アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様、
アジア管区のサイトの記事「Vocation - An Unnecessary Mystery 修道召命に神秘主義は不要」の日本語訳を愛する兄弟姉妹の皆様にご紹介いたします。
天主様の祝福が豊かにありますように!
原文はこちら
修道召命に神秘主義は不要
2015年4月18日
ドミニコ会士・リチャード・バトラー神父の著書をもとにした説教。
はじめに
親愛なる兄弟の皆さん、「召命」という言葉は、示唆に富む言葉です。内的な混乱、自分自身を疑うこと、罪悪感や他の感情を(特に若者たちの間に)引き起こします。このような感情が起こる理由、それは、この召命という言葉そのものが無意識のうちに「私には召命があるのだろうか?」という問いを私たち自身に問いかけてくるから です。
区別
私たちのほとんどは、人生のいくつかの段階において、この問いかけを自らに問います。「私には召命があるのだろうか?」ですが、召命とは何かを本当に理解している人はほとんどいません。
召命は二つのカテゴリーに分けることができます。最初の一つは修道召命です。これは普通、修道会内部において福音的勧告(清貧、貞潔、従順)を受け入れることです。男性と女性の両方にあてはまります。二つ目は司祭職の召命です。これは叙階の秘蹟より生じる召命です。
この説教は修道召命についてのものですが、同じくらい司祭職の召命にも当てはまることでしょう。
何が召命ではないか
先ほど言いましたように、私たちのほとんどは召命とは何かを本当には理解していません。1960年、ドミニコ会士のリチャード・バトラー神父は「修道召命に神秘主義は不要」と題された本を書きました。バトラー神父はこの本の中で、召命を取り巻く近代の間違った観念を明らかにし、天使的博士、聖トマス・アクィナスの永遠の教えを提示して います。
バトラー神父は、召命とは何かについて、二つの対極的な間違った概念があると述べています。
一つ目の間違った概念は、まったく客観的視点で召命という考えを見ることです。
・天主はすべての人間へ、愛徳の完成という人間の目的への手段として、清貧、貞潔、従順の福音的 勧告を呼びかけている。この三つの勧告は最終目的に到達する最高の手段であり、完全になりたいと望むすべての人間はこれらを受け入れるべきだ。だから、すべての人間が修道院に入るべきだ、という主張です。
この考えの対極にあるものが、現在広く行き渡り、しかも聖伝のカトリック信者たちの間でさえもみいだされています。これは召命をまったく主観的視点で見るという間違いです。
・召命は純粋に内的なものであり、神秘的で、謎に満ちているものだ、という考えです。
著者は自分の論点を説明するために、空想的作家たちの文章から、いろいろな大げさな一節をからかい気味に引用しています。「修道生活はさまざまな方法でやって来る。ある場合には、議論の余地なく圧倒的なものだ。別の場合には、穏やかで、風のささやきのようで、識別するために注意深く耳をすまさなければならない」「親愛なる友よ、心の奥底で、天主があなたをお呼びでないかどうかを自らに問いなさい」
最初に述べた、まったく客観的視点で召命を見るという極端な概念にまつわる問題とはこうです。修道生活は最も完全な生活であるとする一方で、天主はすべての人が修道者の身分を受け入れることをお望みではないと、そのご意志が明確に宣言されています。このような思慮に欠ける考えは天国に送るべき霊魂たちを(結婚において受胎されないがために)奪うかも知れず、結婚した聖人たちを列聖するというのは馬鹿げたことになってしまいます。
上記に述べた概念の対極の思想にまつわる問題はこうです。召命という概念は神秘に包まれているというものです。それは定義できなくなります。グノーシス主義(秘密主義の注入された知識)の状況となり、頻繁にあることですが、お告げを聞くことで、落雷や啓示を期待することで、祈りのときにたまにある、ふんわりした快さを待ち望むことで、天主のご意志を識別しようとして感傷主義の状況を作り出すのです。
何が召命であるか
修道召命とは、愛徳の完成という目的への手段として、三つの福音的勧告を受け入れるという(恩寵によって駆り立てられる)堅固な意志、それ以外のなにものでもありません。
召命とは、誰彼の区別なく、すべての人にあてはまるまったく客観的なものではなく、そして明瞭さや客観性を欠いたまったく主観的なものでもありません。召命とは、その二つの対極の考えのちょうど真ん中、黄金の中庸です。
客観的には、召命とは普遍的な論理的強制ではなく、イエズス・キリストによって、一切の区別なくすべての人に開かれた招きなのです。
主観的には、召命とはある思想への情動的反応ではなく、完全な愛徳への静かな熱望です。
私には召命があるのだろうか?
では、カトリックの若者が「召命」という言葉を聞いた時に、たびたび彼に向かって浴びせかけられる居心地の悪い質問へと戻ります。実際のところ、高価な指輪を所有するように、絶え間なくうるさくつきまとう内心の声を聞くかのように「召命がある」というような事実は存在しません。
真剣に召命を考える人々はこの問いから離れるべきです。その代わりに次の質問を自分たちに問いかけてみて下さい。
1. 私は心の底から愛徳の完成を望んでいるか?
2. 私が修道生活を受け入れるにあたって障害となるかもしれない次のものから自由であるか?
・健康でないこと、あるいは精神面に問題があること。
・悪習から抜け出せずにいること。
・扶養家族がいる。すなわち夫、妻、子ども、高齢の両親。
・借金があること。
3. 修道生活を最後までやり遂げるため、私の霊魂は寛大さを持ち合わせているか?
・天主の愛による寛容
・徳への熱望
・他者への寛容
・率直であること
・気取りや嘘がないこと
・名誉欲への慎み
・天主の被造物へのバランスのとれた評価(秩序感覚)
・賢慮
召命とは不本意なものでもなく、謎に満ちたものでもありません。熟慮の末に "あなた" が決めるものなのです。すなわち(a)召命が何を意味するのか、(b)その能力があるかどうか、そして(c)最後までやり遂げる寛大さを持ち合わせているかどうか、という熟慮の末にです。
ですから、もしも皆さんのうちにどなたかが、これらの質問に対し「はい」と答えるならば、親愛なる兄弟の皆さん、皆さんはただ「さ、急いで修道院へ行け!」[訳注: ハムレットのセリフ〕と言いさえすればよいのです。
もしためらっている方がいるなら、聖トマスのこの言葉を残していきましょう。
修道院に入って完徳を達成できるのかどうかとためらう人々の懸念は、多くの例が示すように不合理なものである……。この快い軛を自らに負わせる人々に対し、聖主は天的実りの爽快さと霊魂の安らぎを与えてくださる。これによりて、願わくはこの約束をなし給うたお方が、とこしえによろずのものを超えて祝され給うお方、我らの主イエズス・キリストを我らにもたらし給わんことを。アーメン。(聖トマスのContra Retrahentesの結びの言葉)
愛する兄弟姉妹の皆様、
アジア管区のサイトの記事「Vocation - An Unnecessary Mystery 修道召命に神秘主義は不要」の日本語訳を愛する兄弟姉妹の皆様にご紹介いたします。
天主様の祝福が豊かにありますように!
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修道召命に神秘主義は不要
2015年4月18日
ドミニコ会士・リチャード・バトラー神父の著書をもとにした説教。
はじめに
親愛なる兄弟の皆さん、「召命」という言葉は、示唆に富む言葉です。内的な混乱、自分自身を疑うこと、罪悪感や他の感情を(特に若者たちの間に)引き起こします。このような感情が起こる理由、それは、この召命という言葉そのものが無意識のうちに「私には召命があるのだろうか?」という問いを私たち自身に問いかけてくるから です。
区別
私たちのほとんどは、人生のいくつかの段階において、この問いかけを自らに問います。「私には召命があるのだろうか?」ですが、召命とは何かを本当に理解している人はほとんどいません。
召命は二つのカテゴリーに分けることができます。最初の一つは修道召命です。これは普通、修道会内部において福音的勧告(清貧、貞潔、従順)を受け入れることです。男性と女性の両方にあてはまります。二つ目は司祭職の召命です。これは叙階の秘蹟より生じる召命です。
この説教は修道召命についてのものですが、同じくらい司祭職の召命にも当てはまることでしょう。
何が召命ではないか
先ほど言いましたように、私たちのほとんどは召命とは何かを本当には理解していません。1960年、ドミニコ会士のリチャード・バトラー神父は「修道召命に神秘主義は不要」と題された本を書きました。バトラー神父はこの本の中で、召命を取り巻く近代の間違った観念を明らかにし、天使的博士、聖トマス・アクィナスの永遠の教えを提示して います。
バトラー神父は、召命とは何かについて、二つの対極的な間違った概念があると述べています。
一つ目の間違った概念は、まったく客観的視点で召命という考えを見ることです。
・天主はすべての人間へ、愛徳の完成という人間の目的への手段として、清貧、貞潔、従順の福音的 勧告を呼びかけている。この三つの勧告は最終目的に到達する最高の手段であり、完全になりたいと望むすべての人間はこれらを受け入れるべきだ。だから、すべての人間が修道院に入るべきだ、という主張です。
この考えの対極にあるものが、現在広く行き渡り、しかも聖伝のカトリック信者たちの間でさえもみいだされています。これは召命をまったく主観的視点で見るという間違いです。
・召命は純粋に内的なものであり、神秘的で、謎に満ちているものだ、という考えです。
著者は自分の論点を説明するために、空想的作家たちの文章から、いろいろな大げさな一節をからかい気味に引用しています。「修道生活はさまざまな方法でやって来る。ある場合には、議論の余地なく圧倒的なものだ。別の場合には、穏やかで、風のささやきのようで、識別するために注意深く耳をすまさなければならない」「親愛なる友よ、心の奥底で、天主があなたをお呼びでないかどうかを自らに問いなさい」
最初に述べた、まったく客観的視点で召命を見るという極端な概念にまつわる問題とはこうです。修道生活は最も完全な生活であるとする一方で、天主はすべての人が修道者の身分を受け入れることをお望みではないと、そのご意志が明確に宣言されています。このような思慮に欠ける考えは天国に送るべき霊魂たちを(結婚において受胎されないがために)奪うかも知れず、結婚した聖人たちを列聖するというのは馬鹿げたことになってしまいます。
上記に述べた概念の対極の思想にまつわる問題はこうです。召命という概念は神秘に包まれているというものです。それは定義できなくなります。グノーシス主義(秘密主義の注入された知識)の状況となり、頻繁にあることですが、お告げを聞くことで、落雷や啓示を期待することで、祈りのときにたまにある、ふんわりした快さを待ち望むことで、天主のご意志を識別しようとして感傷主義の状況を作り出すのです。
何が召命であるか
修道召命とは、愛徳の完成という目的への手段として、三つの福音的勧告を受け入れるという(恩寵によって駆り立てられる)堅固な意志、それ以外のなにものでもありません。
召命とは、誰彼の区別なく、すべての人にあてはまるまったく客観的なものではなく、そして明瞭さや客観性を欠いたまったく主観的なものでもありません。召命とは、その二つの対極の考えのちょうど真ん中、黄金の中庸です。
客観的には、召命とは普遍的な論理的強制ではなく、イエズス・キリストによって、一切の区別なくすべての人に開かれた招きなのです。
主観的には、召命とはある思想への情動的反応ではなく、完全な愛徳への静かな熱望です。
私には召命があるのだろうか?
では、カトリックの若者が「召命」という言葉を聞いた時に、たびたび彼に向かって浴びせかけられる居心地の悪い質問へと戻ります。実際のところ、高価な指輪を所有するように、絶え間なくうるさくつきまとう内心の声を聞くかのように「召命がある」というような事実は存在しません。
真剣に召命を考える人々はこの問いから離れるべきです。その代わりに次の質問を自分たちに問いかけてみて下さい。
1. 私は心の底から愛徳の完成を望んでいるか?
2. 私が修道生活を受け入れるにあたって障害となるかもしれない次のものから自由であるか?
・健康でないこと、あるいは精神面に問題があること。
・悪習から抜け出せずにいること。
・扶養家族がいる。すなわち夫、妻、子ども、高齢の両親。
・借金があること。
3. 修道生活を最後までやり遂げるため、私の霊魂は寛大さを持ち合わせているか?
・天主の愛による寛容
・徳への熱望
・他者への寛容
・率直であること
・気取りや嘘がないこと
・名誉欲への慎み
・天主の被造物へのバランスのとれた評価(秩序感覚)
・賢慮
召命とは不本意なものでもなく、謎に満ちたものでもありません。熟慮の末に "あなた" が決めるものなのです。すなわち(a)召命が何を意味するのか、(b)その能力があるかどうか、そして(c)最後までやり遂げる寛大さを持ち合わせているかどうか、という熟慮の末にです。
ですから、もしも皆さんのうちにどなたかが、これらの質問に対し「はい」と答えるならば、親愛なる兄弟の皆さん、皆さんはただ「さ、急いで修道院へ行け!」[訳注: ハムレットのセリフ〕と言いさえすればよいのです。
もしためらっている方がいるなら、聖トマスのこの言葉を残していきましょう。
修道院に入って完徳を達成できるのかどうかとためらう人々の懸念は、多くの例が示すように不合理なものである……。この快い軛を自らに負わせる人々に対し、聖主は天的実りの爽快さと霊魂の安らぎを与えてくださる。これによりて、願わくはこの約束をなし給うたお方が、とこしえによろずのものを超えて祝され給うお方、我らの主イエズス・キリストを我らにもたらし給わんことを。アーメン。(聖トマスのContra Retrahentesの結びの言葉)