耳が聞こえず口もきけない人の癒やしについての説教
ドモルネ神父
はじめに
今日のミサの福音で、教会は私たちに、私たちの主イエズス・キリストが、耳が聞こえず口もきけない人を奇跡的に癒やされたという話を読ませました。この奇跡の霊的な意味について見てみましょう。
1)霊的に耳が聞こえず口もきけないこと
「人々は、耳が聞こえず口もきけない人を主のもとに連れてきた」(マルコ7章32節)。この二重の肉体的な障害は、二重の霊的な障害、すなわち霊的に耳が聞こえないことと、霊的に口がきけないことを表しています。
霊的に耳が聞こえないこととは、天主のみ言葉を聞いて信じる、ということができないことです。聖パウロは、ローマ人への書簡の中でこう述べています。「まだ聞かなかった者を、どうして信じられよう」(ローマ10章14節)。天主が、霊魂たちに信仰の恩寵をお与えになるのは、通常は、宣教を通してです。この宣教には、説教、講話、カテキズムの授業、対話、良い模範などがあります。イエズスとみ教えについて、何も聞くことができなかったり、何も聞きたくなかったりするとき、その人は霊的に耳が聞こえないのです。
霊的に口がきけないこととは、祈ることができないことです。口がきけないということは、耳が聞こえないことの結果です。聖パウロはこう言っています。「まだ信じなかった者を、どうして呼び求められよう」(ローマ10章14節)。実際、天主を信じない人は、天主に話しかけることができないため、天主を礼拝したり、天主に感謝したり、天主に赦しを願ったり、天主の助けを求めたりすることもできません。霊的に耳が聞こえないことが、霊的に口がきけないことの原因なのです。
2)耳が聞こえず口もきけない人の癒やし:耳が聞こえず口もきけない人の友人の行動
耳が聞こえず口もきけない人とは、私たちの主イエズス・キリストを信じず、その結果、天主に祈らない人々を表しています。さて、問題はこうです。この霊的に耳が聞こえず口もきけない人は、どのようにすれば癒やされるのでしょうか。福音が、その答えを教えてくれています。この癒やしが行われるのは、耳が聞こえず口もきけない人の友人たちの行動と、私たちの主ご自身の行動のおかげなのです。
まず、耳が聞こえず口もきけない人の友人たちが、その人をイエズスのもとに連れてきた、と書かれています。この意味は、私たちは未信者の人々を連れてきて、イエズスに触れさせるように努力しなければならない、ということです。では、そのためには、どうすればいいのでしょうか。その人々に、真摯(しんし)で誇りあるカトリック信者の生き方の模範を見せること、対話で私たちの主について話すこと、良い読書を勧めること、講話や説教を聞くように誘うこと、ミサにあずかるように誘うこと、不思議のメダイを配ること、教会を訪れて御像や御影(ごえい)、ステンドグラスの窓の意味を説明すること、巡礼や霊的な黙想会に誘うことなどをするのです。
次に、耳が聞こえず口もきけない人の友人たちは、「イエズスに手を置いてくださいと願った」(マルコ7章32節)と書かれています。この意味は、私たちは、その未信者のために、私たちの主に回心の恩寵を願わなければならない、ということです。私たちは、対話による説得や、生まれ持った才能によって、人々を回心させるのではありません。私たちの主こそが、人々を回心させ、人々の心に触れてくださる、そのお方なのです。ですから、私たちの役割は、未信者の、霊的に耳が聞こえず口もきけない状態を癒やしてくださるよう、イエズスに忍耐強くお願いし、イエズスの力とあわれみを信頼することなのです。私たちがそうすれば、イエズスは行動を起こしてくださることでしょう。
3)耳が聞こえず口もきけない人の癒やし:イエズスの行動
私たちの主イエズスは、ただ一言だけで、耳が聞こえず口もきけない人を癒やすことがおできになったはずです。しかし、イエズスは、いくつかの行動をなさることによって、その人を癒やされたのです。これは偶然ではありません。私たちの主は、私たちにいくつかの霊的な真理を教えたい、と思われたのです。
a)まず、イエズスは、耳が聞こえず口もきけない人を、群衆から連れ出されました。この意味は、その人の精神や心がこの世の喧噪や揺さぶりでいっぱいになっていれば、天主のみ言葉を聞いて耳を傾けることはできない、ということです。ですから、その人は、少しこの世から離れなければなりません。例えば、沈黙のうちに霊的な黙想会に参加することは、天主のみ言葉を聞き、天主の恩寵を受けるための非常に良い機会となります。また、死について、死後に起こることについて、私たちがこの世に存在する目的について、人々と会話をすることは、人々が、この世の喧噪や揺さぶりから精神的に離れて、永遠の観点から自分のことを考える助けとなります。
b)次に、イエズスは、耳が聞こえず口もきけない人の耳に指を入れられました。このイエズスの肉体的な接触は何を意味するのでしょうか。その意味は、すべての恩寵は、イエズスの人性によってもたらされ、私たちに伝えられることを意味します。イエズスは、この現実を、次のように言われたときにも表現されました。「人の子の肉を食べず、その血を飲まなければ、あなたたちの中には命はない」(ヨハネ6章53節)。ですから、人が回心するためには、その人は、私たちの主の人性に触れなければならないのです。つまり、その人は、イエズスの地上での御生涯、み教え、御受難と御復活について、本を読んで黙想しなければならないのです。
次に、耳が聞こえず口もきけない人の耳に入れられたイエズスの指は、何を意味するのでしょうか。イエズスは天主でいらっしゃいますから、その指は、天主の指です。しかし、聖書では、「天主の指」とは、聖霊を意味します。この表現は、御父と御子と聖霊の間の行動が一致していることを示すのに使われます。実際、御父は、御子なくしては何もなさいません(ヨハネ1章3節参照)。ですから、人間の体になぞらえて、御子は「天主の腕」と呼ばれるのです。しかし、御子は、常に聖霊を通して霊魂たちとこの世を導かれます(ヨハネ16章13-15節参照)。したがって、続けて同じようになぞらえて、聖霊は「天主の指」と呼ばれるのです。
耳が聞こえず口もきけない人の耳に指を入れて、耳が聞こえない状態を治されたことに対して、イエズスは、次のような意味を与えておられました。つまり、イエズスの地上での御生涯、み教え、御受難と御復活を知ることを通して、私たちの主が、聖霊および信仰の賜物を人々に伝えられる、ということです。
c)次に、イエズスは、耳が聞こえず口もきけない人の舌に、ご自分の唾液(だえき)で触れられました。このしぐさは、何を意味するのでしょうか。唾液とは、私たちの口の中にある液体で、舌にとっては味を感じたり話したりするのに必要なものです。したがって、唾液は、話したり味わったりする能力を表しています。耳が聞こえず口もきけない人の舌に、ご自分の唾液で触れられることに対して、イエズスは、知恵に満ちた教えを通して、人々が祈り、天主のものを味わって、霊的に養われるようにされるという意味を与えておられます。砂漠で、イエズスが悪魔に対して言われたことを思い出してください。「人はパンだけに生きるのではない。天主の口から出るすべての言葉によって生きる」(マテオ4章4節)。また、詩篇33篇にはこう書かれています。「主の慈しみを見つめ味わえ」(詩篇33篇9節)。
d)次に、私たちの主は、天を仰がれました。これにより、イエズスは、人々を天国の永遠の幸福に導くために、人々に対して良いことをなさることを示されます。その後、イエズスは吐息(といき)をつかれました。これにより、霊的に耳が聞こえず口もきけない人々に対する大いなるあわれみと、彼らを癒やしたいという願いを示されます。そして最後に、主は「エフェタ、開けよ」という解放の言葉を発せられ、奇跡が行われたのです。
結論
親愛なる信者の皆さん、人の回心には、まさに奇跡が必要です。奇跡は、私たちの主イエズスが、その人に超自然の恩寵をお与えになる場合にだけ、起こるのです。私たちの役割は、すでに述べたさまざまな手段で、人々をイエズスに触れさせること、その後、奇跡が起こるように忍耐強くイエズスに祈ることです。私たちの善き救い主は、いつでも奇跡を行う準備ができておられますが、私たちが参加しなければ、奇跡を行ってくださいません。ファチマの聖母の次の言葉を、いつも心に留めておいてください。「多くの霊魂が地獄に行くのは、彼らのために自分を犠牲にして祈る人がいないからです」。