, lest we die! Not thus, oh Lord, not thus do 1 pray, but rather with the prophet Samuel I humbly and longingly entreat Thee, Speak Lord, for Thy servant heareth. Let not Moses nor any of the prophets speak to me, but speak Thou rather, oh Lord God, who art the inspirer and enlightener of all the prophets, for Thou alone, without them, canst perfectly instruct me, but they without Thee can do nothing. They may indeed count forth words, but they give not the spirit. They speak well, but if Thou be silent, they do not set the heart on fire. They deliver the letter, but Thou disclosest the sense. They publish mysteries, but Thou explainest the meaning of them. They declare the commandments, but Thou enablest us to keep them. They show the way, but Thou givest strength to walk in it. They work only exteriorly, but Thou instructest and enlightenest the heart. They water exteriority, but Thou givest the increase. They cry out with words, but Thou givest understanding to the hearing." (Bk. III. c. ii.)
Oh! Counsellor so truly sincere and devoted, "to whom shall we go ? Thou alone hast the words of life ! "
III. Reparation.
If you desire to be sincere towards yourself, you will bitterly deplore a capital defect too frequently felt in your life, which has been the cause of many sins and the source of many bitter deceptions. It is your precipitation in deciding and in acting, without asking counsel in prayer, without submitting your projects, without having your ways examined and judged by the divine Counsellor, according to the very wise precept given by Tobias to his friends: "Pray to the Lord at all times ; ask Him to direct all thy ways, and let all thy projects, all thy intentions, all thy resolutions," having been made in His presence, "remain in Him," by continuance in prayer and recourse to Him : Omni tempore benedic Deum, et pete ab eo ut vias tuas dirigat, et omnia consilia tua in ipso permaneant. (Tob. iv. 20.)
This precipitation comes from secret pride, presumption, confidence in our ideas, in our strength. It is the worst of all kinds of pride, that which made Lucifer fall in heaven and Adam in paradise.
The essence and the ultimate reason of the divine Being is to be independent: Ens a se, to be the pure act, without cause: Actus purus; the essence and the ultimate reason of the creature is to depend : Ens ab alio, non ens. Not to will to depend, to cease to lean upon the necessary cause, and to will to lean upon ourself, is therefore to violate the right of God, the work of God, the relation of the creature to the Creator in a thing which is essential; it is radical pride, whence flows all sin. It is also the source of deceptions, of vexations, and of misfortunes without number.
Question your life, relate your own history to yourself; has not the Lord been pleased to "scatter all the counsels" which you have not taken at His feet, which you have not renewed and rendered sure by means of assiduous prayer? He has said: "I will make the wisdom of the wise to be lost and I will reprove the prudence of the prudent," if they are not humble enough to humble their wisdom and prudence before Me in prayer and submission.
Josue and the Israelites were grossly deceived by the Gabaonites, says the Imitation, because they did not first consult the mouth of the Lord: Os Domini prius non interrogaverunt.
And you ?
In order to make reparation, follow the advice of the pious author. "If in all events thou rule not thyself by the outward appearance, nor look on what thou seest or hearest with a carnal eye, but presently, on every occasion, dost enter, like Moses, into the tabernacle, to consult the Lord, thou shalt sometimes hear the divine answer and come out instructed in many things present and to come." (Bk. III. c. xxxviii.)
IV. Prayer.
Enjoy at the feet of the divine Counsellor of the tabernacle the sweet and comforting words of Ecclesiasticus, which were spoken first of all of Jesus: "Be attentive to the holy man, whom you see faithful in observing the fear of God, whose soul is one with your soul, and who has compassion on you and weeps with you if you come in contact with anything in the darkness: " cujus anima est secundum animam tuam, et qui, cum titubaveris in tenebris, condolebit tibi. Keep close to a heart of good counsel: Cor boni consilii statue tecum : nothing is more precious than he. He will tell you in a single word more of truth than seven learned men who make it their profession to look far and high: Anima viri sancti enuntiat aliquando vera, quam septem circumspectatores sedentes in excelso ad speculandum. But for that you must pray, pray to the Most High to direct your paths in the truth. (Ecclus. xxxvii. 15, 19.)
In a word: desire sincerely to know and to practise the will of God in regard to you; ask the divine Counsellor, in prayer, to manifest it to you; He will never fail, but it will be on one sole condition : that you will have more confidence in Him than in the creature, and that you will consult Him before it and more than it: Multi pacifici sint tibi: et consiliarius sit tibi unus de mille. (Ecclus. vi. 6.)
If then you are floating on a sea of uncertainty, tossed by doubt, not knowing what to do, go to the Angel of the great Council.
If your spirit is overwhelmed, your soul devoid of life, your courage weakened, call to your help the Angel of the great Council.
If you are in a dangerous position, in the midst of snares out of which you do not know how to escape, call and invoke the Angel of the great Council.
If you are deliberating and are uncertain and perplexed as to your choice of a state of life, implore the Angel of the great Council, and He will trace out for you a path even in the desert.
In dangers, persecutions, sorrows, difficulties, if you cannot see your way out of them, call on the Angel of the great Council, and say to him, with Esther: "Oh, Lord, my Master, who art our sole King, help me in my desolation, for apart from Thee I have no help or succor:" Domine mi, qui Rex noster es solus , adjuva me solitariam, et cujus prater te nullus est auxiliator alius. (Esth. xiv. 3.)
Practice.
To place before the divine Counsellor every morning the affairs of the day, and to come back and take counsel of Him whenever anything happens.