アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様、
ローマ公教要理(トリエント公会議による公教要理)の「祈り」についての部分を更にご紹介します。
今回は、「よく祈るために必要な心の状態」についてです。どうぞごゆっくりお読み下さい。
天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)
§7 よく祈るために必要な心の状態
聖書中で「願を立てる前に準備を怠るな。主を試みる人に倣うな。52」と言われていますが、実際よく祈りながら悪い行いを為すこと、また天主に語りながら心を祈りからそらすことは、天主を試みることに他なりません。
42.したがって、いかなる心持ちにおいて天主に祈るかは、きわめて重要なことであるので、主任司祭は信徒に、ふさわしく祈るための規範を教え示さなければなりません。
よく祈るために必要な心持ちの第一は、真に謙遜で深くへりくだった心、ならびに自らの犯した罪を認める態度です。
当の罪は、天主に近づく者に、自分が何かを受けるに足りないばかりでなく、祈るためにそのみ前に出ることさえ値しない者であることを認知させるべきものです。聖書は、この心持ちにきわめて頻繁に言及しており、例として詩編中の、「主は、謙遜な者の祈りを聞き、その祈りを軽んじられない53」、さらに、「へりくだる者の祈りは雲を貫く54」という言葉を挙げることができます。ふさわしい学識を積んだ司牧者は、同様の言葉を数限りなく聖書から引くことができるでしょう。したがって、ここでは、余分な引用は控えることとします。
しかしながら、先に他の章で挙げた2つの例にかぎっては、これが今取り扱っている主題にきわめて適しているため、再び引用しなければいけません。
第1の、皆に周知の例は、遠く離れて立ち、天に目を上げることさえはばかった収税人の例です。
第2の例は、[自らの犯した罪に対する]悲しみにつき動かされて、主イエズス・キリストの御足を涙で潤した罪の女の例です。両者共、キリスト教的謙遜が、祈りにいかに大きな重みを加えるかを如実に示しています。
よく祈るために必要な第2の心情は、私たちの犯した罪を思い起こして抱く、ある種の悲嘆ないしは苦悩、あるいは少なくとも自分が十分自らの罪について悔恨を感じていないことに対する心の痛みです。
この2つの心情の両方、あるいは少なくともいずれか1つがなければ、罪の許しを得ることはできません。
しかるに、天主が私たちの祈りを聞き入れられることを殊更妨げる類の罪があり、その顕著な例として殺人および暴力が挙げられます。したがって、私たちは自らの手を、この種の凶暴かつ残虐な行為から遠ざけなければなりません。
天主は、イザヤの口をとおして次のように述べておられます。「あなたたちが[私に向けて]手を伸べるとき、私は目を背ける。どんなに祈りに祈っても、私は聞かない。あなたたちの手からは、血がしたたっているからである。55」
加えて、怒りおよび不和をも退けなければなりません。これらもまた、天主が私たちの祈りに耳を傾けることを大いに妨げるからです。
これについて使徒パウロの次の言葉が当てはまります。「男は怒らず、いさかわず、清い手をあげて、どんなところでも祈るようにと私は望む。56」
さらに、不正、ないしは侮辱を被った際に、それが誰であれ、これを為した者に赦しを拒む態度を示すことを避けなければなりません。実際、もし私たちがこのような心持ちでいるならば、祈りによって、私たち[の罪]を赦してくださるよう天主の心を動かすことは望み得ないからです。主ご自身、「あなたたちが立って祈るとき、誰かに恨みがあるなら、まずそれを赦せ57」と、また、「もしあなたたちが人の罪を赦さなければ、あなたたちの父も、あなたたちの罪をお赦しにならない58」、と仰せになっているからです。
また、貧苦にあえぐ者に対して、無情で冷酷たることのないよう、注意しなければなりません。このような態度をとる者に対して、次のように言われているからです。「貧しい人の声に耳をふさぐ人は、自分が叫ぶとき、聞いてもらえない。59」
傲慢については、何を言うべきでしょうか。これがいかに天主の不興を買うものであるかは、次の章句から明らかです。「天主は傲る者にさからい、へりくだる者に恵みをくだされる。60」
また、天主のみ言葉を軽んじる態度については、何と言うべきでしょうか。かかる心情に対しては、サロモン王の次の言葉を引くことができます。「教えを聞きたくなくて耳をふさぐ人なら、その祈りさえ、不快なものだ。61」
とは言え、この聖句は人殺しの祈り、怒る者の祈り、貧者に対して冷酷な者の祈り、傲慢な者の祈り、天主のみ言葉を軽んじる者の祈り、もしくは他の一切の罪を犯す者の祈りを、かかる過ちの赦しを願うかぎりにおいて、排除するわけではありません62。
よく祈るために必要な心の準備において、信仰もまた、欠かすことのできない要素です。これなしには、祈る者の信頼がそこから生ずるべき、いと高き御父の全能および慈悲についての知識を有し得ないからです。したがって主ご自身も、「あなたたちが信仰に満ちた祈りをもって乞い求めるなら、何でも与えられる63」と仰せになっています。聖アウグスチヌスも主のこの言葉にふれて、「もし信仰が欠けるならば、祈りも消え去ってしまう64」と述べています。したがって、よく祈るためにまず第一に必要なことは、堅く揺るがない信仰をもって祈ることです。これは、使徒パウロが逆説を用いて、「まだ信じなかったものを、どうして呼び求められよう65」と述べているとおりです。
したがって、祈ることができるために、また、天主に聞き入れられるに値する仕方で祈るために必要な信仰が欠けることのないように、信じることが必要なのです。 なぜなら、信仰こそ祈りの土台だからです。しかるに、祈りもまた、あらゆる疑いが取り去られ、信仰が堅く動じないものとなるために必要です。この意味で、アンティオキアの聖イグナチオは、天主のみ前に出て祈る者に次の勧告をなしています。「疑う心をもって祈ってはならない。疑わぬ者は幸いである。66」
したがって、天主から私たちの望むものを得るためには、信仰、および願うものを得る確かな希望とが、きわめて重要となります。これこそ聖ヤコボが「まようことなく、信仰をもって求めよ。67」と述べて私たちに教えていることです。
43.私たちが信頼をもって祈るよう励ます理由は、枚挙にいとまがありません。
まず第一に、私たちがご自分の子であることを悟らせるために、「私たちの父」と呼ぶようお命じになることをとおしてお示しになる、天主の私たちに対する非の打ちどころのないご意志、完全な仁慈が挙げられます。
また、およそ無数の、祈りを聞き入れられた者のことを忘れてはなりません。
また、いつも私たちの許にいてくださる我らの主キリストこそが、至高の執り成し手であることを思い起こしましょう。これについて聖ヨハネは、次のように述べています。「もし罪を犯す人があるなら、私たちは御父のみ前に一人の弁護者をもっている。それは義人のイエズス・キリストである。彼は、私たちの罪のための執り成しのいけにえである。68」また、聖パウロはローマ人への手紙で、「死んでよみがえり、天主の右に座し、私たちのために執り成してくださるイエズス・キリスト69」について語り、ティモテへの手紙で「天主と人間との間の仲立ちは、人間であるキリスト・イエズス一人である70」ことを述べ、最後にヘブライ人への手紙で、「天主の御許であわれみ深い忠実な大司祭となり、人々の罪をつぐなうために、すべてにおいて兄弟に似たものとならなければならなかった71」ことを告げています。
したがって、私たち自身としては、願うものを受けるのに値しないとしても、私たちのこの上ない執り成し手かつ仲介者である主イエズス・キリストの尊厳のゆえに、彼をとおしてふさわしく祈り求めるところのものを、天主がお与えになることを望み、それについて深い信頼を抱かなければなりません。
最後に、私たちの祈りの発起者は聖霊であり、聖霊の導きにしたがってなされる私たちの祈りは、必ず聞き入れられるという事実が挙げられます。「私たちは養子としての霊を受け、この霊によって私たちは、『アッバ、父よ』と叫ぶ72」のです。しかるに聖霊は、この祈りの義務において私たちの弱さと無知とをお助けになるばかりでなく、聖書中述べられているように、ご自身自ら「筆舌に尽くしがたい嘆きをもって、私たちのためにとりついでくださる73」のです。
しかし、もし、時として自らがためらいを生じ、堅い信仰を抱いていないのを感じる人がいるとすれば、当の人は、使徒たちと共に「主よ、私たちの信仰を増してください74」と、また福音書の盲人と共に「私の不信仰なのを助けてください75」と祈るべきです。
しかるに、信仰と希望76に満たされているならば、私たちは天主から、自らの望むもの一切を得ることができるでしょう。ただし、それは私たちの意志、思い、行いと祈りとが、すべて天主の法と御旨とに従っていることが条件です。実際、主は「もしあなたたちが私にとどまり、私の言葉があなたたちにとどまっているなら、あなたたちは、望みのままにすべてを願え、そうすればかなえられるだろう77」と仰っておられます。しかしながら、主から願う全てのものを得るためには、先に述べたとおり、受けた侮辱を赦すこと、また隣人に対して善を思い、為す心構えが、これに加えて必要不可欠です。
52 集会の書 18章23節
53 詩編 101 18節
54 詩編7 37節
55 イザヤ書 1章15節
56 ティモテへの第1の手紙 2章8節
57 マルコによる福音書 11章25節
58 マテオによる福音書 6章5節
59 格言の書 21章13節
60 ヤコボの手紙 4章6節およびペトロの第1の手紙 5章5節
61 格言の書 28章9節
62 訳者注 無論、真心から当の悪徳から立ち上がり、これを避ける決意を抱いていることが必要です。
63 マテオによる福音書 21章22節
64 聖アウグスチヌス 書簡10/説教36
65 ローマ人への手紙 10章14節
66 S. Ignat. Epist. 10 ad Heron.
67 聖ヤコボの手紙 1章6節
68 ヨハネの第1の手紙 2章1-2節
69 ローマ 8章34節
70 ティモテへの第1の手紙 2章5節
71 ヘブライ人への手紙 2章17節
72 ローマ人への手紙 8章15節
73 ローマ人への手紙 8章26節
74 ルカによる福音書 17章5節
75 マルコによる福音書 9章24節
76 訳者注 ここで言う「信仰」、「希望」とは、それぞれ対神徳しての「信徳」と「望徳」のことである。
77 ヨハネによる福音書 15章7節
(c) 聖ピオ十世会日本
トリエント公会議による公教要理 祈りについて 祈りの必要性
トリエント公会議による公教要理 祈りについて 祈りの実りと有用性 (聖ピオ十世会訳)
トリエント公会議による公教要理 祈りについて 祈りの異なった部分および段階 (聖ピオ十世会訳)
トリエント公会議による公教要理 祈りについて 「祈りにおいて願うべきこと」 (聖ピオ十世会訳)
トリエント公会議による公教要理 祈りについて 「誰のために祈るべきか」 (聖ピオ十世会訳)
この映画のダビングのために日本語訳を作り、録音してくださった声優の方々や、字幕を作ってくださった方々、すべての関係者の方々に感謝します。
《罪なく宿り給いし聖マリアよ、御身に寄り頼み奉る我らのために祈り給え。また、御身に寄り頼まぬ全ての人々のため、ことに、フリーメーソンのため、また、御身に依頼された人々のために、祈り給え。》
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§7 よく祈るために必要な心の状態
聖書中で「願を立てる前に準備を怠るな。主を試みる人に倣うな。52」と言われていますが、実際よく祈りながら悪い行いを為すこと、また天主に語りながら心を祈りからそらすことは、天主を試みることに他なりません。
42.したがって、いかなる心持ちにおいて天主に祈るかは、きわめて重要なことであるので、主任司祭は信徒に、ふさわしく祈るための規範を教え示さなければなりません。
よく祈るために必要な心持ちの第一は、真に謙遜で深くへりくだった心、ならびに自らの犯した罪を認める態度です。
当の罪は、天主に近づく者に、自分が何かを受けるに足りないばかりでなく、祈るためにそのみ前に出ることさえ値しない者であることを認知させるべきものです。聖書は、この心持ちにきわめて頻繁に言及しており、例として詩編中の、「主は、謙遜な者の祈りを聞き、その祈りを軽んじられない53」、さらに、「へりくだる者の祈りは雲を貫く54」という言葉を挙げることができます。ふさわしい学識を積んだ司牧者は、同様の言葉を数限りなく聖書から引くことができるでしょう。したがって、ここでは、余分な引用は控えることとします。
しかしながら、先に他の章で挙げた2つの例にかぎっては、これが今取り扱っている主題にきわめて適しているため、再び引用しなければいけません。
第1の、皆に周知の例は、遠く離れて立ち、天に目を上げることさえはばかった収税人の例です。
第2の例は、[自らの犯した罪に対する]悲しみにつき動かされて、主イエズス・キリストの御足を涙で潤した罪の女の例です。両者共、キリスト教的謙遜が、祈りにいかに大きな重みを加えるかを如実に示しています。
よく祈るために必要な第2の心情は、私たちの犯した罪を思い起こして抱く、ある種の悲嘆ないしは苦悩、あるいは少なくとも自分が十分自らの罪について悔恨を感じていないことに対する心の痛みです。
この2つの心情の両方、あるいは少なくともいずれか1つがなければ、罪の許しを得ることはできません。
しかるに、天主が私たちの祈りを聞き入れられることを殊更妨げる類の罪があり、その顕著な例として殺人および暴力が挙げられます。したがって、私たちは自らの手を、この種の凶暴かつ残虐な行為から遠ざけなければなりません。
天主は、イザヤの口をとおして次のように述べておられます。「あなたたちが[私に向けて]手を伸べるとき、私は目を背ける。どんなに祈りに祈っても、私は聞かない。あなたたちの手からは、血がしたたっているからである。55」
加えて、怒りおよび不和をも退けなければなりません。これらもまた、天主が私たちの祈りに耳を傾けることを大いに妨げるからです。
これについて使徒パウロの次の言葉が当てはまります。「男は怒らず、いさかわず、清い手をあげて、どんなところでも祈るようにと私は望む。56」
さらに、不正、ないしは侮辱を被った際に、それが誰であれ、これを為した者に赦しを拒む態度を示すことを避けなければなりません。実際、もし私たちがこのような心持ちでいるならば、祈りによって、私たち[の罪]を赦してくださるよう天主の心を動かすことは望み得ないからです。主ご自身、「あなたたちが立って祈るとき、誰かに恨みがあるなら、まずそれを赦せ57」と、また、「もしあなたたちが人の罪を赦さなければ、あなたたちの父も、あなたたちの罪をお赦しにならない58」、と仰せになっているからです。
また、貧苦にあえぐ者に対して、無情で冷酷たることのないよう、注意しなければなりません。このような態度をとる者に対して、次のように言われているからです。「貧しい人の声に耳をふさぐ人は、自分が叫ぶとき、聞いてもらえない。59」
傲慢については、何を言うべきでしょうか。これがいかに天主の不興を買うものであるかは、次の章句から明らかです。「天主は傲る者にさからい、へりくだる者に恵みをくだされる。60」
また、天主のみ言葉を軽んじる態度については、何と言うべきでしょうか。かかる心情に対しては、サロモン王の次の言葉を引くことができます。「教えを聞きたくなくて耳をふさぐ人なら、その祈りさえ、不快なものだ。61」
とは言え、この聖句は人殺しの祈り、怒る者の祈り、貧者に対して冷酷な者の祈り、傲慢な者の祈り、天主のみ言葉を軽んじる者の祈り、もしくは他の一切の罪を犯す者の祈りを、かかる過ちの赦しを願うかぎりにおいて、排除するわけではありません62。
よく祈るために必要な心の準備において、信仰もまた、欠かすことのできない要素です。これなしには、祈る者の信頼がそこから生ずるべき、いと高き御父の全能および慈悲についての知識を有し得ないからです。したがって主ご自身も、「あなたたちが信仰に満ちた祈りをもって乞い求めるなら、何でも与えられる63」と仰せになっています。聖アウグスチヌスも主のこの言葉にふれて、「もし信仰が欠けるならば、祈りも消え去ってしまう64」と述べています。したがって、よく祈るためにまず第一に必要なことは、堅く揺るがない信仰をもって祈ることです。これは、使徒パウロが逆説を用いて、「まだ信じなかったものを、どうして呼び求められよう65」と述べているとおりです。
したがって、祈ることができるために、また、天主に聞き入れられるに値する仕方で祈るために必要な信仰が欠けることのないように、信じることが必要なのです。 なぜなら、信仰こそ祈りの土台だからです。しかるに、祈りもまた、あらゆる疑いが取り去られ、信仰が堅く動じないものとなるために必要です。この意味で、アンティオキアの聖イグナチオは、天主のみ前に出て祈る者に次の勧告をなしています。「疑う心をもって祈ってはならない。疑わぬ者は幸いである。66」
したがって、天主から私たちの望むものを得るためには、信仰、および願うものを得る確かな希望とが、きわめて重要となります。これこそ聖ヤコボが「まようことなく、信仰をもって求めよ。67」と述べて私たちに教えていることです。
43.私たちが信頼をもって祈るよう励ます理由は、枚挙にいとまがありません。
まず第一に、私たちがご自分の子であることを悟らせるために、「私たちの父」と呼ぶようお命じになることをとおしてお示しになる、天主の私たちに対する非の打ちどころのないご意志、完全な仁慈が挙げられます。
また、およそ無数の、祈りを聞き入れられた者のことを忘れてはなりません。
また、いつも私たちの許にいてくださる我らの主キリストこそが、至高の執り成し手であることを思い起こしましょう。これについて聖ヨハネは、次のように述べています。「もし罪を犯す人があるなら、私たちは御父のみ前に一人の弁護者をもっている。それは義人のイエズス・キリストである。彼は、私たちの罪のための執り成しのいけにえである。68」また、聖パウロはローマ人への手紙で、「死んでよみがえり、天主の右に座し、私たちのために執り成してくださるイエズス・キリスト69」について語り、ティモテへの手紙で「天主と人間との間の仲立ちは、人間であるキリスト・イエズス一人である70」ことを述べ、最後にヘブライ人への手紙で、「天主の御許であわれみ深い忠実な大司祭となり、人々の罪をつぐなうために、すべてにおいて兄弟に似たものとならなければならなかった71」ことを告げています。
したがって、私たち自身としては、願うものを受けるのに値しないとしても、私たちのこの上ない執り成し手かつ仲介者である主イエズス・キリストの尊厳のゆえに、彼をとおしてふさわしく祈り求めるところのものを、天主がお与えになることを望み、それについて深い信頼を抱かなければなりません。
最後に、私たちの祈りの発起者は聖霊であり、聖霊の導きにしたがってなされる私たちの祈りは、必ず聞き入れられるという事実が挙げられます。「私たちは養子としての霊を受け、この霊によって私たちは、『アッバ、父よ』と叫ぶ72」のです。しかるに聖霊は、この祈りの義務において私たちの弱さと無知とをお助けになるばかりでなく、聖書中述べられているように、ご自身自ら「筆舌に尽くしがたい嘆きをもって、私たちのためにとりついでくださる73」のです。
しかし、もし、時として自らがためらいを生じ、堅い信仰を抱いていないのを感じる人がいるとすれば、当の人は、使徒たちと共に「主よ、私たちの信仰を増してください74」と、また福音書の盲人と共に「私の不信仰なのを助けてください75」と祈るべきです。
しかるに、信仰と希望76に満たされているならば、私たちは天主から、自らの望むもの一切を得ることができるでしょう。ただし、それは私たちの意志、思い、行いと祈りとが、すべて天主の法と御旨とに従っていることが条件です。実際、主は「もしあなたたちが私にとどまり、私の言葉があなたたちにとどまっているなら、あなたたちは、望みのままにすべてを願え、そうすればかなえられるだろう77」と仰っておられます。しかしながら、主から願う全てのものを得るためには、先に述べたとおり、受けた侮辱を赦すこと、また隣人に対して善を思い、為す心構えが、これに加えて必要不可欠です。
52 集会の書 18章23節
53 詩編 101 18節
54 詩編7 37節
55 イザヤ書 1章15節
56 ティモテへの第1の手紙 2章8節
57 マルコによる福音書 11章25節
58 マテオによる福音書 6章5節
59 格言の書 21章13節
60 ヤコボの手紙 4章6節およびペトロの第1の手紙 5章5節
61 格言の書 28章9節
62 訳者注 無論、真心から当の悪徳から立ち上がり、これを避ける決意を抱いていることが必要です。
63 マテオによる福音書 21章22節
64 聖アウグスチヌス 書簡10/説教36
65 ローマ人への手紙 10章14節
66 S. Ignat. Epist. 10 ad Heron.
67 聖ヤコボの手紙 1章6節
68 ヨハネの第1の手紙 2章1-2節
69 ローマ 8章34節
70 ティモテへの第1の手紙 2章5節
71 ヘブライ人への手紙 2章17節
72 ローマ人への手紙 8章15節
73 ローマ人への手紙 8章26節
74 ルカによる福音書 17章5節
75 マルコによる福音書 9章24節
76 訳者注 ここで言う「信仰」、「希望」とは、それぞれ対神徳しての「信徳」と「望徳」のことである。
77 ヨハネによる福音書 15章7節
(c) 聖ピオ十世会日本
トリエント公会議による公教要理 祈りについて 祈りの必要性
トリエント公会議による公教要理 祈りについて 祈りの実りと有用性 (聖ピオ十世会訳)
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