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聖母の汚れなき御心への奉献更新のため:童貞聖マリア

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十 五 日 童貞聖マリア

   我が姉妹、我が花嫁よ、汝は封じたる泉の如し。  (雅歌四。一二)

 この詩(うた)はもとより聖マリアを讃美(さんび)した言葉であるが、それにしても「封(ふう)じたる泉」とは、そもそも何を意味するのであろう。我等はこれから少しくそれに就いて黙想(もくそう)しよう。
 まず「封じたる泉(いずみ)」とは聖マリアの永遠の童貞(どうてい)を指(さ)すのである。封じたる泉は浮き世の塵(ちり)に汚(けが)される事がない。いつも水晶を溶(と)かしたように清冽(せいれつ)な水を湛(たた)えている。
その通り聖マリアの童貞も、御一生の間少しの汚れをも混(まじ)へぬ清浄(しょうじょう)なものであった。それは勿論(もちろん)聖母に与えられた聖寵(せいちょう)の豊(ゆた)かさにも依(よ)ろうが、叉、御自分が常に注意して外なる汚れた世間の事物に対し五官も心も封じられ、唯,内なる超自然界にのみ眼を向けられた結果であった。我等も貞潔(ていけつ)の徳を守ろうと思えば、この聖マリアに倣(なら)って己を「封じたる泉」とするより外(ほか)に道がない。
 次に「封じたる泉」とは聖マリアによる天主の御祝福、御恵を意味する。水は始め地下に溜(た)まり、次第に溢(あふ)れて地上に現れ泉となり、これより河川を発して到る所の田や畑を潤(うるお)すが、天主の約束し給うた御祝福も、聖マリアの御先祖方の犠牲や償(つぐな)いによって、漸次(ぜんじ)、豊かになったとは云え、それは恰(あたか)も地下水のように隠(かく)れたものであった。
ところが聖マリアの御徳によっては益々聖寵(せいちょう)充(み)ち溢(あふ)れ、ついに天主の御奇特(おきとく)によりその御独子(おんひとりご)の御母となられるに及んで、封じられた祝福の泉は始めて外に迸(ほとばし)り出(い)で、以来キリストの建て給うた教会を通じて絶えず四方に流れ、人々の霊魂をうるおす事になったのである。故に我等は日毎に主の御恵をかたじけなうしているにつけ、その源(みなもと)であった「封じたる泉」の聖母の御恩に感謝する所がなければならぬ。最後に「封じたる泉」とは聖マリアの御謙遜に名付けられた言葉とも解釈(かいしゃく)せられる。
謙遜(けんそん)の徳は自我(じが)の心を封じて己の栄を求めず、他に従順(じゅうじゅん)であるのが特色である。聖マリアは夙(つと)に童貞の願(がん)を立(たて)ておいでになった、されば突如(とつじょ)大天使ガブリエルが現れて、天主聖子(おんこ)の母となり給う由(よし)を告(つ)げた時には、一方ならず驚かれて「我が夫を知らざるに、如何にして此の事あるべき」と、問い返されたのも道理な次第であろう。
然しその懐胎(かいたい)が天主の全能によるもので、すこしも童貞を損(そこ)なう恐れのない事をお聞きになると一切の不安や私情を封(ふう)じて、天主の御光栄、人類の救霊の為、潔(いさぎよ)く御自分を聖(み)旨(むね)に委(まか)せ「我は主の婢(はしため)なり。仰せの如く我に成(な)れかし」 
とお答えになった。これは聖母の如く謙遜にして我意(がい)を封(ふう)ずる方でなくては到底出来ぬ事である。
 しかも聖マリアの謙遜(けんそん)は唯(ただ)それだけに止(とど)まらなかった。普通の人なら救い主の母になると知れば、その栄誉(ほまれ)を得々(とくとく)と吹聴(ふいちょう)せずには居られない。
 更に「汝の魂も剱(つるぎ)にて刺(さ)し貫(つらぬ)かるべし」という恐ろしいシメオンの予言を聞き、また実際にその通りの苦痛を味わったら、悲愁(かなしみ)のあまり他人に嘆(なげ)かずには居られまい。けれども聖母は栄誉(ほまれ)も悲愁(うれい)も一切(いっさい)を我が胸に封(ふう)じて、何人にも、浄配(じょうはい)の聖ヨゼフにも語(かた)らず、唯、従順(じゅうじゅん)に天主の御摂理(おせつり)に任(まか)せ給うた。これが真(まこと)の謙遜(けんそん)でなくて何であろう。
天主聖子(おんこ)が聖マリアの御胎(ごたい)に肉(ひと)となり給うという、驚天(きょうてん)動地(どうち)の出来事が成就(じょうじゅ)され、従って救(きゅう)霊(れい)の大事業も完成されるに至ったのは、全(まった)く聖母のかような御謙遜(ごけんそん)によるのである。
 我等もキリストを我が胸に宿(やど)そうと望(のぞ)むならば、聖母の如く謙遜に、己(おのれ)を抑(おさ)えて「封じたる泉」とならねばならぬ。そして我意(がい)を封(ふう)ずれば封ずるほど、内なるイエズスの御意志(みこころ)は明らかになり、聖寵(せいちょう)は滾々(こんこん)と泉のように湧(わ)くのである。
真(しん)の謙遜(けんそん)、即ち我を封ずる事と、聖寵(せいちょう)によって聖(み)旨(むね)に従う事、これより完(かん)徳(とく)に達する道はない。聖人方はいづれもこの事をよく心得て実行された。
されば我等も「封(ふう)じたる泉(いずみ)」の聖マリアに謙遜(けんそん)を学(まな)び、己(おのれ)の為を計(はか)らず、唯(ただ)、天主の御光栄(みさかえ)のみを目的として善(ぜん)を行うように努(つと)めよう。

   祈   願

 あゝ、謙遜(けんそん)の鑑(かがみ)なる聖マリアよ、我等は御身(おんみ)の御跡(おんあと)を慕(した)い奉らんと深く望(のぞ)み、今日新(あら)たに我が身も我が霊(たま)も御身に捧げ、清き聖心(みこころ)の中に隠(かく)れて、ひたすら御子イエズスの御光栄(みさかえ)の為にのみすべてを行(おこな)わんと決心し、それに要する御聖寵(ごせいちょう)を恭(うやうや)しく天使祝詞(しゅくし)三度繰(く)り返して願い奉る。


(天使祝詞 三度)



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