アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様、
ラ・サレットの聖母は、すべてが失われた、万事休すだ、と思われるほど事態が悪化したとき義人の祈りと犠牲とによってすべては天主の憐れみによって奇跡的な聖なる変化が起こる、と。こう言います。
「(...)人々はすべてが失われたと思うでしょう。どこを見ても人殺し、どこででも戦争の騒ぎと冒漬が聞かれるでしょう。義人は大いに苦しむでしょう。彼らの祈り、彼らの悔俊、彼らの涙は天にまで届き、すべての天主の民は赦しとあわれみを乞い、私の助けと取りなしを願うでしょう。その時、イエズス・キリストは、御正義の業によって、義人たちへの大いなるあわれみの業によって、天使たちに命じて、御自分のすべての敵を死にいたらせるでしょう。突然、イエズス・キリストの教会を迫害する者と罪に溺れた人々全員は滅び、地上は砂漠のようになるでしょう。その時平和になり、天主と人々との間に和解が成るでしょう。イエズス・キリストは仕えられ、崇められ、光栄をお受けになり、いたる所で愛徳の花が咲きみだれるでしょう。新しい王たちは聖なる教会の右腕となり、教会は強く、謙遜に、敬虔に、貧しく、熱心になり、イエズス・キリストの御徳に倣うものとなるでしょう。福音はどこでも宣べ伝えられ、人々は信仰において大いなる進歩を遂げるでしょう。それは、イエズス・キリストの働き手の間に一致ができ、人々は天主への畏敬の内に生きるようになるからです。」
「私はこの地上に緊急の呼びかけを送っています。私は天で生きかつしろしめし給う天主の真の弟子たちに呼びかけます。私は、人となり給いしキリスト、人類の唯一かつ真の救い主に真に倣う人々に呼びかけます。私の子供たち、私への真の信心を持つ人々、私が御子へと彼らを導けるように自らを私に委ねた人々、私がいわば両腕に抱いて運んでいる人々、私の精神において生きた人々に呼びかけます。そして最後に、最後の時代の使徒たちに、世をさげすみ、自分自身をさげすみ、清貧に謙遜に、軽蔑と沈黙の内に、祈りと苦業の内に、愛徳と天主との一致の内に、苦しみの内に、世に知られずに生きてきた、『イエズス・キリストの忠実な弟子たち』に呼びかけます。(...)」
四旬節です。謙遜に自分をさげすみ、そして天主への信頼を込めて、祈りましょう。
そこでトリエント公会議による公教要理の主祷文についての説明を聞きましょう。「天にまします」の祈りの深い意味を味わいながら、四旬節にこれを祈りましょう。
天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)
第12章 主祷文 天に在す我らの父よ
1.主イエズス・キリストが私たちにお残しになったこのキリスト教的祈祷文は、その構成上、私たちの祈りと願いとを言い表す前に、ある種の序文とも言うべき文句を述べるようになっています。しかるに、この「序文」に含まれる一つ一つの言葉は、敬虔な心をもって天主に近づく者に、よりいっそうの信頼をもってそのみ前に出るよう促すものです。司牧者の義務は、信徒がすすんで祈りに励み、また、当の祈りにおいて彼らが父なる天主に語りかけるものであることを悟るよう、これらの言葉を別々に、わかりやすく説明することです。
さて、当の序文は、言葉上はたいへん短いですが、しかしその言い表す内容を考えると、きわめて重要かつ神秘に満ちたものです。
§ I. 我らの父よ
2.さて、天主の命じ定められたところに従い、この祈祷文で私たちが最初に唱える言葉は「父」です。
なぜなら私たちの救い主は、この神的な祈りを「創造主」あるいは「主」といった、より荘厳な言葉で始めることがおできになりましたが、私たちの心に恐れの念を生じ得るこれらの語を用いるのをよしとされませんでした。
しかるに、祈る者、天主に何かを願う者に、愛と信頼の念を芽生えさせる、この「父」という言葉をお選びになりました。事実、仁慈と寛容の意味合いに富んだ、この「父」という言葉よりも快く甘美なものがあるでしょうか。
3.この名称が、天主にきわめてよく当てはまるものであることを信徒に示すための理由は、天主による万物の創造、統治、贖いから容易にくみ取ることができます。
天主が人間をご自分の似像にすがたに似せてお造りになり、また地上に生きる他のいかなる被造物にも、この特権をお与えにならなかったという、人類に与えられたこの特別の恵みのゆえに、聖書は天主を信徒、異教徒を問わず、全ての人の父と呼んでいます。
天主による天地万物の統治からも、天主がいかに父と呼ばれるにふさわしい方であるかを推し量ることができます。実際天主は、人々の利便を始終はからい、特別な配慮と御摂理をとおして、真に父らしい慈愛を私たちにお示しになります。
4.しかるに、人々に対する父なる天主のご配慮をよりよく示すために、人々の守護にあたる天使らについて、ここで一言述べることが適当であると思われます。
5.人類全体を保護し、またその一人々々を助け、種々の危害から守るというこの責務が天使たちに与えられたのは、他ならぬ天主の御摂理によるものです。
敵が潜む危険な道を子に旅させる親は、危難に遭う際の助け手となるべき守護者をつけるものです。同様に、天の祖国に至るべく私たちの歩むこの道程において、天の御父は私たち一人々々に天使をおつけになりました。それは、これら天使の助力と不断なる保護の下で、私たちが敵の隠した罠を避け、私たちに降りかかる恐るべき攻撃を打ち払うため、またその導きの下に正道を歩み、敵が道中に備えた惑わしに惹かれて天に至る道からそれることのないためにです。
6.さて、天主の人間に対する配慮かつ特別な御摂理は、本性上、両者の中間に在る天使らに、その具体的適用が使命として課されているのですが、これがいかに人々にとって有益なものであるかは、聖書中に見出されるおびただしい数の例が如実に示しています。かかる章句において、天使らが人々の目前で驚くべき業を成し遂げたことが記されていますが、これをとおして、守護の天使が目に見えない仕方で、数知れぬ同様の所業を、私たちの利善と救いのために為すものであることが分かります。
7.かくして、天主がトビアに旅の道連れかつ導き手としてお与えになった大天使ラファエルは、彼を首尾よく目的地へと至らせ、しかる後、無事に郷里へと帰還させたのでした。道中トビアが大魚に食べられそうになった際、この窮地から救い、魚の肝と胆汁、心臓とが含む薬効を教えたのは、他ならぬこのラファエルです。
また同じラファエルは、悪魔を追い払い、その力を封じ込めてトビアに害を為すのを妨げました。さらには、婚姻の、天主の法に適った真の則のりを青年トビアに教え、盲目になっていた父を癒したのもラファエルでした。
8.使徒らの長、聖ペトロを監獄から救い出した、かの天使も、天使の守護ならびに配慮がもたらす驚嘆すべき実りを信徒に示すための豊かな題材となります。司牧者は、当の天使が牢獄を照らし1、ペトロのわき腹にふれて起こし、鎖を解き、足かせを砕き、立ち上がってサンダルを履き、衣をまとって自らの後に従うよう命じたこと、またこの天使が警護の兵士らの間を何の妨げもなく通り過ぎ、牢獄の扉を開き、安全な場所に至らせたことを信徒に思い起こさせるべきです。
9.先に述べたとおり、この種の例は聖書中に散在しており、天主が天使らの仲介と執り成しによって人々にもたらされる善益が、いかに大きな効力を有するものであるかを浮き彫りにしています。事実、天主が私たちに天使らをお遣わしになるのは、個別の限られた物事に関してのみならず、私たちの生まれたその時から、たえず私たちを守るためにおつけになるのであり、また全ての人は、その救霊のために尽力する守護の天使の保護を各々受けるのです。
10.当の教えを入念に説くことによって、聴衆の心は奮い立ち、父なる天主が自分たちの上に注がれるご配慮とみ摂理とを認め、敬うよう促されるでしょう2。
11.ここで司牧者は、人類に対する天主の仁慈の、あふれるほど豊かな宝蔵を、ことさら強調して教え諭すべきです。なんとなれば、人類ならびに罪の元親であるアダムに始まって今日に至るまで、無数の罪悪と醜行とに耐えてこられた天主は、これにも関わらず、私たち人間に対する愛の御心をお失われにならず、格別の配慮をお注ぎになり続けられるからです。
12.天主が人々のことをお忘れになると考えるのは、愚昧ぐまいの極みであり、天主に対するこの上ない侮辱を為すこととなります。
事実、天主は、天の助力から見放されたと思いなしたイスラエルの民に対し、ご自分をぼうとくするものであるとして、御憤りをお示しになりました。これは出エジプト記中、「彼らは、『はたして天主は私たちのうちにおられるのか?』と言って主を試みた3」、またエゼキエルの書において、「当の民が『主は私たちを見ておられない。主は私たちを見放され、国を捨ておかれた』、と言ったので、天主はお憤りになった4」とあるとおりです。
したがって、聖書中のこれらの章句の権威によって、天主が人々のことをお忘れになり得るという、甚だ厭いとうべき見解を信徒がよもや抱くことのないよう図らねばなりません。
イザヤ書でも、イスラエルの民が天主に対する不平をもらしたこと、また天主が彼らの愚かな不平を、譬たとえをもってお退けになったことが述べられています。すなわち、「シオンは言った、『主は私を見捨て、私を忘れられた』と。女が、その乳飲み子を、母がその懐の子を忘れようか。よし忘れるものがあっても、私はおまえを忘れない。見よ、私はおまえを手の平に刻みつけた。5」とあるとおりです。
13.上記の引用箇所は、この点を明示してあまりありますが、天主が片時も人間のことをお忘れにならず、たゆまず慈父の愛をお示しになることを信徒に深く了解させるために、主任司祭は、皆に周知の人祖の例を引くべきです。
人祖が天主の掟を軽んじて、これを破ったとき、たしかに天主は彼をきわめて厳しくとがめ、次の言葉をもって断罪されました。「地はおまえのゆえに呪われよ!おまえは苦労して地から糧を得るだろう、命のつづく限り。地はおまえのために茨とあざみを生やし、おまえは地の草を食べねばならない。6」
しかる後、両人を楽園から追放し、そこに戻る望みを絶やすべく、火のケルビムを楽園の扉の前に置き、天使は「炎を放つ剣をたゆまずかざして」これを守りました。それのみならず、天主は、彼らがご自分に対して為した侮辱の報復として、人祖に諸々の内的および外的罰をお課しになりました。これら全てのことを見ると、人間の命運はもはや尽きたと思われないでしょうか。また、人類は天に見放されたのみならず、ありとあらゆる苦難にさらされたものと、私たちの目に映らないでしょうか。しかるに、かくも多くの天主の憤りと報復の印の中に、最初の人間に対する天主の慈愛の光明が現れました。「主なる天主は、アダムとその妻とのために、皮衣をつくり、彼らにお着せになった7」のです。このエピソードは、天主が人々をお見捨てになることは、決してないことを何よりも明らかに示しています。
14.天主の人間に対する愛が、これの犯す罪業のために尽きてしまうことは、およそあり得ないという事実を、ダビドは次の言葉で表しています。「天主は、よもや怒ってみ心を閉ざされ、あわれみをお忘れになるだろうか。8」
また、預言者ハバククは、天主にこう語りかけて同じ考えを示しています。「お怒りになるときも、御あわれみを思い起こしてください。9」
同じくミカヤは、「あなたのように咎とがを除き、あなたの世継ぎである民の、残りの者の罪をお見過ごしになる、そんな天主がふたりとあるでしょうか。天主は怒りをもちつづけず、あわれむことを喜びとされる。10」
15.実際、私たちが天主のご保護を失い、万事休したと思うまさにそのときこそ、天主はかぎりない仁慈の御心をもって、私たちを探し求め、ご配慮をお尽くしになるのです。なぜなら、天主はそのお怒りの中にも、正義の剣を差し控え、御あわれみの尽きせぬ宝を注ぐのをお止めにならないからです。
16.このように、万物の創造と統治とは、天主が人類を特筆すべき仕方で愛され、お守りになることを如実に示すものです。しかるに、人間の贖いの御業は、両者11の間にあって、かくも際立った輝きを放つのであり、きわみなく慈愛深き父なる天主が私たちに施されるご厚意の、まさに最たるものです。
17.それゆえ主任司祭は、自らの霊的な子らである信徒に、天主の私たちに対するこの比類なき愛を倦むことなく説き、自分たちが贖われ、驚嘆すべき仕方で天主の子となったことを教え諭すべきです。実に聖ヨハネが述べるとおり、天主は彼らにご自分の子となる権能を授け、かくして彼らは天主から生まれたからです。12
贖いの第一の保証かつ記念である洗礼が、「再生の秘蹟」と呼ばれるのも、まさにこのために他なりません。洗礼によってこそ、私たちは天主の子として生まれるからです。主ご自身、「霊から生まれたものは霊であり」、また「新たに生まれなければならない13」と述べておられるとおりです。同様に、使徒聖ペトロも「あなたたち[信徒]が新たに生まれたのは、朽ちる種によるのではなく、永遠に生きる天主のみことばの朽ちない種による14」ものであることを教えています。
18.当の贖いのおかげで私たちは聖霊を受け、また天主の恩寵を受けるに値する者となったのです。この賜によって私たちは天主の養子となるのですが、これは使徒パウロがローマ人への手紙で述べていることに他なりません。すなわち、「あなたたちは、再び恐れにおちいるために奴隷の霊を受けたのではなく、養子としての霊を受けた」のであり、「これによって私たちは『アッバ、父よ』と叫ぶ15」のです。天主の養子とされる、というこの驚くべき奥義の含む力と効果とを使徒ヨハネは、「御父がどれほどの私たちにお注ぎになったかを考えよ。私たちは天主のこと呼ばれ、また実にそのとおりだからである16」と述べて、示しています。
19.以上のことを説明した後、司牧者は、かくも慈愛に満ちた父なる天主に対して当然示すべき態度を信徒に教え諭さなければなりません。すなわち、自らの創造者、支配者、かつ贖い主である方に、どれほど強い愛、敬虔、従順ならびに崇敬の念を示し、またどれほど大きな希望と信頼とをもってその御名を呼び、これに祈るべきかを了解するよう尽力しなければなりません。
20.しかるに、順境ないしは思うように生活上のことがらが首尾よく進むことのみをもって、天主が私たちに対する愛をお保ちになることの証とし、反対に逆境や苦難が降りかかる際には、それを天主が私たちに対して敵対心を抱き、さらにはその御心を私たちからことごとく遠ざけられた印と見なす者がいるならば、かかる無知および誤謬を氷解するために、天主の御手が私たちを打つとき、主は敵意をもってこれをなさるのではおよそなく、かえって癒すためにこそ私たちの身を打たれること、また天主からもたらされた傷は薬に他ならないことを教示すべきです。
21.実際、天主が罪人を懲らしめられるのは、かかる懲罰によってこれをより善い者とし、現世における訓戒をもって永遠の滅びから救うために他なりません。たしかに「主は私たちの罪に、鞭をもって、また私たちの悪に、杖をもって訪れになる」としても、「私たちからその御あわれみを取り去られることはない」17からです。
22.したがって、信徒がこの種の懲罰の中に父なる天主の仁愛を認め、かつ忍耐心の比類なき模範であるヨブの言葉を心にとどめ、口で唱えるよう励まさねばなりません。すなわち「主は懲らしめた後に助け起こされ、むち打ったその同じ手で癒される18」のですが、これは預言者エレミアが、イスラエルの民の名において次のように述べていることと相通ずるものです。「あなたは私を、あたかも馴らされていない子牛のように懲らしめられ、しつけられました。私を立ち戻らせてください。そうすれば私は立ち戻ります。あなたは私の天主および主なのですから。19」
23.信徒の側においては、たとえどのような難儀をこうむったとしても、また、いかなる災厄に見舞われようとも、よもや天主がこれをご承知にならないと思いなすことのないよう、くれぐれも注意しなければなりません。
主ご自身が、「あなたたちの髪の毛一本さえ失われることはない20」、と確証しておられるからです。かえって、黙示録中の、「私は愛する者を責めて罰する21」という天主のみ言葉をもって自らを慰め、また使徒パウロがヘブライ人への手紙で、当地の信徒を激励すべく記した次の章句を乙のが身に当てはめて、心を落ち着けるべきです。「我が子よ,主の矯正を軽んじることなく、また主に咎とがめられてくじけてはならない。主は愛する者を懲らしめ、受け入れる子をすべてむち打たれるからである。あなたたちが試練を受けるのは、懲らしめのためであって、天主はあなたたちをこのように扱われる。もし懲らしめを受けなければ、あなたたちは私生児であって、真の子ではない。また、あなたたちを懲らしめる肉体の父親を敬っていたのなら、霊の父には、命を受けるために、なおさら服従しなければならない。22」
愛する兄弟姉妹の皆様、
ラ・サレットの聖母は、すべてが失われた、万事休すだ、と思われるほど事態が悪化したとき義人の祈りと犠牲とによってすべては天主の憐れみによって奇跡的な聖なる変化が起こる、と。こう言います。
「(...)人々はすべてが失われたと思うでしょう。どこを見ても人殺し、どこででも戦争の騒ぎと冒漬が聞かれるでしょう。義人は大いに苦しむでしょう。彼らの祈り、彼らの悔俊、彼らの涙は天にまで届き、すべての天主の民は赦しとあわれみを乞い、私の助けと取りなしを願うでしょう。その時、イエズス・キリストは、御正義の業によって、義人たちへの大いなるあわれみの業によって、天使たちに命じて、御自分のすべての敵を死にいたらせるでしょう。突然、イエズス・キリストの教会を迫害する者と罪に溺れた人々全員は滅び、地上は砂漠のようになるでしょう。その時平和になり、天主と人々との間に和解が成るでしょう。イエズス・キリストは仕えられ、崇められ、光栄をお受けになり、いたる所で愛徳の花が咲きみだれるでしょう。新しい王たちは聖なる教会の右腕となり、教会は強く、謙遜に、敬虔に、貧しく、熱心になり、イエズス・キリストの御徳に倣うものとなるでしょう。福音はどこでも宣べ伝えられ、人々は信仰において大いなる進歩を遂げるでしょう。それは、イエズス・キリストの働き手の間に一致ができ、人々は天主への畏敬の内に生きるようになるからです。」
「私はこの地上に緊急の呼びかけを送っています。私は天で生きかつしろしめし給う天主の真の弟子たちに呼びかけます。私は、人となり給いしキリスト、人類の唯一かつ真の救い主に真に倣う人々に呼びかけます。私の子供たち、私への真の信心を持つ人々、私が御子へと彼らを導けるように自らを私に委ねた人々、私がいわば両腕に抱いて運んでいる人々、私の精神において生きた人々に呼びかけます。そして最後に、最後の時代の使徒たちに、世をさげすみ、自分自身をさげすみ、清貧に謙遜に、軽蔑と沈黙の内に、祈りと苦業の内に、愛徳と天主との一致の内に、苦しみの内に、世に知られずに生きてきた、『イエズス・キリストの忠実な弟子たち』に呼びかけます。(...)」
四旬節です。謙遜に自分をさげすみ、そして天主への信頼を込めて、祈りましょう。
そこでトリエント公会議による公教要理の主祷文についての説明を聞きましょう。「天にまします」の祈りの深い意味を味わいながら、四旬節にこれを祈りましょう。
天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)
第12章 主祷文 天に在す我らの父よ
1.主イエズス・キリストが私たちにお残しになったこのキリスト教的祈祷文は、その構成上、私たちの祈りと願いとを言い表す前に、ある種の序文とも言うべき文句を述べるようになっています。しかるに、この「序文」に含まれる一つ一つの言葉は、敬虔な心をもって天主に近づく者に、よりいっそうの信頼をもってそのみ前に出るよう促すものです。司牧者の義務は、信徒がすすんで祈りに励み、また、当の祈りにおいて彼らが父なる天主に語りかけるものであることを悟るよう、これらの言葉を別々に、わかりやすく説明することです。
さて、当の序文は、言葉上はたいへん短いですが、しかしその言い表す内容を考えると、きわめて重要かつ神秘に満ちたものです。
§ I. 我らの父よ
2.さて、天主の命じ定められたところに従い、この祈祷文で私たちが最初に唱える言葉は「父」です。
なぜなら私たちの救い主は、この神的な祈りを「創造主」あるいは「主」といった、より荘厳な言葉で始めることがおできになりましたが、私たちの心に恐れの念を生じ得るこれらの語を用いるのをよしとされませんでした。
しかるに、祈る者、天主に何かを願う者に、愛と信頼の念を芽生えさせる、この「父」という言葉をお選びになりました。事実、仁慈と寛容の意味合いに富んだ、この「父」という言葉よりも快く甘美なものがあるでしょうか。
3.この名称が、天主にきわめてよく当てはまるものであることを信徒に示すための理由は、天主による万物の創造、統治、贖いから容易にくみ取ることができます。
天主が人間をご自分の似像にすがたに似せてお造りになり、また地上に生きる他のいかなる被造物にも、この特権をお与えにならなかったという、人類に与えられたこの特別の恵みのゆえに、聖書は天主を信徒、異教徒を問わず、全ての人の父と呼んでいます。
天主による天地万物の統治からも、天主がいかに父と呼ばれるにふさわしい方であるかを推し量ることができます。実際天主は、人々の利便を始終はからい、特別な配慮と御摂理をとおして、真に父らしい慈愛を私たちにお示しになります。
4.しかるに、人々に対する父なる天主のご配慮をよりよく示すために、人々の守護にあたる天使らについて、ここで一言述べることが適当であると思われます。
5.人類全体を保護し、またその一人々々を助け、種々の危害から守るというこの責務が天使たちに与えられたのは、他ならぬ天主の御摂理によるものです。
敵が潜む危険な道を子に旅させる親は、危難に遭う際の助け手となるべき守護者をつけるものです。同様に、天の祖国に至るべく私たちの歩むこの道程において、天の御父は私たち一人々々に天使をおつけになりました。それは、これら天使の助力と不断なる保護の下で、私たちが敵の隠した罠を避け、私たちに降りかかる恐るべき攻撃を打ち払うため、またその導きの下に正道を歩み、敵が道中に備えた惑わしに惹かれて天に至る道からそれることのないためにです。
6.さて、天主の人間に対する配慮かつ特別な御摂理は、本性上、両者の中間に在る天使らに、その具体的適用が使命として課されているのですが、これがいかに人々にとって有益なものであるかは、聖書中に見出されるおびただしい数の例が如実に示しています。かかる章句において、天使らが人々の目前で驚くべき業を成し遂げたことが記されていますが、これをとおして、守護の天使が目に見えない仕方で、数知れぬ同様の所業を、私たちの利善と救いのために為すものであることが分かります。
7.かくして、天主がトビアに旅の道連れかつ導き手としてお与えになった大天使ラファエルは、彼を首尾よく目的地へと至らせ、しかる後、無事に郷里へと帰還させたのでした。道中トビアが大魚に食べられそうになった際、この窮地から救い、魚の肝と胆汁、心臓とが含む薬効を教えたのは、他ならぬこのラファエルです。
また同じラファエルは、悪魔を追い払い、その力を封じ込めてトビアに害を為すのを妨げました。さらには、婚姻の、天主の法に適った真の則のりを青年トビアに教え、盲目になっていた父を癒したのもラファエルでした。
8.使徒らの長、聖ペトロを監獄から救い出した、かの天使も、天使の守護ならびに配慮がもたらす驚嘆すべき実りを信徒に示すための豊かな題材となります。司牧者は、当の天使が牢獄を照らし1、ペトロのわき腹にふれて起こし、鎖を解き、足かせを砕き、立ち上がってサンダルを履き、衣をまとって自らの後に従うよう命じたこと、またこの天使が警護の兵士らの間を何の妨げもなく通り過ぎ、牢獄の扉を開き、安全な場所に至らせたことを信徒に思い起こさせるべきです。
9.先に述べたとおり、この種の例は聖書中に散在しており、天主が天使らの仲介と執り成しによって人々にもたらされる善益が、いかに大きな効力を有するものであるかを浮き彫りにしています。事実、天主が私たちに天使らをお遣わしになるのは、個別の限られた物事に関してのみならず、私たちの生まれたその時から、たえず私たちを守るためにおつけになるのであり、また全ての人は、その救霊のために尽力する守護の天使の保護を各々受けるのです。
10.当の教えを入念に説くことによって、聴衆の心は奮い立ち、父なる天主が自分たちの上に注がれるご配慮とみ摂理とを認め、敬うよう促されるでしょう2。
11.ここで司牧者は、人類に対する天主の仁慈の、あふれるほど豊かな宝蔵を、ことさら強調して教え諭すべきです。なんとなれば、人類ならびに罪の元親であるアダムに始まって今日に至るまで、無数の罪悪と醜行とに耐えてこられた天主は、これにも関わらず、私たち人間に対する愛の御心をお失われにならず、格別の配慮をお注ぎになり続けられるからです。
12.天主が人々のことをお忘れになると考えるのは、愚昧ぐまいの極みであり、天主に対するこの上ない侮辱を為すこととなります。
事実、天主は、天の助力から見放されたと思いなしたイスラエルの民に対し、ご自分をぼうとくするものであるとして、御憤りをお示しになりました。これは出エジプト記中、「彼らは、『はたして天主は私たちのうちにおられるのか?』と言って主を試みた3」、またエゼキエルの書において、「当の民が『主は私たちを見ておられない。主は私たちを見放され、国を捨ておかれた』、と言ったので、天主はお憤りになった4」とあるとおりです。
したがって、聖書中のこれらの章句の権威によって、天主が人々のことをお忘れになり得るという、甚だ厭いとうべき見解を信徒がよもや抱くことのないよう図らねばなりません。
イザヤ書でも、イスラエルの民が天主に対する不平をもらしたこと、また天主が彼らの愚かな不平を、譬たとえをもってお退けになったことが述べられています。すなわち、「シオンは言った、『主は私を見捨て、私を忘れられた』と。女が、その乳飲み子を、母がその懐の子を忘れようか。よし忘れるものがあっても、私はおまえを忘れない。見よ、私はおまえを手の平に刻みつけた。5」とあるとおりです。
13.上記の引用箇所は、この点を明示してあまりありますが、天主が片時も人間のことをお忘れにならず、たゆまず慈父の愛をお示しになることを信徒に深く了解させるために、主任司祭は、皆に周知の人祖の例を引くべきです。
人祖が天主の掟を軽んじて、これを破ったとき、たしかに天主は彼をきわめて厳しくとがめ、次の言葉をもって断罪されました。「地はおまえのゆえに呪われよ!おまえは苦労して地から糧を得るだろう、命のつづく限り。地はおまえのために茨とあざみを生やし、おまえは地の草を食べねばならない。6」
しかる後、両人を楽園から追放し、そこに戻る望みを絶やすべく、火のケルビムを楽園の扉の前に置き、天使は「炎を放つ剣をたゆまずかざして」これを守りました。それのみならず、天主は、彼らがご自分に対して為した侮辱の報復として、人祖に諸々の内的および外的罰をお課しになりました。これら全てのことを見ると、人間の命運はもはや尽きたと思われないでしょうか。また、人類は天に見放されたのみならず、ありとあらゆる苦難にさらされたものと、私たちの目に映らないでしょうか。しかるに、かくも多くの天主の憤りと報復の印の中に、最初の人間に対する天主の慈愛の光明が現れました。「主なる天主は、アダムとその妻とのために、皮衣をつくり、彼らにお着せになった7」のです。このエピソードは、天主が人々をお見捨てになることは、決してないことを何よりも明らかに示しています。
14.天主の人間に対する愛が、これの犯す罪業のために尽きてしまうことは、およそあり得ないという事実を、ダビドは次の言葉で表しています。「天主は、よもや怒ってみ心を閉ざされ、あわれみをお忘れになるだろうか。8」
また、預言者ハバククは、天主にこう語りかけて同じ考えを示しています。「お怒りになるときも、御あわれみを思い起こしてください。9」
同じくミカヤは、「あなたのように咎とがを除き、あなたの世継ぎである民の、残りの者の罪をお見過ごしになる、そんな天主がふたりとあるでしょうか。天主は怒りをもちつづけず、あわれむことを喜びとされる。10」
15.実際、私たちが天主のご保護を失い、万事休したと思うまさにそのときこそ、天主はかぎりない仁慈の御心をもって、私たちを探し求め、ご配慮をお尽くしになるのです。なぜなら、天主はそのお怒りの中にも、正義の剣を差し控え、御あわれみの尽きせぬ宝を注ぐのをお止めにならないからです。
16.このように、万物の創造と統治とは、天主が人類を特筆すべき仕方で愛され、お守りになることを如実に示すものです。しかるに、人間の贖いの御業は、両者11の間にあって、かくも際立った輝きを放つのであり、きわみなく慈愛深き父なる天主が私たちに施されるご厚意の、まさに最たるものです。
17.それゆえ主任司祭は、自らの霊的な子らである信徒に、天主の私たちに対するこの比類なき愛を倦むことなく説き、自分たちが贖われ、驚嘆すべき仕方で天主の子となったことを教え諭すべきです。実に聖ヨハネが述べるとおり、天主は彼らにご自分の子となる権能を授け、かくして彼らは天主から生まれたからです。12
贖いの第一の保証かつ記念である洗礼が、「再生の秘蹟」と呼ばれるのも、まさにこのために他なりません。洗礼によってこそ、私たちは天主の子として生まれるからです。主ご自身、「霊から生まれたものは霊であり」、また「新たに生まれなければならない13」と述べておられるとおりです。同様に、使徒聖ペトロも「あなたたち[信徒]が新たに生まれたのは、朽ちる種によるのではなく、永遠に生きる天主のみことばの朽ちない種による14」ものであることを教えています。
18.当の贖いのおかげで私たちは聖霊を受け、また天主の恩寵を受けるに値する者となったのです。この賜によって私たちは天主の養子となるのですが、これは使徒パウロがローマ人への手紙で述べていることに他なりません。すなわち、「あなたたちは、再び恐れにおちいるために奴隷の霊を受けたのではなく、養子としての霊を受けた」のであり、「これによって私たちは『アッバ、父よ』と叫ぶ15」のです。天主の養子とされる、というこの驚くべき奥義の含む力と効果とを使徒ヨハネは、「御父がどれほどの私たちにお注ぎになったかを考えよ。私たちは天主のこと呼ばれ、また実にそのとおりだからである16」と述べて、示しています。
19.以上のことを説明した後、司牧者は、かくも慈愛に満ちた父なる天主に対して当然示すべき態度を信徒に教え諭さなければなりません。すなわち、自らの創造者、支配者、かつ贖い主である方に、どれほど強い愛、敬虔、従順ならびに崇敬の念を示し、またどれほど大きな希望と信頼とをもってその御名を呼び、これに祈るべきかを了解するよう尽力しなければなりません。
20.しかるに、順境ないしは思うように生活上のことがらが首尾よく進むことのみをもって、天主が私たちに対する愛をお保ちになることの証とし、反対に逆境や苦難が降りかかる際には、それを天主が私たちに対して敵対心を抱き、さらにはその御心を私たちからことごとく遠ざけられた印と見なす者がいるならば、かかる無知および誤謬を氷解するために、天主の御手が私たちを打つとき、主は敵意をもってこれをなさるのではおよそなく、かえって癒すためにこそ私たちの身を打たれること、また天主からもたらされた傷は薬に他ならないことを教示すべきです。
21.実際、天主が罪人を懲らしめられるのは、かかる懲罰によってこれをより善い者とし、現世における訓戒をもって永遠の滅びから救うために他なりません。たしかに「主は私たちの罪に、鞭をもって、また私たちの悪に、杖をもって訪れになる」としても、「私たちからその御あわれみを取り去られることはない」17からです。
22.したがって、信徒がこの種の懲罰の中に父なる天主の仁愛を認め、かつ忍耐心の比類なき模範であるヨブの言葉を心にとどめ、口で唱えるよう励まさねばなりません。すなわち「主は懲らしめた後に助け起こされ、むち打ったその同じ手で癒される18」のですが、これは預言者エレミアが、イスラエルの民の名において次のように述べていることと相通ずるものです。「あなたは私を、あたかも馴らされていない子牛のように懲らしめられ、しつけられました。私を立ち戻らせてください。そうすれば私は立ち戻ります。あなたは私の天主および主なのですから。19」
23.信徒の側においては、たとえどのような難儀をこうむったとしても、また、いかなる災厄に見舞われようとも、よもや天主がこれをご承知にならないと思いなすことのないよう、くれぐれも注意しなければなりません。
主ご自身が、「あなたたちの髪の毛一本さえ失われることはない20」、と確証しておられるからです。かえって、黙示録中の、「私は愛する者を責めて罰する21」という天主のみ言葉をもって自らを慰め、また使徒パウロがヘブライ人への手紙で、当地の信徒を激励すべく記した次の章句を乙のが身に当てはめて、心を落ち着けるべきです。「我が子よ,主の矯正を軽んじることなく、また主に咎とがめられてくじけてはならない。主は愛する者を懲らしめ、受け入れる子をすべてむち打たれるからである。あなたたちが試練を受けるのは、懲らしめのためであって、天主はあなたたちをこのように扱われる。もし懲らしめを受けなければ、あなたたちは私生児であって、真の子ではない。また、あなたたちを懲らしめる肉体の父親を敬っていたのなら、霊の父には、命を受けるために、なおさら服従しなければならない。22」