アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様、
8月15日の聖母の被昇天ですが、いつもミサ聖祭を捧げる新大阪のコロナホテルで、午後6時半からミサ聖祭(歌ミサ)を捧げるように予定が付け加わりました。
8月16日主日には、大阪で聖伝のミサが二回捧げられる予定です。アジア管区長のシュテーリン神父様が訪問される予定です。
また、9月6日の東京でのミサ聖祭ですが、都合により午後1時半からの開始の予定です。お間違えの無いようにお願い申し上げます。
さて、今回は、7月31日に大阪での聖伝のミサの時の説教をご紹介します。日本に聖フランシスコ・ザベリオを派遣してくださった大恩人である聖イグナチオ・デ・ロヨラについてお話ししました。
天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)
2015年7月31日 証聖者聖イグナチオ・デ・ロヨラの祝日
小野田神父 説教
聖母の汚れ無き御心巡回教会にようこそ。今日は2015年7月31日、聖イグナチオのミサを行っています。
このミサは特に、今週の月曜日に亡くなられた、マリアさんの、信徒会長様のお母様の霊魂の為に捧げられています。会長のお母様は、会長の手によって、緊急の洗礼を受けたい、という事で洗礼を受けて、そしてマリアという霊名で、そして私の訪問をお待ちだったのです。本来なら、今回日本に来た時に、お母様にお目にかかって、できれば終油の秘跡とか、或いは必要な祝福を、病者の祝福を、本当は授ける予定でしたが、一足先に主に召されてしまいました。どうぞ、お母様の為にお祈り下さい。
「聖イグナチオ、我らの為に祈り給え。」
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
愛する兄弟の皆さん、今日は聖イグナチオの祝日ですので、聖イグナチオの人生について、黙想してみましょう。
聖イグナチオは、どういう人生を辿って、そして一体何がきっかけで大聖人になって、どんな事業をイエズス様の為になさったのか、そしてそれを見て、私たちがどんな点で、聖イグナチオを真似しなければならないのか、或いは、聖イグナチオの人生を黙想した、何か、私たちに与える教訓は何かを、見てみる事にします。
聖イグナチオは、1491年にスペインのロヨラ城で、お父さんの名前は、ベルトラン・デ・オナス・イ・ロヨラ、そしてお母さんは、マリナ・デ・リコナ・イ・バルダ、というお父さんとお母さんを持った、夫婦の一番最後の末っ子として生まれて来ました。そして幼い頃は、イニゴという名前で、そのオナ地方にあった、ベネディクト会の修道者の聖人の大修道院長の名前を取ったのですが、後にローマ時代の、イグナチオと名前を変える事になります。
子供の頃は、その当時の流行に従って、スペインでは非常に流行っていた、『騎士の物語』、エル・シードとか騎士が、イスラム教の、キリスト教に反対する人たちからの戦いに、都市を守って、そして貴婦人を助けて、そして英雄的な生涯を送る、騎士道の精神を守る、そして騎士としての栄光を高める、という本をたくさん読んで、それに憧れていました。
そして、ちょうどその機会がやってきました、というのは、1517年に、ナヘラという伯爵の騎士として、兵士として仕える事ができるようになったからです。そしてその当時、その上流社会に出入りして、貴婦人を見て、「あぁ、この貴婦人が良いなぁ、好きだなぁ。」とか、或いは、この世の楽しみ、この世の栄華、この世の楽しみなどに非常に大きな憧れを持っていました。そしてそれを追及する為に、「騎士道の道を、ますます歩こう。」と、思っていました。そして彼は、イニゴには、それなりの体力と、勇気と力もありました。
そのようなイニゴにとって、大きな転換期がやってきました。それは、1521年、フランスのアンドレ・ド・フォアという、ナバラ地方にいたフランス人が、それは力のある貴族だったのですけれども、それをスペインの、そこのイニゴが仕えていた上司に対して攻撃をかけます。そしてそのパンペルーナ城に対する攻撃に対して、イニゴが皆と力を合わせて、それに対抗します。上司はすぐに退却するのですけれども、イニゴたちだけは残って、一生懸命それに反撃するのです。結局5月20日、それは聖霊降臨後の月曜日、大砲の弾がイニゴの足に当たって、足の間で避けて、そして負傷を負って、もう歩く事ができなくなります。骨を折って、そしてイニゴが倒れたのを見て、他の仲間たちは皆、これで降参してしまいます。スペインのパンペルーナ城は負けてしまうのです。一生懸命、敵ながらにあっぱれに戦っていたイニゴを見て、フランス人たちも彼を助けて、治療して、家に帰させるのです。
療養中、自分の家でいつも読んでいた、ロマンの本を、騎士道の本を、「ないかなぁ。」と、探すのです。しかし、そこにあった本は、『キリストの生涯』と、『聖人伝』だけでした。そこで、その時間に任せて、『聖人伝』、『キリストの生涯』を読んで、時を過ごしましたが、『聖人伝』を読めば読むほど、『キリストの生涯』を読めば読むほど、「自分にはもっと、仕えるべきもっと高貴な王がいる。」と、いう事が分かりました。今まで知らなかった、超自然の、天の王国についての事に目が覚めたのです。
そこでイニゴは、「あぁ、私はもっと偉大な王に仕えなければならない。私の仕えるべき王は、イエズス・キリストだ。そして、もしもこの聖人たちが、これほどキリストの為に仕えたのならば、私も真似をして、彼らのようになりたい。断食をして、苦行をして、そしてイエズス・キリストに仕えたい。」という望みを多く持つようになりました。そしてイニゴは、「これからは、罪の償いと、悔悛と、苦行の生活を送りたい。」という願いに燃えて、「そして聖人たちに倣って、自分もエルサレムに巡礼に行きたい。そしてキリストの、イエズス様の生涯の色々な場所を訪問して、そこで黙想して、そこで一生を送りたい。そして巡礼者の霊魂の助けをしたい。」という決心を立てるようになります。
そしてここでイニゴは、この大砲が当たって大怪我をしたおかげで、大回心をする事になります。今まで世俗の事だけに、世俗の栄光だけを夢見たのが、キリストの為に仕える痛悔者となったのです。
そこでイニゴは、歩けるようになると、すぐにエルサレムの方に巡礼に行く事にします。しかし、そのエルサレムにすぐに行くのではなく、その前に、近くにあったモンセラトというマリア様の巡礼地があって、「そこでまず総告解をしよう。」という事で、そこに巡礼に行って、3日間良心の糾明をして、そして総告解をします。
そしてその告解をした後に、ちょうどその当時の習慣では、騎士道では、人が青年が騎士になる時には、御聖堂に行って、一晩中寝ずのお祈りをします。そしてその夜通しのお祈りをした後に、特別の儀式があって、騎士に叙任されて、そして騎士の服を受けて、そして正式な騎士とするのですけれども、イニゴは、総告解をした後に、一晩中、モンセラトのマリア様の前でお祈りをして、寝ずのお祈りをして、そしてその翌日、今まで着ていた貴族の服を乞食に与えて、乞食に、「交換しよう。」と、言うのです。そしてこれからは、袋の汚い服を着て、そしてそのマリア様の所の聖堂に、自分の付けていた刀や、短剣を置いて、そして、「これからは、生涯、新しい一生を送るのだ。」という事でミサに与って、ちょうどその日は、1522年3月25日、聖体拝領をして、そして至聖所を、モンセラトの至聖所を出発します。
かといって、どこに行くという当てもなく、「とにかく主の導きのままに。」と、言って出るのです。ところで、イグナチオと服を交換した乞食は後で逮捕されて、「お前、どっかで盗んで来たんじゃないか。」と。イグナチオがそれを説明するまで、泥棒の疑いをかけられたそうです。
話は戻りますが、イグナチオがそこのモンセラトの至聖所を出ると、たまたま、非常に心の良いカトリックの婦人がいて、イニエス・パスカルという女性に会います。そしてその方がイグナチオをそこに泊める事をするように招いてくれます。そしてこのような乞食のみそぼらしい彼を、彼女がそれを受け入れて、その間、イグナチオは彼女のところに留まりながら、祈りと黙想に耽ります。マンレサ洞窟に行っては、お祈りをし、そして断食をし、特にイエズス様についての御受難を読んで、黙想し、ミサに与り、そして祈りと償いと苦行の生活を送ります。
そうしてそういう時に、色々な傷心の問題や、或いは誘惑の問題や、色々な霊的な闘いがあるのですけれども、その時に色々な光を受けて、ある時には一週間、8日間続けて脱魂状態にあった、という記録が残っています、そしてそのような、特に霊的な修練に於いて、メモを取って出来たのが、『霊操』といわれるもので、そのノートが元になって、将来、『黙想をする30日の霊操』というものが成立します。
最初は、罪の償い、改悛、という事だけしか頭になく、キリストに仕えたい、聖人に倣いたい、という事で巡礼の旅に出た聖イグナチオは、このお祈りの後に、霊的な師となって、大変化をする事になります。
そしてその後にイグナチオは、そのイニエス・パスカルさんたちの家を出て、いつも黙想していた洞窟、マンレサの洞窟を離れて、とうとうエルサレムに旅立ちます。イグナチオが旅立つ時には、そのイニエス・パスカルさんと家族たちは、「私たちは、天使であり、私たちの聖人である、大きな友人を失ってしまった。」と、非常に悲しんだそうです。
1523年の2月に聖地に向かって、そして聖地に到着して、聖地の色々な所を訪問して、非常に霊的な大きな慰めを受けます。が、フランシスコ会の管理者の方が、「お前は家に帰れ。お前のような者がいると、誘拐されたり、大きな問題が起こるから、すぐ帰ってもらいたい。」と、言われて、イグナチオはそれに従って、せっかく何年もかけてようやく辿り着いたエルサレムを離れて、スペインに戻ります。かといって、一体何をするべきなのか分からなくて、「とにかく霊魂の為になりたい、イエズス・キリストに倣いたい。」という思いで、その巡礼の地から離れなければなりませんでした。もしもそのような命令が無ければ、イグナチオは一生涯、聖地に骨を埋めていた事だったのです。
しかし、イグナチオはスペインに戻って、「霊魂を救う為には、霊魂たちの役に立つ為には、キリストについての話をするには、そして自分の見出した、この『霊操』の指導をするには、霊的な話をするには、自分もちょっと学をつけなければならない。」という事で、33歳だったにもかかわらず、学校の小さな子供たちに混ざって、学校で勉強しだします。そして2年間、子供たちと一緒に勉強して、そしてアルカラという所の大学に行き、そこで何か、異端の疑いをかけられたので、次にはサラマンカの大学に行き、そしてそこでもまた、疑いがかけられて、牢獄に入れられ、今度はパリに行きます。
そしてパリで神学を勉強して、そして多くの良い友人たちと会います。ペトロ・ファベル、聖フランシスコ・ザヴェリオ、ライネス、サルメロン、シモン・ロドリゲス、ニコラス・バディラ、などという6人の同志がいて、そして彼らと一緒に、「イエズス様の為に何かをしよう。」そして話しが合って、そして1534年8月15日、パリのモンマルトルのチャペルで、清貧と、貞潔と、そしてエルサレムに巡礼に行く、という3つの約束をして、それから、「これから自分たちは一緒に、自己聖化の道を捧げよう。」という風になります。
そして、その約束の通り、自分たちの立てた誓願の通り、エルサレムに行こうとするのですけれども、その当時トルコと、戦っていたトルコ軍が海を、地中海を占領していた為に、舟は、エルサレムに行くような舟はありませんでした。幾度、何度も待っても待っても待っても、舟はない、という事で、「もしも天主様の聖旨がそうであるならば、エルサレムに行く代わりに、教皇様に、私たちの奉仕を捧げよう。」という事で、ローマに行きます。
そして、「私たちは、イエズス様の為に戦う騎士であり、イエズス様の為に戦う小さな軍隊だから、この軍隊を教皇様は使って下さい。」そして、イエズス様の軍隊という事で、『イエズス会』という名前を付け出します。
しかし、このイエズス会も、最初は修道会という明確なものはなかったのですけれども、しかしその当時、カトリック教会全体をみると、イスラム教徒からの危険、或いはプロテスタントによって、多くのカトリックの国々が影響を受けてしまって、教会を離れてしまっている。イギリスはヘンリー8世が、教会を離教状態にしてしまった。或いはフランスとスペインは、互いにバルワ家とハプスブルク家が戦っている。そして残念ながら、ルネッサンスの影響で道徳もゆるんでしまっている。そして多くの人々は、キリスト教について何も知らない、無知がはびこっている。という事で、「私たちは何か、永続的なものをしなければならない。」という事で、「1つの修道会として、従順の誓願を立てる。」という事を決意しました。
そして、教皇様パウロ3世が、1540年9月27日に勅令を出して、そのイエズス会を公式に認可する事になります。
すると、もしも従順であるならば、長上を決めなければなりません。そして、「長上を誰か、これから投票をして決めよう。」という事になります。
ところで、その当時ポルトガルは、とても海洋的に力のある国でした。そしてアメリカにはブラジル、そしてアフリカにはエチオピア、そしてアジアにはインドがあって、その当時ポルトガル人は種子島にもやって来て、そして「日本と是非、そのポルトガルに、その色々な外国の所に、ポルトガルの領地に司祭を派遣して欲しい。」という事で、ポルトガルの王ヨハネ3世が、イグナチオにお願いするので、イグナチオはそこで、「さあ、すぐに是非派遣して欲しい。」という事で、すぐ近くにいた聖フランシスコ・ザヴェリオを送る事にします。本当は、別のロドリゲスを送る予定だったのですけれども、病気で、ザヴェリオがそこのすぐ近くにいたので、「お前、行け。」という事で、「はい。」と、行く事になります。
イグナチオは、聖フランシスコ・ザヴェリオを送る事になります。
聖フランシスコ・ザヴェリオは、イグナチオを非常に敬愛していて、イグナチオに手紙を書くには、いつも跪いて手紙を書いていたそうです。そしてイグナチオのサインをいつも胸に置いて、イグナチオの事を慕っていた。その「聖フランシスコ・ザヴェリオとイグナチオは本当に一番の弟子であった。」と、言われています。
聖フランシスコ・ザヴェリオは、イグナチオができなかったような事を、インドや、或いは日本や、という所でして、そして多くの霊魂たちを回心させます。
聖フランシスコ・ザヴェリオがインドに旅立つ前に、総長を選ぶ投票を、名前を書いていくのですけれども、そこにはイグナチオの名前が載っていました。総長の投票の時には、全員一致で、イグナチオ以外を除いて、皆がイグナチオが総長をやるように。イグナチオはそれを受けて皆に話をします、自分がやるには相応しくない、という理由をたくさん述べて。「だから3日間もう一度お祈りをして、もう一度投票しよう。」と。皆が同意して、3日間お祈りして、もう一度投票すると、皆がイグナチオを投票します。するとイグナチオはそれを受けて、霊的指導司祭に話をして、「彼に相談する。」そして彼に罪を告白して、その全てを打ち明けて、そして、「私はあなたの指導に従う。」すると、その神父様は手紙を書いて、「皆の前で読むように。」と。その手紙には、「イグナチオに命じて、総長の職を受けるように。」と言われ、そして聖イグナチオは総長になる事になります。
すると、これからはローマに留まって、イエズス会を監督、指導しなければなりません。全く新しい生活が始まります。戦争の時に受けた足の傷や、断食や苦行で弱っていた体で、非常に健康には恵まれなったのですけれども、しかし総長として、非常に素晴らしい仕事をします。イエズス会は世界中に多くの会員を広め、日本、インド、イギリス、そしてプロテスタントのドイツ、フランス、イタリア、スペイン、ポルトガル、或いはアメリカ大陸にも広がって、そしてそのイエズス会の基礎を作ります。
イエズス会は、非常に天主様の聖旨に適った修道会であった、という事は、その実りを見ると分かります。瞬く間に全世界に広まって、多くの人々が、イエズス会の手を通して、カトリックに回心します。そしてプロテスタントによって失われてしまった者よりもはるかに多くの者が、イエズス会の手を通して、イエズス様の元にもたらされました。
後の時代には、学校教育を通して、宣教を通して、多くの霊魂がイエズス会の宣教師の手を通して、お恵みを受けます。多くの王たちや貴族たちも、イエズス会の素晴らしい知性を通して、霊的な指導を受けたり、そして教皇様は、イエズス会の素晴らしい神学者によって、トリエント公会議を進めたり、或いは、学校教育を通して、多くの子供たちが無料で、非常に高い水準の教育を受ける事ができました。
「もしも、フランス革命が起こってしまったのは、それは残念ながら、イエズス会が廃止されて、そしてイエズス会によって教育を受ける事ができなかった人々が多くあったからだ。」とも言われます。
或いは、「もしも、イエズス会が非常にカトリック教会の敵から攻撃を受けたのは、実はイエズス会こそが、カトリック教会を守る、非常に固い砦だったからだ。」
特に日本は、最初のイエズス会の最も誇る聖人、最も高貴な聖フランシスコ・ザヴェリオをすぐに私たちの宣教師として受けた、特別のゆかりのある地ですから、聖イグナチオには深い恩義があります。
私たちは、聖イグナチオの生涯をみて、どのような事を考えなければならないのでしょうか。
イエズス様は、罪人であっても、それを使う事を良しとされる、という事です。聖パウロもそうでした。教会を迫害していたサウロはパウロとなって、教会の為に働く大使徒となりました。
野心と、この世の栄華と、快楽を追及していた様なイニゴも、回心して、キリストの騎士となって、イエズス・キリストを真似る者となって、そして、全世界をカトリックに戻す為のイエズス会を創立する者となりました。
聖イグナチオが元々思っていた、「エルサレムの巡礼」とか、「エルサレムに居てその巡礼者の奉仕をする」というのは全く打ち砕かれてしまいましたけれども、それよりも更に素晴らしい計画を、イエズス様は聖イグナチオを通して実現されました。多くの霊魂が、聖イグナチオと、その創るイエズス会を通して、果たされました。
私たちも是非、聖イグナチオの御取り次ぎによって、例え私たちが罪人であっても、イエズス様の良き道具となる事によって、多くの霊魂を救う事を、イエズス様が望まれる、という事を記憶する事に致しましょう。
そしてイグナチオの様に、厳しい苦行と、お祈りと、脱魂のお恵みは頂けないかもしれませんが、しかし、罪の償いの精神は、少なくとも真似る事に致しましょう。特にイグナチオは、マリア様の元で回心をしました、お祈りと回心と、そして霊操を受けました。ですから、マリア様の御取り次ぎをもって、私たちもイグナチオの精神を受けるように、キリストに従う精神を受けるように致しましょう。
私たちはこの夏、霊操を、黙想会をする事ができそうです。ですから、聖イグナチオの御取り次ぎによって、私たちの黙想会を祝福して下さって、そして良い黙想会ができるようにお祈り致しましょう。
「聖イグナチオ、我らの為に祈り給え。」
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
愛する兄弟姉妹の皆様、
8月15日の聖母の被昇天ですが、いつもミサ聖祭を捧げる新大阪のコロナホテルで、午後6時半からミサ聖祭(歌ミサ)を捧げるように予定が付け加わりました。
8月16日主日には、大阪で聖伝のミサが二回捧げられる予定です。アジア管区長のシュテーリン神父様が訪問される予定です。
また、9月6日の東京でのミサ聖祭ですが、都合により午後1時半からの開始の予定です。お間違えの無いようにお願い申し上げます。
さて、今回は、7月31日に大阪での聖伝のミサの時の説教をご紹介します。日本に聖フランシスコ・ザベリオを派遣してくださった大恩人である聖イグナチオ・デ・ロヨラについてお話ししました。
天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)
2015年7月31日 証聖者聖イグナチオ・デ・ロヨラの祝日
小野田神父 説教
聖母の汚れ無き御心巡回教会にようこそ。今日は2015年7月31日、聖イグナチオのミサを行っています。
このミサは特に、今週の月曜日に亡くなられた、マリアさんの、信徒会長様のお母様の霊魂の為に捧げられています。会長のお母様は、会長の手によって、緊急の洗礼を受けたい、という事で洗礼を受けて、そしてマリアという霊名で、そして私の訪問をお待ちだったのです。本来なら、今回日本に来た時に、お母様にお目にかかって、できれば終油の秘跡とか、或いは必要な祝福を、病者の祝福を、本当は授ける予定でしたが、一足先に主に召されてしまいました。どうぞ、お母様の為にお祈り下さい。
「聖イグナチオ、我らの為に祈り給え。」
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
愛する兄弟の皆さん、今日は聖イグナチオの祝日ですので、聖イグナチオの人生について、黙想してみましょう。
聖イグナチオは、どういう人生を辿って、そして一体何がきっかけで大聖人になって、どんな事業をイエズス様の為になさったのか、そしてそれを見て、私たちがどんな点で、聖イグナチオを真似しなければならないのか、或いは、聖イグナチオの人生を黙想した、何か、私たちに与える教訓は何かを、見てみる事にします。
聖イグナチオは、1491年にスペインのロヨラ城で、お父さんの名前は、ベルトラン・デ・オナス・イ・ロヨラ、そしてお母さんは、マリナ・デ・リコナ・イ・バルダ、というお父さんとお母さんを持った、夫婦の一番最後の末っ子として生まれて来ました。そして幼い頃は、イニゴという名前で、そのオナ地方にあった、ベネディクト会の修道者の聖人の大修道院長の名前を取ったのですが、後にローマ時代の、イグナチオと名前を変える事になります。
子供の頃は、その当時の流行に従って、スペインでは非常に流行っていた、『騎士の物語』、エル・シードとか騎士が、イスラム教の、キリスト教に反対する人たちからの戦いに、都市を守って、そして貴婦人を助けて、そして英雄的な生涯を送る、騎士道の精神を守る、そして騎士としての栄光を高める、という本をたくさん読んで、それに憧れていました。
そして、ちょうどその機会がやってきました、というのは、1517年に、ナヘラという伯爵の騎士として、兵士として仕える事ができるようになったからです。そしてその当時、その上流社会に出入りして、貴婦人を見て、「あぁ、この貴婦人が良いなぁ、好きだなぁ。」とか、或いは、この世の楽しみ、この世の栄華、この世の楽しみなどに非常に大きな憧れを持っていました。そしてそれを追及する為に、「騎士道の道を、ますます歩こう。」と、思っていました。そして彼は、イニゴには、それなりの体力と、勇気と力もありました。
そのようなイニゴにとって、大きな転換期がやってきました。それは、1521年、フランスのアンドレ・ド・フォアという、ナバラ地方にいたフランス人が、それは力のある貴族だったのですけれども、それをスペインの、そこのイニゴが仕えていた上司に対して攻撃をかけます。そしてそのパンペルーナ城に対する攻撃に対して、イニゴが皆と力を合わせて、それに対抗します。上司はすぐに退却するのですけれども、イニゴたちだけは残って、一生懸命それに反撃するのです。結局5月20日、それは聖霊降臨後の月曜日、大砲の弾がイニゴの足に当たって、足の間で避けて、そして負傷を負って、もう歩く事ができなくなります。骨を折って、そしてイニゴが倒れたのを見て、他の仲間たちは皆、これで降参してしまいます。スペインのパンペルーナ城は負けてしまうのです。一生懸命、敵ながらにあっぱれに戦っていたイニゴを見て、フランス人たちも彼を助けて、治療して、家に帰させるのです。
療養中、自分の家でいつも読んでいた、ロマンの本を、騎士道の本を、「ないかなぁ。」と、探すのです。しかし、そこにあった本は、『キリストの生涯』と、『聖人伝』だけでした。そこで、その時間に任せて、『聖人伝』、『キリストの生涯』を読んで、時を過ごしましたが、『聖人伝』を読めば読むほど、『キリストの生涯』を読めば読むほど、「自分にはもっと、仕えるべきもっと高貴な王がいる。」と、いう事が分かりました。今まで知らなかった、超自然の、天の王国についての事に目が覚めたのです。
そこでイニゴは、「あぁ、私はもっと偉大な王に仕えなければならない。私の仕えるべき王は、イエズス・キリストだ。そして、もしもこの聖人たちが、これほどキリストの為に仕えたのならば、私も真似をして、彼らのようになりたい。断食をして、苦行をして、そしてイエズス・キリストに仕えたい。」という望みを多く持つようになりました。そしてイニゴは、「これからは、罪の償いと、悔悛と、苦行の生活を送りたい。」という願いに燃えて、「そして聖人たちに倣って、自分もエルサレムに巡礼に行きたい。そしてキリストの、イエズス様の生涯の色々な場所を訪問して、そこで黙想して、そこで一生を送りたい。そして巡礼者の霊魂の助けをしたい。」という決心を立てるようになります。
そしてここでイニゴは、この大砲が当たって大怪我をしたおかげで、大回心をする事になります。今まで世俗の事だけに、世俗の栄光だけを夢見たのが、キリストの為に仕える痛悔者となったのです。
そこでイニゴは、歩けるようになると、すぐにエルサレムの方に巡礼に行く事にします。しかし、そのエルサレムにすぐに行くのではなく、その前に、近くにあったモンセラトというマリア様の巡礼地があって、「そこでまず総告解をしよう。」という事で、そこに巡礼に行って、3日間良心の糾明をして、そして総告解をします。
そしてその告解をした後に、ちょうどその当時の習慣では、騎士道では、人が青年が騎士になる時には、御聖堂に行って、一晩中寝ずのお祈りをします。そしてその夜通しのお祈りをした後に、特別の儀式があって、騎士に叙任されて、そして騎士の服を受けて、そして正式な騎士とするのですけれども、イニゴは、総告解をした後に、一晩中、モンセラトのマリア様の前でお祈りをして、寝ずのお祈りをして、そしてその翌日、今まで着ていた貴族の服を乞食に与えて、乞食に、「交換しよう。」と、言うのです。そしてこれからは、袋の汚い服を着て、そしてそのマリア様の所の聖堂に、自分の付けていた刀や、短剣を置いて、そして、「これからは、生涯、新しい一生を送るのだ。」という事でミサに与って、ちょうどその日は、1522年3月25日、聖体拝領をして、そして至聖所を、モンセラトの至聖所を出発します。
かといって、どこに行くという当てもなく、「とにかく主の導きのままに。」と、言って出るのです。ところで、イグナチオと服を交換した乞食は後で逮捕されて、「お前、どっかで盗んで来たんじゃないか。」と。イグナチオがそれを説明するまで、泥棒の疑いをかけられたそうです。
話は戻りますが、イグナチオがそこのモンセラトの至聖所を出ると、たまたま、非常に心の良いカトリックの婦人がいて、イニエス・パスカルという女性に会います。そしてその方がイグナチオをそこに泊める事をするように招いてくれます。そしてこのような乞食のみそぼらしい彼を、彼女がそれを受け入れて、その間、イグナチオは彼女のところに留まりながら、祈りと黙想に耽ります。マンレサ洞窟に行っては、お祈りをし、そして断食をし、特にイエズス様についての御受難を読んで、黙想し、ミサに与り、そして祈りと償いと苦行の生活を送ります。
そうしてそういう時に、色々な傷心の問題や、或いは誘惑の問題や、色々な霊的な闘いがあるのですけれども、その時に色々な光を受けて、ある時には一週間、8日間続けて脱魂状態にあった、という記録が残っています、そしてそのような、特に霊的な修練に於いて、メモを取って出来たのが、『霊操』といわれるもので、そのノートが元になって、将来、『黙想をする30日の霊操』というものが成立します。
最初は、罪の償い、改悛、という事だけしか頭になく、キリストに仕えたい、聖人に倣いたい、という事で巡礼の旅に出た聖イグナチオは、このお祈りの後に、霊的な師となって、大変化をする事になります。
そしてその後にイグナチオは、そのイニエス・パスカルさんたちの家を出て、いつも黙想していた洞窟、マンレサの洞窟を離れて、とうとうエルサレムに旅立ちます。イグナチオが旅立つ時には、そのイニエス・パスカルさんと家族たちは、「私たちは、天使であり、私たちの聖人である、大きな友人を失ってしまった。」と、非常に悲しんだそうです。
1523年の2月に聖地に向かって、そして聖地に到着して、聖地の色々な所を訪問して、非常に霊的な大きな慰めを受けます。が、フランシスコ会の管理者の方が、「お前は家に帰れ。お前のような者がいると、誘拐されたり、大きな問題が起こるから、すぐ帰ってもらいたい。」と、言われて、イグナチオはそれに従って、せっかく何年もかけてようやく辿り着いたエルサレムを離れて、スペインに戻ります。かといって、一体何をするべきなのか分からなくて、「とにかく霊魂の為になりたい、イエズス・キリストに倣いたい。」という思いで、その巡礼の地から離れなければなりませんでした。もしもそのような命令が無ければ、イグナチオは一生涯、聖地に骨を埋めていた事だったのです。
しかし、イグナチオはスペインに戻って、「霊魂を救う為には、霊魂たちの役に立つ為には、キリストについての話をするには、そして自分の見出した、この『霊操』の指導をするには、霊的な話をするには、自分もちょっと学をつけなければならない。」という事で、33歳だったにもかかわらず、学校の小さな子供たちに混ざって、学校で勉強しだします。そして2年間、子供たちと一緒に勉強して、そしてアルカラという所の大学に行き、そこで何か、異端の疑いをかけられたので、次にはサラマンカの大学に行き、そしてそこでもまた、疑いがかけられて、牢獄に入れられ、今度はパリに行きます。
そしてパリで神学を勉強して、そして多くの良い友人たちと会います。ペトロ・ファベル、聖フランシスコ・ザヴェリオ、ライネス、サルメロン、シモン・ロドリゲス、ニコラス・バディラ、などという6人の同志がいて、そして彼らと一緒に、「イエズス様の為に何かをしよう。」そして話しが合って、そして1534年8月15日、パリのモンマルトルのチャペルで、清貧と、貞潔と、そしてエルサレムに巡礼に行く、という3つの約束をして、それから、「これから自分たちは一緒に、自己聖化の道を捧げよう。」という風になります。
そして、その約束の通り、自分たちの立てた誓願の通り、エルサレムに行こうとするのですけれども、その当時トルコと、戦っていたトルコ軍が海を、地中海を占領していた為に、舟は、エルサレムに行くような舟はありませんでした。幾度、何度も待っても待っても待っても、舟はない、という事で、「もしも天主様の聖旨がそうであるならば、エルサレムに行く代わりに、教皇様に、私たちの奉仕を捧げよう。」という事で、ローマに行きます。
そして、「私たちは、イエズス様の為に戦う騎士であり、イエズス様の為に戦う小さな軍隊だから、この軍隊を教皇様は使って下さい。」そして、イエズス様の軍隊という事で、『イエズス会』という名前を付け出します。
しかし、このイエズス会も、最初は修道会という明確なものはなかったのですけれども、しかしその当時、カトリック教会全体をみると、イスラム教徒からの危険、或いはプロテスタントによって、多くのカトリックの国々が影響を受けてしまって、教会を離れてしまっている。イギリスはヘンリー8世が、教会を離教状態にしてしまった。或いはフランスとスペインは、互いにバルワ家とハプスブルク家が戦っている。そして残念ながら、ルネッサンスの影響で道徳もゆるんでしまっている。そして多くの人々は、キリスト教について何も知らない、無知がはびこっている。という事で、「私たちは何か、永続的なものをしなければならない。」という事で、「1つの修道会として、従順の誓願を立てる。」という事を決意しました。
そして、教皇様パウロ3世が、1540年9月27日に勅令を出して、そのイエズス会を公式に認可する事になります。
すると、もしも従順であるならば、長上を決めなければなりません。そして、「長上を誰か、これから投票をして決めよう。」という事になります。
ところで、その当時ポルトガルは、とても海洋的に力のある国でした。そしてアメリカにはブラジル、そしてアフリカにはエチオピア、そしてアジアにはインドがあって、その当時ポルトガル人は種子島にもやって来て、そして「日本と是非、そのポルトガルに、その色々な外国の所に、ポルトガルの領地に司祭を派遣して欲しい。」という事で、ポルトガルの王ヨハネ3世が、イグナチオにお願いするので、イグナチオはそこで、「さあ、すぐに是非派遣して欲しい。」という事で、すぐ近くにいた聖フランシスコ・ザヴェリオを送る事にします。本当は、別のロドリゲスを送る予定だったのですけれども、病気で、ザヴェリオがそこのすぐ近くにいたので、「お前、行け。」という事で、「はい。」と、行く事になります。
イグナチオは、聖フランシスコ・ザヴェリオを送る事になります。
聖フランシスコ・ザヴェリオは、イグナチオを非常に敬愛していて、イグナチオに手紙を書くには、いつも跪いて手紙を書いていたそうです。そしてイグナチオのサインをいつも胸に置いて、イグナチオの事を慕っていた。その「聖フランシスコ・ザヴェリオとイグナチオは本当に一番の弟子であった。」と、言われています。
聖フランシスコ・ザヴェリオは、イグナチオができなかったような事を、インドや、或いは日本や、という所でして、そして多くの霊魂たちを回心させます。
聖フランシスコ・ザヴェリオがインドに旅立つ前に、総長を選ぶ投票を、名前を書いていくのですけれども、そこにはイグナチオの名前が載っていました。総長の投票の時には、全員一致で、イグナチオ以外を除いて、皆がイグナチオが総長をやるように。イグナチオはそれを受けて皆に話をします、自分がやるには相応しくない、という理由をたくさん述べて。「だから3日間もう一度お祈りをして、もう一度投票しよう。」と。皆が同意して、3日間お祈りして、もう一度投票すると、皆がイグナチオを投票します。するとイグナチオはそれを受けて、霊的指導司祭に話をして、「彼に相談する。」そして彼に罪を告白して、その全てを打ち明けて、そして、「私はあなたの指導に従う。」すると、その神父様は手紙を書いて、「皆の前で読むように。」と。その手紙には、「イグナチオに命じて、総長の職を受けるように。」と言われ、そして聖イグナチオは総長になる事になります。
すると、これからはローマに留まって、イエズス会を監督、指導しなければなりません。全く新しい生活が始まります。戦争の時に受けた足の傷や、断食や苦行で弱っていた体で、非常に健康には恵まれなったのですけれども、しかし総長として、非常に素晴らしい仕事をします。イエズス会は世界中に多くの会員を広め、日本、インド、イギリス、そしてプロテスタントのドイツ、フランス、イタリア、スペイン、ポルトガル、或いはアメリカ大陸にも広がって、そしてそのイエズス会の基礎を作ります。
イエズス会は、非常に天主様の聖旨に適った修道会であった、という事は、その実りを見ると分かります。瞬く間に全世界に広まって、多くの人々が、イエズス会の手を通して、カトリックに回心します。そしてプロテスタントによって失われてしまった者よりもはるかに多くの者が、イエズス会の手を通して、イエズス様の元にもたらされました。
後の時代には、学校教育を通して、宣教を通して、多くの霊魂がイエズス会の宣教師の手を通して、お恵みを受けます。多くの王たちや貴族たちも、イエズス会の素晴らしい知性を通して、霊的な指導を受けたり、そして教皇様は、イエズス会の素晴らしい神学者によって、トリエント公会議を進めたり、或いは、学校教育を通して、多くの子供たちが無料で、非常に高い水準の教育を受ける事ができました。
「もしも、フランス革命が起こってしまったのは、それは残念ながら、イエズス会が廃止されて、そしてイエズス会によって教育を受ける事ができなかった人々が多くあったからだ。」とも言われます。
或いは、「もしも、イエズス会が非常にカトリック教会の敵から攻撃を受けたのは、実はイエズス会こそが、カトリック教会を守る、非常に固い砦だったからだ。」
特に日本は、最初のイエズス会の最も誇る聖人、最も高貴な聖フランシスコ・ザヴェリオをすぐに私たちの宣教師として受けた、特別のゆかりのある地ですから、聖イグナチオには深い恩義があります。
私たちは、聖イグナチオの生涯をみて、どのような事を考えなければならないのでしょうか。
イエズス様は、罪人であっても、それを使う事を良しとされる、という事です。聖パウロもそうでした。教会を迫害していたサウロはパウロとなって、教会の為に働く大使徒となりました。
野心と、この世の栄華と、快楽を追及していた様なイニゴも、回心して、キリストの騎士となって、イエズス・キリストを真似る者となって、そして、全世界をカトリックに戻す為のイエズス会を創立する者となりました。
聖イグナチオが元々思っていた、「エルサレムの巡礼」とか、「エルサレムに居てその巡礼者の奉仕をする」というのは全く打ち砕かれてしまいましたけれども、それよりも更に素晴らしい計画を、イエズス様は聖イグナチオを通して実現されました。多くの霊魂が、聖イグナチオと、その創るイエズス会を通して、果たされました。
私たちも是非、聖イグナチオの御取り次ぎによって、例え私たちが罪人であっても、イエズス様の良き道具となる事によって、多くの霊魂を救う事を、イエズス様が望まれる、という事を記憶する事に致しましょう。
そしてイグナチオの様に、厳しい苦行と、お祈りと、脱魂のお恵みは頂けないかもしれませんが、しかし、罪の償いの精神は、少なくとも真似る事に致しましょう。特にイグナチオは、マリア様の元で回心をしました、お祈りと回心と、そして霊操を受けました。ですから、マリア様の御取り次ぎをもって、私たちもイグナチオの精神を受けるように、キリストに従う精神を受けるように致しましょう。
私たちはこの夏、霊操を、黙想会をする事ができそうです。ですから、聖イグナチオの御取り次ぎによって、私たちの黙想会を祝福して下さって、そして良い黙想会ができるようにお祈り致しましょう。
「聖イグナチオ、我らの為に祈り給え。」
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。