イエズスのいと尊き御血についての短い説教
ドモルネ神父
はじめに
この前の木曜日には、私たちの主イエズス・キリストのいと尊き御血をお祝いしました。そのミサの集祷文の中で、教会は、キリストのいと尊き御血には、「現世の危険よりわれらを守る力」がある、と言います。私たちがこの地上の生活において直面しなければならない主要な悪の一つは、悪魔です。今日は、悪魔に対する、キリストのいと尊き御血の力についてお話しします。
1.悪魔による人間の奴隷化
大罪とは、天主の法に対する重大な不従順です。大罪は、現世と人間の創造主であり主権者である天主に対する、重大な侮辱です。大罪を犯すことで、私たちは天主との友情を終わらせ、自ら進んで、天主と敵対する状態になります。その結果、私たちは悪魔の奴隷となるのです。では、どのようにしてそうなるでしょうか。
悪魔は私たちを罪に誘い、罪を通して私たちを奴隷にします。私たちの主イエズスは、「罪を犯す者はみな罪の奴隷である」(ヨハネ8章34節)と言われました。聖ペトロは、「負ける者は、勝つ者の奴隷…である」(ペトロ後書2章19節)と言いました。罪を犯すとき、私たちは悪しき欲望に負けます。その結果、この悪しき欲望は私たちの中でさらに強くなり、逆に私たちの意志の力は弱くなります。罪を犯せば犯すほど、悪しき欲望はますます強くなり、意志の力はますます弱くなります。悪しき欲望は、私たちの中にいる暴君のようになります。たとえ望んでも、私たちはその欲望に抵抗することができなくなります。私たちは奴隷のようになります。ですから、悪魔は私たちを罪に誘うことで、私たちを奴隷にするのです。
私たちが悪魔の奴隷になる理由が、もう一つあります。大罪を犯すとき、私たちは、天主の無限の御稜威(みいつ)を侮辱しているのです。私たちは、不正義を犯しているのです。私たちは、天主の正義に対して負い目をもつことになるのです。私たちは、自分の犯した不正義を正すまで、罰を受けるに値します。裁判官が、犯罪の償いが完了するまで犯罪者を刑の執行人の権威の下に引き渡すように、天主は罪の償いが完了するまで罪人を悪魔の権威の下に引き渡されるのです。イエズスが、「そうしないと、相手はあなたを裁判官に渡し、裁判官は下役(したやく)に渡し…てしまう」(マテオ5章25節)と言われたのはこのことです。聖ヨハネ・クリゾストモは、この「下役」とは悪魔のことだと説明しています。
つまり、罪を犯すことで、私たちは悪魔の権威の下に自らを置くことになるのです。具体的に言うと、 私たちを霊的に誘惑し、肉体的にいらだたせることによって、悪魔は私たちを苦しめることができるということです。そして、奴隷が残酷な主人によって加えられる虐待から逃れられないように、私たち罪人も、自分たちだけでは、悪魔によって加えられる苦痛に耐え忍ぶことしかできないのです。
2.キリストのいと尊き御血による人間のあがない
悪魔の力から解放されるためには、罪がなく、かつ私たちのあがないの代価を支払える人の助けが必要でした。まったく罪がないのは、イエズス・キリストだけです。イエズス・キリストは原罪の影響をいささかも受けておられず、自ら一度も罪を犯されたことがありません。イエズス・キリストは、愛と従順のゆえに、ご自身の尊き御血、すなわち人間としての命を天主にお捧げになることで、私たちの救いの代価を支払ってくださったのです。
この無限の価値を持つ犠牲をお受けになって、天主は、人類のすべての罪に対して御怒りになる以上の栄光を受けられたのです。私たちの罪によって犯された天主に対する不正義は正されました。したがって、一旦不正義が正されれば、公平な裁判官が犯罪者を刑の執行人の権威の下から解放するように、天主は私たちを悪魔の権威の下から解放してくださったのです。
また、その尊き御血を天主にお捧げになることで、私たちの主イエズスは、私たちの罪の赦しをお求めになり、それを獲得されました。したがって、悪魔は罪人に対する権利を失いました。イエズス・キリストは、私たちの罪の赦しを獲得なさっただけでなく、私たちが誘惑に勝つために必要なすべての恩寵をも受けられたのです。つまり、キリストの御血が捧げられたことによって、私たちは悪魔よりも強くなっているのです。
私がいま言ったことに反対する人がいるかもしれません。ご受難の後であっても、悪魔は私たちを誘惑したり、肉体的にいらだたせたりすることによって、私たちを攻撃することができます。つまり、キリストの御血が捧げられても、私たちが悪魔の力から解放されたわけではない、ということになります。聖トマス・アクィナスは、確かに、天主のお許しがあれば、悪魔は今でも誘惑したり、肉体的にいらだたせることによって、人々を攻撃することができる、と答えています。それでも、キリストの御血は、人が悪魔のいかなる攻撃からも身を守るための、最善の薬なのです。
結論
イエズスのいと尊き御血は、私たちを悪魔の力から解放します。しかし、薬は、病人が飲まなければ役に立たないように、イエズスのいと尊き御血も、私たちが、自分自身や周囲に対して、それを用いなければ、役に立ちません。では、どのように用いればよいのでしょうか。
第一に、信仰と成聖の恩寵によって、イエズス・キリストに一致します。
第二に、聖なるミサにおいて、霊的に司祭に一致し、自分の罪と他の人々の罪を償うために、イエズスの尊き御血を、心の中で、司祭とともに捧げます。
第三に、ご聖体を、秘蹟的あるいは霊的に受けることによって、いと尊き御血の力を、自分自身のために用います。
第四に、祈りや教会の準秘蹟、特に聖水によって、自分の周りに対して、いと尊き御血の力を用います。そうすることで、悪魔が、人や場所や物に対して持っている支配力を、失わせることができるのです。
ドモルネ神父
はじめに
この前の木曜日には、私たちの主イエズス・キリストのいと尊き御血をお祝いしました。そのミサの集祷文の中で、教会は、キリストのいと尊き御血には、「現世の危険よりわれらを守る力」がある、と言います。私たちがこの地上の生活において直面しなければならない主要な悪の一つは、悪魔です。今日は、悪魔に対する、キリストのいと尊き御血の力についてお話しします。
1.悪魔による人間の奴隷化
大罪とは、天主の法に対する重大な不従順です。大罪は、現世と人間の創造主であり主権者である天主に対する、重大な侮辱です。大罪を犯すことで、私たちは天主との友情を終わらせ、自ら進んで、天主と敵対する状態になります。その結果、私たちは悪魔の奴隷となるのです。では、どのようにしてそうなるでしょうか。
悪魔は私たちを罪に誘い、罪を通して私たちを奴隷にします。私たちの主イエズスは、「罪を犯す者はみな罪の奴隷である」(ヨハネ8章34節)と言われました。聖ペトロは、「負ける者は、勝つ者の奴隷…である」(ペトロ後書2章19節)と言いました。罪を犯すとき、私たちは悪しき欲望に負けます。その結果、この悪しき欲望は私たちの中でさらに強くなり、逆に私たちの意志の力は弱くなります。罪を犯せば犯すほど、悪しき欲望はますます強くなり、意志の力はますます弱くなります。悪しき欲望は、私たちの中にいる暴君のようになります。たとえ望んでも、私たちはその欲望に抵抗することができなくなります。私たちは奴隷のようになります。ですから、悪魔は私たちを罪に誘うことで、私たちを奴隷にするのです。
私たちが悪魔の奴隷になる理由が、もう一つあります。大罪を犯すとき、私たちは、天主の無限の御稜威(みいつ)を侮辱しているのです。私たちは、不正義を犯しているのです。私たちは、天主の正義に対して負い目をもつことになるのです。私たちは、自分の犯した不正義を正すまで、罰を受けるに値します。裁判官が、犯罪の償いが完了するまで犯罪者を刑の執行人の権威の下に引き渡すように、天主は罪の償いが完了するまで罪人を悪魔の権威の下に引き渡されるのです。イエズスが、「そうしないと、相手はあなたを裁判官に渡し、裁判官は下役(したやく)に渡し…てしまう」(マテオ5章25節)と言われたのはこのことです。聖ヨハネ・クリゾストモは、この「下役」とは悪魔のことだと説明しています。
つまり、罪を犯すことで、私たちは悪魔の権威の下に自らを置くことになるのです。具体的に言うと、 私たちを霊的に誘惑し、肉体的にいらだたせることによって、悪魔は私たちを苦しめることができるということです。そして、奴隷が残酷な主人によって加えられる虐待から逃れられないように、私たち罪人も、自分たちだけでは、悪魔によって加えられる苦痛に耐え忍ぶことしかできないのです。
2.キリストのいと尊き御血による人間のあがない
悪魔の力から解放されるためには、罪がなく、かつ私たちのあがないの代価を支払える人の助けが必要でした。まったく罪がないのは、イエズス・キリストだけです。イエズス・キリストは原罪の影響をいささかも受けておられず、自ら一度も罪を犯されたことがありません。イエズス・キリストは、愛と従順のゆえに、ご自身の尊き御血、すなわち人間としての命を天主にお捧げになることで、私たちの救いの代価を支払ってくださったのです。
この無限の価値を持つ犠牲をお受けになって、天主は、人類のすべての罪に対して御怒りになる以上の栄光を受けられたのです。私たちの罪によって犯された天主に対する不正義は正されました。したがって、一旦不正義が正されれば、公平な裁判官が犯罪者を刑の執行人の権威の下から解放するように、天主は私たちを悪魔の権威の下から解放してくださったのです。
また、その尊き御血を天主にお捧げになることで、私たちの主イエズスは、私たちの罪の赦しをお求めになり、それを獲得されました。したがって、悪魔は罪人に対する権利を失いました。イエズス・キリストは、私たちの罪の赦しを獲得なさっただけでなく、私たちが誘惑に勝つために必要なすべての恩寵をも受けられたのです。つまり、キリストの御血が捧げられたことによって、私たちは悪魔よりも強くなっているのです。
私がいま言ったことに反対する人がいるかもしれません。ご受難の後であっても、悪魔は私たちを誘惑したり、肉体的にいらだたせたりすることによって、私たちを攻撃することができます。つまり、キリストの御血が捧げられても、私たちが悪魔の力から解放されたわけではない、ということになります。聖トマス・アクィナスは、確かに、天主のお許しがあれば、悪魔は今でも誘惑したり、肉体的にいらだたせることによって、人々を攻撃することができる、と答えています。それでも、キリストの御血は、人が悪魔のいかなる攻撃からも身を守るための、最善の薬なのです。
結論
イエズスのいと尊き御血は、私たちを悪魔の力から解放します。しかし、薬は、病人が飲まなければ役に立たないように、イエズスのいと尊き御血も、私たちが、自分自身や周囲に対して、それを用いなければ、役に立ちません。では、どのように用いればよいのでしょうか。
第一に、信仰と成聖の恩寵によって、イエズス・キリストに一致します。
第二に、聖なるミサにおいて、霊的に司祭に一致し、自分の罪と他の人々の罪を償うために、イエズスの尊き御血を、心の中で、司祭とともに捧げます。
第三に、ご聖体を、秘蹟的あるいは霊的に受けることによって、いと尊き御血の力を、自分自身のために用います。
第四に、祈りや教会の準秘蹟、特に聖水によって、自分の周りに対して、いと尊き御血の力を用います。そうすることで、悪魔が、人や場所や物に対して持っている支配力を、失わせることができるのです。