マリアがなぜ被昇天の栄光を受けられたのかについての説教
ドモルネ神父
はじめに
今日の福音には、謙遜の徳のことが書かれています。私たちの主は、一つの原則を、私たちにお与えになっています。それは、「高ぶる人は下げられ、へりくだる人は上げられる」(ルカ18章14節)ということです。一方、明日は、聖母の被昇天をお祝いします。聖母の被昇天は、聖母が、天使たちや聖人たちをはるかに超えた天国の栄光に上げられることを意味します。私たちの主イエズスが定められた原則に従えば、マリアがすべてを超えて高く上げられたということは、聖母が誰よりもへりくだって、謙遜でいらっしゃったからです。ですから、私は今日、童貞聖マリアの被昇天とご謙遜についてお話ししようと思います。
1.被昇天の神秘
私たちが聖母の被昇天をお祝いするとき、私たちは二つの神秘をお祝いしているのです。それは、聖母が高く上げられたことと、私たちのキリスト教的希望の真理です。
マリアの被昇天は、聖母が高く上げられたという神秘です。マリアが高く上げられたことは、私たちにとっては神秘です。なぜなら、マリアは、すべての天使たちや聖人たちを超えた栄光という、私たちの理解を超えるところにまで、高く上げられたからです。マリアの栄光はあまりにも偉大なため、その限界は天主だけがご存じです。しかし、なぜマリアは、それほどの栄光にまで上げられたのでしょうか? それは、マリアが、最もすばらしい恩寵と、最も特別な特権に満ちておられたからだけなのでしょうか? あるいは、マリアが天主の御母でいらっしゃったからだけなのでしょうか? いいえ、それだけではないのです。マリアは、天主のみ旨に、絶えず完全に協力することで、この栄光を受けるにふさわしいお方となられたのです。マリアの天主への忠実さは、決して揺らぎませんでした。マリアは、すべての聖徳を最も崇高な段階にまでに実践なさったため、天主がマリアのために用意されていた報いを受けるにふさわしいお方となられたのです。マリアの栄光は、マリアにおける天主のみわざですが、同時に、天主と協力したマリアのわざでもあるのです。
マリアの被昇天をお祝いすることは、私たちのキリスト教的希望の神秘をお祝いすることでもあります。私たちのキリスト教的希望とは何でしょうか? それは、永遠の命と幸福を得ることです。この希望は、私たちが望むもの、すなわち、永遠の命と幸福が、まだ私たちから部分的に隠されており、私たちが想像できるあらゆるものを超えているために、神秘なのです。この希望はまた、私たちを永遠の生命を得るように駆り立てる力が、自然のものではなく、超自然のものであるために、神秘なのです。この力を、成聖の恩寵によって、神秘的に私たちに伝えてくださるのは、天主です。マリアの被昇天をお祝いするとき、私たちは、キリスト教的希望の真理もお祝いします。私たちが聖母に倣うなら、高慢、情欲、貪欲と戦うなら、徳を実践するなら、私たちは天国でマリアとともに、報いを受けるでしょう。
2.栄光の充満の土台であるマリアの謙遜
さて、こう自問してみましょう。天主が、マリアを被昇天によって高く上げられたのは、とりわけ、マリアのどんな徳に、報いをお与えになったからでしょうか? それは謙遜の徳です。聖母ご自身、マグニフィカトで、このことを明らかにしておられます。「天主は、はしための謙遜に御目をとめてくださいました。これからのち、代々の人々は、私を、幸いな女(ひと)と呼ぶでしょう」(ルカ1章48-49節)。またここで、私たちの主が述べられた、「高ぶる人は下げられ、へりくだる人は上げられる」という原則を思い出してください。天国で、天主は、聖人たちがこの世で示した謙遜の度合いに応じて、報いを与えられ、上げられるのである、と聖人たちは全員一致して語っています。
童貞聖マリアは、その生涯を通じて、見事なまでに、そして英雄的に、謙遜でいらっしゃいました。聖母には、真の謙遜を示すあらゆる要素があります。いくつかの例を挙げてみましょう。受胎告知のとき、マリアは、自ら全面的かつ自発的に、天主への依存と、天主への奉仕に身を捧げることで、謙遜を実践なさいました。聖エリサベトの家では、つつましい用事や家事を行うことで、謙遜を実践なさいました。マグニフィカトのときは、私たちに起こるすべての良いことについて天主に栄光を帰することで、謙遜を実践なさいました。主のご降誕のとき、またエジプトへの逃避の間は、貧しく不安定な生活を送ること、そして、他者に依存することで、謙遜を実践なさいました。神殿でイエズスを見失われたときは、天主の御摂理がお許しになった試練に対して、不平を言うことなく受け入れることで、謙遜を実践なさいました。カナの婚礼のときは、報いや評価をいささかも求めることなく、慎み深く他人に善を行うことで、謙遜を実践なさいました。イエズスの公生活の間、自分の子が非常に有名になって賞賛されていたときは、人々からの賞賛や名誉を避けることで、謙遜を実践なさいました。イエズスの御受難の間は、あらゆる種類の不当な侮辱に忍耐強く耐えることで、謙遜を実践なさいました。聖霊降臨の後は、教会の正当な指導者たちに従うことで、謙遜を実践なさいました。
聖母は、本当に、最も謙遜なお方でいらっしゃいました。天主の神秘への信仰において謙遜で、御子イエズスの最終的な勝利という希望において謙遜で、天主への心からの愛において謙遜で、行動において謙遜で、言葉において謙遜で、すべての振る舞いにおいて謙遜でいらっしゃいました。被昇天の栄光は、この聖母の深い謙遜に対する報いだったのです。
結論
私たちが、聖母に従って天国の栄光を受けたいと思うならば、聖母に従って謙遜を実践しなければなりません。私たちの謙遜の度合いが、天国で私たちが上げられる栄光の度合いを決定するのです。この現実を理解し、覚えておくために、これを、木に例えてみましょう。木は、高く伸びれば伸びるほど、その根は深くなければなりません。そして、枝が実をたくさんつければつけるほど、枝はもっと地面に向かって曲がっていきます。ですから、私たちもそうでなければなりません。私たちが聖なるものになろうと望めば望むほど、さらに謙遜にならなければなりません。私たちが天主の恩寵と聖徳に満たされれば満たされるほど、私たちは、天主の御前にさらに謙遜になり、すべての栄光を天主にお返ししなければなりません。
親愛なる信者の皆さん、今日と明日、深い謙遜と計り知れない栄光をお持ちの聖母をほめたたえましょう。聖母が模範を示してくださったように、私たちもあらゆる面で謙遜の徳を実践することを、聖母に約束しましょう。私たちは、多くの屈辱を経験することによって、謙遜を少しずつ身につけるのです。私たちが、人生の屈辱を、忍耐と辛抱で耐えるのを助けてくださるよう、童貞聖マリアにお願いしましょう。そうすれば、私たちの栄光は、天において大きなものとなるでしょう。