アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様、
ローマ公教要理(トリエント公会議による公教要理)の「祈り」についての部分を更にご紹介します。
今回は、「誰に対して祈るべきか」についてです。公教要理は、天主に、聖人達に、祈ること、そしてその意味の違いについてを教えています。どうぞごゆっくりお読み下さい。
天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)
§6 誰に対して祈るべきか
37.天主に祈り、その聖なる御名を呼び求めるべきことは、聖書のみならず、人の自然な心情の中に刻み込まれています。前者における一例を挙げれば、詩編において天主は、「苦悩の日に私を呼べ。50」と命じておられます。しかるに、天主という名称の下に、3つの神的ペルソナを理解しなければいけません。
38.第2に、私たちは天上の聖人たちに祈ります。聖人に祈るべきことは、天主の教会においてかくも明確に定められているので、敬虔な信徒の誰一人として、これを疑うことは許されません。しかるに、この点については先に述べたので、司牧者と信徒は当該箇所を参照してください。
39.しかし、いかなる誤謬も信徒の無知につけ込まないように、信徒に、聖人に対する祈りが、どのような意味で天主に対する祈りと異なるものであるかを示すことが適当です。実際、私たちが天主と聖人らに祈るのは、同じ仕方ではありません。天主に対して私たちが求めるのは、天主ご自身が私たちに諸々の善きものをくださり、かつ私たちを害悪から救ってくださることに他なりませんが、聖人たちに祈るのは、彼らが天主の寵愛に浴しているがゆえに、私たちをその保護の下に置き、天主から私たちに必要なものを得てくださるようにであります。
40.ここから祈りの言葉上の違いが生じます。天主に対しては、言葉の固有の意味で「我らを憐れみ給え」、ないしは「我らの祈りを聞き給え」と祈りますが、聖人に対しては、「我らのために祈り給え」と申します。
無論、聖人たちがきわめて憐れみ深いかぎりにおいて、私たちに憐れみをかけてくださるよう願うことは許されますが、これはあくまでも[言葉の固有の意味ではない]別の意味においてに他なりません。したがって、聖人らに私たちの境遇上の惨苦を鑑みて、天主の御許における彼らの地位と、祈りとによって私たちの助力となってくださるよう願うことができます。
41.しかるに、天主にのみ固有に属することを、他の者に帰属することを注意して避けなければいけません。主祷文を聖人の像の前で唱える際、この聖人に願うのは、自らと共に祈り、主祷文に含まれることがらを天主に懇願してくださること、また天主の御許において自らの執り成し手および代願者となってくださることである旨、よく留意しなければいけません。聖人らが、かかる職務を果たすことを、聖ヨハネは黙示録において教示しています51。
【脚注】
50 詩編49 15節
51 黙示録 8章3節
愛する兄弟姉妹の皆様、
ローマ公教要理(トリエント公会議による公教要理)の「祈り」についての部分を更にご紹介します。
今回は、「誰に対して祈るべきか」についてです。公教要理は、天主に、聖人達に、祈ること、そしてその意味の違いについてを教えています。どうぞごゆっくりお読み下さい。
天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)
§6 誰に対して祈るべきか
37.天主に祈り、その聖なる御名を呼び求めるべきことは、聖書のみならず、人の自然な心情の中に刻み込まれています。前者における一例を挙げれば、詩編において天主は、「苦悩の日に私を呼べ。50」と命じておられます。しかるに、天主という名称の下に、3つの神的ペルソナを理解しなければいけません。
38.第2に、私たちは天上の聖人たちに祈ります。聖人に祈るべきことは、天主の教会においてかくも明確に定められているので、敬虔な信徒の誰一人として、これを疑うことは許されません。しかるに、この点については先に述べたので、司牧者と信徒は当該箇所を参照してください。
39.しかし、いかなる誤謬も信徒の無知につけ込まないように、信徒に、聖人に対する祈りが、どのような意味で天主に対する祈りと異なるものであるかを示すことが適当です。実際、私たちが天主と聖人らに祈るのは、同じ仕方ではありません。天主に対して私たちが求めるのは、天主ご自身が私たちに諸々の善きものをくださり、かつ私たちを害悪から救ってくださることに他なりませんが、聖人たちに祈るのは、彼らが天主の寵愛に浴しているがゆえに、私たちをその保護の下に置き、天主から私たちに必要なものを得てくださるようにであります。
40.ここから祈りの言葉上の違いが生じます。天主に対しては、言葉の固有の意味で「我らを憐れみ給え」、ないしは「我らの祈りを聞き給え」と祈りますが、聖人に対しては、「我らのために祈り給え」と申します。
無論、聖人たちがきわめて憐れみ深いかぎりにおいて、私たちに憐れみをかけてくださるよう願うことは許されますが、これはあくまでも[言葉の固有の意味ではない]別の意味においてに他なりません。したがって、聖人らに私たちの境遇上の惨苦を鑑みて、天主の御許における彼らの地位と、祈りとによって私たちの助力となってくださるよう願うことができます。
41.しかるに、天主にのみ固有に属することを、他の者に帰属することを注意して避けなければいけません。主祷文を聖人の像の前で唱える際、この聖人に願うのは、自らと共に祈り、主祷文に含まれることがらを天主に懇願してくださること、また天主の御許において自らの執り成し手および代願者となってくださることである旨、よく留意しなければいけません。聖人らが、かかる職務を果たすことを、聖ヨハネは黙示録において教示しています51。
【脚注】
50 詩編49 15節
51 黙示録 8章3節