内的な罪についての説教
2022年10月9日 ドモルネ神父
はじめに
今日の福音には、イエズスが、中風の人の罪を赦されたことが書かれています。そのとき、「ある律法学士たちは、『この人は冒涜の言葉を吐いた』と思った。イエズスは、その人たちの考えを見抜き、『なぜあなたたちは、心の中で、よからぬことを考えているのか』…と言われた」(マテオ9章3-4節)。私たちの主イエズスの、このみ言葉は、言葉や行いで罪を犯さないようにするだけでは不十分であり、心の中でも罪を犯さないようにしなければならないことを、私たちに思い起こさせます。なぜなら、すべての罪は、心から出るからです。「悪意、殺人、姦淫、淫行、窃盗、偽証、讒言などは心から出る」(マテオ15章19節)。私たちは、外的な態度において聖なる者でなければなりませんが、特に心の中では、一層、聖なる者でなければなりません。今日は、内的な罪についてお話しします。
1.内的な罪の本質
内的な罪とは、私たちが外的な行動を取らずに、思いだけで犯す罪のことです。最も一般的な内的な罪は、天主とその教会を冒涜する思いや、貞潔、正義、愛徳に反する思いや望みです。
この罪には、過去についての罪が含まれます。つまり、例えば、酒に酔ったという事実など、過去の悪い行いを、満足して思い出すことです。この罪には、現在についての罪も含まれます。つまり、例えば、だれかに対して復讐するという思いなど、実際のことについて悪い想像を働かせることです。この罪には、将来についての罪も含まれます。つまり、例えば、不潔な行いなど、機会があれば悪い行いをしたいと望むことです。「私は言う、色情をもって女を見れば、その人はもう心の中で姦通した」(マテオ5章28節)と、私たちの主は警告なさいました。
あらゆる罪に共通する通常の三つの条件がそろえば、内的な罪は存在します。その条件とは、それが悪いことであって、私たちがそれに対する十分な注意を払っていて、かつ、それに完全に同意することです。言い換えれば、私たちが明らかに悪いと知っているような記憶、思い、あるいは望みを、自発的に、かつ喜んで、長く思い続けるとき、私たちは内的な罪を犯しているのです。内的な罪は、人を憎んだり、多額のお金を盗んだり、姦淫したりといったように、重大なことに関するものであれば、大罪になります。もしそれが、しびれを切らしたり、成し遂げたことを誇ったりするように、軽微なことに関するものであれば、小罪となります。
2.避けるべき二つの誤謬
内的な罪について、避けるべき二つの誤謬があります。
第一の誤謬は、きちょうめんで内気な人々によくみられるものです。この誤謬は、心に浮かぶ悪い思いの一つ一つが罪であると信じることです。その結果、これらの人々は、自分が大罪の状態にあると常に考えており、そのため内的な平和を見いだせません。これは間違っています。罪となるものは、悪い思いが頭に浮かぶことではなく、それに同意することです。聖フランシスコ・サレジオは、この真理を次のように要約しています。「感じることは、同意することではない」。私たちは、非常に強くて心をかき乱すような、内的な誘惑を感じるかもしれませんが、それに同意しない限り、それを楽しまない限り、それを追い払おうと努力する限り、罪を犯しているのではありません。ですから、私たちは、このような誘惑が消えるまで、勇気をもって戦わなければなりません。最も偉大な聖人たちでさえも、時には激しい誘惑にさらされることがありました。彼らは、それをどのように拒むかについての美しい例を、私たちに示してくれました。たとえば、ある日、聖ベネディクトは、不潔な誘惑に激しく襲われました。彼は、その誘惑に一切同意したくないことを明確にするために、裸で茨の茂みに入り、体があまりに痛くなり、すべての誘惑が消え去るまで、そこで転がり続けたのです。
第二の誤謬は、信仰をほとんど知らない霊魂、あるいは、堕落して、すでに罪に凝り固まった霊魂によくみられるものです。この誤謬は、内的な罪は、たとえそれが故意に、また喜んで受け入れたものだとしても、外的に行わない限り、問題ないと考えることです。ファリザイ派の人々が、そうでした。彼らは、外的には自分たちが天主の律法に完全に忠実であるように見せることで、自らを聖であるとしていましたが、実際、内的には、罪に満ちていたのです。そのため、私たちの主は、彼らをこう強く非難なさったのです。「のろわれよ、偽善者の律法学士、ファリザイ人よ。あなたたちは白く塗った墓のようだ。外はきれいでも、内は死人の骨とさまざまな汚(けが)れに満ちている」(マテオ23章27節)。
3.内的な罪の危険性
内的な罪は、私たちの霊魂にとって、非常に危険なものです。なぜ、そうなのでしょうか。第一に、内的な罪を犯すのは、非常に簡単だからです。外的な罪を犯すには、時間、場所、都合のよい機会などが必要です。ところが、内的な罪は、いつ、どこででも犯すことができ、それを自分の意志だけで決められるからです。
第二に、内的な罪を犯すのは非常に簡単であるため、際限なく多くの罪を犯すことができるからです。例えば、不潔な愛の影響の下にある人のことを考えてみてください。その人は、一日に何千もの不潔な思いや望みなどの罪を犯すかもしれません。妬みや憎しみに苛まれている人のことを考えてみてください。その人は、数えきれない数の怨みや復讐の思いや望みを、すすんで持つかもしれません。
最後に、内的な罪を犯すのは、非常に簡単で、すぐにできるため、その性質、悪意の程度や数を判断するのが難しいことがあります。そうすると、不完全な告解をするという大きな危険があります。
結論
親愛なる信者の皆さん、私たちの心は聖域かつ要塞であるべきです。聖域とは、すなわち、完全に天主に奉献された聖なる場所であり、要塞とは、すなわち、敵の攻撃に対して、私たちが懸命に守る場所です。悪い思いというのは、私たちの心に入り込んでその神性を汚し、そこから天主を追い出して、私たちを悪魔の奴隷にしようとする敵のようなものです。
内的な罪と戦ってそれを避けるには、どうしたらよいのでしょうか。しばしば痛悔の祈りをし、定期的に告解に行き、自分の悪意に気づいたら、祈りを唱えたり、何か良いことに集中したりすることで、その悪い思いに対して、すぐに対抗することです。また、あらゆる罪の機会、つまり、私たちに悪い思いや望みを起こさせる人、物、メディア、場所や活動を避けることです。ですから、聖なる人ヨブは、自分の目をよく監督するという例を私たちに示したのです。「私は、自分の目と、契約を結んだ。どんな娘にも、目をとめないと」(ヨブ31章1節)。
ロザリオの聖母が、私たちの心を、あらゆる内的な罪から清く保つことができるよう、助けてくださいますように。