二 十 一 日 聖母のイエズスに対する愛
子よ、何故(なぜ)我等にかゝる事を為(な)しゝぞ。 (ルカ 二。 四八)
イエズスが十二歳になられた時の事である。聖ヨゼフ、聖マリアは過ぎ越(こ)しの祝日に聖(おん)子(こ)をつれてエルザレムの神殿に参拝されたが、帰途彼を見失い、非常に心痛(しんつう)して諸所(しょしょ)方々(ほうぼう)を探(さが)された所、三日目に至ってイエズスが神殿の中で学者の中に坐(ざ)し、彼等と問答しておいでになるのを見つけられた。冒頭(はじめ)に掲(かか)げた「子よ、何故(なぜ)我等にかゝる事を為(な)しゝぞ」とは、聖母がその時仰(おお)せられた言葉である。しかるにそれに対する聖子(おんこ)の御答えはどうであったろうか。それは「我はわが父の家に居るを知らざりしか」というのであった。
この言葉に依(よ)ってイエズスは聖母に、「御父天主の御命令に従うのが最も大切な事である」と教え給うたのであるが、勿論(もちろん)その時神殿(しんでん)にいた律法(りっぽう)学士その他の群衆にはその御意味が解(わか)らなかった。何(な)故(ぜ)かと云えば、彼等はイエズスを単に聖ヨゼフの子と考えていたからである。けれども聖母は、大天使ガブリエルに「彼は偉大にして最(いと)高(たか)き者の子と唱(とな)えられん」と告(つ)げられた時から、常にイエズスを神の御独(おんひとり)子(こ)、御自分の創造(そうぞう)主(しゅ)と認めて、崇(あが)め且つ愛して居られた。尤も聖子(おんこ)の私生活時代には母性愛が著しく現れて居たであろうが、その御福活後、並びに御昇天後には、いよいよイエズスの神性に対する信仰が強くなり、それと共に聖子(おんこ)に注(そそ)がれる愛も、天主に対する熱愛となって、一刻(いっこく)も早く天国に在(ましま)すキリストと一致(いっち)したいと、深く深く望(のぞ)まれたのである。
あゝ、聖母に於(お)いては、聖子(おんこ)に対する母の愛と、天主に対する被造物(ひぞうぶつ)の愛とが、如何に微(いみ)妙(じ)き調和を示している事であろう!我等もその御亀鑑(おかがみ)に倣(なら)い、天主を愛する為にイエズスを愛し奉らねばならぬ。我等が天主の思(おぼ)し召しに従(したが)いよくその御掟(みおきて)を守るのは、即ち天主に対する愛であって、それだけで既に充分天主に愛せられ、天国の栄福を蒙(こうむ)る事が出来る。然し天主に対する愛の絶頂(ぜっちょう)と云えば、更に一歩を進めて焔々(えんえん)と燃(も)える熱情的の愛でなければならぬが、これは天主が無形のお方であるだけに、一般の人々にとって甚だ難(むずか)しい事である。
所が救い主イエズス・キリストは真(まこと)の天主でありながら、叉、真(まこと)の人として目に見える肉身を具(そな)え、我等と共に住み、或る時は馬槽(うまぶね)の中に愛らしき嬰児(みどりご)となり、或る時は十字架の上に我等を罪より解放し給う有り難き救い主となり、叉、或る時は祭壇(さいだん)の聖(せい)櫃(ひつ)の中に我等の聖(とうと)き糧(かて)とまで謙遜(へりくだ)って我等を待ち侘(わ)び給う。かような主は、無形の天主と異(こと)なって、近寄り易(やす)く愛し易(やす)い。故(ゆえ)にキリストを通(とお)して天主を愛し奉る事は、総(すべ)ての聖人のとられた道であった。
我等も聖母の大いなる愛に合わせ、諸聖人に倣(なら)って、キリストを通して無限(むげん)の天主を熱烈に愛するよう励(はげ)まねばならぬ。
祈 願
あゝ、愛の化身(けしん)にて在(ましま)す聖マリアよ、我等は今日新(あら)たに全霊(ぜんれい)、全身を御身に捧げ奉る。何卒(なにとぞ)、我等の心を聖心(みこころ)に同化(どうか)せしめ給え。さらばこの弱く冷たき我等の心も、聖体の秘蹟(ひせき)に籠(こ)もり給う主イエズス・キリストを通して無限なる天主を一心に慕(した)い奉る熱烈なる愛の炎(ほのお)とならん。
慈愛(いつくしみ)深き御母よ、卑(いや)しき我等の心を奪いて貴(とうと)き御身の聖心(みこころ)を与え給わん事を恭(うやうや)しく天使祝詞(しゅくし)三度繰(く)り返して願い奉る。
(天使祝詞 三度)
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子よ、何故(なぜ)我等にかゝる事を為(な)しゝぞ。 (ルカ 二。 四八)
イエズスが十二歳になられた時の事である。聖ヨゼフ、聖マリアは過ぎ越(こ)しの祝日に聖(おん)子(こ)をつれてエルザレムの神殿に参拝されたが、帰途彼を見失い、非常に心痛(しんつう)して諸所(しょしょ)方々(ほうぼう)を探(さが)された所、三日目に至ってイエズスが神殿の中で学者の中に坐(ざ)し、彼等と問答しておいでになるのを見つけられた。冒頭(はじめ)に掲(かか)げた「子よ、何故(なぜ)我等にかゝる事を為(な)しゝぞ」とは、聖母がその時仰(おお)せられた言葉である。しかるにそれに対する聖子(おんこ)の御答えはどうであったろうか。それは「我はわが父の家に居るを知らざりしか」というのであった。
この言葉に依(よ)ってイエズスは聖母に、「御父天主の御命令に従うのが最も大切な事である」と教え給うたのであるが、勿論(もちろん)その時神殿(しんでん)にいた律法(りっぽう)学士その他の群衆にはその御意味が解(わか)らなかった。何(な)故(ぜ)かと云えば、彼等はイエズスを単に聖ヨゼフの子と考えていたからである。けれども聖母は、大天使ガブリエルに「彼は偉大にして最(いと)高(たか)き者の子と唱(とな)えられん」と告(つ)げられた時から、常にイエズスを神の御独(おんひとり)子(こ)、御自分の創造(そうぞう)主(しゅ)と認めて、崇(あが)め且つ愛して居られた。尤も聖子(おんこ)の私生活時代には母性愛が著しく現れて居たであろうが、その御福活後、並びに御昇天後には、いよいよイエズスの神性に対する信仰が強くなり、それと共に聖子(おんこ)に注(そそ)がれる愛も、天主に対する熱愛となって、一刻(いっこく)も早く天国に在(ましま)すキリストと一致(いっち)したいと、深く深く望(のぞ)まれたのである。
あゝ、聖母に於(お)いては、聖子(おんこ)に対する母の愛と、天主に対する被造物(ひぞうぶつ)の愛とが、如何に微(いみ)妙(じ)き調和を示している事であろう!我等もその御亀鑑(おかがみ)に倣(なら)い、天主を愛する為にイエズスを愛し奉らねばならぬ。我等が天主の思(おぼ)し召しに従(したが)いよくその御掟(みおきて)を守るのは、即ち天主に対する愛であって、それだけで既に充分天主に愛せられ、天国の栄福を蒙(こうむ)る事が出来る。然し天主に対する愛の絶頂(ぜっちょう)と云えば、更に一歩を進めて焔々(えんえん)と燃(も)える熱情的の愛でなければならぬが、これは天主が無形のお方であるだけに、一般の人々にとって甚だ難(むずか)しい事である。
所が救い主イエズス・キリストは真(まこと)の天主でありながら、叉、真(まこと)の人として目に見える肉身を具(そな)え、我等と共に住み、或る時は馬槽(うまぶね)の中に愛らしき嬰児(みどりご)となり、或る時は十字架の上に我等を罪より解放し給う有り難き救い主となり、叉、或る時は祭壇(さいだん)の聖(せい)櫃(ひつ)の中に我等の聖(とうと)き糧(かて)とまで謙遜(へりくだ)って我等を待ち侘(わ)び給う。かような主は、無形の天主と異(こと)なって、近寄り易(やす)く愛し易(やす)い。故(ゆえ)にキリストを通(とお)して天主を愛し奉る事は、総(すべ)ての聖人のとられた道であった。
我等も聖母の大いなる愛に合わせ、諸聖人に倣(なら)って、キリストを通して無限(むげん)の天主を熱烈に愛するよう励(はげ)まねばならぬ。
祈 願
あゝ、愛の化身(けしん)にて在(ましま)す聖マリアよ、我等は今日新(あら)たに全霊(ぜんれい)、全身を御身に捧げ奉る。何卒(なにとぞ)、我等の心を聖心(みこころ)に同化(どうか)せしめ給え。さらばこの弱く冷たき我等の心も、聖体の秘蹟(ひせき)に籠(こ)もり給う主イエズス・キリストを通して無限なる天主を一心に慕(した)い奉る熱烈なる愛の炎(ほのお)とならん。
慈愛(いつくしみ)深き御母よ、卑(いや)しき我等の心を奪いて貴(とうと)き御身の聖心(みこころ)を与え給わん事を恭(うやうや)しく天使祝詞(しゅくし)三度繰(く)り返して願い奉る。
(天使祝詞 三度)
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