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福者シスター・エレナ・アイエロ(1895-1961)その1

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福者シスター・エレナ・アイエロ(1895-1961)その1

福音には38年間病だった男の話がでてきます。

福者エレナ・アイエロも38年間、1961年の死の直前まで聖金曜日には聖痕を受けて苦しみました。福者エレナは、1928年に「私たちの主イエズス・キリストの御受難のいとも小さき姉妹会(Minim Sisters of the Passion of Our Lord Jesus Christ)を創立しました。ベネディクト十六世は2011年に彼女を列福しました。

以下は、Bl. Sister Elena Aiello (1895-1961)からの日本語訳です。
福者エレナ・アイエロは、1895年4月10日に生まれ、1961年6月19日にイタリアで亡くなった。彼女はパスクアーレ・アイエロ(Pasquale Aiello)とテレセイナ(Tereseina Pagilla)夫婦の娘で、8人の子供のうちの三番目だった。非常にキリスト教的で模範的な家庭環境で生活するということに恵まれていた。

福者エレナはすぐに鋭い知性を発揮し、4歳の時にはすでに一定数の公教要理の質問に答えていた。1901年、まだ6歳だった彼女は、小学校に通い宗教教育を続けるために、聖血礼拝修道会(S.P.S.)のシスターたちのもとに送られた。

彼女の幼少期は、犠牲的な苦しみと奇跡的な天的慰めの人生という、彼女にこれから起こるであろうことを示すものだった。

1904年6月21日、エレナは初聖体を受けたが、しかしそれは初聖体を受けるための準備として、他の少女たちと共に苦行のベルトの着用許可を得た後の、霊的黙想会の後であった。苦行のベルトを受ける途中で、エレナは前歯が2本抜けるという事故に見舞われたが、彼女はそれをハンカチの中に入れて、痛みをこらえながら苦行のベルトの着衣を続けた。

また、笑っている時にコップの水を吸い込んでしまい、その後14ヶ月以上も夜中に咳が止まらなくなった。そのために声の力が弱まり、治療しても悪化するばかりという奇妙な事故があった。福者エレナは聖母に治癒を願い、聖母は夜、彼女の前に姿を現し、治癒することを保証された。

その後、一家に悲劇が訪れた。1905年、エレナがまだ10歳のときに母親が亡くなり、父親が8人の子供を育てることになったのだ。エマ、イーダ、エレナ、エヴァンジェリーナ、エリサ、リッカルド、ジョヴァンニーナ、フランシスコである。皆、年齢に応じて家事を手伝った。

福者エレナは、修道女になるという使命が自分にあることをはっきりと認めたが、第一次世界大戦が勃発したため、彼女の父親は事態が好転するまで修道生活の開始を延期するようエレナに求めた。エレナは父親に従い、スペイン全土で猛威を振るっていたスペイン風邪の犠牲者の世話をすることに時間を捧げ、死者を埋葬するための木棺の製作さえも手伝った。

エレナと共に学校に行き、彼女の世話をしていたシスターたちは、エレナを自分たちのものであるように思うようになった。そして、エレナの父親はついに、彼女が修道生活に入ることに同意した。1920年8月18日、福者エレナは聖血礼拝修道会に入会したが、しかし彼女がこの修道会に長く留まることはなかった。

ある日、エレナは洗濯室の床の上で、ほとんど死んだような状態で発見された。すぐに持ち上げてベッドに寝かせると、左肩が首まで真っ黒になっていた。診察した医師は手術を提案したが、エレナが熱に苦しんでいたため手術が遅れた。そこで、シスターたちは共同体の医師を呼ぶことにした。

1921年3月25日(聖火曜日)、福者エレナは、修道院の寝室で、椅子に縛られたまま、麻酔なしで、肩の壊死した黒い肉を取り除くという耐え難い手術を受けた。勇気をふり絞るために、エレナは木製の十字架を手に握り、悲しみの聖母の御影(ごえい)を額にあてた。

その医師は腕が悪く、切り込んでいる間に神経を傷つけてしまい、エレナの肩を麻痺させ、さらには口までも締め付けてしまった。手術後の後遺症もひどく、40日ほどは嘔吐に悩まされた。

しかしこれらすべてにもかかわらず、エレナは共同体の修道業に参加したいと願い、まだ傷口が開いているのに起き上がって、修道服を身に付けようとしたが、修道院長は彼女の健康状態を考えて、それは無理だと判断した。指導司祭はエレナに、家族のもとに帰り、適切な治療を受けてから共同体に戻るよう勧めた。

興味深いことに、福者エレナは、この修道院を去る前に、主御自身から、この修道院を出て、主が用意されたものを受け入れるようにという招きを二度受けた、とノートに記している。その中には、主が彼女のために準備しておられる十字架を受け入れるように、ということも含まれていた。

十字架はやって来た。エレナが家に到着した時、彼女はひどい状態であった。見分けがつかないほどひどく衰えていた。髪を洗うことも、櫛でとかすこともできず、左腕は麻痺し、肩には開いた傷が残り、やがて虫でいっぱいになり始めた。

彼女の状態を心配した父親は、コセンツァの専門医に連れて行ったが、専門医は、手術した医師は外科医ではなく、神経を傷つけてしまったため、どうすることもできないと述べた。「奇跡のみがあなたの健康状態を解決することできる。このままでは壊疽(えそ)になってしまいます!」怒った彼女の父親は共同体を訴えようとしたが、福者エレナはそれを思いとどまらせた。

しばらくして、エレナは胃の調子が悪くなり、胃ガンと診断された。そこで彼女は、「不可能を可能にする」と言われている「見放されたケースの守護の聖人」である聖リタに熱心に祈り、治癒を願った。すると、聖女リタの御像がまばゆい光に包まれるのを見た。その夜、聖女は福者エレナに現れ、人々の信仰が立ち戻るように聖女への信心を初めてほしいと告げ、聖リタの光栄のために三日間の祈祷を始めるようにと頼んだ。

翌日、福者エレナはモンタルトに戻り、聖リタに敬意を表して三日間の祈祷を始めた。終わった後、再び聖女リタが現れ、胃の病気の治癒を望むのであれば、この三日間の祈祷を繰り返すようにと頼んだ。肩については、人類の罪を償うためにこの苦痛を受け続け、苦しまなければならないであろうということを告げた。

1921年10月21日、エレナは胃の腫瘍が完治するという恵みを受けた。このとき、隣室に寝ていた妹のエヴァンジェリーナは、その瞬間に明るい光が出るのを見た。火事だと思ったエヴァンジェリーナは、すぐに福者エレナの部屋に駆けつけると、エレナが気を失っているのを発見した。他の家族が部屋に入ると、福者エレナはすっかり目を覚まして元気にしていた。エレナは、聖女リタが訪れたこと、癒しのこと、ヴィジョンでの聖女の言葉を伝えた。それからエレナは、何か食べる物はないかと尋ねた。

1923年3月2日、月の最初の金曜日に、エレナが亡くなるまで毎年繰り返されることになるある出来事が初めて起こった。朝、聖体拝領の後、内なる声が、主が彼女のために選んだ新たな苦しみをあらかじめ告げたのである。

午後3時頃、エレナは左肩の傷で大変苦しみながらベッドで寝ていた。主は白い服を召され、茨の冠をかぶった御姿で御現れになった。福者エレナは、主と共に苦しむことに同意した。主は、御自分の御頭から冠をはずし、彼女の頭にかぶせられた。その時、大量の血が流れ出た。主は、罪人を回心させるには:多くの不潔の罪のために、この苦しみが必要であり、またエレナは天主の正義を満足させるためのいけにえの霊魂となるのだ、ということを説明された。

ロザリアという家の使用人が一日の仕事を終えて帰ろうとすると、福者エレナの寝室から不審な音がするので、様子を見るために二階に上がった。あまりの血の量に驚いた彼女は、福者エレナが殺されたと思い、すぐに家族に知らせに行った。

彼らは、エレナのこの姿を見て驚き、司祭と医師を呼んだ。アドルフォ・トゥラーノ医師は傷口を洗ったが、エレナの頭からは血が流れ続けた。3時間ほど出血が続いた後、現象はひとりでに止まった。皆、驚き、混乱し、また、何が起こったのかを説明することができないため感銘を受けた。

3月の第2金曜日の午後3時前、トゥラーノ医師は同じ現象が繰り返されるかどうか確かめるために、他の者たちと同様に家に連れてこられた。それはまた起こった。

医師はハンカチで血を止めようとしたが、このとき頭の傷ついた部分の皮膚が毛穴を広げるほど刺激され、福者エレナに大きな痛みを与えた。

その後、福者エレナは眠気に襲われたが、苦痛に満ちた脱魂状態によって遮られ、彼女は十字架に付けられたように両手を広げ、目を大きく見開き、まるで恐ろしい遠くのヴィジョンを見ているかのように怯えていた。目が覚めたとき、彼女は主の御受難を目撃したのだと説明した。

同月の第3金曜日、アリストデモ・ミラノ医師の母ヴァージニア・マネスは、息子に送られてこの出来事を知り、ティッシュに血を浸した。

エレナの小さな個室に一人残されたその女性は、ハンカチでエレナの額を拭き、それをたたんで持っていた。そして、サン・ベネデットに戻ると、不思議なことに、そのハンカチには血の跡がまったくなく、きれいな状態になっていた。息子は母の話を聞いて回心し、洗礼を受けることを願い出た。

このすべての血と苦しみについて、主は福者エレナに現れ、彼女に苦しみをもたらすのは主であること、彼女は世に対する主のいけにえとならなければならないこと、主は御受難の傷を彼女に与え、それは誰もが見ることができるものであることを説明された。

3月の第4金曜日、エレナは自分の体に(主と)同じような傷を発見した。
そして、イエズスは彼女に仰せられた。「おまえも私のようにならなければならない。数多くの罪人たちのためにいけにえとなり、彼らが救われるように、私の聖父の正義を満足させなければならない。」

午後5時頃、イエズスはエレナにこう仰せられた。
「我が娘よ、私がどれほど苦しんでいるかを見よ!私は世のためにすべての血を流し尽くした。そして今、世界は破滅に向かい、誰もそれがいかに邪悪なもので覆われているかに気づいていない。非常に多くの扇動者と自由主義者から受ける、あまりにも多くの侮辱と軽蔑によって引き起こされる私の苦しみの大きさを考えてみよ......。」

翌週の金曜日には、手足の傷に加えて、脇腹の傷も加えられた。

御聖体の祝日の日、傷の痛みは新たな流血によって更新され、脱魂状態の終わりに、それらの傷は完全に癒やされた。

いけにえの霊魂としての彼女の人生に戻ると、聖金曜日の苦しみはこれからも続くのである。
注目すべきは、人々が何度も彼女の命を心配するようなひどい衰弱状態にあったにもかかわらず、聖土曜日の朝、福者エレナは、喜びと活気に満ちてベッドから起き上がり、指示を出し、すべての世話を続けた。そして、何事もなかったかのように、仕事と慈善活動の生活を再開した。

しかし、これらの現象は教会当局の注意を引き、しばしばエレナの人生を複雑なものにした。彼女は俗に「流血のシスター」「聖なる修道女」と呼ばれ、人々は彼女に助けや助言を求めにやって来た。

(つづく)


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