アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様、
昨日2015年5月17日の主日にレネー神父様が大阪で聖伝のミサを捧げて下さいました。天主様に感謝!
レネー神父様のお説教をご紹介します。
イエズス・キリストが天主聖父から生まれたとはどのようなことでしょうか?
聖父が聖子を「生む」とはどのようなことでしょうか。
イエズス・キリストの昇天の意味は何でしょうか? 私たちにとってどれほど有益なものだったのでしょうか?
イエズス・キリストが「聖父のもとに帰る」とは、天主に捧げられた人類の「初穂」として最初に復活し、キリストがこの世から御父のもとへお戻りになるのは、お一人だけでなく、天主の栄光への捧げものとして、キリストの神秘体のメンバーと共に聖父のもとにお戻りになるのです。
初穂であるキリストと共にいる天の聖人たちは、キリストと共に「御父に渡され、捧げられ」、自分たちのためではなく、いとも聖なる三位一体の栄光のために、生きています。天主のために生き、天主において喜ぶのです。
御昇天においては、キリストは、お一人だけではなく、戦利品である聖人たちと共に聖父の元に戻られます。そして、彼らを御父にお捧げになるのです。
どうぞ、この素晴らしいお説教をお読み下さい。
天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)
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主の御昇天後の主日の説教―大阪
「私は父から出て世に来たが、
今や世を去って父のもとに行く」
(ヨハネ16章28節)
最後の晩餐の間に、私たちの主イエズス・キリストはこの言葉を言われました。これによって、主は御昇天を予言なさったのです。単純で理解しやすいように思えますが、これは偉大な神秘であり、黙想するのにふさわしい美しさがあります。
表面的に理解するのなら、故郷の町を離れて友を訪ね、そして故郷に帰る人のようだと考えられるでしょう。しかし、これはまさに世俗的な理解に過ぎません。実際、天主は霊的でどこにでもおられます。では、「私は父から出て」とはどういう意味でしょうか。また御父はどこにでもおられるのですから、「父のもとに行く」とはどういう意味でしょうか。
聖ヨハネ福音書(3章)の最初のニコデモとの会話の中にある、私たちの主イエズス・キリストのもう一つの言葉が、おそらくこの初めの「私は父から出て」という言葉を理解するのを助けてくれるでしょう。イエズスは言われました。「天から下った人のほか、天に昇った者はない、それは人の子である」(ヨハネ3章13節)。主はまた、後にファリザイ人に言われました。「あなたたちは下からの者であり、私は上からの者である」(ヨハネ8章23節)。
私たちは皆、天主によって造られましたが、私たちの主イエズス・キリストは、まったく違った方法で御父から来られました。私たちは「天主によって無から造られ」ました。私たちの主イエズス・キリストは、私たちが信経で言うように、「造られずして[御父から]生まれ」た天主の御子です。主の本性そのものは御父の本性から来ているのであり、その本性は造られたのではありません。さて、天主は本質的に霊的であり、「切り分け」られませんから、御父が天主の本性の「一部」を御子にお与えになることはできませんでした。つまり御父は御子に天主の本性全体をお与えになったのです。ですから、「御父から生まれ」たというのは、御父の天主の本性全体を受けたということであり、ですから御父と等しいということです。これが、主が「私は父から出た」という言葉でおっしゃっていることなのです。私は父の愛する独り子、永遠において父から生まれたのである、ということです。
実際、天主にとっては時間というものはありません。永遠の中のある瞬間、常に現在であって過ぎ去ることは決してない安定したある瞬間、その瞬間において御父はみ言葉を発し給い、御子をお生みになり、御子は天主の本性をすべて所有し、御父と等しい者として、完璧にお生まれになったのです。聖パウロが言うように、キリストは、「天主と等しい」(フィリッピ2章6節)ことを固持しようとされませんでした。ファリザイ人たちはこのことをよく理解していましたから、「自分を天主と等しい者としたという理由で」主を石殺しにしようとしました。彼らは信じることを拒絶しましたが、主が言われたことをよく理解していたのです。ですから反対に、主は彼らに、ご自分のことを誤解しているとは言われませんでした。
御父は御子を物質的な方法ではお生みになりません。天主は純粋な霊です。御子は「天主のみ言葉」です。実際、霊の最初の活動は考えることであり、私たちでさえそうです。天主は私たちに知性をお与えになりました。私たちが考えるとき、心の中で自分に話しかけます。それを、「概念、英語ではコンセプト(concept)」、つまり考えを持つ、と言います。そのような考えを「コンセプト(concept)」と呼ぶのは、私たちがそれを孕む(英語ではconceiveという)からです。しかし私たちにとっては、私たちの考えが非常に小さいため、むしろ、英語で同じように「コンセプト(concept)」と呼ばれる小さな胎児のようなものです。ですから私たちは、私たちの周りの世界をもう少し理解するためにもたくさんの考えを必要とします。しかし天主は完全です。天主はすべてのものを一度に理解しておられ、天主が知っておられることのすべて、天主が天主であることのすべてを十分に言い表す一つの完全な言葉によって、天主の無限の知識全体を表現されたのです。これこそが天主のみ言葉です。この天主のみ言葉はまことに完全ですから、小さな「コンセプト」ではなく、完全に大人に成長した御子であって御父と等しい御者です。実際、天主が何者であるかを的確に表現しうるのは、天主をおいてありません。御子は永遠の知恵のみ言葉、それによってすべてのものが造られた全能のみ言葉、すべてを包み込むみ言葉です。これが、イエズスが「私は父から出た」と言われた意味なのです。預言者は叫びます。「誰がその行く末のために悲しむだろう?」(イザヤ53章8節)。
天主は愛です。このことから、聖トマス・アクィナスが言うように、天主のみ言葉は「愛を呼吸するみ言葉」です。御父と御子はお互いを完全に愛するがゆえに、この燃え上がる火から第三のペルソナが、愛の炎、天主の愛の炎として発出するのです。これが聖霊です。聖霊は聖性の霊であり、実際、聖性はすべてを超えて天主を愛することにあるのです。ですから、その愛も永遠で全能であり、すべてを包み込むのです。
このように、天主の御子は御父のもとから来られました。この世に入って来られたのです。これがご托身です。御子は、童貞聖マリアのいとも清らかなご胎内で、聖霊の御働きによって肉体をお取りになりました。「み言葉は人となって、私たちのうちに住まわれた。(私たちはその栄光を見た。それは、御独り子として御父から受けられた栄光であって、)恩寵と真理に満ちておられた」(ヨハネ1章14節)。これを書いた人は祝されて直接の証人になり、私たちの主イエズス・キリストを見て、声を聞いて、お体に触れることさえしました。彼は書簡で言います。「初めからあったこと、私たちの聞いたこと、目で見たこと、眺めて手で触れたこと、すなわち命のみ言葉について―そうだ、この命は現れた、私たちはそれを証明する。御父のみもとにあっていま私たちに現れた永遠の命をあなたたちに告げる―、あなたたちを私たちに一致させるために、私たちは見たこと聞いたことを告げる。私たちのこの一致は、御父と御子イエズス・キリストのものである。私たちの喜びを全うするために私はこれらのことを書き送る」(ヨハネ第一1章1-4節)。これがご托身です。ご托身の目的は次のように美しく述べられます。天主との友好関係、つまり「御父と御子のものである一致」を回復させるためである、と。
この目的を達成することが、まさに贖いのわざなのです。イエズスは救うために来られました。「彼は罪から民を救う方だからである」(マテオ1章21節)。イエズスは十字架によって私たちをお救いになりました。またこれは、「今や世を去って」という一節が意味するところでもあります。実際、私たちは「世を去った霊魂」と言います。死はこの世を去る確実な方法です。このことは、ご自分の死を支配しておられた私たちの主イエズス・キリストにずっとよく当てはまります。ですから主は言われました。「私が命を再び取り戻せるよう自分の命を与えるからである。その命は私から奪い取るものではなく、私がそれを与える。私にはそれを与える権威があり、また取り戻す権威もある。それは私が父から受けた命令である」(ヨハネ10章17-18節)。
しかし、主はその死のすぐあとの三日目に復活されましたから、「いまや世を去って」という言葉を御昇天にも適用できるのではないでしょうか。実際、御昇天の日は、使徒たちが肉体の目で主を見た最後の日でした。主は使徒たちを祝福しながら天に昇られ、雲に包まれ、使徒たちはもう主を見なくなりました。ですから、主はこの世を去られたのです。
聖トマス・アクィナスは、御昇天は多くの点で私たちに有益であったと教えています。第一に、御昇天は私たちの心を天のものに引きつけてくれます。「あなたの宝のあるところには、あなたの心もある」(マテオ6章21節)。私たちの宝は私たちの主イエズス・キリストであり、今や主は天におられます。ですから、私たちの心は天にあるべきです。聖パウロは言います。「あなたたちがキリストと共によみがえったのなら、上のことを求めよ。キリストはそこで、天主の右に座し給う。地上のことではなく上のことを慕え。あなたたちは[罪に/この世界に]死んだ者であって、その命はキリストと共に天主の国の中に隠されているからである」(コロサイ3章1-3節)。
第二に、御昇天は信仰に対するより大きな功徳を与えてくれます。もし、私たちが地上のどこかへ行って、復活してまだ生きておられるキリストを見ることができるとすれば、私たちの信仰が受ける功徳は今よりずっと小さくなることでしょう。しかし、今は「私を見ずに信じる人は幸いである」(ヨハネ20章29節)。
第三に、御昇天は私たちのキリストに対する崇敬を増加させます。それは、主が今「全能の御父である天主の右に座し」ておられるからです。そのため、主に対する愛をも増加させるのです。
第四に、主が「私はあなたたちのために場所を準備しに行く。そして、行って場所を準備したら、あなたたちを共に連れていくために帰ってくる。私のいる所にあなたたちも来させたいからである」(ヨハネ14章2-3節)と言われたように、主は私たちのための場所を準備なさっているからです。
最後に大切なことですが、御父の右で、主は聖パウロが言うように「私たちのために取り次ごうとして常に生き」(ヘブライ7章25節)ておられるからです。
このように、「今やこの世を去って、父のもとに行く」(ヨハネ16章28節)というのは、御昇天を表しています。しかし、御昇天には二つの側面があります。一つはこの世からの出発であり、これは目に見え、理解しやすいものです。もう一つは到着です。これは理解するのは簡単ではありません。実際、天主はどこにでもおられるのですから、「私は父のもとに行く」とはどういう意味でしょうか?
聖トマス・アクィナスがすでに説明したように、私たちの主イエズス・キリストは天主の本性ばかりでなく、人間の本性においてもすべての被造物、最も高位の天使たちをも超えておられるということを意味しているのは確実です。これが「全能の父なる天主の右に座し給う」ことの意味していることです。主の栄光は、主の犠牲に対する報いであり、贖いのわざへの報いです。聖パウロはいいます。「死ぬまで、十字架上に死ぬまで、自分を卑しくして従われた。そこで天主はキリストを称揚し、すべての名にまさる名を与えられた。それはイエズスの御名の前に、天にあるものも、地にあるものも、地の下にあるものも皆ひざをかがめ、すべての舌が父なる天主の光栄をあがめ、『イエズス・キリストは主である』と宣言するためである」(フィリッピ2章8-11節)。
しかし私は、この「父のもとに帰る」にはさらに意味があると思います。聖パウロはコリント人へ言います。「すべての人がアダムによって死ぬように、すべての人はキリストによって生き返る。しかしそこに順序があり、まず初穂であるキリスト、次に、来臨の時キリストの者である人々が続く。そして終わりが来る。そのときキリストはすべての権勢、能力、権力を倒し、父なる天主に国を渡される。キリストはすべての敵をその足の下に置くまで支配せねばならぬ。最後の敵として倒されるのは死である。『天主は、すべてをその足の下に置き給うた』からである。…すべてのものがその下に置かれるとき、子自らもすべてをご自分の下に置いたお方に服従するであろう。それは天主がすべてにおいてすべてとなるためである」(コリント第一15章22-28節)。
この「初穂」という言葉そのものが、いけにえの意味を背景にしていることを示しています。すべての木や動物の初穂は、旧約においては天主に捧げられねばなりませんでした。今ここで聖パウロが言うのは、キリストは(その人間の本性において)天主に捧げられた人類の「初穂」として最初に復活し、その後、キリストの神秘体のメンバー、そしてほかのすべての人々が復活するということです。その後、キリストは「父なる天主に国を渡される」のです。これも捧げものをすることであり、キリストがこの世から御父のもとへお戻りになるのは、お一人だけでなく、天主の栄光への捧げものとしてキリストの神秘体のメンバーと共にお戻りになるのです。実際、イエズスはニコデモに言われました。「天から下った人のほか、天に昇った者はない、それは人の子である」(ヨハネ3章13節)。これは、誰も天に昇る者はいないという意味でしょうか? 聖アウグスティヌスは言います。「主はお一人で天から下って来られたが、天に戻られるのはキリストの神秘体、すなわち教会のメンバー、その良きメンバーと共にである。その前に主は、世の終わりの大審判において、ご自分の国から恥ずべきことをすべて洗い流される」。
ですから、天の聖人たちは「御父に渡され、捧げられ」ています。聖人たちは永遠に生きますが、自分たちのためではなく、いとも聖なる三位一体の栄光のために生きるのです。ここにこそ、聖人たちの至福、終わりなき幸いがあるのであり、至高なる善(である天主)における喜びがあるのです。自分たちのために生きるのではなく、天主のために生き、天主において喜ぶのです。
御昇天においては、この側面が大変重要だと私は思います。キリストはその任務を果たされ、御父のもとに戻られます。しかし、お一人だけではありません。その戦利品である聖人たちと共に戻られます。そして、彼らを御父にお捧げになるのです。主は彼らを祝福し、御父と顔と顔を合わせて見るように、み言葉を聞くように、聖霊の愛と共に永遠に燃えるようにさせてくださるのです。このように、御昇天が完成するのは、キリストの神秘体全体がそのかしらと共にいるようになるときです。主が、次の驚くべき祈りをなさったように。「父よ、あなたの与え給うた人々が、私のいる所に、私と共にいることを望みます。それは、あなたが私に与え給うた光栄を、彼らに見せるためであります。あなたは、世の始まるよりも前に、私を愛し給いました」(ヨハネ17章24節)。
親愛なる兄弟の皆さん、キリストにおける贖いという天主のご計画を理解しましょう。そして、地上のものごとすべてを忘れ去ることよって、また心のすべてでこの天の目的を追求することによって、キリストと共にあり、永遠にその栄光を見るというこのご計画に完全に入っていきましょう。そのために、王の右にいる王妃(詩篇44章参照)として、すでにそこにおられる童貞聖マリアに乞い求めましょう。私たちが主イエズス・キリストとその掟に忠実に生き、信仰を守り実践するために全力を尽くし、その結果、天国でのこの究極の目的に到達することができますように。アーメン。
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Sermon at Seoul on the Ascension – and Osaka on Sunday.
“I came forth from the Father,
and am come into the world:
again I leave the world,
and I go to the Father”
(Jn. 16:28).
During the last supper, our Lord Jesus Christ said these words. Thereby he prophesised His Ascension. It seems simple and easy to understand, yet it is a great mystery, beautiful to contemplate.
A superficial understanding would give the idea of someone leaving his home-city and visiting a friend, and then returning home. But this would be a very material understanding. Indeed, God is spiritual and is everywhere! So what does that mean “I came forth from the Father”? And what does that mean: “I go to the Father”? since the Father is everywhere!
Perhaps another phrase of our Lord Jesus Christ, at the very beginning of St John’s gospel in his talk with Nicodemus, helps to understand this one. Jesus said: “no man hath ascended into heaven, but he that descended from heaven, the Son of man who is in heaven” (Jn. 3:13). He also said later to the Pharisees: “You are from beneath, I am from above” (Jn. 8:23).
We have all been created by God, but our Lord Jesus Christ comes from the Father in a very different way. We are “made by God out of nothing”; our Lord Jesus Christ is the Son of God, “born [of Father], nor made” as we say in the Creed: his very substance comes from the substance of the Father, it is not a created substance. Now God’s nature is spiritual, it cannot be “cut in parts”: the Father could not give a “part” of his Divine Substance to His Son: the Father gave to His Son His whole Divine Substance; hence to be “begotten from the Father” means to receive the whole divine substance from the Father, and hence to be equal to the Father. This is thus what our Lord means when He says: “I came forth from the Father”: I am the only-begotten beloved Son of the Father, born of the Father from all eternity.
Indeed in God there is no time: in the one moment of eternity, stable moment which is always present and never passes, in that one moment the Father says His Word, begets His Son, and the Son is perfectly begotten, possessing the full Divine Nature, equal with the Father. As St Paul says, for Christ it was not robbery to be “equal with God” (Phil. 2:6). The Pharisees had understood it well, who wanted to stone Him “because He made Himself equal with God”. They refused to believe, but they had understood well what He meant; and our Lord did not tell them that they misunderstood Him, on the contrary.
The Father does not beget the Son in a material way: God is a pure spirit. The Son is the “Word of God”. Indeed the very first activity of a spirit is to think; even ourselves, God gave us an intelligence, and when we think we speak to ourselves in our mind: we say that we have “concepts”, ideas. We call them “concepts” because we conceive them. But for us, our ideas are so little, tiny, that they are more comparable to small foetuses, “concepts”. And we need many ideas to understand a little more the world around us. But God is perfects; He understands all things at once, and expressed His whole infinite knowledge in one perfect word, that fully says all what He knows, all what He is: His Word. This Word of God is so perfect that it is not a small “concept”, but rather a full-grown Son, equal with the Father. Indeed nothing less than God can adequately express what God is! He is the Eternal Word of Wisdom, Almighty Word by which all things were made, all-encompassing Word. This is what Jesus meant, saying: “I came forth from the Father”! The prophet exclaims: “who shall declare his generation?” (Is. 53:8).
God is Charity; hence the Word of God is a “Word breathing love”, as St Thomas Aquinas says . The Father and the Son love one another so perfectly that from this burning fire there proceeds a third Person, as a Flame of Love, of Divine Charity: the Holy Ghost! He is the Spirit of Holiness, and indeed holiness consists in loving God above all things. And that love too is eternal, almighty, all-encompassing.
So the Son of God came forth from the Father. And He is come into the world. This means the Incarnation: He took flesh in the most pure womb of the Blessed Virgin Mary by the operation of the Holy Ghost: “And the Word was made flesh, and dwelt among us, (and we saw his glory, the glory as it were of the only begotten of the Father,) full of grace and truth” (Jn. 1:14). The one who says that was blessed to be first-hand witness, who had seen, heard and even touched our Lord Jesus Christ, as he wrote in his epistle: “That which was from the beginning, which we have heard, which we have seen with our eyes, which we have looked upon, and our hands have handled, of the word of life: For the life was manifested; and we have seen and do bear witness, and declare unto you the life eternal, which was with the Father, and hath appeared to us: That which we have seen and have heard, we declare unto you, that you also may have fellowship with us, and our fellowship may be with the Father, and with his Son Jesus Christ. And these things we write to you, that you may rejoice, and your joy may be full” (1 Jn. 1:1-4). This is the Incarnation! And its goal is beautifully said: to restore the friendship with God, “fellowship with the Father and the Son.”
To fulfil this goal is the very work of Redemption: Jesus came to save: “he shall save his people from their sins” (Mt. 1:21). He saved us by His Cross. And this is also what is meant by the next member of phrase: “again I leave the world.” Indeed we speak of “departed souls”: death is a certain way to leave the world. This is so much more true for our Lord Jesus Christ who was in control of His death, as He said: “I lay down my life, that I may take it again. No man taketh it away from me: but I lay it down of myself, and I have power to lay it down: and I have power to take it up again. This commandment have I received of my Father” (Jn. 10:17-18).
But since He rose shortly after His death, on the third day, we may apply these words to His Ascension: “again I leave the world.” Indeed the day of the Ascension was the very last day that the Apostles saw Him with the eyes of the body: He went up, blessing them, and was caught up in the clouds and they did not see Him anymore. So He left then this world.
St Thomas Aquinas teaches us that the Ascension was useful for us in many ways. First it draws our heart to the heavenly things: “For where thy treasure is, there is thy heart also” (Mt. 6:21). Our treasure is our Lord Jesus Christ, who now is in Heaven, therefore our heart ought to be in heaven, as St Paul says: “Therefore, if you be risen with Christ, seek the things that are above; where Christ is sitting at the right hand of God: Mind the things that are above, not the things that are upon the earth. For you are dead [to sin/to the world]; and your life is hid with Christ in God” (Col. 3:1-3).
Secondly, it gives us a greater merit for faith: if we could go somewhere on earth and see Christ risen and still living, our faith would have much less merit; but now “blessed are they that have not seen, and have believed” (Jn. 20:29).
Thirdly, it increases our reverence for Christ, since He is now “sitting at the right hand of God the Father almighty!” And therefore it increases our love for Him also.
Fourthly because He is preparing a place for us, as He said: “I go to prepare a place for you. And if I shall go, and prepare a place for you, I will come again, and will take you to myself; that where I am, you also may be” (Jn. 14:2-3).
And last but not least, at the right hand of the Father He is “always living to make intercession for us” as St Paul says to the Hebrews (Heb. 7:25).
Thus “I leave the world, and I go to the Father” (Jn. 16:28) signifies the Ascension. But there are two aspect to the Ascension: the departure from the world, which was visible and is easy to understand; and the arrival: and that is not easy to understand. Indeed, since God is everywhere, what does that mean “I go to the Father”?
As St Thomas explained above, it certainly means that our Lord Jesus Christ, not only in His Divine nature, but even in his human nature transcends all creatures, even the highest angels. This is what is meant by “sitting at the right hand of God the Father almighty”. His glorification is the reward of His sacrifice, the reward of the work of Redemption, as St Paul wrote: “He humbled himself, becoming obedient unto death, even to the death of the cross. For which cause God also hath exalted him, and hath given him a name which is above all names: That in the name of Jesus every knee should bow, of those that are in heaven, on earth, and under the earth: And that every tongue should confess that the Lord Jesus Christ is in the glory of God the Father” (Phil. 2:8-11).
But I think there is more to this “return to the Father”. St Paul says to the Corinthians: “as in Adam all die, so also in Christ all shall be made alive. But every one in his own order: the first-fruits Christ, then they that are of Christ, who have believed in his coming. Afterwards the end, when he shall have delivered up the kingdom to God and the Father, when he shall have brought to nought all principality, and power, and virtue. For he must reign, until he hath put all his enemies under his feet. And the enemy death shall be destroyed last: For he hath put all things under his feet… And when all things shall be subdued unto him, then the Son also himself shall be subject unto him that put all things under him, that God may be all in all” (1 Cor. 15:22-28).
The very word “first-fruits” shows that we are in a sacrificial context: the first fruits of all trees and animals had to be offered to God in the Old Testament. Now here St Paul says that Christ (in His human nature) rose first, as the “first-fruit” of mankind offered to God; then the members of Christ, and then everyone else. Then Christ shall “deliver the kingdom to God the Father”: this again is an offering, Christ came back from this world to the Father, not alone but with the members of His Mystical Body as an offering to the glory of God. Indeed Jesus said to Nicodemus: “no man hath ascended into heaven, but he that descended from heaven, the Son of man who is in heaven” (Jn. 3:13) Does that mean that nobody would go to Heaven? St Augustine says: He descended alone, He returns to Heaven with the members of His Mystical Body, the Church – the good members, after He would have cleansed His kingdom from all the scandals in the Great Judgement at the end of the world.
So the Saints in Heaven are “delivered to, offered to the Father”: they live for ever not for themselves, but for the glory of the Most Holy Trinity – and in this consists their beatitude, their unending happiness, to delight themselves in the Supreme Good: not living for themselves but living for Him and rejoicing in Him.
I think this aspect of the Ascension is very important: Christ has fulfilled His mission, He returns to the Father, but not alone: He returns with the Saints – his trophies! – and offers them to the Father. He beatifies them by making them see the Father face to face, hear the Word, and burn with the Love of the Holy Spirit for all eternity. In this way, the Ascension will be fully complete when the whole Mystical Body of Christ will be there with its Head, as our Lord prayed in his marvellous prayer: “Father, I will that where I am, they also whom thou hast given me may be with me; that they may see my glory which thou hast given me, because thou hast loved me before the creation of the world” (Jn. 17:24).
My dear brethren, let us understand this divine plan of Redemption in Christ, and fully enter into this plan, by leaving behind all earthly things and pursuing with our whole heart this heavenly goal, to be with Christ and see His glory for ever! And for this, let us ask the Blessed Virgin Mary, who is already there, as the Queen on the side of the King (see Ps. 44), to help us to live faithfully to our Lord Jesus Christ, to His law, keeping the faith and practicing it to our best, so that we may reach this ultimate goal in Heaven. Amen!
愛する兄弟姉妹の皆様、
昨日2015年5月17日の主日にレネー神父様が大阪で聖伝のミサを捧げて下さいました。天主様に感謝!
レネー神父様のお説教をご紹介します。
イエズス・キリストが天主聖父から生まれたとはどのようなことでしょうか?
聖父が聖子を「生む」とはどのようなことでしょうか。
イエズス・キリストの昇天の意味は何でしょうか? 私たちにとってどれほど有益なものだったのでしょうか?
イエズス・キリストが「聖父のもとに帰る」とは、天主に捧げられた人類の「初穂」として最初に復活し、キリストがこの世から御父のもとへお戻りになるのは、お一人だけでなく、天主の栄光への捧げものとして、キリストの神秘体のメンバーと共に聖父のもとにお戻りになるのです。
初穂であるキリストと共にいる天の聖人たちは、キリストと共に「御父に渡され、捧げられ」、自分たちのためではなく、いとも聖なる三位一体の栄光のために、生きています。天主のために生き、天主において喜ぶのです。
御昇天においては、キリストは、お一人だけではなく、戦利品である聖人たちと共に聖父の元に戻られます。そして、彼らを御父にお捧げになるのです。
どうぞ、この素晴らしいお説教をお読み下さい。
天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)
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主の御昇天後の主日の説教―大阪
「私は父から出て世に来たが、
今や世を去って父のもとに行く」
(ヨハネ16章28節)
最後の晩餐の間に、私たちの主イエズス・キリストはこの言葉を言われました。これによって、主は御昇天を予言なさったのです。単純で理解しやすいように思えますが、これは偉大な神秘であり、黙想するのにふさわしい美しさがあります。
表面的に理解するのなら、故郷の町を離れて友を訪ね、そして故郷に帰る人のようだと考えられるでしょう。しかし、これはまさに世俗的な理解に過ぎません。実際、天主は霊的でどこにでもおられます。では、「私は父から出て」とはどういう意味でしょうか。また御父はどこにでもおられるのですから、「父のもとに行く」とはどういう意味でしょうか。
聖ヨハネ福音書(3章)の最初のニコデモとの会話の中にある、私たちの主イエズス・キリストのもう一つの言葉が、おそらくこの初めの「私は父から出て」という言葉を理解するのを助けてくれるでしょう。イエズスは言われました。「天から下った人のほか、天に昇った者はない、それは人の子である」(ヨハネ3章13節)。主はまた、後にファリザイ人に言われました。「あなたたちは下からの者であり、私は上からの者である」(ヨハネ8章23節)。
私たちは皆、天主によって造られましたが、私たちの主イエズス・キリストは、まったく違った方法で御父から来られました。私たちは「天主によって無から造られ」ました。私たちの主イエズス・キリストは、私たちが信経で言うように、「造られずして[御父から]生まれ」た天主の御子です。主の本性そのものは御父の本性から来ているのであり、その本性は造られたのではありません。さて、天主は本質的に霊的であり、「切り分け」られませんから、御父が天主の本性の「一部」を御子にお与えになることはできませんでした。つまり御父は御子に天主の本性全体をお与えになったのです。ですから、「御父から生まれ」たというのは、御父の天主の本性全体を受けたということであり、ですから御父と等しいということです。これが、主が「私は父から出た」という言葉でおっしゃっていることなのです。私は父の愛する独り子、永遠において父から生まれたのである、ということです。
実際、天主にとっては時間というものはありません。永遠の中のある瞬間、常に現在であって過ぎ去ることは決してない安定したある瞬間、その瞬間において御父はみ言葉を発し給い、御子をお生みになり、御子は天主の本性をすべて所有し、御父と等しい者として、完璧にお生まれになったのです。聖パウロが言うように、キリストは、「天主と等しい」(フィリッピ2章6節)ことを固持しようとされませんでした。ファリザイ人たちはこのことをよく理解していましたから、「自分を天主と等しい者としたという理由で」主を石殺しにしようとしました。彼らは信じることを拒絶しましたが、主が言われたことをよく理解していたのです。ですから反対に、主は彼らに、ご自分のことを誤解しているとは言われませんでした。
御父は御子を物質的な方法ではお生みになりません。天主は純粋な霊です。御子は「天主のみ言葉」です。実際、霊の最初の活動は考えることであり、私たちでさえそうです。天主は私たちに知性をお与えになりました。私たちが考えるとき、心の中で自分に話しかけます。それを、「概念、英語ではコンセプト(concept)」、つまり考えを持つ、と言います。そのような考えを「コンセプト(concept)」と呼ぶのは、私たちがそれを孕む(英語ではconceiveという)からです。しかし私たちにとっては、私たちの考えが非常に小さいため、むしろ、英語で同じように「コンセプト(concept)」と呼ばれる小さな胎児のようなものです。ですから私たちは、私たちの周りの世界をもう少し理解するためにもたくさんの考えを必要とします。しかし天主は完全です。天主はすべてのものを一度に理解しておられ、天主が知っておられることのすべて、天主が天主であることのすべてを十分に言い表す一つの完全な言葉によって、天主の無限の知識全体を表現されたのです。これこそが天主のみ言葉です。この天主のみ言葉はまことに完全ですから、小さな「コンセプト」ではなく、完全に大人に成長した御子であって御父と等しい御者です。実際、天主が何者であるかを的確に表現しうるのは、天主をおいてありません。御子は永遠の知恵のみ言葉、それによってすべてのものが造られた全能のみ言葉、すべてを包み込むみ言葉です。これが、イエズスが「私は父から出た」と言われた意味なのです。預言者は叫びます。「誰がその行く末のために悲しむだろう?」(イザヤ53章8節)。
天主は愛です。このことから、聖トマス・アクィナスが言うように、天主のみ言葉は「愛を呼吸するみ言葉」です。御父と御子はお互いを完全に愛するがゆえに、この燃え上がる火から第三のペルソナが、愛の炎、天主の愛の炎として発出するのです。これが聖霊です。聖霊は聖性の霊であり、実際、聖性はすべてを超えて天主を愛することにあるのです。ですから、その愛も永遠で全能であり、すべてを包み込むのです。
このように、天主の御子は御父のもとから来られました。この世に入って来られたのです。これがご托身です。御子は、童貞聖マリアのいとも清らかなご胎内で、聖霊の御働きによって肉体をお取りになりました。「み言葉は人となって、私たちのうちに住まわれた。(私たちはその栄光を見た。それは、御独り子として御父から受けられた栄光であって、)恩寵と真理に満ちておられた」(ヨハネ1章14節)。これを書いた人は祝されて直接の証人になり、私たちの主イエズス・キリストを見て、声を聞いて、お体に触れることさえしました。彼は書簡で言います。「初めからあったこと、私たちの聞いたこと、目で見たこと、眺めて手で触れたこと、すなわち命のみ言葉について―そうだ、この命は現れた、私たちはそれを証明する。御父のみもとにあっていま私たちに現れた永遠の命をあなたたちに告げる―、あなたたちを私たちに一致させるために、私たちは見たこと聞いたことを告げる。私たちのこの一致は、御父と御子イエズス・キリストのものである。私たちの喜びを全うするために私はこれらのことを書き送る」(ヨハネ第一1章1-4節)。これがご托身です。ご托身の目的は次のように美しく述べられます。天主との友好関係、つまり「御父と御子のものである一致」を回復させるためである、と。
この目的を達成することが、まさに贖いのわざなのです。イエズスは救うために来られました。「彼は罪から民を救う方だからである」(マテオ1章21節)。イエズスは十字架によって私たちをお救いになりました。またこれは、「今や世を去って」という一節が意味するところでもあります。実際、私たちは「世を去った霊魂」と言います。死はこの世を去る確実な方法です。このことは、ご自分の死を支配しておられた私たちの主イエズス・キリストにずっとよく当てはまります。ですから主は言われました。「私が命を再び取り戻せるよう自分の命を与えるからである。その命は私から奪い取るものではなく、私がそれを与える。私にはそれを与える権威があり、また取り戻す権威もある。それは私が父から受けた命令である」(ヨハネ10章17-18節)。
しかし、主はその死のすぐあとの三日目に復活されましたから、「いまや世を去って」という言葉を御昇天にも適用できるのではないでしょうか。実際、御昇天の日は、使徒たちが肉体の目で主を見た最後の日でした。主は使徒たちを祝福しながら天に昇られ、雲に包まれ、使徒たちはもう主を見なくなりました。ですから、主はこの世を去られたのです。
聖トマス・アクィナスは、御昇天は多くの点で私たちに有益であったと教えています。第一に、御昇天は私たちの心を天のものに引きつけてくれます。「あなたの宝のあるところには、あなたの心もある」(マテオ6章21節)。私たちの宝は私たちの主イエズス・キリストであり、今や主は天におられます。ですから、私たちの心は天にあるべきです。聖パウロは言います。「あなたたちがキリストと共によみがえったのなら、上のことを求めよ。キリストはそこで、天主の右に座し給う。地上のことではなく上のことを慕え。あなたたちは[罪に/この世界に]死んだ者であって、その命はキリストと共に天主の国の中に隠されているからである」(コロサイ3章1-3節)。
第二に、御昇天は信仰に対するより大きな功徳を与えてくれます。もし、私たちが地上のどこかへ行って、復活してまだ生きておられるキリストを見ることができるとすれば、私たちの信仰が受ける功徳は今よりずっと小さくなることでしょう。しかし、今は「私を見ずに信じる人は幸いである」(ヨハネ20章29節)。
第三に、御昇天は私たちのキリストに対する崇敬を増加させます。それは、主が今「全能の御父である天主の右に座し」ておられるからです。そのため、主に対する愛をも増加させるのです。
第四に、主が「私はあなたたちのために場所を準備しに行く。そして、行って場所を準備したら、あなたたちを共に連れていくために帰ってくる。私のいる所にあなたたちも来させたいからである」(ヨハネ14章2-3節)と言われたように、主は私たちのための場所を準備なさっているからです。
最後に大切なことですが、御父の右で、主は聖パウロが言うように「私たちのために取り次ごうとして常に生き」(ヘブライ7章25節)ておられるからです。
このように、「今やこの世を去って、父のもとに行く」(ヨハネ16章28節)というのは、御昇天を表しています。しかし、御昇天には二つの側面があります。一つはこの世からの出発であり、これは目に見え、理解しやすいものです。もう一つは到着です。これは理解するのは簡単ではありません。実際、天主はどこにでもおられるのですから、「私は父のもとに行く」とはどういう意味でしょうか?
聖トマス・アクィナスがすでに説明したように、私たちの主イエズス・キリストは天主の本性ばかりでなく、人間の本性においてもすべての被造物、最も高位の天使たちをも超えておられるということを意味しているのは確実です。これが「全能の父なる天主の右に座し給う」ことの意味していることです。主の栄光は、主の犠牲に対する報いであり、贖いのわざへの報いです。聖パウロはいいます。「死ぬまで、十字架上に死ぬまで、自分を卑しくして従われた。そこで天主はキリストを称揚し、すべての名にまさる名を与えられた。それはイエズスの御名の前に、天にあるものも、地にあるものも、地の下にあるものも皆ひざをかがめ、すべての舌が父なる天主の光栄をあがめ、『イエズス・キリストは主である』と宣言するためである」(フィリッピ2章8-11節)。
しかし私は、この「父のもとに帰る」にはさらに意味があると思います。聖パウロはコリント人へ言います。「すべての人がアダムによって死ぬように、すべての人はキリストによって生き返る。しかしそこに順序があり、まず初穂であるキリスト、次に、来臨の時キリストの者である人々が続く。そして終わりが来る。そのときキリストはすべての権勢、能力、権力を倒し、父なる天主に国を渡される。キリストはすべての敵をその足の下に置くまで支配せねばならぬ。最後の敵として倒されるのは死である。『天主は、すべてをその足の下に置き給うた』からである。…すべてのものがその下に置かれるとき、子自らもすべてをご自分の下に置いたお方に服従するであろう。それは天主がすべてにおいてすべてとなるためである」(コリント第一15章22-28節)。
この「初穂」という言葉そのものが、いけにえの意味を背景にしていることを示しています。すべての木や動物の初穂は、旧約においては天主に捧げられねばなりませんでした。今ここで聖パウロが言うのは、キリストは(その人間の本性において)天主に捧げられた人類の「初穂」として最初に復活し、その後、キリストの神秘体のメンバー、そしてほかのすべての人々が復活するということです。その後、キリストは「父なる天主に国を渡される」のです。これも捧げものをすることであり、キリストがこの世から御父のもとへお戻りになるのは、お一人だけでなく、天主の栄光への捧げものとしてキリストの神秘体のメンバーと共にお戻りになるのです。実際、イエズスはニコデモに言われました。「天から下った人のほか、天に昇った者はない、それは人の子である」(ヨハネ3章13節)。これは、誰も天に昇る者はいないという意味でしょうか? 聖アウグスティヌスは言います。「主はお一人で天から下って来られたが、天に戻られるのはキリストの神秘体、すなわち教会のメンバー、その良きメンバーと共にである。その前に主は、世の終わりの大審判において、ご自分の国から恥ずべきことをすべて洗い流される」。
ですから、天の聖人たちは「御父に渡され、捧げられ」ています。聖人たちは永遠に生きますが、自分たちのためではなく、いとも聖なる三位一体の栄光のために生きるのです。ここにこそ、聖人たちの至福、終わりなき幸いがあるのであり、至高なる善(である天主)における喜びがあるのです。自分たちのために生きるのではなく、天主のために生き、天主において喜ぶのです。
御昇天においては、この側面が大変重要だと私は思います。キリストはその任務を果たされ、御父のもとに戻られます。しかし、お一人だけではありません。その戦利品である聖人たちと共に戻られます。そして、彼らを御父にお捧げになるのです。主は彼らを祝福し、御父と顔と顔を合わせて見るように、み言葉を聞くように、聖霊の愛と共に永遠に燃えるようにさせてくださるのです。このように、御昇天が完成するのは、キリストの神秘体全体がそのかしらと共にいるようになるときです。主が、次の驚くべき祈りをなさったように。「父よ、あなたの与え給うた人々が、私のいる所に、私と共にいることを望みます。それは、あなたが私に与え給うた光栄を、彼らに見せるためであります。あなたは、世の始まるよりも前に、私を愛し給いました」(ヨハネ17章24節)。
親愛なる兄弟の皆さん、キリストにおける贖いという天主のご計画を理解しましょう。そして、地上のものごとすべてを忘れ去ることよって、また心のすべてでこの天の目的を追求することによって、キリストと共にあり、永遠にその栄光を見るというこのご計画に完全に入っていきましょう。そのために、王の右にいる王妃(詩篇44章参照)として、すでにそこにおられる童貞聖マリアに乞い求めましょう。私たちが主イエズス・キリストとその掟に忠実に生き、信仰を守り実践するために全力を尽くし、その結果、天国でのこの究極の目的に到達することができますように。アーメン。
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Sermon at Seoul on the Ascension – and Osaka on Sunday.
“I came forth from the Father,
and am come into the world:
again I leave the world,
and I go to the Father”
(Jn. 16:28).
During the last supper, our Lord Jesus Christ said these words. Thereby he prophesised His Ascension. It seems simple and easy to understand, yet it is a great mystery, beautiful to contemplate.
A superficial understanding would give the idea of someone leaving his home-city and visiting a friend, and then returning home. But this would be a very material understanding. Indeed, God is spiritual and is everywhere! So what does that mean “I came forth from the Father”? And what does that mean: “I go to the Father”? since the Father is everywhere!
Perhaps another phrase of our Lord Jesus Christ, at the very beginning of St John’s gospel in his talk with Nicodemus, helps to understand this one. Jesus said: “no man hath ascended into heaven, but he that descended from heaven, the Son of man who is in heaven” (Jn. 3:13). He also said later to the Pharisees: “You are from beneath, I am from above” (Jn. 8:23).
We have all been created by God, but our Lord Jesus Christ comes from the Father in a very different way. We are “made by God out of nothing”; our Lord Jesus Christ is the Son of God, “born [of Father], nor made” as we say in the Creed: his very substance comes from the substance of the Father, it is not a created substance. Now God’s nature is spiritual, it cannot be “cut in parts”: the Father could not give a “part” of his Divine Substance to His Son: the Father gave to His Son His whole Divine Substance; hence to be “begotten from the Father” means to receive the whole divine substance from the Father, and hence to be equal to the Father. This is thus what our Lord means when He says: “I came forth from the Father”: I am the only-begotten beloved Son of the Father, born of the Father from all eternity.
Indeed in God there is no time: in the one moment of eternity, stable moment which is always present and never passes, in that one moment the Father says His Word, begets His Son, and the Son is perfectly begotten, possessing the full Divine Nature, equal with the Father. As St Paul says, for Christ it was not robbery to be “equal with God” (Phil. 2:6). The Pharisees had understood it well, who wanted to stone Him “because He made Himself equal with God”. They refused to believe, but they had understood well what He meant; and our Lord did not tell them that they misunderstood Him, on the contrary.
The Father does not beget the Son in a material way: God is a pure spirit. The Son is the “Word of God”. Indeed the very first activity of a spirit is to think; even ourselves, God gave us an intelligence, and when we think we speak to ourselves in our mind: we say that we have “concepts”, ideas. We call them “concepts” because we conceive them. But for us, our ideas are so little, tiny, that they are more comparable to small foetuses, “concepts”. And we need many ideas to understand a little more the world around us. But God is perfects; He understands all things at once, and expressed His whole infinite knowledge in one perfect word, that fully says all what He knows, all what He is: His Word. This Word of God is so perfect that it is not a small “concept”, but rather a full-grown Son, equal with the Father. Indeed nothing less than God can adequately express what God is! He is the Eternal Word of Wisdom, Almighty Word by which all things were made, all-encompassing Word. This is what Jesus meant, saying: “I came forth from the Father”! The prophet exclaims: “who shall declare his generation?” (Is. 53:8).
God is Charity; hence the Word of God is a “Word breathing love”, as St Thomas Aquinas says . The Father and the Son love one another so perfectly that from this burning fire there proceeds a third Person, as a Flame of Love, of Divine Charity: the Holy Ghost! He is the Spirit of Holiness, and indeed holiness consists in loving God above all things. And that love too is eternal, almighty, all-encompassing.
So the Son of God came forth from the Father. And He is come into the world. This means the Incarnation: He took flesh in the most pure womb of the Blessed Virgin Mary by the operation of the Holy Ghost: “And the Word was made flesh, and dwelt among us, (and we saw his glory, the glory as it were of the only begotten of the Father,) full of grace and truth” (Jn. 1:14). The one who says that was blessed to be first-hand witness, who had seen, heard and even touched our Lord Jesus Christ, as he wrote in his epistle: “That which was from the beginning, which we have heard, which we have seen with our eyes, which we have looked upon, and our hands have handled, of the word of life: For the life was manifested; and we have seen and do bear witness, and declare unto you the life eternal, which was with the Father, and hath appeared to us: That which we have seen and have heard, we declare unto you, that you also may have fellowship with us, and our fellowship may be with the Father, and with his Son Jesus Christ. And these things we write to you, that you may rejoice, and your joy may be full” (1 Jn. 1:1-4). This is the Incarnation! And its goal is beautifully said: to restore the friendship with God, “fellowship with the Father and the Son.”
To fulfil this goal is the very work of Redemption: Jesus came to save: “he shall save his people from their sins” (Mt. 1:21). He saved us by His Cross. And this is also what is meant by the next member of phrase: “again I leave the world.” Indeed we speak of “departed souls”: death is a certain way to leave the world. This is so much more true for our Lord Jesus Christ who was in control of His death, as He said: “I lay down my life, that I may take it again. No man taketh it away from me: but I lay it down of myself, and I have power to lay it down: and I have power to take it up again. This commandment have I received of my Father” (Jn. 10:17-18).
But since He rose shortly after His death, on the third day, we may apply these words to His Ascension: “again I leave the world.” Indeed the day of the Ascension was the very last day that the Apostles saw Him with the eyes of the body: He went up, blessing them, and was caught up in the clouds and they did not see Him anymore. So He left then this world.
St Thomas Aquinas teaches us that the Ascension was useful for us in many ways. First it draws our heart to the heavenly things: “For where thy treasure is, there is thy heart also” (Mt. 6:21). Our treasure is our Lord Jesus Christ, who now is in Heaven, therefore our heart ought to be in heaven, as St Paul says: “Therefore, if you be risen with Christ, seek the things that are above; where Christ is sitting at the right hand of God: Mind the things that are above, not the things that are upon the earth. For you are dead [to sin/to the world]; and your life is hid with Christ in God” (Col. 3:1-3).
Secondly, it gives us a greater merit for faith: if we could go somewhere on earth and see Christ risen and still living, our faith would have much less merit; but now “blessed are they that have not seen, and have believed” (Jn. 20:29).
Thirdly, it increases our reverence for Christ, since He is now “sitting at the right hand of God the Father almighty!” And therefore it increases our love for Him also.
Fourthly because He is preparing a place for us, as He said: “I go to prepare a place for you. And if I shall go, and prepare a place for you, I will come again, and will take you to myself; that where I am, you also may be” (Jn. 14:2-3).
And last but not least, at the right hand of the Father He is “always living to make intercession for us” as St Paul says to the Hebrews (Heb. 7:25).
Thus “I leave the world, and I go to the Father” (Jn. 16:28) signifies the Ascension. But there are two aspect to the Ascension: the departure from the world, which was visible and is easy to understand; and the arrival: and that is not easy to understand. Indeed, since God is everywhere, what does that mean “I go to the Father”?
As St Thomas explained above, it certainly means that our Lord Jesus Christ, not only in His Divine nature, but even in his human nature transcends all creatures, even the highest angels. This is what is meant by “sitting at the right hand of God the Father almighty”. His glorification is the reward of His sacrifice, the reward of the work of Redemption, as St Paul wrote: “He humbled himself, becoming obedient unto death, even to the death of the cross. For which cause God also hath exalted him, and hath given him a name which is above all names: That in the name of Jesus every knee should bow, of those that are in heaven, on earth, and under the earth: And that every tongue should confess that the Lord Jesus Christ is in the glory of God the Father” (Phil. 2:8-11).
But I think there is more to this “return to the Father”. St Paul says to the Corinthians: “as in Adam all die, so also in Christ all shall be made alive. But every one in his own order: the first-fruits Christ, then they that are of Christ, who have believed in his coming. Afterwards the end, when he shall have delivered up the kingdom to God and the Father, when he shall have brought to nought all principality, and power, and virtue. For he must reign, until he hath put all his enemies under his feet. And the enemy death shall be destroyed last: For he hath put all things under his feet… And when all things shall be subdued unto him, then the Son also himself shall be subject unto him that put all things under him, that God may be all in all” (1 Cor. 15:22-28).
The very word “first-fruits” shows that we are in a sacrificial context: the first fruits of all trees and animals had to be offered to God in the Old Testament. Now here St Paul says that Christ (in His human nature) rose first, as the “first-fruit” of mankind offered to God; then the members of Christ, and then everyone else. Then Christ shall “deliver the kingdom to God the Father”: this again is an offering, Christ came back from this world to the Father, not alone but with the members of His Mystical Body as an offering to the glory of God. Indeed Jesus said to Nicodemus: “no man hath ascended into heaven, but he that descended from heaven, the Son of man who is in heaven” (Jn. 3:13) Does that mean that nobody would go to Heaven? St Augustine says: He descended alone, He returns to Heaven with the members of His Mystical Body, the Church – the good members, after He would have cleansed His kingdom from all the scandals in the Great Judgement at the end of the world.
So the Saints in Heaven are “delivered to, offered to the Father”: they live for ever not for themselves, but for the glory of the Most Holy Trinity – and in this consists their beatitude, their unending happiness, to delight themselves in the Supreme Good: not living for themselves but living for Him and rejoicing in Him.
I think this aspect of the Ascension is very important: Christ has fulfilled His mission, He returns to the Father, but not alone: He returns with the Saints – his trophies! – and offers them to the Father. He beatifies them by making them see the Father face to face, hear the Word, and burn with the Love of the Holy Spirit for all eternity. In this way, the Ascension will be fully complete when the whole Mystical Body of Christ will be there with its Head, as our Lord prayed in his marvellous prayer: “Father, I will that where I am, they also whom thou hast given me may be with me; that they may see my glory which thou hast given me, because thou hast loved me before the creation of the world” (Jn. 17:24).
My dear brethren, let us understand this divine plan of Redemption in Christ, and fully enter into this plan, by leaving behind all earthly things and pursuing with our whole heart this heavenly goal, to be with Christ and see His glory for ever! And for this, let us ask the Blessed Virgin Mary, who is already there, as the Queen on the side of the King (see Ps. 44), to help us to live faithfully to our Lord Jesus Christ, to His law, keeping the faith and practicing it to our best, so that we may reach this ultimate goal in Heaven. Amen!