カトリックの聖伝への忠実についての短い説教
ドモルネ神父
1.正義のために苦しむこと
聖ペトロは、第一の書簡の中で、私たちに、こう言っています。「あなたたちがもし善に熱心なら、誰があなたたちに悪を行えようか。たとい正義のために苦しめられても、あなたたちは幸せである。彼らの脅しを恐れるな、戸惑うな。心の中で主キリストを聖なる者として扱(え)」(ペトロ前書3章13-15節)。私たちの時代に、初代教皇のこの言葉を聞くのは、すばらしいことです。
聖ピオ十世会や他の一部の修道会の会員や信徒は、最近の5代にわたる教皇たちから、不当な扱いを受けてきました。私たちは、離教者であるとか、カトリック教徒ではないとか、「完全な」カトリック教徒ではないとかいう誹謗中傷を、しばしば受けてきました。なぜでしょうか。それは、私たちが、第二バチカン公会議の教えのいくつかに従うことを拒否しているからです。その結果、教皇や司教たちは、非常に頻繁に、私たちが、さまざまな教会で聖なるミサを捧げる許可を与えることを拒否してきました。私たちが、カトリック教会の施設や、法的な立場を利用することを拒否してきました。そのため、聖ピオ十世会や他の一部の修道会の信徒たちは、自分たちの信仰を実践するために、自ら、教会や、学校や、神学校を設立せざるをえなかったのです。今まではそうでした。
2.第二バチカン公会議に反対する理由
なぜ第二バチカン公会議のいくつかの教えを拒否するのでしょうか。第一に、これらの教えは、第二バチカン公会議以前の教皇たちの教えと、あきらかに、かつ直接、矛盾するからです。これらの教えは、第二バチカン公会議以前の教皇たちによって、非難されてさえいたものです。
第二に、私たちの主イエズスは、何が真理で、何が誤謬であるかを判断するための原則を、私たちに与えてくださいました。主はこう言われたのです。「良い木は悪い実をつけず、悪い木は良い実をつけられぬ」(マテオ7章18節)。第二バチカン公会議は、世界中で、信教の自由を奨励してきました。その実は、どのようなものでしょうか?至るところで、偽りの宗教が発展しているのです。カトリック教会は、五つの小さな国を除くすべての国で、その特権を失ってしまいました。また、第二バチカン公会議は、エキュメニズムと宗教間対話を奨励しました。その実は、どのようなものでしょうか?教会の宣教活動は大幅に減少しました。カトリック信仰への改宗者の数は、大幅に減少しました。
そして、第二バチカン公会議は、新しいミサの儀式書を公布しました。その実は、どのようなものでしょうか?多くのカトリック教徒は、ミサが、十字架のいけにえの更新であるとは、考えていません。多くのカトリック教徒は、司祭を、天主と人の間に立つ仲介者であるとは、考えていません。多くのカトリック教徒は、ご聖体が、イエズス・キリストご自身であることを、もう信じてはいないのです。司祭や修道者の召命の数は、大幅に減少しました。主日のミサに参列するカトリック教徒の数も、おおきく減りました。第二バチカン公会議以降、罪の概念や、その深刻さや、償いの必要性についての教えは、骨抜きにされました。その結果、道徳的な堕落の拡大が進んでいます。
要するに、第二バチカン公会議の実は、非常に悪いものです。したがって、第二バチカン公会議のこれらの教えは、明らかに間違っているのです。カトリックの信仰を持ち続けることを望むカトリック教徒は、だれでも、これらの教えを拒否して、第二バチカン公会議以前の教皇たちの伝統的な教えに従い続けければなりません。
3.第二バチカン公会議は不可謬ではない
これにたいして、こう、反論する人たちがいます。「第二バチカン公会議の教えは、教皇によって承認されています。ところで、教皇は不可謬です。したがって、第二バチカン公会議の教えは良いものです」。これには、何と答えればいいでしょうか。教皇は、常に不可謬であるわけではありません。教皇は天主ではありません。教皇は人間です。不可謬性の条件を満たしていなければ、教皇は、普通の人と同じように、間違いを犯す可能性があります。
第一バチカン公会議は、教皇は四つの条件を満たす場合にのみ不可謬である、と定義しました。その第一の条件は、教皇が、教会の長としての全き権威をもって発言することです。第二の条件は、教皇が、信仰か道徳について教えることです。第三の条件は、教皇が、自分の言うことを信じることを、義務とすることです。第四の条件は、教皇が、自分の教えとそれを信じる義務とを、地上のすべてのカトリック教徒に適用することです。しかし、第二バチカン公会議について、教皇パウロ六世は、教皇としての不可謬性を用いることを、明確に拒否しました。教皇パウロ六世は、四つの条件を満たさなかったのです。したがって、第二バチカン公会議の教えは不可謬ではないのです。
教皇や公会議の教えが不可謬でないからといって、そのことだけから、私たちがそのような教えを侮蔑したり、拒否したりしていいことにはなりません。プロテスタントは、自分自身の知性のみによって、宗教や天主の啓示についての判断をするのだ、と主張します。他方、カトリックは、私たちの主イエズス・キリストが、天主の啓示の真実を全ての人に教える、という使命と権限を持つ、カトリック教会の教導権を制定されたことを認めます。従って、カトリック教徒にとっての一般的原則は、不可謬のものに限らず、教会の全ての教導権の教えに従うことです。それでもやはり、教皇の不可謬性が及ばないところでは、教皇や公会議によって示された方針には、誤謬の可能性が存在します。そして、もしこのような方針が、信仰を危うくするものであるという証拠がある場合には、その方針を拒否する義務があるのです。それは、「人間よりも、天主に従う」(使徒行録5章29節)ほうが、より良いことだからです。第二バチカン公会議の教えが有害なものであることは明らかです。公会議の教えは、それを判断する能力を持つ司教たちや枢機卿たち、とりわけルフェーブル大司教によって、明確に弾劾されています。また今日に至るまで、このような教えの悪い実が、誰の目にも明らかなほど、積み上がり続けているのです。ですから、第二バチカン公会議の有害な教えや、新しいミサを初めとする、それらの教えに由来する全てのものを拒否することが、真のカトリック教徒ひとりひとりの義務なのです。
4.カトリックの聖伝において忍耐すること
聖ペトロは、その書簡の中で、「たとい正義のために苦しめられても、あなたたちは幸せである」と言っています。なぜでしょうか。それは、私たちの主イエズスが、こう言われたからです。「天の国はあなたたち(彼ら)のものである…あなたたちは天において大きな報いを受けるであろう」(マテオ5章10、12節)。現教皇フランシスコとほとんどの司教たちは、私たちがカトリック信仰に忠実であるという理由で、私たちを苦しめています。
しかし、初代教皇の聖ペトロは、私たちがしあわせである、と教えます。聖ペトロは私たちに、恐れるな、戸惑うな、と諭します。心の中で主を聖なる者として扱え、と命じます。ですから、私たちはそのようにしましょう。私たちがどこにいようとも、カトリック信仰の擁護とカトリックの聖伝の発展のために、平和的に、かつ断固として戦い続けましょう。イエズスの聖心とマリアの汚れなき御心に、私たちのすべての信頼を置きましょう。