アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様、
秋田巡礼の際、教皇証聖者聖ピオ五世の祝日にシュテーリン神父様が次のようなお説教をして下さいました。「ロザリオ」と「十字架」、「聖母信心」と「ミサ聖祭」の教皇様だったと改めて私たちに教えてくれます。
どうぞお読み下さい。
天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)
2015年5月5日 秋田巡礼 教皇証聖者聖ピオ五世
シュテーリン神父様御説教
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
今日、聖ピオ五世の祝日を祝っています。この偉大な教皇様には、多くの多くの事が起きています。この教皇様のおかげによって、トリエント公会議の決意は実践させられました。このトリエント公会議は、特にプロテスタントに打ち勝ちました。特にミサの生贄についての深い理解を、世界に示しました。
今日、私たちが祝っているこの教皇様は、「ミサを列聖した」と、言われています。この教皇様は、「イエズス・キリストが新約で私たちに下さった、最も偉大な生贄の表現である、最も完璧な表現である。」と、宣言しました。ですから時々、「聖ピオ五世のミサ」とも言われています。このような言い方をしたとしても、この教皇様がミサを発明したのではありません。この教皇様が発明したのではなくて、教皇様はむしろ、ローマにあった最も古い典礼様式を、そのまま取り出して、そのままこれを使って、「このミサこそ最も完璧な祈りであって、最も完璧な形式である。」と、宣言したのです。
そして聖ピオ五世は、私たち全てカトリック信者に、「最も偉大な霊的活動とは、最も偉大な私たちの行為とは、最も偉大な祈りというのは、ミサに与り、ミサを捧げる事だ。」と、説明しています。そこで聖ピオ五世教皇様は、全ての教区の主任司祭たちに命じて、「一年に少なくとも数回は、必ず、この偉大なミサの生贄についての説明を、教区民たちに説明しなければならない。このミサが、どれほど高価なものであって、貴重なもので、深い意味があり、その天から私たちに与えられた宝石、真珠であるという事を説明しなければならない。」と。
その当時、キリスト教世界は非常に大きな危機に陥っていました。何故かというと、トルコからイスラム教徒が侵略しようとしていたからです。その当時、皆さんもご存知の通り、キリスト教徒たちは分裂していました。そして、もしもキリスト教に対する最もひどい敵、強烈な敵に対して、キリスト教軍を一致させて彼らに対抗させる事ができたのは、この教皇様しかいませんでした。
そして最後の戦いとなった、そして決定的な戦いとなった海戦、海での戦いに於いては、イスラム教徒たちはキリスト教軍の5倍、或いは6倍の数をもって侵略して来ました。どう見ても、キリスト教軍に勝ち目はありませんでした。そこで聖なる教皇様は、敵を打ち倒すための武器は何か、という事を発見しました。この武器とは、ロザリオの事です。そして教皇様は、ロザリオの十字軍を発動させて、ローマそしてイタリア、そして全世界に亘って、「ロザリオを唱えるように。」と、訴えました。昔、ロザリオについては、確かに一部の人々は知っている事は知っていました。しかし、この聖ピオ五世教皇様のおかげによって、全世界に知らされる事になりました。
そこで、その敵の数のものすごい大艦隊たちを見たキリスト教信者たちは、軍人たちは、教皇様にメッセージを送り、「教皇様、勝ち目はありません。」と言いました。そこで教皇様は、キリスト教の軍人たちを皆奉献して、そして戦艦には、グァダルーペの聖母の御影を貼り付けました。そして、キリスト教軍艦隊は、奇跡的に大勝利を収め、そしてそれが1571年10月7日の事でした。
このレパントの海戦は、ロザリオの大勝利を意味しています。そして聖ピオ五世教皇様は、この大勝利を記念する為に、勝利の聖母の祝日、つまり、「ロザリオの聖母の祝日」を制定し、これが10月7日に祝われています。そこで、イエズス・キリストはカトリック教会は、この教皇様を通して、私たちにいつもそれを使えば必ず勝つ事ができる武器を与えました。つまりロザリオです。
そしてその聖ピオ五世からちょうど150年後、聖グリニョン・ド・モンフォールは、終末の時代の戦士たちの使う武器について描写しています。聖グリニョン・ド・モンフォールによれば、「終末の使徒たちは信者たちは、右の手には十字架、左の手にはロザリオを持って戦う。」と言っています。何を意味するかというと、右の手に持つ十字架はこれは、「ミサ聖祭に対する信心」、ミサに対する熱烈な信心です。そして左手のロザリオは、「マリア様に対する信心」の事を意味しています。
そしてこの「イエズスとマリアの使徒たち」という事を表現したグリニョン・ド・モンフォールの後、300年の後に、ルフェーブル大司教様は、この二つの武器を創立した司祭たちに与えて、「ミサとロザリオ、マリアの信心」と、伝えました。
近代主義は、ミサと、そしてマリア様に対する信心を破壊しようと試みました。まず、聖ピオ五世が列聖した、永遠の、永久のミサ聖祭の代わりに、プロテスタント化したミサを私たちに与えようとしました。そしてマリア様に対するまことの信心の代わりに、それを弱めて、その代わりに、他の宗教の人達にも気に入る事ができるように、対話をする事などを勧めました。
ルフェーブル大司教様は、「いや、違う。」と、言いました。「聖ピオ五世の発表した大勅令によれば、“このミサは、どのような司祭によっても、時の終わりまで自由に捧げる事ができるミサだ。”」と、言いました。
しかし、この本当の事を言った為に、罰せられました。
そこで、この聖伝のミサは、数年の間、あたかもカトリックのミサではないかのように取り扱われさえもしました。
しかし、ようやく2007年、ベネディクト16世教皇様は、「やっぱりルフェーブル大司教は正しかった。」と、発表しました。そしてベネディクト16世教皇様の書簡によれば、「確かにこのミサは、一度も禁止された事も、廃止された事も無い。」と。
では何故、このミサの典礼様式とか、ミサについてのこのような戦いがあるのでしょうか?何故かというと、ミサこそが、天主様の私たちに与えた最も大切な神秘であって、最も大切な祈りであるからです。
聖アルフォンソ・デ・リゴリオは、「ミサこそ、教会の心臓、最も大切な部分である。」と、言います。もしも、人間から心臓を取り去って下さい。この人は死んでしまいます。
ルターとそのプロテスタントの一味がやった事は、まさにこの事でした。もちろんプロテスタントの人々は、礼拝とかサービスとかをしますが、しかし、それはもうミサではありません。何故かというと、ミサというのは、聖ピオ五世によれば、「イエズス・キリストの、この地上に於ける真(まこと)の現存を意味する」からです。
トリエント公会議によれば、ミサというのは、本当のカルワリオの生贄の再現であって、それが現存することです。ミサというのは、イエズス・キリストの生贄が現存する事です。ここに於いて本当にカルワリオの生贄が、目の前に現れます。
皆さんがミサに与る時に、ちょうどプロテスタントがやっているように、集まった集会で天主を賛美する、という事だけではありません。そうではなくて、ミサに皆さんが与るという事は、『ちょうどイエズス・キリスト様が十字架に付けられて、そしてマリア様がその足下に立っている、そこに立ち留んで、皆さんがそのマリア様と一緒に、生贄を捧げている事になります。『ミサでこうカリスを捧げる時には、このカリスの中には、イエズス・キリストが流された全ての血と全ての苦しみが入っています。』
今この事が私たちができるのは、聖ピオ五世のおかげです。
そしてこのイエズス・キリストに対する愛を私たちが保存する為にも、そしてそれを続ける為にも、聖ピオ五世教皇様は、私たちにロザリオを与えてくれました。では何故、ロザリオがそれほど強力な武器なのでしょうか?
皆さん、必ず、聖グリニョン・ド・モンフォールの書いた「ロザリオの秘密」という素晴らしい本を読んで下さい。ロザリオというのは、イエズス・キリストの御生涯の最も重要な玄義を黙想する祈りです。喜びの五連によって、私たちはイエズス・キリストの教え、つまり、「この世で一番大切な、この世の最も中心は、人間ではなくて、イエズス・キリストである。」という事を教えています。フリーメイソンや近代主義は、この世で一番大切な事は、この地上に楽園を作る事であって、新しい世界秩序を作る事であって、人間の尊厳であって、人間の新しい生活であって、と教えるかもしれませんが、ロザリオは「違う。」と、言います。
喜びの玄義は私たちに、「いや、そうではなくて、この世の中心はイエズス・キリストであって、イエズス・キリストは、昨日も今日も、そして永久に同じであって、彼こそが私たちのリーダーであって、指導者であって、王であって、彼にこそ私たちは付き従わなければならない。」と、教えています。
そして、苦しみの玄義によっては、私たちの具体的な人生、具体的な道標を教えています。「私たちの歩むべき道は、十字架の道だ。」と、教えています。この世の短い人生、私たちの儚い人生は、何の為かというと、この世の楽しみや快楽やお金とか、この世が私たちに提供する様な、面白おかしい物事の為ではありません。この世の、この世の悲願というのは、「己を捨て、十字架をとって私に従え。」と、言うイエズスの言葉に従う事です。つまり、この世の私たちの人生というのは、絶えざる戦いです。
戦いの法則というのは、愛の法則です。愛の戦いというのは、愛する人の為に、愛する者の為に、私たちの命を与えて、そして自分を犠牲にするという事です。私たちの愛する家族の為に、私たちの愛する祖国の為に、私たちの愛する人々の為に、自分を与え尽くすという事です。これこそが、イエズス・キリストの与えた愛の掟であって、十字架に付けられたイエズス・キリストの愛に応える為に、そのはかり知れない愛に応える為に、私たちを与え尽くす事です。
栄えの玄義は、私たちの人生の究極の目的がどこにあるかを示しています。究極の目的とはこの地上に楽園を作る事ではありません。究極の目的とは皆さんのポケットをお金でたくさん詰め込む事ではありません。この究極の目的というのは仏教でいうニルバーナに悟りに到達する事でもありません。この世の究極の目的というのは、永遠の福楽、永遠の命、天国での至福です。皆さん、山の彼方にある素晴らしい大神殿、大宮殿、それはあなたのもの、皆さんのものなのです。そして私たちの人生というのは、その毎日毎日の、そこの復活に辿り着く為のモチベーションであって、動機付けであって、それへと行く事です、辿り着く為のその大きな願いを持つ事です。
そしてこの三つの鎖が、三つのこの輪っかが私たちの道を、私たちの人生の道標となって、どうやってどこに進むべきかを教えてくれます。そしてこのロザリオの鎖は、同時に花束を作って、毎日私たちはそれを主イエズス・キリストに捧げる事ができるようになっています。
では、私たちは何を主に与えますか?まず私たちは私たちの知性を与えます。私たちの信仰によって、「イエズス・キリストよ、御身は私の全てです。」と。
第二の贈り物は私たちの意志です。私たちは、「Yes. はい。イエズス・キリストよ。私はあなたに従います。あなたに従って十字架を担ぎます。そして、最後に復活まで辿り着きます。」と。
「そして無原罪のマリア様を通して、インマクラータを通して、私の心をあなたに捧げます。そして御身を愛し奉り、そして永遠の永久の愛の王国の一部となりたいのです。」
このロザリオこそ、聖ピオ五世のおかげで、私たちが手に持っている宝物であるのです。
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
愛する兄弟姉妹の皆様、
秋田巡礼の際、教皇証聖者聖ピオ五世の祝日にシュテーリン神父様が次のようなお説教をして下さいました。「ロザリオ」と「十字架」、「聖母信心」と「ミサ聖祭」の教皇様だったと改めて私たちに教えてくれます。
どうぞお読み下さい。
天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)
2015年5月5日 秋田巡礼 教皇証聖者聖ピオ五世
シュテーリン神父様御説教
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
今日、聖ピオ五世の祝日を祝っています。この偉大な教皇様には、多くの多くの事が起きています。この教皇様のおかげによって、トリエント公会議の決意は実践させられました。このトリエント公会議は、特にプロテスタントに打ち勝ちました。特にミサの生贄についての深い理解を、世界に示しました。
今日、私たちが祝っているこの教皇様は、「ミサを列聖した」と、言われています。この教皇様は、「イエズス・キリストが新約で私たちに下さった、最も偉大な生贄の表現である、最も完璧な表現である。」と、宣言しました。ですから時々、「聖ピオ五世のミサ」とも言われています。このような言い方をしたとしても、この教皇様がミサを発明したのではありません。この教皇様が発明したのではなくて、教皇様はむしろ、ローマにあった最も古い典礼様式を、そのまま取り出して、そのままこれを使って、「このミサこそ最も完璧な祈りであって、最も完璧な形式である。」と、宣言したのです。
そして聖ピオ五世は、私たち全てカトリック信者に、「最も偉大な霊的活動とは、最も偉大な私たちの行為とは、最も偉大な祈りというのは、ミサに与り、ミサを捧げる事だ。」と、説明しています。そこで聖ピオ五世教皇様は、全ての教区の主任司祭たちに命じて、「一年に少なくとも数回は、必ず、この偉大なミサの生贄についての説明を、教区民たちに説明しなければならない。このミサが、どれほど高価なものであって、貴重なもので、深い意味があり、その天から私たちに与えられた宝石、真珠であるという事を説明しなければならない。」と。
その当時、キリスト教世界は非常に大きな危機に陥っていました。何故かというと、トルコからイスラム教徒が侵略しようとしていたからです。その当時、皆さんもご存知の通り、キリスト教徒たちは分裂していました。そして、もしもキリスト教に対する最もひどい敵、強烈な敵に対して、キリスト教軍を一致させて彼らに対抗させる事ができたのは、この教皇様しかいませんでした。
そして最後の戦いとなった、そして決定的な戦いとなった海戦、海での戦いに於いては、イスラム教徒たちはキリスト教軍の5倍、或いは6倍の数をもって侵略して来ました。どう見ても、キリスト教軍に勝ち目はありませんでした。そこで聖なる教皇様は、敵を打ち倒すための武器は何か、という事を発見しました。この武器とは、ロザリオの事です。そして教皇様は、ロザリオの十字軍を発動させて、ローマそしてイタリア、そして全世界に亘って、「ロザリオを唱えるように。」と、訴えました。昔、ロザリオについては、確かに一部の人々は知っている事は知っていました。しかし、この聖ピオ五世教皇様のおかげによって、全世界に知らされる事になりました。
そこで、その敵の数のものすごい大艦隊たちを見たキリスト教信者たちは、軍人たちは、教皇様にメッセージを送り、「教皇様、勝ち目はありません。」と言いました。そこで教皇様は、キリスト教の軍人たちを皆奉献して、そして戦艦には、グァダルーペの聖母の御影を貼り付けました。そして、キリスト教軍艦隊は、奇跡的に大勝利を収め、そしてそれが1571年10月7日の事でした。
このレパントの海戦は、ロザリオの大勝利を意味しています。そして聖ピオ五世教皇様は、この大勝利を記念する為に、勝利の聖母の祝日、つまり、「ロザリオの聖母の祝日」を制定し、これが10月7日に祝われています。そこで、イエズス・キリストはカトリック教会は、この教皇様を通して、私たちにいつもそれを使えば必ず勝つ事ができる武器を与えました。つまりロザリオです。
そしてその聖ピオ五世からちょうど150年後、聖グリニョン・ド・モンフォールは、終末の時代の戦士たちの使う武器について描写しています。聖グリニョン・ド・モンフォールによれば、「終末の使徒たちは信者たちは、右の手には十字架、左の手にはロザリオを持って戦う。」と言っています。何を意味するかというと、右の手に持つ十字架はこれは、「ミサ聖祭に対する信心」、ミサに対する熱烈な信心です。そして左手のロザリオは、「マリア様に対する信心」の事を意味しています。
そしてこの「イエズスとマリアの使徒たち」という事を表現したグリニョン・ド・モンフォールの後、300年の後に、ルフェーブル大司教様は、この二つの武器を創立した司祭たちに与えて、「ミサとロザリオ、マリアの信心」と、伝えました。
近代主義は、ミサと、そしてマリア様に対する信心を破壊しようと試みました。まず、聖ピオ五世が列聖した、永遠の、永久のミサ聖祭の代わりに、プロテスタント化したミサを私たちに与えようとしました。そしてマリア様に対するまことの信心の代わりに、それを弱めて、その代わりに、他の宗教の人達にも気に入る事ができるように、対話をする事などを勧めました。
ルフェーブル大司教様は、「いや、違う。」と、言いました。「聖ピオ五世の発表した大勅令によれば、“このミサは、どのような司祭によっても、時の終わりまで自由に捧げる事ができるミサだ。”」と、言いました。
しかし、この本当の事を言った為に、罰せられました。
そこで、この聖伝のミサは、数年の間、あたかもカトリックのミサではないかのように取り扱われさえもしました。
しかし、ようやく2007年、ベネディクト16世教皇様は、「やっぱりルフェーブル大司教は正しかった。」と、発表しました。そしてベネディクト16世教皇様の書簡によれば、「確かにこのミサは、一度も禁止された事も、廃止された事も無い。」と。
では何故、このミサの典礼様式とか、ミサについてのこのような戦いがあるのでしょうか?何故かというと、ミサこそが、天主様の私たちに与えた最も大切な神秘であって、最も大切な祈りであるからです。
聖アルフォンソ・デ・リゴリオは、「ミサこそ、教会の心臓、最も大切な部分である。」と、言います。もしも、人間から心臓を取り去って下さい。この人は死んでしまいます。
ルターとそのプロテスタントの一味がやった事は、まさにこの事でした。もちろんプロテスタントの人々は、礼拝とかサービスとかをしますが、しかし、それはもうミサではありません。何故かというと、ミサというのは、聖ピオ五世によれば、「イエズス・キリストの、この地上に於ける真(まこと)の現存を意味する」からです。
トリエント公会議によれば、ミサというのは、本当のカルワリオの生贄の再現であって、それが現存することです。ミサというのは、イエズス・キリストの生贄が現存する事です。ここに於いて本当にカルワリオの生贄が、目の前に現れます。
皆さんがミサに与る時に、ちょうどプロテスタントがやっているように、集まった集会で天主を賛美する、という事だけではありません。そうではなくて、ミサに皆さんが与るという事は、『ちょうどイエズス・キリスト様が十字架に付けられて、そしてマリア様がその足下に立っている、そこに立ち留んで、皆さんがそのマリア様と一緒に、生贄を捧げている事になります。『ミサでこうカリスを捧げる時には、このカリスの中には、イエズス・キリストが流された全ての血と全ての苦しみが入っています。』
今この事が私たちができるのは、聖ピオ五世のおかげです。
そしてこのイエズス・キリストに対する愛を私たちが保存する為にも、そしてそれを続ける為にも、聖ピオ五世教皇様は、私たちにロザリオを与えてくれました。では何故、ロザリオがそれほど強力な武器なのでしょうか?
皆さん、必ず、聖グリニョン・ド・モンフォールの書いた「ロザリオの秘密」という素晴らしい本を読んで下さい。ロザリオというのは、イエズス・キリストの御生涯の最も重要な玄義を黙想する祈りです。喜びの五連によって、私たちはイエズス・キリストの教え、つまり、「この世で一番大切な、この世の最も中心は、人間ではなくて、イエズス・キリストである。」という事を教えています。フリーメイソンや近代主義は、この世で一番大切な事は、この地上に楽園を作る事であって、新しい世界秩序を作る事であって、人間の尊厳であって、人間の新しい生活であって、と教えるかもしれませんが、ロザリオは「違う。」と、言います。
喜びの玄義は私たちに、「いや、そうではなくて、この世の中心はイエズス・キリストであって、イエズス・キリストは、昨日も今日も、そして永久に同じであって、彼こそが私たちのリーダーであって、指導者であって、王であって、彼にこそ私たちは付き従わなければならない。」と、教えています。
そして、苦しみの玄義によっては、私たちの具体的な人生、具体的な道標を教えています。「私たちの歩むべき道は、十字架の道だ。」と、教えています。この世の短い人生、私たちの儚い人生は、何の為かというと、この世の楽しみや快楽やお金とか、この世が私たちに提供する様な、面白おかしい物事の為ではありません。この世の、この世の悲願というのは、「己を捨て、十字架をとって私に従え。」と、言うイエズスの言葉に従う事です。つまり、この世の私たちの人生というのは、絶えざる戦いです。
戦いの法則というのは、愛の法則です。愛の戦いというのは、愛する人の為に、愛する者の為に、私たちの命を与えて、そして自分を犠牲にするという事です。私たちの愛する家族の為に、私たちの愛する祖国の為に、私たちの愛する人々の為に、自分を与え尽くすという事です。これこそが、イエズス・キリストの与えた愛の掟であって、十字架に付けられたイエズス・キリストの愛に応える為に、そのはかり知れない愛に応える為に、私たちを与え尽くす事です。
栄えの玄義は、私たちの人生の究極の目的がどこにあるかを示しています。究極の目的とはこの地上に楽園を作る事ではありません。究極の目的とは皆さんのポケットをお金でたくさん詰め込む事ではありません。この究極の目的というのは仏教でいうニルバーナに悟りに到達する事でもありません。この世の究極の目的というのは、永遠の福楽、永遠の命、天国での至福です。皆さん、山の彼方にある素晴らしい大神殿、大宮殿、それはあなたのもの、皆さんのものなのです。そして私たちの人生というのは、その毎日毎日の、そこの復活に辿り着く為のモチベーションであって、動機付けであって、それへと行く事です、辿り着く為のその大きな願いを持つ事です。
そしてこの三つの鎖が、三つのこの輪っかが私たちの道を、私たちの人生の道標となって、どうやってどこに進むべきかを教えてくれます。そしてこのロザリオの鎖は、同時に花束を作って、毎日私たちはそれを主イエズス・キリストに捧げる事ができるようになっています。
では、私たちは何を主に与えますか?まず私たちは私たちの知性を与えます。私たちの信仰によって、「イエズス・キリストよ、御身は私の全てです。」と。
第二の贈り物は私たちの意志です。私たちは、「Yes. はい。イエズス・キリストよ。私はあなたに従います。あなたに従って十字架を担ぎます。そして、最後に復活まで辿り着きます。」と。
「そして無原罪のマリア様を通して、インマクラータを通して、私の心をあなたに捧げます。そして御身を愛し奉り、そして永遠の永久の愛の王国の一部となりたいのです。」
このロザリオこそ、聖ピオ五世のおかげで、私たちが手に持っている宝物であるのです。
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。