アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様、
8月に聖ピオ十世会アジア管区長のシュテーリン神父様が、大阪でのミサの後に霊的講話をして下さいました。その内容を愛する兄弟姉妹の皆様にご紹介いたします。
天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)
2015年8月16日 シュテーリン神父様 霊的講話
同時通訳:小野田圭志神父
皆さんをこうやって、拷問で今苦しめているのは、私の責任ではありません。横にいる人の責任です。(笑)
普通は、公教要理の勉強をします。問いと問題がある公教要理なのですれども、それを今回する事ができません。そこで、今日は、「黙想の重要さ」と、「その有益さ」について、お話ししたいと思います。
黙想会に与った人も、この問題について深めて下さい。マリア様は、ファチマに現れて、汚れ無き御心への信心について話しました。
ファチマのマリア様は、「5つの初土曜日に、御聖体拝領をして、告解をして、そしてロザリオの15の玄義の内のどれかを黙想するならば、そして、しかもそれを償いの精神として行うならば、私はそれに、救霊に必要な恵みを与える。」と、約束しました。
この汚れ無き御心の信心は、単に初土曜だけに実行するものではありません。シスタールチアは後に、「これはテストだ。つまり、私たちは毎日これをする事ができる。毎日この初土の条件を満たすような生活をして、聖母の汚れ無き御心に対する信心を実践する事ができる。」と、言っています。
ファチマのマリア様は、このルチアの言葉をご出現の中で確認していると思います。何故かというとマリア様は、「毎日ロザリオを唱えなさい。」と、言ったからです。
でも、こう反対するかもしれません、「神父様、でも毎日告解に行く事はできません。」
もちろん、秘跡的に告解の秘跡を受ける事はできませんけれども、告解の秘跡を受ける時の最も確信的な、本質的な事は毎日できます。告解の秘跡とはつまり、「自分の罪を痛悔して、天主からの罪の赦しを得る」という事です。毎晩、私たちが良心の糾明をして、罪の赦しを求めて、そして天主様から罪の赦しを頂く、これです。
もちろん、毎日ミサ聖祭に与る、というのはカトリック信者にとっての理想です。そして毎日御聖体拝領するのは理想です。例えば、ルフェーブル大司教様は、聖ピオ十世会の第3会の会員は、毎日ミサに与って御聖体拝領する事を求めました。もしも、ミサに与る事ができて、そのミサが近くにあれば、という話です。ルフェーブル大司教様は言葉を続けて、「もしも、肉体的に実際にミサに与る事ができない場合には、霊的に与って、そして黙想しなさい。」と、言いました。「もしも、実際に秘跡的に御聖体拝領できなくとも、霊的に、霊的聖体拝領をしなさい。」と。「1日に1回ずつ。そしてもしもできれば、数回しなさい。」と、ルフェーブル大司教様は言いました。「そしてロザリオの諸玄義を黙想しなさい。」と。そんなに時間がかかる事ではありません。しかし、マリア様の汚れ無き御心に対する信心を、毎日の信心へと連れて行きます。そして私たちを、完璧な祈りの生活に連れて行ってくれます。
私たちは特に、口祷を強調しすぎて、念祷をなおざりにする、黙想をないがしろにする危険があります。ファチマのマリア様は、「念祷」という祈りの価値を私たちに強調しているように思われます。もちろん、この世界の人々は、口で祈る方が簡単ですので、黙想をするというよりは、口祷をよく実践します。そしてまた口祷でやるのは、容易に数える事ができるので、「私は5連唱えた。」或いは、「連梼を5回唱えた。」と。ところが黙想して、15分黙想するのですけれども、その時雑念に襲われてしまって、終わった後で、「あぁ、何もできなかった。」と、残念に思うかもしれません。そういう訳で、念祷の直接にすぐに、実のある実りというものを見るわけではありません。
カトリック信者は、聖伝のカトリック信者でも、ひどくこの念祷を、この祈りをなおざりにしています。何故かというと、その重要性を知らないからです。
危険はどこにあるかというと、私たちが口祷の祈りを、口でお祈りする祈りを唱える事だけに集中してしまうと、遂には、心の中でお祈りする、という事を忘れてしまって、「それを唱えれば良いんだ。」と、なってしまって、そして遂には、オウムのようになってしまうからです。何故かというと、本を持って祈祷書を持って、そこに書かれてある文章を読むだけです。
しかし、ここで何を言っているのか、相手に何を言っているか、というその内容を考えなければなりません。それは私たちの毎日の生活でも必要です。天主様に対してはもっと必要です。これらの祈祷書に書かれている祈りは、非常に意味が深いのです。しばしば私たちは、その意味を考えずに、注意を払わずに唱えがちです。私たちはそこで、この言っている祈りの意味を、もう一度よく考える事をしなければなりません。
しかし、その極端なもう1つの例は、ロザリオを唱えながら、「天」「に」「まします」「我らの」「父よ」と言って、こうやって1つ1つこうゆっくり考えながらロザリオをすると、ロザリオを1連終えるのも3時間かかってしまいます。
そうではなくて、時々、15分位、天にましますの祈りを一部取って、そしてその、「天にまします我らの父よ」とは何か、とか、時々その意味を考えて、念祷します。そうすると、益々それに従って、集中するのが楽になります。
黙想するのにもっと重要な事がもっとあります。まず黙想する時に、皆さんはご自分を、天主の御前に出でて、そして礼拝する、という事です。自分自身を天主様の御前に投げ出して、そして平伏して額ずいて、天主様の御眼を見つめて、そして天主様から見つめられて、という事を意識する事です。何故かというと、天主様を見る事ができないからです。天主様を、私たちの心の間に思い浮かべなければなりません。例え私たちが天主様を見る事ができなくても、天主様はここにいます。隠れたやり方で、皆さんの心に真に在し給うのです。そして皆さんの目の前に、イエズス様の御傷をまじまじと思い浮かべて、そしてそのイエズス様の御前に自分を置いて下さい。これでもう素晴らしい黙想になります。その時初めて、天主様の玄義が、神秘が、私たちにとっての現実になります。
私たちにとってしばしば、宗教というのは何かの物であって、何かの方、誰か、ではないからです。祈りについての間違った定義とは、イエズス様の御像や御影の前で、自分の事を考えて、自分の事に一生懸命になる、自分の事ばかり考えて、これです。どうぞやってみて下さい。お祈りの時何をしますか?まず自分の事を考えます。自分の周りにいる人の事を考えます。そして時々天主様に、自分と周りにいる人々についてお願いをする。天主様は空中のどこかにいて、でも現実はあなたです。皆さんの問題であり、皆さんの生活であり、皆さんの事が現実です。でも、この誤りから抜け出さなければなりません。ですから、イエズス様、マリア様を、皆さんの目の前に完全に来て下さるようにお願いして下さい。
小野田神父は何か習慣があります。お祈りの前に、「天主の御前に出でて、恭しく(うやうやしく)礼拝せん。」と、言います。こんな事を言うのは、聖ピオ十世会の中で、小野田神父だけです。
ただ問題は、これをただ口先だけで言うだけで、天主の御前に出でて、恭しく礼拝せん。と口先だけで言っていて、本当に御前に出ない、という危険があります。
そこで、お祈りの始まる前に、実際に本当に考えて、天主の御前に出でて、礼拝しなければなりません。ロザリオの祈りをする時に、そのままですね、「聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。天にまします…」と、言うよりは、そのロザリオの前に、しばらく5分程黙って、黙想して玄義を考えて、それから始めると、ロザリオの価値が、意味が、全く違ってきます。
まず、このお祈りをする時に、「私だけではない。」と、分かります。そうではなくて天主様、つまり「王の王である天主が、私の前におられて、そしてイエズス様の御傷が私たちの前に現れて、そしてその天主の御稜威に、私たちは額ずいてお願いしているのだ。」という事が理解できます。そこでイエズス様に、「おお、主よ。」本当に個人的に、目と目を合わせて、心を心に合わせて、心を開いて、天主様のその荘厳なる御稜威、そしてその神聖なる全能の御力の輝かしいその前に、それが私たちの心に染み透って、それに感動を受けつつ、お祈りを始めます。
そして私自身の全く虚しさ、私たちが全く何でもない、という事が、私たちにしみじみと染み渡ります。そして、イエズス様が私たちを赦して、そのイエズス様の密かな玄義の中に入り込んで、それを理解できる事ができるように許して下さる、お知らせてくれる、という事について、本当にびっくりして感嘆しています。「イエズス様の御生涯の中に、その聖心の中に入る」という事が許される、という事に全く驚きます。
心からイエズス様に感謝します。そしてその信仰の大きな動きによって、その行為によって、「今から黙想する事こそが現実であって、真理であって、他のこの世の出来事は全く夢であって、長続きする本物ではない。今からの事が天主の真理であって、私はこれを固く信じる、これこそが真理だ。」と。そして黙想を始めます。「そしてイエズス様、私は御身のこの神秘によって、御身と全く一致したいと思います。そして他の多くの恵みを願います。」
これは、この他多くのものをイエズス様に願う、イエズス様にこそ願う、という事は、これは「希望の徳」です。「イエズス様、御身はこれら全ての事を私に教えて下さいました、私に啓示して下さいました。それは私を救いたいと思うからであって、私に永遠の幸せを与える事を望むからです。御身が私を愛して下さっているからです。」「だから私は、御身を愛して応えたい、と思います。今からする祈りが、全く御身への賛美と感謝と礼拝になりますように、御身の聖心に適うものとなる事ができますように、聖心を喜ばせるものとなりますように、その行為となりますように。」その恵みを求めて下さい。その恵みを祈って下さい。
そしてこの5分間、そういう事を色々考えた後に、ロザリオを取り出して、「我は天地の創造主、全能の父なる天主を信じ、」と、祈った時に、その目の前に、天地の創造主、全能の父なる聖父がこう浮かび上がって来て、この祈りが何か、私たちの機械的なものではなく、現実となって、これが本当の祈りになります。そしてこうすると、そうやって祈ったロザリオは、私たちにとって非常に大切なものになって、最も大切なもの、ただ例外は、ミサ聖祭だけです。
ルフェーブル大司教様は、よくしばしば、ミサの典礼のテキストというのですか、「この文章に書かれているものを黙想しなさい。」と、勧めました。このミサの間に、このミサで読まれる箇所がこうあって、それをミサの途中にお読みになるのはとても良いことです。
皆さんは本当にとても良い特権をここで持っています。何故かというと、私がこのここに入って、ここに居たら、何か、神学校にいるかと思いました。何故かというと神学校では、何と言うのでしょうか、クラッパーを使っていますから。ですから、これは共同体がいつも一致して、この典礼に与る事ができるというのはとても良い事です。これはドイツの規律だ、という事ができます。(^^
そして私たちがミサに与って、そのミサの神秘を深める為には、ミサを黙想して下さい。ミサの1つ、あるいは2つの祈りを取って、それについて考えを深めて下さい、考察して下さい。或いは、ミサについて公教要理が教える所を、それを適用して、この司祭が聖変化させた、聖変化した時に、「あぁ、イエズス様が十字架に付けられた。ミサと十字架の生贄は、同じ生贄だ。」と、理解します。
どこかのYouTubeで見たのですけれども、ミサをやっている時に、その直後にイエズス様の御受難の場面が同時に、これがこれに対応している、という動画があります。
<iframe width="560" height="315" src="https://www.youtube.com/embed/stwFRwmhRws?rel=0" frameborder="0" allowfullscreen></iframe>
読む事は大切ですが、ですが読むのみならず、読んでいるこの内容を考えて下さい。
こう見てみると、色んな黙想のやり方がある、という事が分かります。最も美しいやり方は、黙想会の時に皆さん学びました。そしてもしも黙想会に与って、その貴重な宝を頂いたのでしたらば、これからそれを無視して生活をする、というのは、ちょっとそれの責任があります。
黙想の実りの1つは、「天主様が、生ける方となって、生き生きとした方となって、私たちの前に現れる。」という事です。「マリア様が、単なるどこかの方ではなくて、生ける方となって、この人間的な、個人的なもの」となる事です。
例えそれが短いものであっても、毎日黙想する事によって、信仰、希望、愛徳は深められ、強められます。そして黙想する事によって、日々黙想する事によって、イエズス様と親しい緊密な、日々の生活を送る事ができるようになります。常にイエズス様に忠実に、信仰に忠実に生き抜くためには、黙想なしにはほぼ不可能です。そしてもしも私たちが霊的に進歩し、聖徳を目指すならば、必ず黙想が必要です。
私は、皆さんが一人一人、必ず皆さん全部、皆さん全員が、聖人となる事を望んでいます。ですから、毎日の黙想を決してなおざりになさらないで下さい。一番黙想に相応しいのは、適しているのは、朝です。朝、10分早く起きて、遅いのではなく早く起きて、10分或いは15分、朝黙想して下さい。
ご清聴ありがとうございました。
愛する兄弟姉妹の皆様、
8月に聖ピオ十世会アジア管区長のシュテーリン神父様が、大阪でのミサの後に霊的講話をして下さいました。その内容を愛する兄弟姉妹の皆様にご紹介いたします。
天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)
2015年8月16日 シュテーリン神父様 霊的講話
同時通訳:小野田圭志神父
皆さんをこうやって、拷問で今苦しめているのは、私の責任ではありません。横にいる人の責任です。(笑)
普通は、公教要理の勉強をします。問いと問題がある公教要理なのですれども、それを今回する事ができません。そこで、今日は、「黙想の重要さ」と、「その有益さ」について、お話ししたいと思います。
黙想会に与った人も、この問題について深めて下さい。マリア様は、ファチマに現れて、汚れ無き御心への信心について話しました。
ファチマのマリア様は、「5つの初土曜日に、御聖体拝領をして、告解をして、そしてロザリオの15の玄義の内のどれかを黙想するならば、そして、しかもそれを償いの精神として行うならば、私はそれに、救霊に必要な恵みを与える。」と、約束しました。
この汚れ無き御心の信心は、単に初土曜だけに実行するものではありません。シスタールチアは後に、「これはテストだ。つまり、私たちは毎日これをする事ができる。毎日この初土の条件を満たすような生活をして、聖母の汚れ無き御心に対する信心を実践する事ができる。」と、言っています。
ファチマのマリア様は、このルチアの言葉をご出現の中で確認していると思います。何故かというとマリア様は、「毎日ロザリオを唱えなさい。」と、言ったからです。
でも、こう反対するかもしれません、「神父様、でも毎日告解に行く事はできません。」
もちろん、秘跡的に告解の秘跡を受ける事はできませんけれども、告解の秘跡を受ける時の最も確信的な、本質的な事は毎日できます。告解の秘跡とはつまり、「自分の罪を痛悔して、天主からの罪の赦しを得る」という事です。毎晩、私たちが良心の糾明をして、罪の赦しを求めて、そして天主様から罪の赦しを頂く、これです。
もちろん、毎日ミサ聖祭に与る、というのはカトリック信者にとっての理想です。そして毎日御聖体拝領するのは理想です。例えば、ルフェーブル大司教様は、聖ピオ十世会の第3会の会員は、毎日ミサに与って御聖体拝領する事を求めました。もしも、ミサに与る事ができて、そのミサが近くにあれば、という話です。ルフェーブル大司教様は言葉を続けて、「もしも、肉体的に実際にミサに与る事ができない場合には、霊的に与って、そして黙想しなさい。」と、言いました。「もしも、実際に秘跡的に御聖体拝領できなくとも、霊的に、霊的聖体拝領をしなさい。」と。「1日に1回ずつ。そしてもしもできれば、数回しなさい。」と、ルフェーブル大司教様は言いました。「そしてロザリオの諸玄義を黙想しなさい。」と。そんなに時間がかかる事ではありません。しかし、マリア様の汚れ無き御心に対する信心を、毎日の信心へと連れて行きます。そして私たちを、完璧な祈りの生活に連れて行ってくれます。
私たちは特に、口祷を強調しすぎて、念祷をなおざりにする、黙想をないがしろにする危険があります。ファチマのマリア様は、「念祷」という祈りの価値を私たちに強調しているように思われます。もちろん、この世界の人々は、口で祈る方が簡単ですので、黙想をするというよりは、口祷をよく実践します。そしてまた口祷でやるのは、容易に数える事ができるので、「私は5連唱えた。」或いは、「連梼を5回唱えた。」と。ところが黙想して、15分黙想するのですけれども、その時雑念に襲われてしまって、終わった後で、「あぁ、何もできなかった。」と、残念に思うかもしれません。そういう訳で、念祷の直接にすぐに、実のある実りというものを見るわけではありません。
カトリック信者は、聖伝のカトリック信者でも、ひどくこの念祷を、この祈りをなおざりにしています。何故かというと、その重要性を知らないからです。
危険はどこにあるかというと、私たちが口祷の祈りを、口でお祈りする祈りを唱える事だけに集中してしまうと、遂には、心の中でお祈りする、という事を忘れてしまって、「それを唱えれば良いんだ。」と、なってしまって、そして遂には、オウムのようになってしまうからです。何故かというと、本を持って祈祷書を持って、そこに書かれてある文章を読むだけです。
しかし、ここで何を言っているのか、相手に何を言っているか、というその内容を考えなければなりません。それは私たちの毎日の生活でも必要です。天主様に対してはもっと必要です。これらの祈祷書に書かれている祈りは、非常に意味が深いのです。しばしば私たちは、その意味を考えずに、注意を払わずに唱えがちです。私たちはそこで、この言っている祈りの意味を、もう一度よく考える事をしなければなりません。
しかし、その極端なもう1つの例は、ロザリオを唱えながら、「天」「に」「まします」「我らの」「父よ」と言って、こうやって1つ1つこうゆっくり考えながらロザリオをすると、ロザリオを1連終えるのも3時間かかってしまいます。
そうではなくて、時々、15分位、天にましますの祈りを一部取って、そしてその、「天にまします我らの父よ」とは何か、とか、時々その意味を考えて、念祷します。そうすると、益々それに従って、集中するのが楽になります。
黙想するのにもっと重要な事がもっとあります。まず黙想する時に、皆さんはご自分を、天主の御前に出でて、そして礼拝する、という事です。自分自身を天主様の御前に投げ出して、そして平伏して額ずいて、天主様の御眼を見つめて、そして天主様から見つめられて、という事を意識する事です。何故かというと、天主様を見る事ができないからです。天主様を、私たちの心の間に思い浮かべなければなりません。例え私たちが天主様を見る事ができなくても、天主様はここにいます。隠れたやり方で、皆さんの心に真に在し給うのです。そして皆さんの目の前に、イエズス様の御傷をまじまじと思い浮かべて、そしてそのイエズス様の御前に自分を置いて下さい。これでもう素晴らしい黙想になります。その時初めて、天主様の玄義が、神秘が、私たちにとっての現実になります。
私たちにとってしばしば、宗教というのは何かの物であって、何かの方、誰か、ではないからです。祈りについての間違った定義とは、イエズス様の御像や御影の前で、自分の事を考えて、自分の事に一生懸命になる、自分の事ばかり考えて、これです。どうぞやってみて下さい。お祈りの時何をしますか?まず自分の事を考えます。自分の周りにいる人の事を考えます。そして時々天主様に、自分と周りにいる人々についてお願いをする。天主様は空中のどこかにいて、でも現実はあなたです。皆さんの問題であり、皆さんの生活であり、皆さんの事が現実です。でも、この誤りから抜け出さなければなりません。ですから、イエズス様、マリア様を、皆さんの目の前に完全に来て下さるようにお願いして下さい。
小野田神父は何か習慣があります。お祈りの前に、「天主の御前に出でて、恭しく(うやうやしく)礼拝せん。」と、言います。こんな事を言うのは、聖ピオ十世会の中で、小野田神父だけです。
ただ問題は、これをただ口先だけで言うだけで、天主の御前に出でて、恭しく礼拝せん。と口先だけで言っていて、本当に御前に出ない、という危険があります。
そこで、お祈りの始まる前に、実際に本当に考えて、天主の御前に出でて、礼拝しなければなりません。ロザリオの祈りをする時に、そのままですね、「聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。天にまします…」と、言うよりは、そのロザリオの前に、しばらく5分程黙って、黙想して玄義を考えて、それから始めると、ロザリオの価値が、意味が、全く違ってきます。
まず、このお祈りをする時に、「私だけではない。」と、分かります。そうではなくて天主様、つまり「王の王である天主が、私の前におられて、そしてイエズス様の御傷が私たちの前に現れて、そしてその天主の御稜威に、私たちは額ずいてお願いしているのだ。」という事が理解できます。そこでイエズス様に、「おお、主よ。」本当に個人的に、目と目を合わせて、心を心に合わせて、心を開いて、天主様のその荘厳なる御稜威、そしてその神聖なる全能の御力の輝かしいその前に、それが私たちの心に染み透って、それに感動を受けつつ、お祈りを始めます。
そして私自身の全く虚しさ、私たちが全く何でもない、という事が、私たちにしみじみと染み渡ります。そして、イエズス様が私たちを赦して、そのイエズス様の密かな玄義の中に入り込んで、それを理解できる事ができるように許して下さる、お知らせてくれる、という事について、本当にびっくりして感嘆しています。「イエズス様の御生涯の中に、その聖心の中に入る」という事が許される、という事に全く驚きます。
心からイエズス様に感謝します。そしてその信仰の大きな動きによって、その行為によって、「今から黙想する事こそが現実であって、真理であって、他のこの世の出来事は全く夢であって、長続きする本物ではない。今からの事が天主の真理であって、私はこれを固く信じる、これこそが真理だ。」と。そして黙想を始めます。「そしてイエズス様、私は御身のこの神秘によって、御身と全く一致したいと思います。そして他の多くの恵みを願います。」
これは、この他多くのものをイエズス様に願う、イエズス様にこそ願う、という事は、これは「希望の徳」です。「イエズス様、御身はこれら全ての事を私に教えて下さいました、私に啓示して下さいました。それは私を救いたいと思うからであって、私に永遠の幸せを与える事を望むからです。御身が私を愛して下さっているからです。」「だから私は、御身を愛して応えたい、と思います。今からする祈りが、全く御身への賛美と感謝と礼拝になりますように、御身の聖心に適うものとなる事ができますように、聖心を喜ばせるものとなりますように、その行為となりますように。」その恵みを求めて下さい。その恵みを祈って下さい。
そしてこの5分間、そういう事を色々考えた後に、ロザリオを取り出して、「我は天地の創造主、全能の父なる天主を信じ、」と、祈った時に、その目の前に、天地の創造主、全能の父なる聖父がこう浮かび上がって来て、この祈りが何か、私たちの機械的なものではなく、現実となって、これが本当の祈りになります。そしてこうすると、そうやって祈ったロザリオは、私たちにとって非常に大切なものになって、最も大切なもの、ただ例外は、ミサ聖祭だけです。
ルフェーブル大司教様は、よくしばしば、ミサの典礼のテキストというのですか、「この文章に書かれているものを黙想しなさい。」と、勧めました。このミサの間に、このミサで読まれる箇所がこうあって、それをミサの途中にお読みになるのはとても良いことです。
皆さんは本当にとても良い特権をここで持っています。何故かというと、私がこのここに入って、ここに居たら、何か、神学校にいるかと思いました。何故かというと神学校では、何と言うのでしょうか、クラッパーを使っていますから。ですから、これは共同体がいつも一致して、この典礼に与る事ができるというのはとても良い事です。これはドイツの規律だ、という事ができます。(^^
そして私たちがミサに与って、そのミサの神秘を深める為には、ミサを黙想して下さい。ミサの1つ、あるいは2つの祈りを取って、それについて考えを深めて下さい、考察して下さい。或いは、ミサについて公教要理が教える所を、それを適用して、この司祭が聖変化させた、聖変化した時に、「あぁ、イエズス様が十字架に付けられた。ミサと十字架の生贄は、同じ生贄だ。」と、理解します。
どこかのYouTubeで見たのですけれども、ミサをやっている時に、その直後にイエズス様の御受難の場面が同時に、これがこれに対応している、という動画があります。
<iframe width="560" height="315" src="https://www.youtube.com/embed/stwFRwmhRws?rel=0" frameborder="0" allowfullscreen></iframe>
読む事は大切ですが、ですが読むのみならず、読んでいるこの内容を考えて下さい。
こう見てみると、色んな黙想のやり方がある、という事が分かります。最も美しいやり方は、黙想会の時に皆さん学びました。そしてもしも黙想会に与って、その貴重な宝を頂いたのでしたらば、これからそれを無視して生活をする、というのは、ちょっとそれの責任があります。
黙想の実りの1つは、「天主様が、生ける方となって、生き生きとした方となって、私たちの前に現れる。」という事です。「マリア様が、単なるどこかの方ではなくて、生ける方となって、この人間的な、個人的なもの」となる事です。
例えそれが短いものであっても、毎日黙想する事によって、信仰、希望、愛徳は深められ、強められます。そして黙想する事によって、日々黙想する事によって、イエズス様と親しい緊密な、日々の生活を送る事ができるようになります。常にイエズス様に忠実に、信仰に忠実に生き抜くためには、黙想なしにはほぼ不可能です。そしてもしも私たちが霊的に進歩し、聖徳を目指すならば、必ず黙想が必要です。
私は、皆さんが一人一人、必ず皆さん全部、皆さん全員が、聖人となる事を望んでいます。ですから、毎日の黙想を決してなおざりになさらないで下さい。一番黙想に相応しいのは、適しているのは、朝です。朝、10分早く起きて、遅いのではなく早く起きて、10分或いは15分、朝黙想して下さい。
ご清聴ありがとうございました。