ご降誕の後のマリアの終生童貞性についての説教
ドモルネ神父
はじめに
2週間前の主日に、私は、童貞聖マリアのご胎内における、イエズスの処女懐胎についてお話ししました。先週の主日には、聖母のご胎内からの、イエズスの処女降誕についてお話ししました。今日は、マリアの終生童貞性の話で、このテーマを終えようと思います。では、ご降誕後の、聖母の終生童貞性についてお話しします。
1.教義
至聖なる童貞聖マリアが、私たちの主イエズス・キリストのご降誕後も童貞のままでおられたことは、カトリック信仰の教義です。
聖書には、このことについての直接的な啓示ではなく、間接的な啓示があります。実際、大天使ガブリエルが、救い主の御母となることをマリアに告げたとき、マリアは、こう答えました。「私は男を知りませんが、どうしてそうなるのですか」(ルカ1章34節)。聖母は、天主のみ旨に反対されていたのではなく、一つ障害が存在することを、言っておられたのです。聖アウグスティヌスは、「童貞聖マリアは、その返事を通して、自分がすでに終生童貞の誓願をしていたことを、明らかにしたのである」、と述べています。
誓願とは、天主に対してする約束です。ですから、救い主の御母となるために、マリアが童貞性を保たなければならないかどうかは、天主がお決めになることでした。天主は、マリアの誓願を取り消されませんでした。それどころか、天主は、マリアの童貞性を保つために、二重の奇跡を起こされることによって、その誓願を承認されたのです。マリアは、体も霊魂も完全に童貞のままでありながら、イエズスの御母となられたのです。聖母は、イエズスのご降誕後も、死ぬまで、童貞の誓願の義務を持ち、その誓願を守り続けられました。これについてのカトリックの聖伝の教えは、非常に明確であり、その教えを否定することは異端です。
2.妥当性
さらに、イエズスのご降誕後に、聖母と聖ヨゼフが婚姻の権利を行使したと考えるのは、全く話にもならないことです。そのようなことは、童貞の状態のままご托身の神秘を実現することによって、マリアのご胎内を聖別された、聖霊に対する侮辱となってしまったことでしょう。また、聖母がイエズスのような息子を持つことで満足なさらず、他の子を望まれたことになってしまうでしょう。天主によって聖母の童貞性が奇跡的に守られたにもかかわらず、聖母が、御自分の童貞性をそれほど重要だとは思っておられなかったことになってしまうでしょう。そして、聖ヨゼフは、聖霊の浄配と結ばれようとするような、耐え難いほど傲慢な人だったということになってしまうでしょう。
マリアもヨゼフも、マリアの奉献された童貞性と、マリアにおける天主のみわざを、完全に尊重なさいました。お二人とも、死ぬまで、完全な童貞性を保ち、その結果、お二人の間で子どもをお持ちになることはなかったのです。
3.反論
福音の中に、ある人が、イエズスに対して、このように言ったことが書かれています。「あなたの母と兄弟が、外で待っています」(マルコ3章32節)。また別の日には、ナザレトの人々が、イエズスについて、こう言いました。「あれは大工の子ではないか。その母はマリアと呼ばれ,兄弟はヤコボ,ヨゼフ,シモン,ユダではないか。姉妹もみな、われわれの中にいるではないか」(マテオ13章55節)。福音のこの言葉を用いて、聖ヨゼフと聖母が、イエズスのご誕生後、お二人の間で子どもをお持ちになったと言う人々がいます。この反論に対して、どのように答えることができるでしょうか?
聖書に出てくる「兄弟」や「姉妹」という言葉は、しばしば、母親が同じ兄弟ではなく、いとこや近親者を意味します。ヘブライ語やアラム語には、「いとこ」という言葉がありません。いとこは、広い意味で、「兄弟姉妹」と呼ばれます。この言い方は、たとえばアフリカでは、今でも非常に一般的です。
聖マテオは、福音で、聖ヨゼフは「妻を迎え入れた。そして、マリアは子を生んだが、ヨゼフは彼女を知らなかった。彼は、その子をイエズスと名づけた」(マテオ1章25節)と書いています。この文から、イエズスのご誕生の後、ヨゼフとマリアは婚姻関係を持った、という結論を導き出す人々がいます。しかし、そのような結論は乱暴です。聖マテオの文は、ただ、イエズスのご降誕の前に、ヨゼフとマリアは婚姻関係をもたなかった、といっているに過ぎません。イエズスのご降誕後については、何も言っていないのです。
結論
童貞聖マリアは、私たちの主イエズス・キリスト以外には、ひとりも子をもっておられませんでした。しかし、イエズスの御母となられることによって、マリアは、すべての人間の霊的な母となられました。十字架上で亡くなられる直前、「イエズスは、その母と、愛する弟子とが、そばに立っているのをごらんになり、母に、『婦人よ、これがあなたの子です』と言われ、また、弟子には、『これがあなたの母です』と言われた」(ヨハネ19章26節)。イエズスの弟子は誰でも、マリアを母として持っているのです。
童貞聖マリアは、天主に奉献された霊魂の霊的な豊かさを、最も美しく表しています。私たちの主イエズスに完全に身を捧げ、自分の霊魂の中で、成聖の恩寵を進展させることに最善を尽くす人々は、霊的に豊かになります。そのような人々は、私たちの主と親密であることによって、私たちの主から、他の人たちのための、強力な、そして数多くの恩寵を獲得するのです。言い換えれば、私たちは、自分自身を聖化すればするほど、他の人たちに対する、より多くの霊的な善を行うことになるのです。ですから、現在、カトリック教会を揺るがしている恐ろしい危機の下で、私たちが教会にもたらすことのできる最善の助けは、私たちが、真摯さと寛大さをもって、カトリックの信仰を生きることであり、また、私たちの霊的な生活、すなわち、私たちの主イエズス・キリストとの友情の生活において、私たちが成長することなのです。
天主の御母であり、また人類の母である聖母が、私たちがそのようにすることができるよう、助けてくださいますように。