聖伝のミサに初めて参加する人を助ける方法についての説教
2022年10月16日 ドモルネ神父
はじめに
今日は、聖伝のミサに初めて参加する人を助ける方法について、少しお話ししたいと思います。実際、聖伝のミサに初めて参加することは、それに慣れていない人たちにとっては、かなり難しいことです。カトリック信者でない人は、カトリックの教えをほとんど、またはまったく知りませんから、ミサで何がおこっているのかが理解できません。新しいミサに慣れているカトリック信者は、通常、聖伝のミサの流れについていく方法が分かりません。経験から分かることは、聖伝のミサに初めて参加する人には、特に、次の三つの点を説明することが役に立つということです。それは、なぜラテン語を使うのか、なぜ司祭は会衆の方を向いていないのか、そして、聖伝のミサの流れにどうやってついていくかです。
1.ラテン語の使用
よく、「ミサはラテン語」と言われると、そのミサに参加するためには、ラテン語を知っていなければならないと思う人がいます。説教でさえ、ラテン語だと思っている人もいます。ですから、そういう人は、自分がラテン語を話せないなら、聖伝のミサに参加する意味がないと思ってしまうのです。司祭の中には、聖伝のミサを馬鹿にして、次のようなことを言って、参加したいという信者の気持ちをくじいてしまう人もいます。「あなたはラテン語が話せますか?ラテン語が理解できますか?いや、できないでしょう。それなら、なぜ理解できないミサに参加しようとするんですか」。このような理由から、人を初めて聖伝のミサに連れてくるときは、ミサでラテン語が使われることについて、簡単に説明するのがよいでしょう。
第一に、なぜラテン語を使うのでしょうか。それには、説明しやすくて、理解しやすい、二つの理由があります。ミサの間、私たちは、天地の創造主である天主に語りかけます。天主の大いなる尊厳のため、また天主への敬意から、私たちは、日常的な言葉ではなく、ラテン語という特別な言葉を使って語りかけるのです。このことは、日本人には非常に理解しやすいことだと思います。皆さんご存じのように、日本語では、目上の人に敬意を表すために、「いらっしゃる」、「おっしゃる」、「ご覧になる」、「召し上がる」などといった、特殊な言葉を使います。聖伝のミサでラテン語を使うのも、それに似た考えからです。日常生活で使う言葉とは違う言葉を使うことで、私たちは天主への敬意を表すのです。
聖伝のミサでラテン語が使われるのは、カトリック教会の一致を示すためでもあります。実際、同じ言葉を話すということは、同じ民に属しているというしるしです。カトリック信者は、世界中で、聖伝のミサをラテン語で行い、世界中で、同じ言葉を使って天主に犠牲を捧げます。このことは、世界のカトリック信者が、ミサの犠牲を通して、お互いに一致し、また天主と一致した一つの民であることを示しています。
聖伝のミサでなぜラテン語が使われるかを説明した後で、聖伝のミサに参加するには、ラテン語を自分の母国語のように話せる必要はないことを指摘することも、意義のあることです。ミサの祈りはすべて、日本語や他の諸言語に翻訳されています。ミサの中で信者が唱えるラテン語の言葉は、数多くはなく、通常短いので、すぐに意味を理解して、発音できるようになります。また、このようなラテン語の言葉を唱えることができなくても、あまり問題ではありません。ミサに参加する上で最も重要なことは、ラテン語を話すことではなく、心の中で、司祭とともにイエズス・キリストを捧げることなのです。
2.司祭が会衆の方を向いていないこと
聖伝のミサに初めて参加する人がよく質問するのは、ミサの間、司祭が会衆の方を向いていないのはなぜか、また、司祭が人に聞こえないような小さな声で祈ることが多いのはなぜか、ということです。新しいミサしか知らないカトリック信者は、司祭が自分たちの方を向き、大きな声で祈るのを聞くのに慣れているのです。
これらの質問に答えるには、司祭が天主と人との間の仲介者であることを説明すれば十分です。司祭は、いわば、天主と人の間に立っているのです。司祭は天主に犠牲を捧げますから、ほとんどの間、信者の方ではなく天主の方を向いています。司祭は、信者の代わりに天主に犠牲を捧げますから、信者の指導者、また代表者として、信者の前に立つのです。司祭は、天主の御名によって信者に教え、また、信者に天主の恩寵を伝えます。このため、ミサの間、司祭は定期的に信者の方を向くのです。ですから、司祭は、信者に背を向けているのではなく、天主に犠牲を捧げるために、信者とともに天主の方を向いているのです。
3.聖伝のミサの流れについていく具体的な方法
聖伝のミサに初めて参加する人は、一般的に、聖伝のミサの流れについていく方法が分かりません。ミサ小冊子の使い方が分かりませんし、いつひざまずいて、いつ立つのか、いつ座るのかが分かりません。ご聖体を舌で受ける方法も分かりません。ですから、少なくとも初めてミサに参加するときには、通常、少し助けが必要です。
皆さんが誰かを初めてミサに連れて来たとき、あるいは、聖堂で初めてミサに参加する人を見たときは、その人を一人で放っておかずに、その人がミサに参加するのを助けてあげてください。例えば、ミサ小冊子を渡して、ミサの間、定期的に、司祭が、今どの祈りを唱えているかを教えてあげましょう。ミサ小冊子を渡すだけでは十分ではありません。なぜなら、普通、その人は、その小冊子の使い方が分からないので、ミサが始まるとたちまち、流れについていけなくなるからです。そのような人には、ミサの間、助けが必要です。また、ミサの途中に、ひざまずいたり、座ったり、立ち上がったりするのがいつなのか、教えてあげるのも、役に立ちます。もしその人がカトリック信者で、ご聖体を受けたいのであれば、いつ聖体拝領台に行けばいいのかを教えてあげてください。
注意していただきたいのは、ミサ小冊子の祈りを読むよりも、ミサに注目するほうが好きな人がいることです。その場合は、その人にそうさせてあげて、小冊子のミサの祈りを見せることにこだわらないでください。
ミサで一番大切なのは、霊と愛において、自分を、十字架上のイエズスの犠牲と一致させ、司祭とともに、その犠牲を聖三位一体に捧げることです。ミサの祈りを読むことは、教皇聖ピオ十世が推奨する非常に良いミサ参加の方法ですが、それは義務ではないのです。
結論
親愛なる信者の皆さん、この説教の締めくくりに、一つ付け加えておきたいことがあります。イエズス・キリストから今日に至るまで伝えられてきたカトリックの信仰の中に、真理と永遠の命があることを理解し、また聖伝のミサが、私たちを永遠の命に導く手段であることを理解するためには、このような霊魂たちに、天主の恩寵が注がれることが必要です。ですから、そのような人たちが聖伝のミサを発見して理解するのを皆さんが助けるのと同時に、皆さんの心の中で、至聖なる童貞マリアが、その恩寵をその人たちに与えてくださるよう、熱心に祈ることを忘れないでください。